わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

放っておかれてもだいじょうぶな子でした。海外生活に適応するには?な話。

2012-06-16 01:01:39 | コトバ・ニッキ
先日、中原先生がブログに日本人の海外勤務を支えてきたものは?って記事を書かれていた。
今のあたしの環境は超ドメスティックで、海外勤務なんて1ミクロンも想像できないんだけれども、かつて帰国子女だった身から、ちょっと考えた、というか思い出したことがあります。


先生は、日本人の海外勤務を支えてきたものは
ひとつめ「日本人の高度で優秀な適応・学習能力」
ふたつめ「会社が発動する強力な人事権(異動)への諦め」
みっつめ「配偶者と家族の協力」


とされており、

「配偶者の不適応+子どもの不適応+現地において信頼できる他者が見つからない」の3つの重なると、かなりの確率で海外勤務は失敗する。

と書かれていた。


いまから、云十年前のことですからね、比較対象にはなりませんし、赴任していた地域にもよるから参考になるかどうかはわかりませんが。


うちの父は単身赴任で2年間。一度帰ってきてから、また3年後に今度は家族帯同でブラジルに駐在してました。
2回目の駐在の際は、あたしたちが行く2か月くらい前に単身で前ノリ。そこにどんな意味があったのかはよくわかりませんが、仕事が優先だった気がします。住居の準備をしつつ、だったんでしょうね。


で、あたしたち。


当時の母は30そこそこで、決して語学ができたわけでもないのに(というか、本当にできなかったと思う)、どうやって現地になじんでいったのか。


ブラジルは日系社会ってこともあったし、父の会社にも日本語ができる日系人がいたので、その人から現地のことをいろいろ教わっていたみたい。


ここ、結構重要な気がする。


日本人の駐在員どおしのネットワーク、コミュニティでもなく、現地のコミュニティに入り込むでもなく、いざなってくれる、知識を伝授してくれる存在がいたってこと。そしてそれが日系人という特殊な属性だったこと。


日常生活・・・どこで買い物するか、フェーラ(市場みたいなもんです)で気を付けることとか、病院はどこにいけばいいか?日本語が通じる、日系人がいる病院はどこかなどなど、に関してはおかげでそれほどの不便もなく過ごせていたように思う。


住んでたアパートメントは20階建の高層で80戸くらい入居していた中で、日本からの駐在は4家族。ブラジル、サンパウロみたいいな都市だと、日本人駐在員が住むアパートって決まってくるので、同じアパートの中でのコミュニティが形成されてくる。子どもの年代も大体一緒だったので、遊びに行ったり、日本から届いたものをシェアし合ったり、互いのおうちにごはんを食べに行ったり。あ、このごはんがただモノじゃないわけです。基本、専業主婦で、時間とお金にヨユーがあるからみなさんの振る舞いってば相当なもの。ま、娯楽ですものね。
当時のあたしは、2か月遅れで届く「なかよし」と「りぼん」を読ませてもらうことが何よりの楽しみでした。


学校は、現地の駐在員たちが資金を出し合って作ったと言われている日本人学校…スクールバスで1時間くらい、サンパウロ郊外の山。あまり治安がよくない、というか貧しい集落の近く…に通っておりました。先生も日本人、教科書もカリキュラムも日本と一緒、クラスメイトもみんな日本人、まったくもって海外にいるって感覚はなかったなー。


1学年3クラスくらいあったのかなー?
学校に行き出すと、PTA的な行事があるから、母にもおともだちができる。バスで1時間も通っていたり、街中をこども一人で歩くのは危険だから、帰ってきてから遊びに行くってことはできにくいんだけど、基本、家族ぐるみで、土日のたびに誰かのおうちに家族で行ってた記憶があります。


たぶん、特異な社会だったんでしょうね。日本からの駐在が多くて、サンパウロ市内である程度大きなコミュニティになっていたので、そこに居さえすれば、海外への不適応ということはなく、日本にいるかのごとく生活ができる。
もちろん、コミュニティの中での不協和音とかもあったんだろうけど、みんな駐在期間3年くらいの期間限定なお付き合いわけだから、適当に適切にやり過ごしてたんだろうねぇ。


あたしは、小学校の入学式を現地で迎え、フツウに朝が来れば学校に行き、夕方になれば帰る、と淡々と過ごしてた。
もともと、一人遊びが好きだったり、弟が生まれるときに、じじばばのところにホームステイしていたりと、一人でいることが苦痛ではない、むしろ好きな子どもだったので、ともだちができないとか、話が通じない、みたいな孤独を感じなかったんだよねー。
3つ違いの弟は、ガイジンが怖くて、一時的にどもりの症状が出たみたいだけど、徐々に治っていった。


父は企業戦士だったので、カイシャの仕事優先で、日本人コミュニティや現地適応なんてことはあんまり気にならなかったんだと思う。技術系のサラリーマンで、技術指導の名目で駐在していたわけだから、カイシャの中では現地の人と一緒に工場のラインで奮闘してた。やることがわかりやすかったから、不適応になる暇なかった、って感じなんだろうね。
蛇足ながら、当時は土日のたびに父の会社の工場に遊びに行っていた。工場に行くことがレジャーみたいなもんだった。そこで、楽しそうに現地の人と談笑している父の姿を見て、あたしは無邪気に「お父さんはカイシャで3番目に偉い」と作文書いたりしてた(笑)


母は、これは生来の好奇心がなせる業なのかもしれないけれど、知らない人、知らない世界に身を置くことがあまり苦痛じゃなかったみたい。そりゃー、背伸びもしてただろうし、住む世界の違う人も当然いたわけだけし、カルチャーの違いに戸惑ったって言ってたけど、その前の単身で父が赴任していた頃に乳飲み子のあたしを抱えて神奈川の片田舎で生活してた頃の寂しさに比べたら、どうってことなかったそう。
ロングドレスを着て晩餐に行ける、なんていう経験ができた、ってプラスにとらえられる人だったしね。
そこに来て、子どももマイペース。不適応をあまり感じずに済んだのはシアワセなことだったんだろうな、と今になって思う。


不適応はむしろ帰国後の方がより強く感じた。


父は帰国した翌日から仕事に行くというじゃぱにーずびじねすまんだから、帰国後も不適応なんて起こすこともなく馬車馬のごとく働いてた。
母にとっては、やっと帰れたホーム。


あたしは居心地悪かったなー。


片田舎の小学校で、帰国子女なんていきもの見たことないわけですよ。


さらには、日本人学校では、年度に合わせて帰国したり赴任したりする人たちが多いから、年度末の2~3月は春休み。指導要綱的カリキュラムは当然2カ月前倒しで進むわけ。
あたしが賢いわけでもなんでもなくって、一度聞いたことをもう1回聞いて、同じテストをやるわけなので、よい点がとれるのです。そんな事情は知らないから羨望と同時に嫉妬。
さらにはブラジルっていう欧米とも違う中途半端な国、ブラジル、ぶた汁~なんて子どもらしい発想でいじめられましたわよ。


つるんで遊ぶ、グループを作って遊ぶ、ほかのグループの子と仲良くしたら絶交だからね、といった昭和な女子的な村社会がある中で、ひとり遊びが苦じゃないあたしはえらく浮いていたわけで、ともだちって呼べる人はしばらく出来なかったなー。


あたしが感じた不適応は、開かれたコミュニティと閉じられたコミュニティの差だったんでしょう。
海外だから、国内だから、ということではなくって、たまたまブラジルの駐在コミュニティが期間限定ゆえのオープンさがあった。一方、片田舎の、転校生なんてほとんど来ない閉じられたコミュニティにおいては帰国子女なんてエイリアンがやってきたって排他されたんだろうなぁ、と。これがもうちょっと都会だったり、帰国子女が掃いて捨てるほどいる都内私立校だったら違ったんでしょうけどね。


これ、別に海外だから、ってわけではなく、カイシャで新人が配属される場合なんかも同じことが言えるね。いかにオープンなコミュニティであるか、そして、ひとり遊びが上手か。これが適応の条件なのかもしれぬ。


あー、またオチも何もなくだらんだらんと書いてしまいましたが、父も母も昭和な世代は屈強だ、ということだけは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「成長」の呪縛。

2012-06-03 01:58:00 | カイシャ・シゴト
ことの発端は、隣の室のマネジャーに、彼の親友だという別のマネジャーのことを「最近○○さん、ヤバそうです。何か会話してます?」と言ったことから始まった。
会話の中心は「ヤバそうなマネジャー」の仕事っぷりだったんだけど、最近、元気なさそうに見えるけど、と心配された。「そりゃー、いろいろ悩んでますよー、このままでいいのか症候群です」と軽口叩いたら、


事業で仕事するって選択肢はないの?
今とは違った「成長」ができると思うけどな。


と。


ありゃりゃ。激しく違和感。


なんで?


ひとつめは、もともと、あたしはライン志向だったってこと。今のカイシャに入ったのだってそれが出発点だったし、社会人のスタートもそう。そういや、就職活動してたときにも「ライン志向なんですね、スタッフでもじゅうぶんにやっていけると思うし、むしろスタッフに欲しいけど」みたいなことはよく言われた。
社会人大学院に入るときの研究計画もIEとからめて「効率的な組織設計と運営」みたいなことをやりたい、ってものだったし、何よりも、ケイエイキカク室に異動、専任になるときに、泣いて嫌がって(あ、泣いたというのは嘘ですwww)、おぢCに怒られたし。


もうひとつの違和感は「成長」ってことへの呪縛。


成長って言葉に今、異常なほどに拒否反応示してるんだけど、それってなんでだ?っていうと概ね3つの理由から。


一つ目は、
成長成長っていうけど、そんなに右肩上がりでがんばっていかなきゃならないのはしんどすぎる、って思い。これは今、殊更に弱っているからそう思うのかもしれないけれど、しゅーかつ中の大学生が陥るように、ばりばりと働くのはあたしにはムリってキモチに近いかも。どこまで行ってもゴールがない、あの坂を登れば海が見えるはずだったのに、また坂かい??見たいな息苦しさ。

二つ目は、
そうは言っても「成長」の尺度っていうのは、第三者によって定められているっていう違和感。特にカイシャ組織にいるとなおさらで、上司の思う方向に成長してはじめて、成長したと言われる。あたし自身が自分でいくら成長した、これができるようになった、と思っていても、カイシャ/上司が認めなければ成長したとは認めてもらえないわけで。評価、とも言えるね。
あいつ、成長したな~っていうとき、なんとなーくですけどね、組織にとって都合のいい人になっていくようなそんな違和感を覚えて仕方がないわけです。上司にとって自分の存在を脅かすほどに成長してしまった部下は脅威でしかないわけで、見えない枠があるような気がするんですよ。もちろん、上司に力があればそんなこと全然怖くないんでしょうけど。

三つ目は、
あえて言っちゃいますが、成長しろ、と言っているあなた(上司)は成長してますか?しようとしてますかってこと。
中原先生と長岡先生の「ダイアローグ」のあとがきにも書かれていたこのことは、自らに言い聞かせている。他人に強要しちゃいかん、と思うけど、それでもしたり顔で「成長」って言葉を口に出されると、じゃああんたは?といいたくなっちゃうココロの狭いあたしがいます。


昨日より今日の方が素晴らしい一日でありたい、そのために一生懸命生活する、生きる。成長ってそういうことな気がする。カイシャとか仕事って文脈で言う「成長」ってコトバが好きじゃないだけなんだ、とあらためて気付いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする