わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

語らない人事担当者

2012-05-28 00:41:00 | オトナの学び
尊敬するタナカジュンさんがブログに、
「人事/HR系のイベントで、ディスカッション/対話になると帰る人事担当者が多い。もったいないし、ヤバい。」(相当乱暴な意訳)
とここんとこ何度か書かれてる。


先のAcademicHackで投げかけられた質問。
「越境学習していることを社内に公言してますか?」にその場にいた人のほとんどが手を上げられていた。あたしは上げられなかったから言うわけじゃないけどね、「仕事」としてそういう場に行けるだなんてよだれが出るほど羨ましい。


ステキなHR系のイベントや勉強会があっても、ずーーーっと有休使って行ってた。仕事で行かせてくれ、ってお願いする理屈を考えるのがめんどくさかったりってのもあったし(おい)、今のケイエイキカクシツというスタッフ部門にいるからできることなんだと自分に言い聞かせ、今の境遇に感謝しつつ、外ばっかり行ってちゃらちらして、と言われないようにと気を使ったりもしている。
外に学びに行ったり勉強会の主宰したりしてることはカイシャのみなさんも知ってはいる。ここ4年くらいでじわりじわりとやってきて、ひめさんはそーゆー人だから、と容認された、に近い。肯定も否定もされず、特別な存在なんだろうな、と思う。


そうやって半ば隠れて外に学習しに行ってることはエライともなんとも思ってなくて、AcademicHackのときに豊田さんの発表にあった勉強会に行く理由に当てはめると、「ライフ・インフラ」…外に出ることがアタリマエ、生活の一部…に近いんだろうな、と思う。


で、そうして出かけた勉強会やセミナーでの振る舞いについて、である。


あたしは、自分の金と時間を使って行くときにはやりたくないこと気がのらないことはやらない。っつかそもそも、気が乗らない場所には行かないし、やらない。対話がめんどくさいときだって当然ある。良質な講義を聞いて、それで満足っていうことだってあり、だと思ってる。



けど仕事で行ってるときにはそうではない。
あたしがそのセミナーなりに参加している時間に「できていたはずの仕事」と引き換えにカイシャが時間とカネを投下してくれたんだから、と気が乗らなくても100%以上のインプットをしようと思うんだなー。
貧乏性っていうか、前世代的っていうか…。これはたぶん前職で12日間の豪華おフランス・イタリア視察ツアーに連れて行ってもらったときに埋め込まれたものかもしれない。
その金と時間はあたしという個人に投下されただけではなく、会社全体に投下されたわけなのだから、なるべくたくさんのお土産を持ちかえることが派遣された人の努めだと思うのですよ。
だから、鬱陶しいなー、と思っても、ときには「?」と思うグループワークでも(話される内容が必ずしも満足行く内容とは限らないので)、前のめって参加してきたつもり。で、それはレポートや報告書というかたちではなく、実践というかたちでカイシャに還元してきたつもり。まだまだ全然できてないけど(^_^;)


コミュニケーションが大切だとか組織開発だとか言ってる人事担当者が、他者の話を聞いて、自分はどう思うのかを内省し、他者ん考えを取り入れたりする、、、そういう多様な他者から学ぶってスタイルでないってのもヤバいけど、カイシャの金使って学びに来てるってことに思いを馳せられないってのはカイシャ人としてヤバくないかい?と思うのです。特に人事なんつー間接部門にいるのだから尚のこと。売上作れない人事をはじめとする間接部門は、間接部門だからこそ持ち得るノウハウやらネットワークやらを事業につなげることができてこそ成り立つと思うのですよ。だから、インプットは怠らず、アウトプットは惜しみなく、だと思うのですよ。これまた自分を思い切り棚に上げて言っておりますが(^^ゞ


と、うだうだ書いてきましたが、要は羨ましいわけです、会社のカネと時間を使って勉強会やセミナーに行けるだけの物理的なヨユーがあることと、そういう土壌、風土にあることが。そういう風土・土壌を作っていくことがあんたの役目だろ、と言われることは承知でwww



最後にオチもなんにもないし、まだアタマん中で整理されていませんが、人事の仕事について思うこと。
「人事の仕事<カイシャ」なマインドの人の方が人事に向いてるんじゃない?
なんだかんだとその会社、その会社に居る人のことが好きでなければできない仕事なんだと思う。前時代的、と言われようと。でなければ、なぜ人事の仕事がアウトソースされずに残るのか。いろんな企業の人事部門を渡り歩くって言うのがどうにもイメージできなかった理由がよくわかりました。人事のプロってそういうこっちゃないような気がする。この会社の行く末、将来を真剣に考えて、そのときにそこで働く人をどうしたいのか、っていうのがベースにないといかんような気がする。そうなると「人事」の仕事がやりたい、できるって人よりも、会社のことを誰よりも好きでいる人に人事の仕事をやってほしいなぁ、と思うのです。





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エッキョウってなんだ?

2012-05-22 00:33:50 | オトナの学び
ちょっと前に、尊敬する先輩タナカジュンさんが
「越境学習、越境学習っていうけどさ、営業職に従事してるこの時期の新入社員の越境ぶりったらハンパない。毎日あらたな場所に、今までの自分が持っている文脈では通用しない場に飛び込んでいくのだから」(相当に乱暴な意訳です、スミマセン)とツイートされていた。


あぁ、なんか、あたしがここんとこ抱えてたもやもやがちょっと晴れた気がした。


そう、これだけいろんなところに出かけていて、おもしろそうな学びの場があれば飛びついていたわたくしですが、ここ数か月は(物理的な理由もあるのだけれど)、「越境学習」ってものに少々懐疑的でありました。


そもそも、越境学習ってコトバ自体、誰の定義によるものなのかわかんないし、この分野の第一人者である荒木先生ご自身が、いったい誰の造語なのやら、とおっしゃったとかとか・・・・越境して学んでいるっていう状態を示しているに過ぎないのにね。


以前、イタヤさんのLカレッジでお話ししたときに、あたしなりの越境学習の定義を


会社が用意した教育プログラム以外で自発的に学ぶ
 例えば…社会人大学院、セミナー、習い事・・・


専門領域外を学ぶ
 例えば…人事関係者がアカウンティングやマーケティングを学ぶ…


大前提として・・・
越境するからには「ホーム」がある  戻ってくるべき場所≒会社や専門領域がある


わたし自身にとっては後者の方が「越境」感は強い・・・かな?


としました。


そのときの資料を見ても、しゃべったことを思い出しても、越境学習の効果は知識や知見が見についた、っていう即物的かつわかりやすいことではなくって、そこで出会う人がステキだ、ってことに終始しておりました。まぁ、なんとチープなwww


学びのゴールに、スキルを身につける、○○の資格を持つ、○○になる…を掲げた垂直型の学び(語学、簿記会計、ロジカルシンキング…)というよりも関心が関心を呼ぶ“バルーン型”に近いんじゃないかと。
越境“学習”というより越境“ネットワーク”の中で経験する…に近い。だから楽しく学べているんじゃないか??
なんて締めくくっておりました。


で翻って。


カイシャの中では、全社共通の人材育成施策の立案、実行なんて役割も担っております。学ぶわたしってだけではなく、誰かを学ばせるわたしでもあるわけです。


誰かを学ばせるわたしの立場から見たときに、(前者)の越境学習を礼賛するか、って言ったら、はてなマークがアタマの上に飛びます。


カイシャで、仕事で、さらに風呂敷広げちゃうと、その人の生活/人生を豊かにするための教育を、”外”で”自発的”にとは言えんのです。
研修やOJTという形だけにとどまらず、10万時間だかを過ごすカイシャの中で、もっとちゃんと学ぶことってできるんじゃないの?と思っているのです。


あたし自身が、生活の9割を仕事に割いてた時代にいわゆる”学習”してたか?って言ったら、してない。けど、日々の仕事の中で、いろんな人にもまれながらそりゃーたくさんの経験をし、痛い思いもし、それが今の血肉になっている(と思っている)。
もちろん、陰となり日向となり支えてくれた人がいてこそ、ですけどね。


そういうこと、な気がするのです。


うちの父は、サラリーマン生活50年(計算合わないけどwww)を迎え、サラリーマンすごろく的には「あがり」と言っていい役職につきましたが、物心ついてからこっち、あたしは父が”勉強している”姿を見たことがなかった。本を読んでいる姿も見たことなかった。日経すら読んでなかったし。


でも、一部上場企業でいっぱしに仕事してきて、経済や産業の動きについては、一生懸命インプットしているあたしなんかよりもずーっとたくさんのことを知っていたし、実際にそれらの情報をつかって意思決定しているわけです。


勉強会だなんだと”学習”なんかしなくたって、ちゃんと知識なり知見なりを身につけている。それは、その当時のニッポンがまだまだ余裕があって、日日の仕事や組織の中に余力があって、その中で学べたんだろうとは思うのだけど。


後者の”越境”は、経験をデザインすることにも通じるのかな?違和感のある経験や、アウェイな場所/領域は視野を広げることにもなるから、意識的にやるといいような気がするなー。
よくある話だけど、組織の中で実務をきわめて来た人が、じゃあ、お前リーダーやれ、と言われて、いやぁ、僕は組織を束ねたり統率していくようなことはしたくないんです、となっちゃったり、実務エキスパートとして優位性を持っていて本人もそれが自分の価値だと思っていたらば、他部署に異動・・・同じようにはできないから自信をなくす・・・なんてことはよくある話です。


コミットせずに動かしてしまうカイシャの問題もあるけど、不本意な異動であってもそこに「何を」見出すか、はできる。フレームを変えられるだけの引き出しだったり、考え方だったり、まさに多様な価値観なりに触れていてこそ、できることなんだと思う。


あ、人事権によって異動した経験が、実は、その人のキャリアを形成していく上で意味を持っていた、という話に通じるねー。


何が言いたいのかわかんなくなってきたwww
ひとつ言えることは「あさって」を考える、ってことなんだと思う
これはとびラー講座のときのお話しだけど、美術館は無用の用。なくてもどーってことない。けど、美術館の存在が”何か”にはなるし、明日すぐに役立たなくてもあさってには役立つかもしれない、ってこと。人材育成もそうだなぁ、って思った。明日すぐに役に立たなくても長い年月の中で必要となることや深み、幅、みたいなことは機会として提供していかなくちゃ。


あさってってメタファは、もうひとつおもしろい解釈ができるな、って思っている。それは「ちょっと違うんちゃう?」っていう見当違いのあさって。見当違いなことは、イコール幅でもある。そういう無駄なことの中に、学びや気づきがあふれているような気もするのです。


それが、後者の”越境”の効果ではないかと。


そしてそれは必ずしも、カイシャの外で学ばなくっても、違和感があったり、自分にとってアウェイなことをすることでも実現できると思うのです。


あー、またオチもなんにもなくなっちゃいました(^_^;)


アウェイなことをどれだけ経験できるか、その状況を受け入れられるメンタリティも含めてね、それが何よりの”越境”なんじゃないかなーと思った次第。


というわけで明日は、イシヤマさんの博士論文の発表会です。
テーマが『プロフェッショナル人材の育成(!?)を考える : 越境学習と新たな「キャリア」』ですよ。「?」がついてるところがまたおかしいけど(笑)
あしたまたお話聞いてどんな感想や考えに至るか、自分で自分が興味深い。またリフレクションしよ。







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スイーツの威力に違いない話。

2012-05-16 01:13:30 | カイシャ・シゴト
昨日は体制変わって初の役員会でした。
グループのガバナンス体制が変わって、当社は取締役会非設置会社となったので、正確には「ボード会」といいます。ただ、これがまた複雑で、親会社の執行役員の最終承認が必要なので、ボード会で決議、審議した内容は、執行役員(当社の前社長でもある)に答申に行かねばならないのだそうだ。

ま、そんな話はさておき。


昨日は、収支計画の承認やら、前半期の業績報告並びに賞与月数の確定やら、今期の業績目標の設定やら、なかなかにヘヴィな案件が目白押し。


だから、ってわけではなく、最近はデフォルトになっているスイーツ差し入れ。
今回は初夏を意識し、枝豆、で行ってみました。
ずんだ餡にして、ケーキを焼いてみた、ちょっと余ったのでレアチーズケーキも。


資料を配布し、お菓子をお一人ずつの席に配置。
着席したおぢが「お!この会議はお菓子が出るのか!?」とびっくりしていた。そりゃそうだ。フツウ、役員会なんてぴりぴりしたムードのところにスイーツは出ないよねー。お茶は出ても。


今まで出席していたおぢにとってはアタリマエになりつつあるんだけど、こんなチャンスもないので、「役員会も”場”のひとつなので、わたしなりのしつらえなんですよ。季節を意識したお菓子になってます」と説明。
今日は何?と訊かれたので、「ビール飲みながら閃いたんですけど、枝豆を餡にして一緒に焼いてみました。ただ、あまりにもなじんでしまって、枝豆の味はどこかに行っちゃったんですけど」とお答え。
「へぇ~、次も出るのかな?これからも続けてほしいなぁ」と言われちゃ、社交辞令でも嬉しいよねー。


あらためて、
手作りスイーツを差し入れてるのは、あたしなりの場作り、でもある。単に甘いものを出すだけ、小腹を満たすため、ではなくって、そこには「季節」や「意外性」も取り入れてる。
そして手作りにこだわっているのもの、「お!」という驚きと「手間をかけている≒だいじに思っている」というアピールからでもある。


それでも殺伐とした役員会がスイーツひとつで「ありがとな」からスタートして、場がいい感じで緩むのは悪くない。もちろん審議はガチだけど、重箱の隅をつつくような議論はなくなった(気がする)。少なくとも、「敵対」みたいな構図はない。


スイーツで役員会の場が変わるのか?審議に影響あるのかと問われればそんなことはない。議論はガチで敗訴!なときもたくさんある。
直接的な効果は着席したときの『お!』というサプライズ感、それだけなんだよな。


けど、差し入れに『もてなし』を感じてくれると、起案者や事務局と距離が近くなることは間違いない。
決める⇔決めてもらう、の関係から、役員会という場に『集う』仲間(という表現も青臭いですが)に変わるような気がするよ。


手間ひまもかかるし、コストもそれなりにかかる。酔狂だよなーと思うけど、なんでやってるのかって言われたら、役員会をスムーズに進行させる、という使命感ももちろんあるけど、おぢらのことが好きなんだよなー。喜んでくれる、ありがとな、って言ってくれると次もがんばろ、って思っちゃう。単純なんだよね、動機なんて。


というわけで、次回もがんばりますー。


そうそう、おまけな話として。
差し入れに直接結び付くわけじゃないんだけど、しゃちょー秘書にインタビューをしたいので紹介いただけないかと依頼され、当社の前社長(親会社における執行役員)秘書にかくかくしかじか、と相談したらば、その方からは「わたしなんて役不足です」と断られちゃったんだけどね、周り回って親会社の前CEO(現相談役)の秘書のYさんにお受けいただけることになりました。なんでも、あたしが依頼した秘書のOさんが、前社長のSさんに相談したらしく、Sさんが直々にYさんに依頼してくださったそうです。Sさんにお願いされたら断れませんよ、と。いやー、びっくりですわ。
確かに前しゃちょーには可愛がって(女子的な意味合いでも)もらってたけど、めっちゃお忙しい方が仕事以外のことで、あたしなんぞの依頼を働きかけてくださったなんて感激ですよー。
これは差し入れの効果に違いない、と思っておりまする。そう、今までもこの手のことを突撃的に役員にお願いしているんだけど、皆さん、ひめが言うならなぁ、的に動いてくださる。決して見返りが欲しくて差し入れてるわけじゃない。だからこそ、なのかもしれないねー。
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真摯に謙虚に。労働とは尊いものなのだ。

2012-05-03 14:45:01 | カイシャ・シゴト
違和感感じてる話もういっちょ。調子に乗ってます(^_^;)


直線的なキャリアに違和感があること、将来や未来を考えることがとても苦手なこと。
労働は尊いと思うこと。


震災から1年経って、いろいろあれこれ考えた。
ちょうど、社員総会の講演で復興支援活動をしている方にいらしていただいたこともあって、自分ごと化して考えるようになったこともある。


その中で、強く強く思うこと。


労働の尊さと謙虚さ。


あのね、誤解を恐れずに言うと、あたしも含め多くの文系ホワイトカラーは、あの震災の直後、言いようのない無力感を感じたと思うのですよ。
仕事はキャンセルになったり、自宅待機になったり。現地に行って何かしようとしても手段もなければ、ノウハウも技術もない。自分にできることってなんだろう?とつつましい節電と募金くらいしかできなかったと思うのですよ。


一方で、普段、ホワイトカラー文系にとって、”仕事”と捉えてなかった(ゆーしゅーな大学生がシューカツするときによもやその職につくとは夢にも思わない、という意)輸送業や建設関係などガテン系の仕事や、自衛隊のなんとたくましく頼もしかったことか。


よく言うじゃない?
労働とは時間の切り売りで生活のため、仕事はその人自身の生きざま、とか。
労働はやらされるもの、仕事は主体的に取り組むもの、とか。


その点ではガテン系の肉体労働も、労働ではなく仕事なわけですが、多くのホワイトカラーはガテン系を「労働」だ、と認識していると思うのですよ。上から目線っていうかね。


あえて、今、思うのです。
労働は尊いし、あたしたちは無力だ、ということを謙虚に受け止めたい。のど元過ぎれば、じゃないけど、グローバルだなんだと切った貼ったな世界にいて、有能感満載な人の中にいると、毎日を愚直に過ごすことをおざなりにしている感じする。
あのときの謙虚な気持ち、真摯な気持ちでいたら、やわらかくてあたたかい世の中になる気がするよ。自信満々なキラキラ☆エリートに囲まれていると、ことさらにそう思う。


労をいとわないでいたい。
労働することに感謝できる人でありたい。


そう、だから、目の前のことを愚直に真摯に取り組むうちのメンバーはすごい!って思うのです。おぢからしたら物足りない、って思うのかもしれないけれど、労をいとわないその姿勢はホント素晴らしい。世の中にはそういう人たちがたくさんいて、そういう人たちに支えられている、とそう思う。


謙虚に真摯に。そして愚直に。今だからこそ敢えて意識したい。
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目標を持てって言うけどさ。

2012-05-03 14:28:20 | カイシャ・シゴト
ここ最近、ネガティブモードに突入しとります。
つい先日も「迷ったら行かない」と言って、驚かれました。180度転換です(笑)
理由はある程度明確です。ちょっと自分の気持ちの整理のためにしたためてみます。


直線的にゴールを目指すこと、目標持てって言うことの違和感
ポジティブであることを強要されることの違和感
「労働」よりも「仕事」がエライ、立派、すぐれてると思いがちな風潮への違和感


でもその根底にあるのは、労働の尊さ、というか、優秀でない人たちへの尊重が欠けてるんじゃ?ってことです。
当社は障害者雇用を行ってます。プロパー社員の8割は何らかの障害を持っていてみんな優秀だし、フツウの仕事をしています。それはそれで素晴らしいことだけど、でも、そこにはあらがいようもないハンディキャップがあります。
障害が故に経験できないこと、仕事もたくさんあります。進学といった教育の機会だって、健常者の我々と比較したら少ないでしょう。


彼らは一様にステキな存在です。


でも、おぢらは、彼らをフツウと捉えて育成、配置しようとします。ここで言う、フツウは、健常者としてフツウの教育を受け、親会社のプロパー社員のように、自分で自分のキャリアを切り開いていくようなそんなスペシャルなフツウです。 それはわかります。そのくらいの期待をかけても余りあるほどの可能性を持った人もたくさんいます。


けどね、あたしが感じる違和感は、世の中、そんなに優秀で頑丈な人ばっかりじゃないよ、ってこと。


あたしのしゅーろんは、自社版キャリアアンカーを作る、というものでした。実践論文だったので、そういうテーマになったわけだけど、このテーマにたどり着いた発端は、一人のメンバーへのインタビューと彼の仕事ぶりを見て、のことでした。


彼は、業務を粛々とこなすレギュラースタッフとしてはとても優秀で、生産性も高く、品質も高い。多少、ムリな納期や難易度の高い仕事でもきちんとやり抜く。そんな彼を見込んで、カイシャは、彼にリーダー職を任命しました。自分がやるのではなく、チームのメンバーに働きかけて仕事をする。直線的なキャリアで行けば、その仕事のアサインの仕方は適当だったんだと思う。けど、彼は潰れてしまった。


どんなに納期が短くて量が多くて大変な仕事でも、自分に降りかかってきたことは一生懸命やる。それが自分の仕事の仕方だった。でも、人に働きかけて、統制を取っていくという仕事の仕方はどうしてもできなかった。


自分に合わない仕事をしていることが認識できたら、ちょっとはラクだったかもしれない。合わない仕事をさせている、ということを上司が認識できたら、もっと違った働きかけができたかもしれない。
今、彼は、レギュラースタッフとして、人よりも多くの仕事を確動性高く行っている。彼自身はココロ穏やかに、でも仕事は仕事として厳しく遂行している。


それでいいじゃん。


ココロのそこからそう思う。


けど、カイシャってやつはそれを許してくれない。うちみたいなカイシャは許してくれていいのに、それでも、少しでも角度をつけて「成長」していないと許されない。しかもここで言う「成長」はカイシャが意図する「成長」ね。


息苦しい。
自己ベストを尽くすってそういうことなの?今までやったことない新領域に取り組むこと、あらたな世界にチャレンジすることを「是」として、今の領域で一生懸命やることは「非」なの???


先日、おぢCとメンバーのキャリアとか育成とかをテーマに議論をした。対話でなく議論ね。
共感すること多数だったけど、違和感満載。
その中のひとつが、彼が考えるキャリア、育成が「今ある仕事を納期、品質を守って納品するための教育」であったこと。
教え方、関わり方などは、その人が本来持つパーソナリティによって固定化されているから、開発することは難しい。だから、教える側にインストラクションの教育や知恵を授けるのは無意味で、マニュアル見ればできる、システムを使えばできるように環境を整える方が先だ、とおっしゃる。


理屈はわかる。


けど、それって、その人固有のパーソナリティ、ポテンシャル以上のものはこれから先、期待できないってことじゃないの? そしてそのときにおぢCに言われたこと。おぢCが考えるキャリア、育成とは、目指す姿・ゴールを設定して、それに向かって進むこと、達成したことでの充実感こそがキャリアだ、と。違和感満載だったので、「すべての人がゴールや目標を持って進むってかなり難易度高くないですか?動きながら、進みながら定めていく、ではダメですか?」と質問したら、「小さいことでもなんでも、●か月後、●年後にこうしてたい、こんな暮らしがしてたいってあるだろ?お前が学校行ったり、いろんな人と交流するのはそういう●年後の自分に近づきたいからだろ?」と。


ちょー違和感。


なんで、ゴールを設定しなきゃならないんだ? 見つける過程こそが、キャリアであり、学びなんじゃないのー?迷ったり、寄り道したりした路地裏にステキなレストランが見つかるかもしれないじゃん。歩き疲れたら止まったっていいじゃんねー。


寄り路できる余裕、迷子になったときに景色を味わうゆとり、そういう生き方したいぞ。そして、そういう生き方をしてもらいたいと思う。


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