わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

はじめてでも門外漢でも敷居が高くない場ってあるのかな?な話。

2017-09-25 22:58:12 | ライブ・イベント
先日、ライブができるダイニングバーで行われたフリーライブに行ってきました。ここ、結構重要。結婚式の二次会やパーティーなんかもできちゃうダイニング付きのライブハウスではなくて、きちんとした機材があってライブもできちゃうダイニング。



通常、ライブハウスでライブをやるときには、時間あたり●万円の利用料がかかったり、機材を借りるといくら、受付やったり集客を請け負ったりするといくら、みたいな取り決めがあって、集客のノルマがあるところも。
つまり、アマチュアで音楽を楽しんでいる人がライブをやろうとすると、それなりにハードルが高い。資金面、集客面など“音楽”以外の要素も備えなきゃいけない。


それを、参加費を払って、持ち時間の中で好きなようにライブしていいよ、っていう制度があります。これって、結構、秀逸な仕組みで、主催するほどの技術や資金がなくても、腕試し的にライブを行えるっていう参加者(演者)側のメリットもあるし、ほかの参加者(演者)も自分が演奏する時間帯以外は、観客になるわけだから、集客をがんばらなくても、聴衆がいる。これってライブをやる上では結構重要だよね。やっぱり観客がいないライブってさみしいし、反応があってこそ、その後の演奏に活かせるわけだし。
箱側にとっては、参加者(演者)の分の収入と、演者の連れの分の収入が見込めるし、そうやって知り合いを連れてきてもらうことで、リピーターになってもらえる可能性もあるわけだ。



この手のフリーライブとかセッションライブには何度か行っているけれど、ぶっちゃけ、とっても居心地が悪い。それはわたしが演者ではなく、単なる観客ということもあるわけだが、ライブハウス特有の敷居の高さや、バンドマンにありがちなライバル意識やそれが転じた仲間意識に「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし、場違いなところに来ちゃいましたよね」な気持ちになること、しばしばでした。
決して、彼らが排除しようとしているわけでもないんですけどね。なんでしょ、このアウェイ感。


その居心地の悪さが、このフリーライブにはなかったんです。
ようこそ!よく来てくれましたね、的な歓待とも違っていて、そこにただいることが許される、そんなおおらかな空気があったのです。



それってなんでだ?



内省が好物なわたしは、ついついその理由を考えてしまうのですが、思うに

・オールジャンルOKな懐の深さ 
80年代バンドソングから、フォークから、ジャズから、ビートルズから、オリジナルから、タップダンスまでなんでもあり!

・みんな、めっちゃうまい!! 
聴いてるだけで十分楽しめる

・ソロだと20分、
バンドだと25分の持ち時間  飽きない!持ち時間を有効に使おうとするからセッティングもスピーディーだし、余計な(おっと、失礼)MCもないからテンポよく進む

・ごはんがおいしい  
ライブだけではなく、ほかにも楽しめる要素がある。これって結構重要な気がする。一粒で二度おいしいお得感と、どっちかがイマイチでも、どっちかがイケてれば、行ってよかったね、ってなるもんね。

・分煙  
世の中の飲食店ではアタリマエになりつつありますが、ライブハウスって喫煙OKで副流煙もくもくってところが少なくない。

・みんな上品  
これ、私の偏見ですが、バンドマンとか、ワークショップとかやってる人って貧乏くさい人が多いんですよ。暴言失礼。いいことやってるんだから、夢を追いかけてるんだから、好きなことやってるんだから、だから儲からなくてもいい、赤字になってもいい、と思ってたり、好きなこと極めすぎちゃってなんだか不器用に生きてる人とか。それがなかったんですよねー。余裕のある大人が純粋に楽しんでる感じがとってもよかった。余裕っていうのは、経済的なことだけではなくって、好きな音楽を聴いたり、奏でたりする気持ちの余裕だったり、他の人の演奏を楽しめたりする余裕。



常々、はじめての場で居心地悪くなく過ごすには(過ごしてもらうには)どうしたらいいんだろ?なんてことを考えていますが、やっぱり、初めての場って緊張するよね。それって、お作法がわからないから、な気がするんですよ。
ラーニングイベントでも「お近くの方と名刺交換、自己紹介」といったお作法は慣れないととても不安だし、いったい何をしゃべればいいのさ?という気持ちにさせます。
ライブハウスのお作法って行ったことない人にとっては、なんじゃそりゃ?なことだと思うのです。
ワンドリンクオーダーって何?500円のミネラルウォーターって高くね?
荷物はどうすりゃいいの?上着は?
疲れたら座れる場所ってあるの?
とかとか…。



だから、最初はお作法を教えてくれる人の存在って必要だよね。そして、なんでもありで懐が深くて緩やかな場だと、スムーズに場に合流できるような気がするんだよね。
ライブでも、ラーニングイベントでも、そういう仕掛け、雰囲気を作っていくことが、集客につながるんだろうな、なんてことをつらつらと考えるこの頃。もちろん、それはコンテンツがしっかりしていてこそ成り立つわけで、場をつくる以上、どっちも満たすように心を砕いていかないといけん。がんばりましょう、がんばります。
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古くて新しい学びのかたち。苅宿先生のお話し聞いてきた。

2017-09-24 22:27:56 | オトナの学び
苅宿先生がやってきた!




これは、今年3年目になる「ふくおか教育を考える会」が主催の平田オリザさんに学ぶ演劇の発表会+トークイベント。そこに苅宿先生がやってきた。
聞けば、この演劇づくりワークショップに九州WSD(ワークショップデザイナー)のお仲間でもあるみよちゃんが参加しているっていうじゃないですか!これは何をおいても行かなきゃね。というわけで、高速をビビりながら愛車を走らせ行ってまいりました。


この演劇づくりワークショップでは、7月から5回にわたってワークショップを開催し、参加者みずから寸劇を作り上げるんだそうです。寸劇の発表の後はオリザさんの解説付き。


ワークショップデザインとか学んでいて、自分でもワークショップやったりしてるから、演劇とワークショップの関係はわかっていたつもりだったけど、あらためて生オリザさんから解説をしてもらうことで、なるほどーーーーーと深く腑に落ちた。
演劇では「運命」がポイント。出来事=運命が起きて、それに対して登場人物がどう感じ、どうふるまうか、が演劇であって、個人の内面、独白に迫るのは“小説”の役割なんだそう。演劇は2500年前からあって、小説の方がずっと新しい。こんな違いがあるってこと、あらためて知れたのは知識獲得の収穫でした。


寸劇の発表の後、「古くて新しい学びのかたち」というテーマで苅宿先生の講演(講義)+オリザさん、苅宿先生の対談。



苅宿先生の講義は、わたしにとっては学び直し。今から7年前に受講したワークショップデザイナー育成講座での学びがよみがえってきた。
何かを覚える、知識を習得するだけが学びではない。その過程での友達との関係など社会的な学習こそが学びであるっていうのは、あらためてその通りだよなーと思う。



WSDで学んでいた時よりもパワーアップした印象を受けたのは、「できない」から「できる」に至る過程では、「できてきた」という段階が必ずある、ってこと。そしてこの「できてきた」っていう感覚こそが学習には必要であり、それこそが「学び」だと苅宿節炸裂www 
教える人たちは、この「できてきた」をどうデザインするか、そして、「できてきた」という感情に着目するような教育をしなきゃならん。
この「できてきた」って感覚が達成感だったり、自己効力感であります。苅宿先生は「明日の自分が楽しみになっている」と表現なさっていました。



「発達の最近接領域」は久しぶりに聞いた!この理論、めっちゃ共感していて、社内研修やOJTを行うときには、意識的にデザインしていたなーなんてことを思い出しながら聞いておりました。
一人ではできないけど、支援者がいればできる、周りの人のまなざしこそが応援っていうのは、何度聞いても素敵な理論だ。同志社女子大学の上田先生はあの人とだったら乗り越えられる「憧れの最近接領域」っておっしゃってましたよね。


今日、あらためてお話し聞いて、ひとつ新たに視座として得られたことがあります。支援者がいればできること=乗り越えられることがある、だけでなく、「他の人と一緒にいるとできる」と意識できることが学びを促進する、というお話し。これまではどちらかというと、提供側(教える側)が最近接領域をデザインすることが必要、という文脈で語られていたような気がするけど、今日のお話からは学習者が意識すること、意識できるようにいざなっていくことが大事、という新たな視座が付け加わったように感じた。



オリザさんと苅宿先生の対談は本当に面白かった!
公教育に関するお二人の熱く確たる思いがたくさんお聞きできて、なんだか元気をいただいた。
もう長いこと言われているけれども、全国津々浦々統一された教育をしていくことの限界があって、小さな町だと首長さえその気になれば独自性を持った教育はすぐにもできる。活性化、地方創生の策をいろいろ講じてきても何も手ごたえを感じられないような小さな町は、教育と文化しかない!と腹ぐくりができるのかも。中途半端な(オリザさん談w)福岡みたいな町がいちばん厄介で(汗)、市内全域で何かをやろうとするには導入のコストもかかるし、かといって大都市圏ではないからスケールメリットも見込まれない。地元に残って、地元で活躍してもらう人材を育てたいのに、結局、中央(東京)に出ていく人材を育ててしまっているっていうのは皮肉だ。グローバル人材教育もそんな感じだよね。グローバル人材を一生懸命育てたら日本にはとどまらないで世界に出ていくでしょ。みんな一緒の共通の教育は、「村を捨てる教育」なんだってお話はなるほど納得。



でも、そうすると、教育はどんどんと細分化、カスタマイズされていって、手間暇がかかる。人を育てるんだから手間暇かかってアタリマエ、とも思うが、一方で、多様性だとかインクルーシブだとか言って、なんでもあり、にしちゃうのもしんどいよなーと思う。
日本のコミュニケーション教育は、「みんな仲良く」から始まって、合意形成をスムーズに行うことが求められてきたけど、一方で、クリティカルシンキングだとかロジカルシンキングが必要だ、なんて言われて、せっかく決まりかけてたことに「ええ?それでいいわけ?」的な茶々を入れることも必要だとされている。それを指して、オリザさんが「うまく話の腰を折るコミュニケーション」っておっしゃってたのは当意即妙でしたwww



個性だ、多様性だとなんでも認める、受け入れるっていうのは、今の時代は必要なことかもしれないし、否が応でもそうせざるを得ない。
アタマではわかっているけど、わがままとどう違うんだ?と思う昭和の教育を受けてきたわたしがいる。
決まりは守れ!と言えない、自由に振る舞うことを尊重しなくちゃならない空気は時として傲慢な気もするんだよね。
そういう矛盾を抱きしめて、世の中は矛盾で満ち溢れているってことを自覚しながら、それに気づいて悩んでいく、っていうことがこれからの教育者には求められるのかもしれない。



久しぶりに「学習」について、じっくり考えた時間でした。こういう時間って本当に貴重。この手の領域の知識は5年前で止まってるもんなぁ。きちんとアップデートしていかないと。


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話したことがまとまる・残るって嬉しいことなんだよね~採用イベントでグラレコ描いてきた

2017-09-23 07:28:09 | グラレコ
もうずいぶんと前の話になりますが、9月1日に産業能率大学で行われた採用イベントでグラフィック・レコーディングしてきました。

このイベントは、産業能率大学のキャリアセンターが主催するもので、企業や団体の採用担当者を招いて、学生の取り組みの紹介に加えて、採用担当者と学内職員との“シューカツ””採用“に関する意見交換を行う場として開催されたもの。
その昔、論文の調査のためにインタビューをお受けしたり、フィールド調査を教えてもらったり、グラレコ講座に来ていただいたり、ゼミでグラレコ講座させていただいたり・・・これまでいろんな場所でお世話になっている産能の齊藤先生にお声かけいただいて実現しました。







今や空前の売り手市場で、企業にとっては“よい”学生をいかに確保するか、っていのが新卒採用の命題だし、一方で(語弊があるかもしれないけれど)偏差値的にはそれほど高くなくって苦戦する大学・大学生もたくさんいるわけです。会社での仕事って偏差値や大学名じゃないけどねー。でも、ふるいにかけないわけにもいかないから、致し方なし。


産能は偏差値や知名度からしたら、有名校に劣るわけですが、かなりユニークな教育を行っていて、そのひとつがきめ細かなPBL(Project Based Learning)を中心としたゼミ活動。企業と連携しながらの取り組みも多く、わたしが学生のときはこんなこと絶対できなかったよなー(能力的に、という意味)と思うようなことばかり。


学生の発表も堂々としていて、素晴らしかったです。もちろん、学生ゆえの近視眼的な視点だったり、そうは言っても実際のビジネスはそんなきれいごとばかりじゃないけどねーって言いたくなっちゃうものも多いけど、それでも、自分の頭で考えて、行動して、なんらかの形にまとめていって、その過程での「学び」をきちんと言語化していたのは素晴らしいと思った。


その後、齊藤先生ファシリのもと、企業の採用担当者とともにワールドカフェを実施。ある意味、お付き合いで呼ばれてきた場なので、そんなに盛り上がるんかな?人材育成担当ではなくて採用担当者だから、こういう“対話”の場には慣れていないんちゃうかな?と勝手に心配しておりましたが、杞憂でした。


たぶんね、話すネタがたくさんあったことと、齊藤先生の問いの設定と事前情報のインプットがあったからこそ、なんだと思った。
最初に学生のプレゼンテーションを聞いているので、参加者の情報量がある程度均質になり、齊藤先生からは問い(お題)に沿った情報提供が必ずなされている。これで参加者は、同じ目線でスタートできる。もちろん、それぞれの企業の事情や担当者のそれまでの知識や経験、価値観といったものは異なるんだけど、みんなが同じ話を聞いて、同じ情報を持って、同じ問で語るっていうアタリマエだけど、おざなりにしがちな場づくりをかっちりとなさっていた齊藤先生はすごい!!!!


で、わたくしは、何をしていたかというと、
学生たちのプレゼンと、ワールドカフェの進行と話されたこと(ひとつひとつのテーブルで話されていたことではなく、ラウンドごとに「どんな話がでましたか?」と共有タイムがあったので、それを記録)を記録してきました。



採用イベントで、グラレコが必要だったかどうかはわからないけれど、いくつか場に貢献できたんじゃないかな?って思ったことがあったので自分自身のためにも記録しておきます。



●自分の話したことを記録してもらえるって嬉しい
発表した学生がめっちゃ興奮気味に「これ、自分が一番言いたかったことなんですよ。なんで描けるんすか???」と言ってたけど、それは君が喋っていたから(笑) という冗談はさておき、パワポのスライドには基本的には「事実」しか記載されない。その人がいちばん伝えたかった「気持ち」の部分って、語ることでしか表現できないんだよね。それをその場で記録できるのがグラレコの力なんだなーとあらためて実感した。
学長も似顔絵付きの記録にいたくご満悦のご様子w やっぱり人の話は聞いてもらえると嬉しいし、それが残るっていうのはとっても嬉しいことなんだ。



●まとまりのない話も描くことで意味を持ってくる
齊藤先生から、「あっちいったり、こっちいったりの議論を、見える化することでポイントが押さえられる」とコメントいただきましたが、いや、もともと、意味のない話なんてないんですよ。話されたことには必ず意味と意思がある。でも大抵の話は流れて行って残らないから、意味がなかったかのように思われてしまう。それをグラレコだと残すことができる、ってだけなんだけどね。あらためて、残す、記録するってことの力を感じた。



●描きたい気持ちになる
グラレコ描いてると、必ず「どうやったら描けるようになりますか?」「これ描いてみたいです!」とお声をいただく。これが何よりもすごいことだって思うんです。すごいですね、おもしろいですね、という感想で終わらず、自分で描いてみたい!っていう気持ちになるのが、何よりいいよね。
こういう気持ちになってもらえることが、私が描く理由な気がする。アーティスティックなグラレコは描けないし、構成(構図)がいまいちだったり、読みにくかったり、文字の大きさ・太さに統一感がなかったりぐだぐたなグラレコなんだけど、敷居の低さ、自分でも描けるんじゃなかろうか?と思ってもらえるのが私の強みなんだと思うことにしてます(汗)



卒業生の端くれとして、イベントのお手伝いができたこと、来場いただいた方に喜んでいただいたこと、この場にお呼びいただいた齊藤先生、関係者の皆さま、本当にありがとうございました。

「講座やりますよー」的な営業がまったくできない。広めたいんだけど、がつがつ行けない自分もなんだか情けない。これも課題ですね(*´Д`)


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