わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

〈何かの参考になれば〉 地震発生から全員帰宅まで (障害者が多く在籍している企業の事例です)

2011-03-14 01:14:43 | カイシャ・シゴト
災害時に「もっと大変な思いをしている人がいるのに、私は何もできない」と自分を責めてPTSDになる人がいる、という話を聞きます。そのキモチはおおいに分かる。あたしも今、同じように無力感と自分が何もできなかった罪悪感を抱えています。


でも、そのキモチのままでいるのは不健全なので、震災直後のことから時系列に、当社で起きたことを書き残しておこうと思います。障害者を多く抱える会社にとって、また、当社にとってのこれからの参考になればと思います。
また、あらかじめお断りしておきますが、あたしが行動したことだけじゃないです、総務担当マネジャー、メンバーなどが行動したことも記載していますので、姫すごい、とヘンな感嘆はしないように!
(Facebookには企業名や固有名詞を入れてアップしましたが、こちらでは匿名とさせていただきます。)


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震災時、ちょうど、半期に1度の知的障害メンバーの親御さんたちをお招きして会社の概要の説明、個別面談、職場見学を行っていました。今回から、私がほぼ1人で全面的に取り仕切っていました。
いつもは、個別面談のスケジュールの関係上、前半、後半に別れて、また3拠点を移動しての職場見学と、集合⇔移動に多少の混乱が生じていました。
11日は14家族中11家族が参加。皆さん定刻にお集まりいただいたこともあって、すべてのプログラムが順調に終わり、東京駅隣の親会社本社ビルにタクシー移動の2家族+所属マネジャーを見送り、残りのご家族にいったん会議室に集まっていただこうとしていた矢先に地震が発生。
ご家族のみなさんに、机の下にもぐっていただくよう指示。


総務担当でBCP (business continuity plan)担当でもあるので、いったん部屋に戻り、様子を確認。メンバーは動揺しつつも全員無事。
揺れが収まった頃、総務マネジャーの指示のもと総務メンバーが、ビル内の様子をチェックしてくれて、ひとまずけが人はいないこと、壁にいくつかの亀裂を確認してくれました。



■地震後
多少の混乱が生じていましたが、先月、BCP本部訓練をしたばかりということもあって、どんな情報を収集しなければならないかは洗い出せていたので、あるだけのホワイトボードを室内に持ち込んで
 ・本社ビル
 ・別ビルA 2F /9F(徒歩3分の別ビル 約200名の社員、派遣スタッフが勤務)
 ・親会社本社ビル
 ・別ビルB 親会社向けサービスとしてマッサージルームが入居

各ビルの様子を確認。ケイタイや固定電話は不通だったようですが、親会社の広域内線システムが生きていたので、連絡を取り合うことには苦労しないですみました。


親会社本社ビル/別ビルBはビルの指示に従い、本社ビル/別ビルAは本部指示で動くことにしていたので、情報収集を開始。
経営企画室内のテレビを付け、ラジオもオン。セキュリティを解除してドアオープンに。
地下駐車場は通常稼働、エレベーターは不通、電気、水はOK。
外出中のメンバーは移動中のものはおらず、親会社本社ビル41階にて打ち合わせ中。
交通網をチェック。
震度5以上の場合には、安否確認システムが携帯メールに送られることになっていたが、作動せず。(その後2時間遅れで配信。ただし返信しようにも回線パンクしており返信できない状態)


その後も余震は続いていましたが、意外と事業メンバーは平静で通常通り打ち合わせを行ったり、業務を遂行中。
一方、知的障害メンバーの親御さんたちは多少パニック。まだ揺れもありますし、交通網も混乱しています、お子さんたちは全員無事です、とお伝えしても、連れて帰りたい、お昼を食べていないので外に出たい・・・など。通常の管理下にないので、統制がきかずとほほ・・・な感じ。
大きな余震の最中にトイレに行く人までいて、揺れの中、無事ですかー?とトイレに走るわたくし・・・。



■15時半~
透析が必要なメンバーを先んじて帰宅させる。BCPでは個別対応は原則せずに、本部からの指示で帰宅もしくは会社で待機、としていましたが、本人からの申し出があって助かりました。
別ビルA2Fのマネジャーの判断で、津波の心配があるため(2Fといっても導入階)、9Fに全員で避難。
別ビルA9Fにいた知的障害メンバー2名に本社ビル会議室まで移動してもってご家族と合流、逆に別ビルA2Fのメンバーは親御さんにそこまで移動していただきそこで合流、家族とともに帰宅。
だし、親会社本社ビルに移動したご家族は見学を終えられて帰ってしまったとのことで、お子さんたち2名とはご一緒できず…(たまたま親会社本社ビルの見学から合流した1名の重度知的メンバーは現地で面談していたため一緒に帰ることができた)



■16時~
引き続き各方面の情報収集。
うちのフットワークの軽い取締役は「ちょっと晴海通り見てくるわ―」と出かけてしまい、これは大失敗だったとあとから後悔。判断くだす人を不在にさせたのはまずかった。健常メンバーに「見て来て、15分で戻ってきて」と指示するべきでした。



■16時半~
被害の様子や状況が分かり始めたので、帰宅させるのか、残らせるのか?帰るなら早く広報した方がよいのでは?と総務Mgr⇔ 取締役と協議。
車通勤者に近隣に住む人を割り振って同乗して帰ってもらったらいいのでは?という意見も出たが、何かあったときの心的負担を思うと会社が指示することは得策ではないとし、指示はしないことに。(結果、乗り合って帰って行きましたが)
その間も「知的メンバーが不安がってるけど、どうしたらいいですか?」などの問い合わせ。部屋の中で協議していたので、協議の過程を知ることになる経企室メンバーは良かれと思って「じゃあ、そのように返事しちゃいます」と言ってくれたけど、不確定な情報を個別に流すと我も彼もと不安をあおることになるので、本部からの連絡をすぐに流すので個別対応は一旦ストップしましょうと落ち着かせる。
別ビルBは避難指示(帰宅指示)がビルから出たので、マッサージルームの施術師はここで帰宅。
帰宅支援物資の準備。水と乾パンを会議室に運搬し、梱包を解く。
青森出身の聴覚障害メンバーがパニックとの情報入る。実家に帰りたいと訴えているそう。その後じっくり話を聞いたら携帯メールで安否は確認できたそうで、落ち着いて、みんな心配なのは一緒だよ、と周りの人がなだめてくれたそうです。
東北(宮城、福島)にご家族のいるメンバーの洗い出し。全員の無事が判明したのは0時ごろでしたが、多くは7時くらいまでには無事が確認取れました。



■16時50分
骨子固まる
・帰宅できる人は帰宅する 帰宅困難、不安なのでとどまりたい、と言う人はそのまま会社に残ってOK
・水1本+乾パンを支給する
・なるべく集団で帰ること
・Mgrは残る
・知的メンバー(5名が会社に残っていた)は家庭と連絡を取り、迎えに来るまで待つ/朝まで待機など家庭の意思を尊重する
を広報。事前に各拠点長に電話で概要を説明した上で、メール本文を作成し、Mgr宛に広報



■17時
一斉広報
実際に帰宅を開始し始めたのは17時半過ぎからで、18時までの間に帰宅したのは、派遣スタッフ、業務委託スタッフなどがメインで当社の従業員はほぼ残っている状態でした。



■18時
ビル1階にある公衆電話がテレホンカードなしでも使えることがわかったので、経企室のスタッフHさんが知的メンバーを連れてご家族に電話をしに行ってくれた。結果、今日は会社に残ることに。幸いだったのは残っていた知的メンバーが比較的軽度でパニックにも陥らずに過ごしてくれたこと。
この間、夜明かしをすると決めたメンバーが食事を取りに行ったり、近くのコンビニに買い出しに行ったり。本部として買い出し部隊を組織してもよかったかも。
ビルは壁面にいくつか亀裂あり。そのほかは無事。ビル管理室はビルとしての方針はなく「協力することがあったら協力します」のこと。トイレは濁り水。水道水はキレイ。

ちょうど、月曜日に見学&訪問に行くことになっていた鉄道整備の矢部さんから「新幹線の状況が分からないので対応に追われることになりそう。キャンセルに」とメールいただく。それどころじゃないはずなのに連絡くださったことに感謝。そして、一日も早く復旧して、皆さんがまた「新幹線劇場」の一員として活躍されることを心の底から願っています。

余談ながら、この日、自動販売機の入れ替え作業があり、16時に撤去、17時に新自販機搬入というスケジュールになっていましたが、律儀に商品回収に来た。夜明かしすることになれば水分は必要になるので、申し訳ないが今日はそのまま残しておいてもらえないか、必要であれば残りは買い取ることにしてもよい、と話したら、なんと補充までしていってくださった。感謝。



■19時
徒歩で帰宅し始める人、車で帰宅する人が出始める。車で帰宅する者は全員が車いすだったため、イーバックチェアという避難器具で3階もしくは4階から地下の駐車場まで4往復。経企室の健常メンバーMさんがメインで降ろしてくれた。同乗するメンバーと一緒に車いすを降ろしたり、荷物を持ったり、他のフロアの方に「先に抜かして行ってもらっていいですか?」と声をかけたりしながら対応。



■20時
大江戸線が動き始めるらしいとの情報が入ったので、近隣のメンバーは帰宅し始める。
またまたフットワークの軽い取締役が夕飯買うてくる、と近所のコンビニめぐり。もう何にもなかったわ~とバナナ、カップラーメンなどを差し入れ。バナナ1本を2人で分け合って食べる。おいしかったです。
安否確認システムの返信状況を確認してもらう。業務時間中に起こった災害なので、返信率は40%。休職中の方からも返答あり。無事でよかった。コメント欄チェックしていたら車いすメンバーの「自宅エレベーターが止まっていて部屋に入れない」とあり。え?降ろしてないけど・・・ってことは今日休みだったの?一人?と慌てて連絡取る。その後、復旧を待って部屋に戻れていたことが判明、一安心。
また、経企室スタッフのDさんが、周辺状況を記録してくれていた(コンビニは品薄になる、公衆電話は無料開放など)。感謝。

私ごとですが、この時間になってやっとトイレに行った。そして、実家に電話が通じる。ケータイも不安定ながらメール受信。Twitter、Facebook上で心配いただいた方へ返信する余裕が出始めました。



■22時
メトロも一部開通始める。
先月、BCP訓練をしたときに作成した都内路線図の白地図A2サイズを貼って、開通した路線に色を塗り、それをもとに情報提供。ドアオープンにしているため他室のメンバーがテレビを見に来たり状況を確認誌に来たりし始める。
この時間帯になると、帰宅しようかどうしようか悩んでいる人が「帰るのか」「残るのか」が判明する。
結果、
 親会社本社ビル 10名 
 別ビルA 15名(その後、車で帰ったものの大渋滞で戻ってきた人5名)
 本社ビル 15名
が残る。
保健室を開放し、横になりたい1名が就寝。
残りのメンバーは仕事したり、だべったりして過ごす。
親会社本社ビルは33階に入居しているので41階にいた車いすメンバーを降ろして一緒に待機。同フロアにセブンイレブンがあったため、そこで食料を確保してくれたらしい。
別ビルAにトランシーバーを届けがてら経企室のIさんが状況を見に行ってくれる。
総務担当は取締役とマネジャー、Iさんと私、計4人が残る。



■23時
本社ビル4Fの親会社経理部隊、別ビルA2Fメンバーは全員帰宅。親会社・グループ会社経理を担当している取締役もここで帰宅。
メンバーが全員帰宅した場合にはマネジャーも帰宅OKとの指示が出される。



■1時~2時
家に着きました、とメンバーから連絡入り始める。多少家の中が散乱している人、無事な人それぞれ。無事に帰宅できてホントよかったです。
ビルのエレベーター復旧。これで車いすや重度下肢障害メンバーで車通勤者は帰宅可能になったが、自宅マンションのエレベーターが開通していないため部屋に帰れない人もいて、引き続き会社に残ることに。
災害対策本部としては特にやることもなく、引き続きテレビ、ラジオをつけっぱなしにして情報収集。
この際だから、と仕事しようかな?と思うものの、やっぱりそんなに仕事もはかどらず、TwitterやFacebookで知り合いの安否を確認しつつ、時折うとうとしながら過ごす。



■4時前
長野を震源とする大きな地震が発生。



■5時
夜が開け始め、始発が動き始めるので、交通網の情報収集を開始。
京急再開、東武も一部開通、JRは7時くらいから再開予定とのことで、全員帰宅できそうな目途がつく。



■6時
知的メンバーのご家庭と連絡取れる、皆さん、一人で帰ってくるようにとの指示だったので、連絡先を控えさせ、支援物資を持って帰宅させる
別ビルAに残っていた室長が状況を知らせに来てくれる。今日明日(土日)も昨日(11日夜)のような余震が続く場合には日曜に取締役、室長が協議するとして、今今の状況では特に週明け対応(出社するしない)は決めなくてもよいのでは?との結論に落ち着く。




■7時
本社ビル、別ビルAに残っていたメンバーは全員帰宅。あとは親会社本社ビルのみ。



■8時
親会社総務部に連絡。
無事であることを伝え、今回の地震に対する親会社の見解を聞く。東京は被災地ではない、との判断で月曜からは通常稼働。東北方面が被災地扱いで不要不急業務は停止とする判断とのこと。



■10時
なぜか親会社本社ビル組は東武沿線など遠距離メンバーが多く、通常ルートでは帰宅できないのと、下肢障害のため階段利用が難しいことで帰宅を躊躇していたみたい。リモートだとちょっとまだるっこしい。23階まではエレベーターが開通したそうですが、そこまでは自力で降りないといけないのでまたまたしばし待機。結局、貨物用のエレベーターを特別に動かしてくれるとのことで、帰宅できることに。
もう1名車いすのメンバーが残っていたが、「寝ている」と。お疲れだったとは思うが、彼はその後もこんこんと10時まで寝ていたそうで、ある意味うらやましい(笑)
彼の自宅付近は液状化が激しいらしく、帰ったはいいけど駐車場が液状化していたら部屋に戻れないしなぁ・・・と思っていたら、ちょうどよいタイミングで同地区内に住む車いすのマネジャー(11日は午後半休をとり、車いすバスケのため大阪遠征をしようとしていた矢先に被災、自宅にいらしたので難をまぬかれた)から電話があり、道路は大丈夫、もしかしたら駐車場がNGかもしれないが、自宅マンションのエレベーターは動いている、とのことで、「帰る(帰らせる)」判断がやっとできる。
なのに件の彼は仕事を始めたそうで…これには取締役が激怒し「今は仕事どころじゃないだろ、家族もいるのだから帰れ」と。ま、この手の優先順位間違ってるじゃん?ってエピソードは結構ありましたね。



■11時
全員が帰宅したのを見届け、私たちも解散。会社を出たのは11:20。


長い長い一日でした。大江戸線も京浜東北線も比較的スムーズに動いていて、申し訳ないくらいさくさくと帰宅。12時半には家にいた。車で松戸まで帰ったMgrは3時くらいに家についたそうです、本当におつかれさまでした。



反省や課題はあらためてするとして、忘れないうちにあたし自身の行動のまずさを含めていくつか。
・帰れないメンバーが大多数(自宅エレベーターが止まっていたら結局部屋には入れない)
 →会社にとどまる前提での物資の手配が必要 
  備蓄品にカップラーメンやレトルト食品も入れる (早めに判断してスーパー、コンビニに走る、なども検討)
  毛布やブランケットなど仮眠用のグッズも必要
・周辺の様子を見に行く役割は必要(取締役とかMgrとか判断できる人は行かせない)
・別ビルへの連絡 特に拠点にいるメンバー数が少ない場合には指示が効かないことを前提にしないといけない
・知的メンバーへの対応 →たまたま軽度の知的障害メンバーだけが残っている状況だったものの重度の場合にはパニック状態になることが予想されるし、意思表示も難しい人もいる。どうすることが一番いいのかよくわからないけれど、まじめに考えていかなければならない。
・特別な配慮が必要な障害部位を持つ人への対応 ※透析
あと、今回はパニックに陥る人もいなくて意外とみんな平静ではいたけれど、それがフツウと思わない方がいいのかもしれない。
あらためてBCPに組み込みたい。



あたしは、フットワークの部分でも判断の部分でも未熟すぎた。おろおろする、というよりも、動けなかった、鈍くさかった、というのが当たってる。判断できないなら、なんでもいいから動くべきだった。様子を見に行くとか、買い出しに行くとかいろいろあったはず。


あと、これはすぐにできるので早速やろうと思う。職場に運動靴置いておく!ヒールで階段移動はきつかった。


ひとまず、今日、振り返れるのはこれが精いっぱい。また思いだしたら書き残します。

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なぜ、あたしは「三日月姫」なのか? ~今さら明かされるどーでもいい話~

2011-03-06 23:02:25 | コトバ・ニッキ
中原研のワガツマさんが、大学院修了にあたってTwitterのアカウントを本名に戻されました。
で、なんでHakonyanってアカウントだったのか?ってことをブログに書かれていて、名前やIDの理由を教えてってあったので、はて?なんで?と考えて、良い機会なので振り返ってみることにしました。


三日月姫というハンドルネームはかれこれ6年くらい前に初めて人さまのブログにコメントを残すときに誕生しました。今はもう閉鎖されてしまってますが、デビューの頃からの晃司ファンって方のブログでした。記事の内容はよく覚えていないんだけど、文面からお人柄が伝わってくるような方で、この方から丁寧なレスがあったから、今のあたしはバーチャルの世界を楽しめているような気がします。


で、なんで?三日月姫?


正直なところ、たいした理由はありません(^_^;)
当時、ミッチー(及川光博)のライブに初めて行って、そのショーマンシップに魅せられまして、「次にライブに行くときには一緒に歌いたい!ポンポン持って踊りたい!」とCDやDVD、聴きまくり、見まくり(笑)
(ポンポンって何?って思われた貴兄、興味があればミッチーDVDを観賞ください)


そう、三日月姫とはミッチーの楽曲なのです。


なんとなーく、せっかくリアルなあたしを知らない人たちとのお付き合いなんだから、今までの自分にないキャラで行きたいなーという思いはありました。花、とか、姫、とか、蝶とか、そういう女の子ちっくな感じがイイなと。それとこれまたなんとなーく、ですが、漢字がいいなぁというのもあって、三日月姫にしたわけです。
ちなみに、「三日月姫」はかなりエロくて現実離れした歌詞です、そんなところもリアルなあたしとは程遠くていいなぁと(笑)


ということで、大した思いもなく命名したわけですが、6年も使っているとなかなかに愛着も沸くし、バーチャルとリアルの境も曖昧になってきていることもあって「姫」と呼ばれることに多少の抵抗はなくなってきました。


最初の頃は、コメント欄で名前呼ぶときや、実際にお会いしたときには「三日月さん」って呼ばれてた。それがいつ頃からか「姫」に変わってきた。なんでしょうね?この変化。相変わらず「姫」キャラではないと思うんだけどね。



「三日月さん」だった時代のブログの記事ではしょっちゅう怒ってた。カイシャに対して、おぢさんたちに対して。でも外に学びに行き始めて、WorkとLife/Learn、どっちも楽しむようになってからは怒るネタが減ってきて、それに呼応するように「姫」に呼ばれ方が変わってきたように思う。


「三日月さん」だった時代に実際に会うと「実物は穏やかでやわらかい」と言われてた。それってつまりバーチャル上のあたしはちょっと怖い存在だったってことなんだろうなぁ。
今もやっぱり初めて会う人からは「イメージ違う」と言われる。そんなに怖いか?バーチャル上のあたしは(笑)
ま、確かにネット弁慶っていうか、強気で自信家で快活なイメージはあるんだろうけど。そう、リアルなあたし…特にプライベートでは基本ネガティブ、そしてあらゆることに自信がない(爆)


ワガツマさんは
「自分に新しい名前をつけることで、新しい世界との向き合い方を考えるきっかけになる」
と書いていたけど、
あたしにとっては三日月姫って名前があることで、別の世界が広がった。そして、そこ(バーチャル)が居心地いいから、リアルに戻ってきたときにも楽しめているような気がしている。


そうそう、ワークショップデザイナー育成プログラムではニックネームで呼び合うのが通例なので、最初にニックネームをつけます。あたしは図々しくも「ひめ」にした。これがね、意外とよかった。
子どもたち相手のワークショップのときや芝の家に行ったときに、子どもたちがすんなり「ひめ」って呼んでくれた。わかりやすい名前だから覚えやすいし、言いやすいってのがよかったのかも。子どもたちは素直だから「さん」とか「ちゃん」とかつけずに「ひめ」。


うん、確かに2つの名前を持つこと、新しく名前をつけることで、新しい世界に踏み出しやすくなるねー。
たかがアカウント、たかがハンネ(そーいや、最近ハンドルネームって言わなくなったね)。
でも安易に付けちゃうと結構後悔する。あたしのケータイアドレスのように(爆)



→と、Facebookのノートにアップしたのですが、よく考えたらこっちのブログでよかったじゃん、と思って、今お引っ越ししてきました。
そして、Twiiterでワガツマさんに「あたしもブログ書いたよ~」ってリプライしたら、「ブログつながって嬉しい」とレス。そしたらなんとJ-centerさんが「なんかものごとがつながるのってとっても好きなので」とJ-centerの名前の由来を記事にしてくださった。
ステキ― こういうつながりがあるからソーシャルメディアっておもしろいし、この連鎖はホントにステキだった。


J-centerさん曰く「今は慣れたけど最初はなんだこの名前と思った三日月姫」ですって…
コメント (2)
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