わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

大河内教官があまりにもかっこよかったので名言名場面でカレンダーを作ってみた

2022-12-18 00:06:34 | キッカワコウジ
いやはや、大河内教官かっこよかった。中の人である晃司がかっこいいのはもちろんだけど(おい)、いや、大河内教官の言葉一つひとつ、佇まい一つひとつが本当に素晴らしかった。


初フライトの後のデブリーフィングがよかったよね。あれで撃ち抜かれました。
ラジャーとしか答えられなかった水島学生に、なんで答えられなかったのかその理由を考えろ、と自分で考えさせ、柏木学生にはパイロットとしての本質を教示し、舞ちゃんには具体的に考えさせる。まさにフィードバックの鏡ですよ。フィードバック入門読んでるな。


舞ちゃんたちとの初対面時に「よろしくお願いします」と返し、最後の「ご指導ありがとうございました」には「ご苦労様でした」で終わる。とことん礼儀正しくて、それだけで信頼できるし、教える立場にいるものとしてかくありたい、この姿勢は見習わなければならないと思ったよ。


そうそう、大河内教官の言うことはいちいちごもっともで、どこが鬼なの?素晴らしい教官じゃん、と思うけれど、でもあの威圧感はやっぱり「鬼」だよね。
天候状況から中止すべきだと言う舞ちゃんとロストポジションしちゃって焦るがあまり訓練すべきと主張する柏木学生。これをどうさばくのかなーと思ったら、


 意見をまとめられないようなチームに
 安全なフライトができるわけがない



と、訓練中止を言い渡す。いやいや、こんなことを冷静に感情的にならずに言われたら「やべ、怒らせちゃった、怖えぇ」ってなる。ここのこの発言、すっごい好きで、こういう判断、こういう指示をする上司は信頼できるし、尊敬する。


という感じで、本当に名言の数々。これは語録を作らなきゃだめでしょー、残しておかなきゃ!と、カレンダーを作ってみた。大河内教官が登場した40話から帯広編終了の54話までイッキ見して、全てのセリフを書き取って、最初に30個ほどピックアップ。どれもこれもが名言すぎて12個に絞るのは本当に大変だった。12ヶ月のメリハリの中で断腸の思いでカットした言葉もたくさん。
そのままの画像を貼り付けるのもなんだなぁ、と画像を加工して、すっごい集中力で作成。(たくさん締め切りが立て込んでて、こんなことやってる場合じゃないのに)
いやあー、これまで10年以上に渡ってナカハラジュン対話するカレンダーを作ってたのはこのためだったんじゃないかとすら思う(おい)。プリンターの調子が悪くていまいちキレイに印刷できなかったので、もうちょっと調整してもっといい感じに出力しようっと。うふふふふ。





でね、大河内教官が素晴らしいのは、演じた晃司によるところが大きいと、贔屓目じゃなくそう思っている。演技が上手いか下手かといったら、決して上手くはない。けど、佇まいや存在感は吉川晃司にしか出せないものだよね。もしも他の俳優さんだったら?とあれこれ想像を巡らせてみて、きっとそれなりに素晴らしい大河内教官になっていただろうけど、ここまで騒がれるほどの人物にはなっていなかったんじゃないかと。
現役アイドル、しかも国宝級イケメンの柏木学生が霞んでしまうほどのかっこよさだったよね。


5月のミニツアーの時に「とんでもないところからオファーが来た。え??って思っちゃうようなこと。でもきっと受けると思います」って言ってたけど、朝ドラ出演とは思わなんだ。すごいことだし、光栄なオファーでもあるとは思うけど、一方で、失敗したら、評判が悪かったら、これまでのキャリアに傷がつくこともある。そういう点でも大チャレンジだったんだろうな。
「一生懸命やりました。もしかしたらずっ外してるかもしれないけど」ってMCで言っていた、あさイチでも若気の至り的なあれこれを「間違ってたかもしれないけど、本人は至って真剣に考えてやってた」って言ってて、そういうまっすぐ向き合う姿勢や、いくつになってもチャレンジし続ける、ストレッチの効いた経験をしようとする晃司は本当にかっこいい。ほんと、もうねぇ、好きなこと、やりたいことやったらいい。どんなことをしても吉川晃司は吉川晃司だから、ずっと好きでい続けるよ。


財前部長や大河内教官のような役が来るのって、ベテランになった今、若い頃に一緒に仕事してた人たちが偉くなったり、昔ファンだった人が今や業界にいて、その人たちから声がかかるっていうのもあるだろう。けど、何よりも38年間「吉川晃司」をやってきて、雰囲気や佇まい、在り方が唯一無二な存在になっているからなんだろうな。そして「一緒に仕事をしたい」と思わせるから、なんだと思うんだな。


「舞いあがれ」のメイキング映像の中で紹介されていた、舞ちゃんたちとの初対面シーン。当初は歩きながら「岩倉学生、柏木学生、水島学生」と名前を呼ぶ設定だったのを「礼儀として、歩きながら名前を呼びたくない。止まってからにしたい」と提案して、それが受け入れられた後に「いい?」って確認していた場面があった。現場のスタッフへのリスペクトがあって、すっごくよかった(語彙がw)。こういう礼儀正しさや思いやりがちらちらと顔を出すのが本当にいい。一緒に仕事をしたい、って思うもの。わたしもかくありたい。


と、大河内教官(晃司)についてなら、どこまでも語れちゃうけど、個人的に好きなシーンは、

 ホワイトボードの前で説明している時にマーカーを右手から左手に持ち帰るところ(流れるような所作がそれはそれは美しい)と
 柏木学生がロストポジションする理由を聞きに教官室に来た舞ちゃんに言う「どうした?」と
 プリソロチェックの時の舞ちゃんの「Go Around」に、操縦桿に添えようとした手を引っ込めるところと
 熱が下がって明日から訓練しますと言う舞ちゃんに「座らないか」って言うところと
 最後に微かに微かに微笑んだところ。


このシーンを脳内再生するだけでいろんなことが乗り越えられそう(おい)


楽しい3週間をありがとう。次はツアーで再会!





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ワークショップってなんのためにやるんだろうね。自戒を込めて考える。

2022-12-08 19:37:27 | オトナの学び
WSD(ワークショップデザイナー育成プログラム)修了生のアドベントカレンダーWSD Advent Calender2022、8日目を担当します青学6期のひめです。
昨年、勢いで「はいはいはいはーい、書きます!」とポチッとして、何を書くのかはそれから考えたわけだけど、この「考える」という時間、行為がとても貴重で、良い振り返りの機会になったので、今年も!と前のめって参加。ちょなんさん、毎年ありがとうございます。


WSDを受講していたのは2010年の冬だったから、ひやー、干支がひと回りしちゃったわけですね。びっくり。
今のわたしは、社会人向けのプログラムの企画や講師をしたり、グラレコ描いたり、ワークショップやったり、その他にもいろんな仕事をしながら、学ぶ場を作り、学ぶ場を運営している。自分でもそれなりに学び続けていて、今年の春には京都芸大の大学院を修了しました。
自己紹介はこちらを。


で、ふと思ったわけですよ。大人が学ぶ場を作ったり、自分でも学びに出かけたりしていている身でなんですが、なぜグループワーク(ワークショップ)が取り入れられているのかな?って。


研修でも参加型が当然のようになってきたり、アクションラーニングだとか、対話が大事だよね、と言われていることもあってか、学びの場では「お近くの人と対話してください」とか「グループで話し合ってまとめて発表してください」と言われることが多い、すこぶる多い。


これにものすごく違和感を感じることがあるのですよ。


去年、ビジネス法務を学ぶコースに通っていた。弁護士の先生から最新の事例とそれに対する法的な解釈、解説を聞くっていう座学形式、ひゃくぱー導管型だったんだけど、これがもうものすごくよかったんですよ。わたしの中で釈然としていなかったことが事例と結びついて、なるほどそういう考え方をすればいいのね、と自社課題に紐づけて考えることができた。
ところがですね、1度だけグループワークがあったのですよ。ケースが渡されて、この場合はどういう判断(判決)になるかをグループでまとめて発表してください、っていうやつ。


ここでモヤモヤ爆発。
ケースと言っても実際の判例を使っているので、「答え」がある。その裁判官の、という注釈付きにはなるのかもしれないけれど。で、この決まった答えに向かって議論をする、まとめることの意味がわからなかった。いや、わかりますよ、解にたどり着く紆余曲折が大事なのだ、グループメンバーがそれぞれの経験や価値観によって考え出した答えを擦り合わせて、納得解を得るのだ、それが学びなのだ、って考えはわかる。けど、この講座はそうではない。正しい判断基準や最新の法令、判例を知りたくてきている。つまり知識を獲得することを目的としているわけ。


と言っても、知識獲得の過程で、他の人の考え方、思考のプロセスを知るというのは、今後何かを判断するときの参考となるものだから、グループワークによって他者の考え、他者の視点を取り入れるっていうのは至極納得。でもね、グループで話し合った結果を「A班はどうでしたか?」「B班は?」と順番に「答え」のみを発表させるんじゃ意味なくね?なぜそう思ったかは問わず、A班とB班が違う見解を出した場合に比較検討もせず、淡々と「答え」のみを聞く。そして実際の判例を解説して終了。


ううむ、猛烈な違和感。
これは授業設計(講座設計)の問題だろうし、弁護士という専門職に講座設計を問うのはお門違いなんだけど(事務局から「グループワークを入れてください」と要請されて入れたんだろうなぁ、と想像している)、この場では何を提供して、参加者に何を持ち帰って欲しいのか、参加者にどうなって欲しいのか、ってことは置き去りになってるなぁ、と感じてしまったのですよ。


1時間のグループワークの後、答え合わせをするだけならば、その1時間の間にどれだけの事例を解説してもらえただろう?って思っちゃった。


これに限らず、乱暴なグループワークの設計って少なくない。
講師やファシリテーターが、さらっと「今からワークショップやります。グループで話し合ってまとめてください」と言う。むむむ。それってワークショップなのか?そして、グループでまとめる目的ってなんなんだ?


講師・ファシリテーターは、なんでここで話し合うのか、グループワークを入れるのか、ってことを真摯に考えて欲しい。少なくともわたしは考えたい。ここだけは端折っちゃダメだ。なぜここでこの問い?ここで何をどう話し合ってもらうのか?アウトプットはなんなのか?ってことは真剣に考えて、あらゆる想定をして設計したい。


「まとめる」ってことに比重が置かれすぎちゃうと、「まとめやすい」テーマにしましょうよ、みたいな残念なことも起きがちだし、まとめることを意識しすぎてなんだか小さなものに落ち着いちゃう。せっかくいいこと話ししてたのになぁー、面白いテーマで進んでたのになーって思うことも少なくない。


ノリと勢いで即興的に「まとめる」ことができるのもワークショップの良さでもある。非日常のハイテンションで、普段なら思いもつかないことが「いいね、それ!」ってノリで決まっていく面白さ、ワクワクさももちろんある。


同じグループワーク(ワークショップ)をやるなら、そして、「まとめ」を求めるなら、後者になるようにきめ細かく設計したいし、働きかけたい。


社会人向けの学びの場をデザインする仕事をしていて、ありがたいことに「ひめさんの作る場は楽しい」「参加者がどんどん自信をつけていっている様子がいいですね」と言っていただくことが多い。とても嬉しいことなんだけど、それって本当に「学び」になっているのか。繋がっているのか、という疑念、不安もちらちらとあるわけですよ。目に見える形でスキルを獲得できたわけではない、ふわりとした成果でいいのかしらと。


多様な人との関わりの中で、新たな視点や考えを手に入れる。これまでの自分自身を揺さぶる経験ができるのもワークショップの効果だし、一方で、学びの場で「ワークショップ(グループワーク)」を行うのであれば、何らかの解を得る、ってことも大事なんじゃないかな、とも思う。やり切った!という達成感でもいい。
それは、参加している人に委ねるのではなく、講師・ファシリテーターなど場をデザインする立場にいる人が、意識して、心を砕いて、丁寧に設計していかなきゃ、だよね。そして場がスタートしたら、参加者を信じてその場に委ね、手放す。わたしはできているだろうか?「楽しかった!」って感想に満足しちゃってないだろうか?あらためて、場を作る責任や目的を意識していこうと思ったよ。アドベントカレンダーっぽく、ちょっとだけ抱負っぽいこと書いてみた(笑)


ただね、参加者の皆さんには、「これはどんな意味があるんだろう?」とか「この経験がきっと学びになる!」的に意味付けしたり、身構えたりせずに、その場を味わって欲しいと思うのだ。そんなニュートラルな状態がいちばん学べる気がするよ。何でも吸収できちゃう気がするよ。そしてわたし自身も学習者として、フラットにニュートラルにその場を味わっていきたい、と思ったよ。



今年も残り20日ちょっと。知的に楽しいことを起こしましょう。

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