今日の中原先生のブログを読んで、あたしは考え込んでしまった。
ずーっと引っ掛かっていたこと=小骨がさらに大きな骨になっちゃった、そんな感じ。
中原先生が書かれていたのは・・・・
オープンなコミュニケーションとは言いたいことをきちんと言いあうこと
だけど、言いにくいことは言わない風潮がある
でも、喋りたい
するとインフォーマルな場でとりわけネガティブな物言いが横行する
よい組織とはコンフリクトを恐れずに話し合う集団ではないか?
ってこと。(相当意訳)
おおいに共感。
言いたいことを言い合うだけではなく、「きちんと」っていうのがミソなんだろうな。
でも、この「きちんと」というのが曲者。
言いたいことを「きちんと」言ったつもりでも、受け手が「言い過ぎだ」とか「失敬だ、お前に言われたくない」ととらえたら?
「もっと考えてからモノを言え」ととらえたら?
ニンゲンって細かな感情の機微を見逃さないものだから、そういう捉えられ方をしたら、ちゃんとわかる。
言い過ぎた、言ってはいけないことを言った・・・
でも、「言うこと」「発信すること」が求められている。
自己主張できる人、人前で物おじせずに発言できる人が優秀だ・・っていうラベルは貼られがち。特に当社なんかだと、おとなしい社員が多いので、とかく上位者は「メンバーのコミュニケーション力=発信力が足りない、もっと積極的に発言させよう」となりがち。
そうすると、おのずと「受けがいいことをきちんと言う」態度になりはしないだろうか?
上位者は「うちの組織は活発に会話ができている」と評価し、メンバーは相変わらず、うちに秘めた思いを抱え、コンフリクトを抱える。
結局、よい職場、よい組織ったって、それを決めるのは誰なのか?ってことなんじゃないか?ってこと。
職場実態アンケートとか職場活性度調査とか、従業員満足チックなことは結構ちゃんと取り組んでいる会社です。しかも、その調査結果を統計上だけではなく、設問のパラドクスも含めて解析しようなんて目論んでいる。(企画しているあたし自身は、こういった調査結果は読み取り方いかんであって、読み方ひとつでどーとでもなるって思っているんだけどね。)
でも、リアルな場での聞き取り、調査紙っていう媒体だろうが、日々の仕事の中でのコミュニケーションだろうが、そこには評価者=影響力の大きい人
がいるわけで、その人のことを意識した態度をとることになるんじゃないか?
「言いたいことをきちんと言いあう」には「顔色を見ないで」っていうのを付け加えないと、上位者=影響力の強い人が認めてくれるような内容に転換、翻訳して言いたいことを言う、ってことになりそうな気がする。
中原先生は、最後に
インフォーマルなやりとりが横行する日常か
オープンなコミュニケーションが創出できる日常か
決めるのは自分たちだ
と締めくくっている。(相当意訳)
オープンなコミュニケーションを行うには腹を括ることが必要だと思うんだよね。本当に言いたいことを言い合えるようになるには、どんなことでも受け入れなければならなくって、それってクチで言うほど簡単じゃない。
まずは受け入れなければ、発信してくれないでしょ。
つまり、どんな組織にしたいかを上位者が腹決めするってことなんだよね。
覚悟がないのに「オープンなコミュニケーションを目指す」なんて言っちゃいかんね。
最近のあたしは「コミュニケーション」って言葉の安売りに少々辟易しております。
足りない能力=コミュニケーション力
組織間のコミュニケーションが希薄・・・
よく聞かれるコトバですが、聞こえがいいだけに、覚悟を持って使うものだと思うなぁ。コミュニケーションを求めるならば、その準備をしなければならない、ってこと。
なんでもそうだけど、こういったコトバはすべて自分に「で、あんたはどうなの?」と跳ね返ってくる。
自省する日々です。
ずーっと引っ掛かっていたこと=小骨がさらに大きな骨になっちゃった、そんな感じ。
中原先生が書かれていたのは・・・・
オープンなコミュニケーションとは言いたいことをきちんと言いあうこと
だけど、言いにくいことは言わない風潮がある
でも、喋りたい
するとインフォーマルな場でとりわけネガティブな物言いが横行する
よい組織とはコンフリクトを恐れずに話し合う集団ではないか?
ってこと。(相当意訳)
おおいに共感。
言いたいことを言い合うだけではなく、「きちんと」っていうのがミソなんだろうな。
でも、この「きちんと」というのが曲者。
言いたいことを「きちんと」言ったつもりでも、受け手が「言い過ぎだ」とか「失敬だ、お前に言われたくない」ととらえたら?
「もっと考えてからモノを言え」ととらえたら?
ニンゲンって細かな感情の機微を見逃さないものだから、そういう捉えられ方をしたら、ちゃんとわかる。
言い過ぎた、言ってはいけないことを言った・・・
でも、「言うこと」「発信すること」が求められている。
自己主張できる人、人前で物おじせずに発言できる人が優秀だ・・っていうラベルは貼られがち。特に当社なんかだと、おとなしい社員が多いので、とかく上位者は「メンバーのコミュニケーション力=発信力が足りない、もっと積極的に発言させよう」となりがち。
そうすると、おのずと「受けがいいことをきちんと言う」態度になりはしないだろうか?
上位者は「うちの組織は活発に会話ができている」と評価し、メンバーは相変わらず、うちに秘めた思いを抱え、コンフリクトを抱える。
結局、よい職場、よい組織ったって、それを決めるのは誰なのか?ってことなんじゃないか?ってこと。
職場実態アンケートとか職場活性度調査とか、従業員満足チックなことは結構ちゃんと取り組んでいる会社です。しかも、その調査結果を統計上だけではなく、設問のパラドクスも含めて解析しようなんて目論んでいる。(企画しているあたし自身は、こういった調査結果は読み取り方いかんであって、読み方ひとつでどーとでもなるって思っているんだけどね。)
でも、リアルな場での聞き取り、調査紙っていう媒体だろうが、日々の仕事の中でのコミュニケーションだろうが、そこには評価者=影響力の大きい人
がいるわけで、その人のことを意識した態度をとることになるんじゃないか?
「言いたいことをきちんと言いあう」には「顔色を見ないで」っていうのを付け加えないと、上位者=影響力の強い人が認めてくれるような内容に転換、翻訳して言いたいことを言う、ってことになりそうな気がする。
中原先生は、最後に
インフォーマルなやりとりが横行する日常か
オープンなコミュニケーションが創出できる日常か
決めるのは自分たちだ
と締めくくっている。(相当意訳)
オープンなコミュニケーションを行うには腹を括ることが必要だと思うんだよね。本当に言いたいことを言い合えるようになるには、どんなことでも受け入れなければならなくって、それってクチで言うほど簡単じゃない。
まずは受け入れなければ、発信してくれないでしょ。
つまり、どんな組織にしたいかを上位者が腹決めするってことなんだよね。
覚悟がないのに「オープンなコミュニケーションを目指す」なんて言っちゃいかんね。
最近のあたしは「コミュニケーション」って言葉の安売りに少々辟易しております。
足りない能力=コミュニケーション力
組織間のコミュニケーションが希薄・・・
よく聞かれるコトバですが、聞こえがいいだけに、覚悟を持って使うものだと思うなぁ。コミュニケーションを求めるならば、その準備をしなければならない、ってこと。
なんでもそうだけど、こういったコトバはすべて自分に「で、あんたはどうなの?」と跳ね返ってくる。
自省する日々です。