わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

モチベーションってなんだ? 2018年を振り返る

2018-12-31 14:40:13 | コトバ・ニッキ
早い早い、もう1年が終わり。
今年のうちに今年の振り返りを少し。


コーディネーターをしている社会人講座の授業で、毎回前回の授業からの1か月間のモチベーショングラフを書いて、チーム内でシェアをしています。アイスブレイク的な感じで。
で、みなさんが書いて、チームで話をしている間、わたしも毎回しこしこと書いているのですが、前回(11月後半~12月後半の1か月)のグラフを書きながら、「そもそもモチベーションってなんだ?この波形の上げ下げは何を指してるんだ?」ともやもやしてしまったのです。


今年の夏、かなり激しく体調を崩してしまって、体調がイマイチだとなんとなくやる気にもならないし、がんばろうという気にもならない。体調の不安もあって、あまりあれこれ活動せずにおとなしく過ごしていたので、モチベーショングラフも「低位安定」な波形でした。モチベーションってそんなもんだ、と思っていた。


で、この1か月、人さまが見たら「ひめさん絶好調」な勢いであれこれ大き目のイベントやら仕事やらを乗り切ってきました。順当にモチベーショングラフを書けば「高位安定」となるんでしょう。


ところが、書こうとして、はたと手が止まった。
順調だったり、大きな仕事をしたり、楽しいこと、嬉しいことは山盛りあったけど、当の本人はテンションも上がらず割と淡々と穏やかに過ごしていたのです。やる気、というか、やらかそう!とか、これやりたい!といった衝動が起きなかった日々なんですよね。


それってなんでだ?とぐるぐると考えていて、まだ答えは出ていないんだけど、あぁ、わたしの生活(暮らし)や仕事(はたらき)が変わってきたんだなぁ、という感触があります。


SNSにあがってくるみなさんの充実した様子を見て焦ったり、やばい!わたしも頑張らなきゃ、みたいに思うことはあまりなくなった。以前は結構強かったと思う。で、勝手に落ち込んだりしていた。


他人と自分を比べることはしなくなったんだけど、もしかするとわたしが比較しているのは過去の自分なのかもしれない。月300時間くらい働いていた30代前半、仕事が楽しくて、使命感もってやってたから労働時間の長さなんて全然苦痛じゃなかった。30代後半以降はほぼ毎日、定時で退社して大学行ったり、外に学びに行ってた。
その感覚、充足感?があるから、今の生活、働き方になんだかうしろめたさがあるのかもしれない。もちろん仕事もしてるし、体調体力も考えるとこのバランスがベターなんだろうけど、いわゆるフルタイムで働いている人やフリーランスでがっつり働いている人と比べるとかなりゆるい。そのことに申し訳なさを感じるのはの1年でだいぶ薄まったんだけど、かつての自分と比較して、「このままでいいのかな?」と思うことはある。あの頃みたいにはできないけど、このまま隠居しちゃっていいのか?的なw もうあの頃には戻らないんだから、できなくていいはずなのに、また忙しい生活に戻ったらわたしはついていけるんだろうか?と考えてしまうことは少なくない。なんでそんなに強迫されてるのか自分でも意味不明だけど。


今年、体調を崩してからは徐々にこの考え方が薄まってきた。もちろん体調優先にした、という経緯もあるけど、ほんとに必要なこと、自分にしかできないことをちゃんと見極めてやっていけばそれでいいじゃん。広げて行くことよりも深めることをしていくフェーズだよ、と思えるようになった。


ありがたいことに、いろいろとお声をかけていただく機会も増えて、「はい」「Yes」「喜んで!」でお受けしているとどんどん広がる、という嬉しい状況になってきました。これまで、それなりにやってきたからこそ、なのだとは思うのですが、広げて行くチャレンジよりも、深めるチャレンジをしていきたい、と思うようになりました。深めるというか尖らせるというか、ピポットターンの軸足をしっかり決めつつ、あまりあれこれ動かず、ちゃんとシュートが打てる状態に整えていきたい。


とは言え、今年はいろいろなチャレンジの機会がありました。
大教室での150人一斉グラレコ授業や、場づくり講座など、生み出す苦しみはあったけど、得るものも巨大でした。そしてこのときに苦しんだことが、次の仕事や場に繋がっているのは本当にありがたいことだなぁと思うのです。


来年の目標は「現状維持」。
後ろ向きでもなんでもなく、今を維持することが難しいお年頃になってきたので、退化しないでいるために努力したい。そして、あれこれ手を広げるのではなく、わたしの軸はこれです!と胸を張って言えるようにしたい。
だから、「がんばらない」をがんばる。もう無理はできないので、本当に自分に必要なこと、自分にしかできないこと以外はがんばらないw 本当に必要なこと、自分にしかできないことをがんばるのだ。
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がんばらない移住。もう「移住」って言葉つかうのやめてもよくね?

2018-12-30 13:24:54 | コトバ・ニッキ
今年のうちにどうしても書いておきたいことがあるので、勢いのままに書きますよ。


東京から福岡に「移住」してきて5年経ちました。
最初の1年は、行動範囲がめっちゃ狭くて、会社と家とスーパーとの往復くらいしかしてないから、もちろん新しい友達もできない。でも、日常生活はそれなりに楽しく、日々は穏やかに過ぎて行った。これでいいのかな。これでいいんだよね。と思って暮らしていたわけです。


青学ワークショップデザイナー育成講座の仲間と再会&出会って、イタヤさんに「あなたたちは友達になるべき!」とサンコダさんを紹介していただいて、さらにひょんなことから、福岡女子大の社会人学び直しプログラムのコーディネーターの職に就いてからは、一変した。知り合いがどんどん増えていく。


知り合いが増えることはそんなに重要なことではない。けど、「生活」していくと、こういうふうにじわじわと広がっていくことなんだ
なーと思えるようになったのはつい最近のこと。


福岡に来てから、これまでとは違う生活をしようと思っていたから、ことさら活動することもなく、あえて福岡の地に馴染もうともせず、淡々と省エネな感じで暮らしてました。生活するってそういうことだと思ってたから。


移住してきた人たちが、コミュニティを求めていろんな場所に出かけて行ったり、交流関係を広げて行ったり、「地域」ってキーワードであれこれ活動している姿を見て、すごいなーとは思っても、わたしにはできないし、しなくていいや、って思ってた。これは今でも変わらない。だって、ずっとその地に住んでいたら、そんなに頑張って「溶け込もう」としないでしょ。毎日の生活を送る中で少しずつ関係を構築していって今があるわけでしょ。東京に出て行った人たちがことさらにコミュニティづくりをしないのは、規模の大きさもあるかもしれないけど、生活することが第一になってるからなんじゃないかな、って。


なのに、地方に「移住」すると、がんばっちゃう。地元に溶け込もうと「地域」に関わろうとする。これにどうしても馴染めなかった。淡々と生活していく中で、少しずつ馴染んでいけばいいじゃん、って思ってた。だって、わたしはこの地にずーっと住んでいくんだもん。だから「移住」したからと言って、能動的にあれこれ活動するというより、きちんと税金払って(!)、地元で買い物して、ご飯作って食べて、消費して、ってことをやっていくことが大事だと思ってたし、そういう日常生活の延長上に「移住」者の活動があればいい、って思ってた。


それは今でも変わらない。


つい先日、某女性誌が「地方で暮らす」をテーマにした特集を組むので、ついてはご紹介させてくださいとお声をかけていただいた。残念ながら、ターゲット的にやや(いや、かなり)おねえさん、もとい、おばさん世代だったため、わたしが題材になることはなかったんだけど、その際に何人かご紹介した。彼女たちはいずれもご家庭の事情で「移住」された。しっかり地域で生活して、学んで、仕事をしてらっしゃる。まず「生活」がある。
そのときに、「ご自分の意思で移住されてきた方をご存じないですか?」と問われ、あれこれと思いめぐらせた。いる。たくさんいる。けど、その人たちは来年の今頃、ここにいないかもしれない予感がする。


そう、これなのよ。移住者に対してわたしが勝手に抱いている偏見。
ご自分のキャリアや、仕事、生活を考えて…ご自身の意思で移住してきた方は、もっといい場所、もっと住みやすい場所、もっと働きやすい場所、もっと成功しやすい場所があれば、ひょいっと場所を移していく、そんなイメージがある。福岡じゃなくてもいい。日本国内だけでなく、シンガポールとか台湾とかオランダとか、選択肢の中のひとつの街なのかもしれない。


わたしはこの街、この土地に暮らすことは唯一絶対の選択肢なのだ。ことさら馴染もうとがんばったりしないのは、ずっと暮らす場所だから。だから急いで馴染まなくても、毎日の生活を送っていればおのずと馴染んでくるし、居場所になる。


今、佐賀県の女性リーダー育成の仕事をしている。その講座の中で、ゲスト講師にいらした方が、こうおっしゃっていた。
「佐賀で育った女性たちには、佐賀に住んで、仕事をして、家族を持ってほしい。そのために住みたい街にしないと。」
佐賀はこの15年の間にかなりの人口減少が進んでいる。危機感もハンパない。住みたい街、住みやい街にしようといろいろな施策を検討したり、移住者が増えるように助成したりしがちだけど、住み続ける、生活し続ける、ってことが大事。


あとね、地方ってランニングコストをかけずに生活できる。居住費は圧倒的に安い。だからか、フリーランスで働いたり、起業もしやすい。フリーになると、自分って何?自分って何ができるの?てことを考える。狭い商圏だったりするから、居場所や仲間も欲しくなる。そうなるとコミュニティをつくる、入る。でも、コミュニティも人も生きているから、新陳代謝といおうか、アップデートされていく、次々と新しいコミュニティに入る、作る…っていうことを繰り返していくうちに、コミュニティの残骸があちこちに残っているような、そんな感覚がある。新しいものを求めて行動するのはステキなことだ。けど、もうちょっと地に足つけてじっくりじんわり生活するのもいいんじゃないか?って思うわけだ。


「よそもの・わかもの・ばかもの」が新しいことをする、風穴を開ける、的なことはよく言われる。確かに、その地に馴染んで地元の人と一緒に何か新しいことを成す移住者がいることももちろん知っている。
誤解を恐れずに言うと「移住」がファッションになっているような、そんな感覚すら覚えるのです。東京のがつがつした空気はもうダサいよね、地方でミニマムな暮らしがいいよね、みたいな。


わたしはじんわりじっくりと、これまでと変わらないペースで生活していこうと思う。だって、ずっと暮らしていく街なんだもの、焦る必要もないし、急ぐ必要もない。そう言い聞かせながら、今日もゆるゆると過ごしているのでありました。
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自分の価値を高めるような学びを!~シアターMALL IN 福岡が終わったよ

2018-12-16 09:45:16 | オトナの学び



昨日の夜、わたしのFacebookのウォールには、きれいになった福岡女子大の写真があふれかえってました。
MALL(経営学習研究所)が主催する大型イベントが東京を飛び出して、初の地方開催がここ福岡。いろんな偶然と必然と勢いと巻き込み力、巻き込まれ力のおかげで、福岡での開催が実現した。これってほんとにすごいことだ。


ただ単に中原先生にお話ししにきてもらうだけじゃない、日本を学習大国に!という旗印のもと、自らが東京から地方(福岡)に越境しての開催なんだもの。


イベント自体のリフレクションはあれこれしておきたいところなんだけど、勢いのままいくつか振り返っておきたいことがあります。
全然まとまってないけどw



現地事例紹介のコーディネートをさせていただいたのですが、わたしがこだわったのは、地方ならではの学びってなんだ?ってこと。
東京にいた頃から今まで、いろいろな「越境学習」をしてきた。東京にいた頃のわたしや、周りの人たちは、どちらかというと、学んだことを自分自身の仕事に活かしたり、自分の組織に還元したり、というケースが多かったように思う。独立される方もいらしたけど。学びの成果が割とすぐにあらわれる、とでも言おうか。



けど、ここ福岡ではちょっと違う感触がある。
それは何かというと、学んだことを身近な人に還元している、ってこと。それはもちろん自組織の人に対して、も含まれるけど、自分が体験したこと、自分がなんとかしなきゃ!と思ったことにストレートに向き合うから、身近な人に向かってアクションするんじゃないかと思う。
地方創生と言っちゃうとかっこいいけど、学んだあとに地域でいろいろな活動を始めるのって、この人のためになんとかしたい!という思いがなせるアクションなんじゃないかと。 
身近な人、住む町に還元しているっていうのが、とっても特徴的だなぁと思っていたのです。
なので、そこにこだわりたかったのです。


学び直しプログラムの修了生のみなさんが、なぜあんなにも活動、活躍なさっているのか?
それは「身近な人」「この人のために」っていうのが強いし明確だから、なのはもちろん、プレゼンでもお伝えした通り、「解くべき問は何か?」「本当の問は何か?」にこだわるからじゃないかと。プログラムの中ではことさらにこの言葉を口にはしていないけど、テーマ設定に時間をかけるのも、きれいなプレゼンテーションを求めていないのも、成果発表会でポスターセッションをやっているのもすべてそれ。


その問はあなたが本当に解くべき問ですか?
そう、自分が解かなきゃならない問、解決しなきゃならないことだからエンジンがかかる。表層的な世間一般で言われている課題には、自分ごとにはなかなかなれないもん。だから、どんなことでもいい、自分自身の興味関心にとことん向き合って、それを知る、ってことが大事なんだと思ってる。大学で1年間学ぶっていうのは、そういう「贅沢な時間」が許されるってことなんだと思う。


会社では、課題はそこにあって、最短距離で解くことが求められる。でも、本当にそれが課題なのか?を問い直していくことは多くない。回り道かもしれないけど、本当に解くべき問をみつければ、おのずと解は見つかるし、アクションも起こせるはず。


アインシュタインも言ってたもん。
問題解決に20日かけられるなら、19日 は問題定義(発見)に使いたい



ご近所対話のテーマの2つ。わたしもあらためて考えてみた。

①越境とはどういうことか?
健全な劣等感を持つこと。
中原先生の講演の中でも、越境すると自己効力感は下がる、とあったけど、「わたしまだまだダメだなぁ」と思って凹んで、できない自分を自覚することがわたしにとっての越境なのです。
そうやって苦手なことがわかると、逆に自分がやっていて心地よいこと、楽しいこと、没入できることがわかる。それがホームになる。そして再びアウェイな場所に行って劣等感を持つ。この繰り返しがわたしにとっての越境、越境学習なんだな。

②副業を「福」業にするためには?
経済的基盤を持つこと。
本業をしっかり持つ、ということではないよ。いわゆる複業で経済的には問題ない人もたくさんいる。やっぱり日々の生活が心配なく送れてこそ、の「福」業だと思うんですよー。自分もハッピーでないと、人もハッピーにはできないじゃん。



中原先生の講演の中で、「学びのイメージをアップデートしていく必要がある」というお話があった。
そう、学びは苦しくつらいものなのだというマインドセットは根強いし、特権階級(意識高い系)のものなのだ、とやや冷めた目で見る人もいる。
けど、知らないことを知るのは楽しいし、知ったら人に言いたくなる、やりたくなる、それが人間の根源的能動性なんだと思う。
学びの対象は何でもいい。けど、それが、自分の価値を高める学びになっているか?は問い直していきたい。



福岡来るとき、違う人生を歩もうと思っていたわたしに、中原先生が「きっと福岡でも同じことをやると思う」と仰ってくださいました。で、結局、同じようなことをやっているというw
福岡の地で再会した中原先生から、
「きっと、福岡で、同じ事をやりますよ」と予言した自分を褒めてあげたいです(笑)。そうなると思っていました。学ぶことの素晴らしさをぜひ福岡、九州にて!」
とステキすぎるメッセージをいただきました。わたしが福岡に来た理由はこれかもしれん、と勝手に自己効力感MAXな状態になっておりますw、やばいぞ<自分w 越境せねばw



最後にもうひとつ。
昨日のイベントはとっても熱量高く、豊かな場でした。また福岡で!というお声もあり、理事のみなさんに福岡という街を気に入ってくださったこと、福岡の学ぶ人たちの力を感じていただいたことはとっても嬉しい。素直に嬉しい。
でも、また福岡で開催、というのはナシなんじゃないかと思うのです。
日本を学習大国に、なら、全国で開催しないと。福岡でリピートしちゃったら、そこがホームになってしまう、全然、越境じゃないじゃんw そして、昨日参加されていた志高い皆さんが地元で、自分のフィールドで広めていくことが大事なんだと思うのです。
日本全国に、この楽しくステキな学びの場を、学びの経験を広めていきましょうよー。それがわたしの切なる願いです。



あらためて、中原先生はじめ理事のみなさん(多大なる巻き込み力を発揮した板谷さん)、500秒でプレゼンしてください!と無茶なお願いにお応えしてくださった平山さん、齊藤さん、ご参加くださった皆さん、女子大関係者の皆さん、本当にありがとうございました!





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来てくれてありがとう。嬉しいです~和田唱 1st SOLO LIVE TOUR 2018“一人宇宙旅行 

2018-12-10 00:23:10 | ライブ・イベント



トライセラトップスの和田くんのソロツアー「一人宇宙旅行」IMSホールに行ってきた。
今までやってなかったことにチャレンジしてみたい。バンドっていうホームがあって、そこに頼ってた。だから自分で曲を作って、自分で演奏してってそれがソロだった。やることいっぱいあるから超疲れるけど、でも、超楽しい!とソロ活動をスタートした時に語っていた和田くん。自ら「超楽しい!」って言えちゃうそんなソロ活動、これは何が何でも行きたい!同日、ほてーさんのライブもあったけど、チケット持ってたけど、アルバムが想像以上に楽しくて素晴らしくて、和田くんがやりたかったんだなー、好きなんだなーってことがめいっぱい詰まってたから、これを生で体験したくて、和田くんのライブを選びました。ほてーさん、ごめんw


なんていうかね、ライブ前に「今日はどんなライブになるんだろ?」ってわくわく、ドキドキした気持ちになったの、久しぶりだった。サポートミュージシャンもいない、かといって弾き語りでもない。どんなライブになるんだろ、いつものトライセラの愉快な気の置けない会話のキャッチボールがなくなって、和田くんはひとりでどんなMCをするんだろ?とか、何が出てくるのか分からないドキドキ感があった。


こんなライブ初めてだった。ネタバレになっちゃうから、というわけでなく、どうあがいても言語化できないので、ライブ・ステージを文字で再現することは辞めるけど、「一人宇宙旅行」にふさわしい冒険であり、挑戦であり、地球を懐かしむ感覚もあり、一人ぼっちの寂しさもあり、なライブだった。
ちょうど同じ時間にほてーさんは「ようこそ宇宙一のロックンロールショーへ!」ってシャウトしてたみたいだけどw


このアルバム、このライブは、和田くんから音楽へのラブレターなんだなー。
アルバムを聴いたときにも思ったけど、音楽に出会えた環境、ルーツ、今、それらに対する感謝や愛に溢れてる。


トライセラのライブでもそうだけど、和田くんはあれこれさらけ出す。かっこつけたり、取り繕ったりしないで、間違ったら「ごめん、間違えた!」「俺、ヤバい!」と言っちゃう。そして会場を巻き込んでしまう。プロとして、その品質はどうなのよ?と思わなくもないけど、さらけ出すことで音がさらにリアルに響いてくる気がする。今回もたくさん間違えてたw 


トライセラのライブは音圧がずんずん来て、音の隙間がない感じ。ソロの和田くんは、バンドじゃないからそうは言っても音の厚み、圧はそれほどはない。音に空間、隙間がある。けど、それが心地よい。トライセラもいいけど、こんな温かな空気にくるまれるライブもいいなーって思った。


久しぶりにライブ行って、泣いた。
歌詞が言葉が響いて、っていうのもあるけど、紡がれた言葉に重なり合うような情景が見えてきて、なんかじんわりきちゃったんだよね。


最後、トライセラの“マイナー”なあの曲。「うずいちゃったら、感じるままに踊って」と和田くん。客席も総立ちでグルーブしてた。いつものトライセラの音とは違ってちょっとメロウで大人な“マイナー”なあの曲だった。こういうのもいいねぇ。


「今日は来てくれてありがとう。嬉しいです。」
そんな気持ちに溢れていた心温かになるライブでした。ちょっと早めのクリスマスプレゼントをもらった気分。やっぱりライブっていいね。音楽っていいね。


時折、腕上げがしんどいのは五十肩なんだろうか?違う違う、そうじゃない、と思いたいけど、たぶんキット間違いない。残念だけどw 晃司の35周年ツアーまでには治るかなー。


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ひとつすっきりして、またひとつもやもやを持ち帰る~「ワークショップをとらえなおす」読み語り会

2018-12-04 21:43:17 | オトナの学び



今年の夏に飛行機の中で興奮状態で一気読みした加藤先生の「ワークショップをとらえなおす」。
ちょっと涼しくなったころ、WSD仲間のうらりんの「この本で読み語り会するって言ったら来る?」というつぶやきに反応して、ほんとに読み語り会が開催されちゃった。しかも著書の加藤先生までいらっしゃるという超スペシャル豪華な会に行ってきました。


この本は、かれこれ20年近く前、はじめて「ワークショップ」というものに出会った長岡先生と加藤先生が「ワークショップがやりたい!」「何かやろう!」とゼミ生たちと宿泊型のゼミ合宿?ワークショップ?を実施した報告書が出発点なんだそう。
まだ、「ワークショップ」という言葉がなかった時代。あったのかもしれないし、既に「ワークショップ」をやっている人はそこかしこにいた時代。それから約20年経って出版されたわけだけど、20年も経てば考え方も変わるし、ワークショップを取り巻く環境も変わる。何よりも「ワークショップがやりたい!」という思い自体が「そうは言ってもワークショップってツールだから、ワークショップやりたい!ってどういうこと?」と自分で自分を否定するような感じでもある。加藤先生曰く「終わらない宿題」をやっと片づけた、そんな感じなんだって。


昨日の読み語り会では、いろんな話が出た。その場で結論が出ることなんてなくて、著者である加藤先生から「答え」がもらえるわけでもない。フルスロットルで頭ん中で考えて、たくさんのことを学んで掴んで、そしてもやもやもさらに増幅させて帰ってきた、そんな場でした。


会の中でかなりの時間をかけて語られたワークショップの「質」というお話。
質と言ってもいろいろあって、提供するワークショップの質を担保するということ、でも、それって、いつなんどき誰が対象でも同じことができるってこと?でも、それってマンネリというか、ある型の中に収まってしまうってことじゃない?ファシリテーターの質なの?ワークショップ≒コンテンツの質なの?参加者にとっての質ってどういうこと?などなど、ほんとうにいろんな話が出た。


質ってことに関連して、わたしの中で腑に落ち切れていないのが「場数」ってこと。
確かに場数は必要だし、グラレコ講座では「場数だいじです!」と言っているけど、でも、相手があるワークショップを、ファシリテータ―の場数のために開催するってありなんだろうか?ともやもやもやもや。
これはいいワークショップだ!だから体験してもらいたい!わたしはファシリテーターとしては初心者だけどみんなに知ってもらいたいからやらせて!っていう論法なら納得するんだけど(ワークショップに出会った頃のわたしがこんなだったw)、コンテンツの使い手になるために、人を集めて場を作るっていうのがどうにも腑に落ちない。
この人にどうなってほしいか、そのために〇〇っていうコンテンツが必要だ、だからやる。ファシリテーターとして未熟であったとしても、目的がちゃんと握られているから、技術の未熟さはカバーできると思う、そうやって場って作られていくんじゃなかろうかと。そんなことを日々つらつらと考えていたわけです。


昨日の会で、この疑問、もやもやに明確な答えを得たわけではないけど、ひとつすっきりしたのが、ワークショップやる人にとって領域を問わず普遍の力ってどんなことだろう?という問いに対して、観察することじゃないかな?という話。
ヒアリングやインタビューなど「聞く」ことだけではわからないことがあるし、参加者その人自身を見ていくってこと。それはやっぱりワークショップは相手があって成り立つことだし、他者との関係性の構築であったり変化であったりが、ワークショップの神髄なのだから、コンテンツも大事だけど、人を見るってことがやっぱり何よりもだいじなんだよなーと思う。
その力(観察する力)ってどうやったら身に着くか?って言ったら、場数じゃないのかもしれないね。その場での集中力や深くかかわろうとする覚悟や責任だったり、五感を研ぎ澄ませてその場にいることであったり。そうなると「まずは100回」みたいな指標はそんなに重要じゃない気がする。


今から10年くらい前に、はじめて加藤先生にお会いして、墨東大学や自画持参などいろんなワークショップに参加した。いつもその場は楽しいんだけど、なにかしらもやっと、ざらっとしたものをおみやげに持って帰る、そんなワークショップだった。そして、もやっと、ざらっとしたことを、なんとか解消、咀嚼、消化したくて、あれこれ振り返ってみたり、意味づけしてみたり、ワークショップが終わったあともずーっと活動が続いているようなそんな感覚だった。長岡先生もそう。その場は楽しいし、なんだかわかった気になるんだけど、帰り路で「で、いったいなんだったんだ?」「あのときのあれはどういう意味だったんだろう?」ともやもやの絶頂になる。それが、わたしのワークショップの原点なんだなー。
昨日の読み語りの会に参加して、久しぶりにそんな感覚を味わった。そう、ひとつすっきりして、また別のもやもやが生まれた、そんな感じ。そして、そのもやもやをしつこく内省して、言語化しておきたい、そんな衝動に駆られております。


(たぶん、この本を興奮状態で一気読みしたのも、同じ感覚なんだと思う。読んでるときは、「そうそう!そうなんだ!」と明快に感じたことが、あとから「あれ?」となる。その「すっきり⇔もやもや」の往来がわたしをフローに持っていったのかもしれない。)


SNS慣れして、すっかり長文が書けなくなってしまったので、今日はこのあたりでw
昨日の読み語りの会ではあと2つくらい書きたいトピックがあったので、しつこく内省してまたブログ書こう。


あらためて、つぶやいてくれたうらりん、加藤先生、ご一緒したみなさん、本当にありがとうございました。

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