わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

学びとは「なってよかった自分になること」  ~ワークショップデザイナーシンポジウムに行ってきた

2010-11-30 00:17:35 | オトナの学び
ワークショップデザイナーシンポジウムに行ってきた


いよいよ3日から始まるワークショップデザイナー育成プログラム。
あたしは6期。今まで150名の卒業生がいて、今彼らがどこでどんなことをやっているのか、このプログラムの成果と課題についてのシンポジウム。「ワークショップで学びをつくる」。最後は参加者の交流会。


いやー、佐伯先生はステキ過ぎる。っつかおもしろすぎる。
あれだけパワポ用意してきていて、結局使ったのは数枚。金井先生並み(笑)


心に響くことたくさん。


魏学びとは
全人格的な意味で「なってよかった自分」になること
まずは、なりたい自分をさがし、そういう自分に「なとう」とする


ちょうど前日のラーニングイノベーション論ポスターセッションおかわりで、もう一回宣言したように、あたしの連綿と続くテーマ。
  
  すべての人にはその人なりに大事にしたい仕事観を持っている。
  それを見つけること、研ぎ澄ますこと、そしてそれを発揮できる環境を用意すること。

この持論を後押ししてくれた気がした。



すべての人間には共感力がある。

赤ちゃんに、他の赤ちゃんの泣き声を聞かせる一緒に泣く。でも、自分の泣き声を聞かせても(録音したりしてね)泣かない。それはなぜかと言ったら、泣いてる”あなた”がかわいそうで、あたしも悲しくなる、だから泣くんだって。
うぅ、なんていたいけな。


つまり、ニンゲンは生まれながらにしてケアリング精神があるってこと。


ケアリングとは、訴えに応えないでいられないこと、なんとかして応えてあげようとすること。目の前で泣いている人がいたら悲しくなって泣く、っていうのはケアリングなんだってこと。


そうだよねー、自分のために頑張れることって意外とちいさくて、人のためだから頑張れるっていうのはありそうな気がするもん。



卒業生のパネルディスカッションで、またまた痛いところ突かれた!ってお話。
イブニングダイアローグのときに「場作りが重要なのではない、そこで何を伝えるかが重要」って話に「うっ」となったけど、今日も。


ワークショップをやっている人は、ワークショップがいいものだと、ワークショップの技法を磨くことに一生懸命になってしまい、ワークショップそのものの出来栄えに目が行きがち。
でも違う、そこで何を伝えるか、が大事。僕の場合には子供たちに「安全」を伝えることが仕事。
ワークショップは何かを伝える道具。


そのあとの交流会でこの方(こどもの安全インストラクターのよっしーさん)とお話することができた。
あたしがやりたいと思っていること、やっていることをとっても丁寧に聴いてくださって、力になれるかもしれません、とおっしゃってくださった。なんでしょ、このハートフルな感じ。佐伯先生がおっしゃっていたケアリング精神、共感力に溢れてる。



シンポジウムの最後に苅宿先生が、めっちゃ熱く語っていらしたこと

 
  従来の教科書を読んで覚えてテストでイイ点を取る、という学習では
  もう太刀打ちができないんです。
 
  今までは、1パターンの優秀な人材を揃えて生産性を高めれば
  日本企業は生き残っていけた。

  でも、それでは多様性には対応できない。
  1パターンしかいないから、一人がこけたら全員がこける。

  だから多様性が必要なんです。多様性でしか種の保存を成しえない。

  参加して、そこで役割を果たす、ありがとうと言われる・・・
  そういう参加することで得られる学習が必要なんです。


                           (やや意訳)


多様性ってコトバは耳障りがいいからいろんなところで聴くし、使うけど、ホントに多様性に向き合おうと思ったら、そして多様性を引き出そうと思ったら、今まで通りのやり方、考え方ではだめなんだと思う。手間もかかるし、時間もかかる。覚悟が必要なんだと思う。そんなにストイックにやらんでもいいと思うけどね、でも、人と関わる以上、その人の生活や将来になんらか大小あれど影響は及ぼすんだから、やっぱり真剣にならんといかん。


そして、小学校を中心とする子供たちの学びの場ではワークショップ型の学びが熱望されている。でもデザインできる人材がいない。もろ人手不足なんです、皆さんもご自身のフィールドでまずは活躍してもらって、そしてその上で別のフィールドでも力を貸してください!と。まさにケアリング精神。


交流会でお会いした皆さん・・・人事やジンザイイクセイの集いで出会うひとたちもとってもハートフルなんだけど、それともまたちょっと違う。
うまく言えないけど。
アートや教育、演劇、医療・・・ふだんとは違う人たちに出会えて少々興奮気味。


また新しい学びがスタートです。自己開示がなかなかできないあたしにとってはワークショップ型の学びは実は苦手だったりします。でも、楽しみながら、がんばりたい。
そして、周りの人たちが、学ぶことは楽しい、楽しみながら学ぶ、学びの中にこそ楽しみがある・・・こんな気持ちになれるように働きかけたいのです。


がんばります

コメント (4)
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農家の人間でもないのに~ リーダーワークショップSession3が終わった! これまた長文。

2010-11-25 23:55:29 | カイシャ・シゴト



リーダー対象に行っているワークショップ全4回シリーズのうち3回目が終了しました。


1回目2回目は、チームのメンバー一人ひとりに活躍してもらうためにはどうするか、どういう期待をかければいいのか?なんてことをうにうにとアクティビティと対話を楽しみつつ考えた。
リーダーたちからはいろいろ気づけたし、一人ひとり違うことはわかった、でも難しいですよね~という感想をもらっていたので、ちょっとくらいは実践的なコンテンツを提供したいなと思っていました。とはいえ、相手があることなので、方程式はないし、前回うまくいったからと言って、そのやり方が未来永劫通用するわけではない。
でも武器はたくさん持ってた方がいいよね、と今回はちょっと眼先を変えて、モティベーターを意識して仕事を
アサインしていましたか?って問いかけをしてみた。


リーダーたちは、チームの業務をきっちりと納期通りに品質を維持して納品することが求められている。だから仕事のアサインをする際には、スキルマップを活用して、この業務は○○さんができる、この業務は△△さんができる、と穴埋め式に依頼することが多かった。その人が何が得意か、どんなことをしているときにパフォーマンスが発揮できるのか≒アンカーは何なのか?なんてことは発想も持っていなかった。あ、語弊あり、ですね。持っていたかもしれないけれど、そんなことを考えてアサインできるほど人的リソースに
余裕がない、というのが実情。


これはあたしの大学院の修論から連綿と続くテーマである。
すべての人にはアンカー≒仕事観があって、それを見つけること、研ぎ澄ますことがその人にとってもカイシャにとってもメリットがある。
見つけ方、そして見つけた後にどうやって今ある仕事とマッチングさせるか、が企業側の課題なんじゃないか?と思っている。


ということで、今回は  

  一人ひとり違う→個を認識する
  一人ですべての役割を担う必要はない/得意な人が必ずいる/いろんな役割がある

をテーマにワークショップを行いました。


最近ねー、あたしが作るワークショップもネタばれ、というか、三日月さん絶対、ひとひねりするじゃろって思われて素直に取り組んでくれない(^^ゞ 
あたしそこまでいぢわるじゃないからー


今回はじゃがいもと名刺を使ったワークショップ。
どんな流れかと言いますと…


■ウォーミングアップ ~前回の復習~ 
 
 経験学習モデル   ストレッチ⇔フィードバック  最近接発達領域

これ、ラーニングイノベーション論の時に必ずおさらいからスタートしていて、それっていいなぁと思っていたのでぱちりましたが、参加者から好評です。リフレクションシートにも「毎回前回の復習からスタートしてくれるので理解が深まるし、忘れてた!と気づかされます。」なんて書かれてあったり。


■アクティビティ Small Potate  
そうでーす、これは前回、100人の上野展シンポジウムのときに加藤先生からお聞きしたじゃがいも使ったワークショップの話をぱくらせていただきました。

  ・じゃがいもを準備する ごくごく普通の大きさ、形状のじゃがいもです。多めの方がベター。
  ・好きなじゃがいもを選んで取ってもらう→すぐに袋に戻す
     
  ・さっき選んだじゃがいもを見つけてもらう →見つかる人もいるけれど、確信は持てないのが大半

  ・では、2回目。あらためて好きなじゃがいもを選んでもらう
  ・じっくりと2分間観察する → 袋に戻す
      
  ・さっき選んだじゃがいもをみつけてもらう →大抵の人が即答できる
  

■ゆるゆるダイアローグ 1回目と2回目は何が違ったか?

ここ、めちゃくちゃ深いダイアローグが繰り広げられていました。想像の通り、ここでは2分間じっくり見ることによって違い・個性が際立つ、自分のメンバーもそういう目で見てましたか?という投げかけでした。
ところが、設計以上。

「特徴のあるじゃがいもを選ばず、とにかく目の前のを選んで、じっくり見た。見ているうちに顔に見えたり、あ、このくぼみは何かに似てるな~とか、手触りとか、普段、まったく意識しないのにじゃがいもってこんなにいろんな表情があるんだな~ってわかった。」

「ずっと見てると確かに愛着がわいてくるよね、こいつの違いを見つけなくっちゃ、と思う」

「私はお尻の形に見えるな、と思ってこれを選んだけど、え?そうなの?と言われて気づいた。●●さんからの方向ではお尻の形には見えない。(ってことは一方向からしかメンバーをみていなかったかも。)」
 
会心
もちろん練りに練ったつもりではいたし、そういう話になるように仕向けたけれど、解説するまでもなく気づいてくれたっていうのは感動的でした。


■レクチャー じゃがいもから何を学ぶか 
  観察する目/コトバを与える/愛着を持つ/Name the World

みんなのダイアローグで十分だったんだけど、いちおー用意していたので解説とネタを。
これは加藤先生の受け売りですが、じっくり見てると愛おしくなるでしょ、そうやってじゃがいもは単にポテトサラダの材料から「Myじゃがいも」になるんだ。メンバーもそういうことで、この業務をやってもらうAさん、Bさんじゃないよね、っていうのを体感してもらいました。

あと、これはあたしの解釈なので怪しい部分はあるんだけど、フレイレ先生が言ってるName the World。上田先生がセサミストリートに出会った衝撃のお話をされた中で触れられていて、興味をもった。あたし的解釈は、導管型の落とし込みでは腹落ちもせんし、共感もできない。じっくり向き合って、愛情もって、自分で考えてつけた言葉だから意味や価値を持つ。世の中すべてのものはそうなんだと思う。
教えられた言語のままではなくって「My言語」にしましょうよ、ってこと。
じゃがいもがMyじゃがいも、メンバーがMyメンバーになるように、名前=言葉をつけよう!

これ、いまいちうまく伝えられなかったんだけど、リフレクションシートに
「Name the Worldがすごく響いた。なんの変哲もないじゃがいもを多方向から観察し、特徴を言葉にすることで、愛着を持つことができ、My Potetoになりました。メンバーについても、いろいろな面から観察し、長所短所を言葉にしていくことで、My Memberになっていくのかなと思いました。」
とあって泣きそうになった。
  
   
■アクティビティ チームで協働する

ここはよくワークショップなどでも活用されるチームで協働するためのワーク。4人一組のグループを作ります。
「1分間で紙を高く積み上げてください」
というごくごく単純なワーク。紙は配布直前に配るのでどんな紙が来るかわかりません。作戦会議として5分間自由に使えます。

ええ、想像の通り、紙の積み上げ方が目的ではなく、何が来るかわからない状況で、5分間という

短い間にどう役割を形成していくか、役割分担をしていくかを体感してもらうワークです。
そして、名刺ってのはこれ。

 

紙代すらないので(うそ、単にケチなだけ)、名刺チームのリーダーに「ねぇねぇ、捨てるだけとかっていう簿外の紙ってない?」って訊いたら、ありますよーってことで名刺の断裁をたんまりいただきました!


これがねー、ものすごいおもしろかった。
1回目のときは2グループ対抗だったんだけど、見事に作戦を立てるプロセスが違っていた。A班は、とにかく戦術から先に立てる、口火を切る人がいて、その人のアイデアでとにかくやってみよう、と高く積むためのトレーニングを始めた。それに対してB班は作戦会議そのものがチーム形成のプロセスになっていた。その場を取り仕切る人がいて、「何か意見は?」と訊くと「こんな紙が来たらこうしよう」とか「それだと~~な問題があるんじゃない?」とか「まずは焦らずに、誰かの号令ではじめよう」とかいとんな意見を出しながら調和させていく。
   
もちろん、紙の積み上げ方そのものも、イノベーティブなアタマの訓練のためにはひとつの効用かもしれんな、とも。切って高さを出す、なんて発想あんまりないもん。

 


■レクチャー チーム内の役割 タスクとメンテナンス

方向感を示さないでダイアローグすると、拡散しっぱなしな傾向が強かったので、今回は
「創って→語って→振り返る」のプロセスに「授ける」を追加して
「創って→授けて→語って→振り返る」にした。


ここで説明したのは、チームの中には2つの役割があって、
  ものごとを推し進める、前に進める「タスク」の役割
  維持したり安定させていく「メンテナンス」の役割
チームの中にはどっちもなければならないし、一人ですべての役割を担うのは無理なので、自分ができないことは得意な人やその因子を持っている人い補佐してもらえばいい。全員がタスク型で前に進め~!タイプだったら、足元はぐだぐだかもしれないし、重要な欠陥に事前に気づかずに大きなトラブルが取り返しのつかない段階で起こるんじゃない?といった話を紹介。


■ダイアローグ  今日の2つのアクティビティを通じて感じたこと、気づいたことは?

タスクとメンテナンス、自分はどっち?メンバーは?そもそもそういうこと=モティベーターを意識したりしてた?なんてことを中心に話してもらうといいんじゃない?と誘導。

感想とかそこで出てきた意見はこんな感じ。

 自分はメンバーを決めつけた概念で見ていなかったか? と反省した
 「この人は何が出来るだろう?」「何が苦手なんだろう?」「何に向いているのだろう?」
 ある程度は考えていたつもりでしたが、長所を伸ばす為、短所を克服する為を意識した
 適切な役割を与える努力をしていたのか?


 紙を高く積み上げる作業では、リーダーと呼ばれる人間が集まっている中、
 短い時間の間に役割が分かれるところが見られ面白かった。
 アイデアを纏めようとする人、作業を進めようとする人、客観的に見ながら問題を探す人等、
 その都度役割も様々に変化する姿が見えた時、現場もこうありたいと思った


 大急ぎで料理をしなければならない状況では、ポテトに愛情は注げない。
 そんな感じで、ずっとポテトを「ただの材料」として見ていたのかもしれない。
 忙しいときは仕方ないとしても、私はポテトを、1つずつのポテトとして見ているのか、考えさせられた。


■ラップアップ

毎回、知識のお土産として、本日紹介した理論を再度復習するのと、今回のセッションを通じて考えたかったことはこれです、というのを提示しています。

今回はこの2点。

  観察→言葉を与える→愛情を持つ あおくさいけどこれが人と関わる上では重要だ
    →My Potateにする 愛おしい存在にする

  チームにはいろいろな役割がある 一人で全部は担えないけれど、得意な人、モティベーターを持っている人は必ずいる
    →似たような人ばかり集まってないですか?
    →その人の得意なことを見極めていますか?




蛇足ながら、ワークショップが終わった後にはリフレクションシートを書いてもらっています。フォーマットを添付しつつ、ホーヤさんの足元にも及びませんが、リフレクションメールを送って、事務局仕事は終了。
このリフレクションメール、結構、効果あるみたいで、必ず返信をくれます。こんな話ができてよかった、今日は○○に気づけた、とか、ゆるゆるとリフレクションが促されるみたいです。


なんかね、今回のワークショップでは「場の力」を感じた。
こう見えても(どう見えてる?)かなり練り込んで、いろんなことを想定して、この話をこう伝えたらこの人はう思う?みたいなことをうじうじぐだぐだと悩んで創り込んでいる。ある意味予定調和。
ランスルー、一人ロープレも相当やるし。今までは、自分が作り込んだ内容、想定内でした。
でも、今回は違った。あたしが設計した以上に深い気づきがリーダーたちにはあったようです。かなり抽象的な内容だったにも関わらず、全員が「より実践的な内容でよかった」と言っている。不思議。


これが場の力なのかもしれない。場と対話。そして参加者の卒意。


そして、
あたしが何よりも嬉しかったのはこの言葉。


  三日月さんの飽きさせない試みを毎回楽しみながら学ばせて頂いています。


学ぶってこういうことなのかもな、って。
楽しみながら、学んでいるという自覚すらなく学べたら、こんなに素敵なことはないよね。
あまっちょろいかもしれないけれど、あたしはそういう場をもっともっと作りたい。それがすべての人は生まれながらのLearnerなのだ、ということの証になるような気がする。



そう、やっぱりジンザイイクセイには愛。


  農家の人間でもないのに、こんなにジャガイモをまじまじと見るとは思いませんでした。
  最終的には愛おしくさえ思いました


って、感想くれたリーダーがいたけど、やっぱり愛だろ、愛(笑)


次回もいい場にしたい。がんばります 
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俺ら全力でやるから

2010-11-21 01:43:10 | ライブ・イベント
行ってきた TRICERATOPS 「WE  ARE ONE TOUR」@横浜Bay Hall


働き者のトライセラ。今年2本目のアルバムツアー。今回のアルバムがとーーーーーってもよかったので、めちゃくちゃツアーを楽しみにしていました。その割にはチケットの引き換えに行ったの今朝でしたが


夏に同じBay HallとStudio COASTに行って、その時に和田さんが「俺ら、きっとまたここにいる全員と会うから!」って言ってたけど、ホントだった。ホントに今年中に会えた。


まち見世のお手伝いに向島にいて、4時前に出れば余裕で到着するかとたかを括っていましたが、墨東→ヨコハマ新山下は遠かった…元町・中華街駅に着いたのが17:50.深い深い地下ホームからエスカレーターをダッシュで駆け上り、新山下まで小走り。奇跡的に間に合いました。ドリンク引き換えたら、暗転。


相変わらずセトリが覚えられないのですが、前半はアルバムから怒涛のごとく。オープニングは(確か)Neo Neo Mods。林くんも和田さんもモッズスタイルだ。いつも思うけど、林くんは背が高くて薄くて、スーツがめちゃくちゃよく似合う。モデルになれるよー。いきなり、みんな踊りまくり、跳ねまくり。あたしも。東横線の中で爆睡していたとは思えないくらいよくカラダ動きました。


アルバム聴いたときにも「これいい!」って思ったZOMBIESのリフ。ライブ映えするー。特にリズム隊の重低音と林くんのベースがリフを弾いてたのがすごくよかった。
ちょっとメロウなHappy Saddy Mountainとか、中盤のアコースティックな僕らの一歩とかめちゃくちゃよかった。


前回のツアーのときってちょうどカウンセラー講座に通っていてとにかくつらくてつらくて仕方がなかった時期で、「僕らの一歩」を聴きながらそんなことを思い出して意味もわけもなく涙腺決壊
あー、でもいまでもツライ。試験受けるのやめちゃおうかなー、くらいのことを思ってしまうほど。なんだろね、あんなにストレスフルな学びの場は近年ありませんでした。大学院の最初の「経営戦略」の授業よりもつらかった。


閑話休題。


今日はシウマイ談義で盛り上がっておりました。和田さん的には陽軒のシウマイ弁当が好きなんだけど、シウマイの数が足りん!と。俺的にはあと4つ足りない。あんずとか筍とかいらないよねー、上半分は全部シウマイでいい。だから今日は単品のシウマイもプラスして頼んでおいたので大満足。
シウマイの話をこんなに嬉々としてする三十路だんし。ステキ(笑)


俺らがデビューしたころはロックで踊るってなかったのよ、
ロックって言うと過激で苦悩する。。。みたいなさ。
その頃から踊れるロックって言ってやり続けてきて、やっと認知された(やや意訳)


踊れるロック、最高です!ルールなんかないし、音に合せてカラダ動かして、一緒に歌って、汗かいて・・・それがライブの醍醐味。トライセラのライブは有酸素運動じゃね。ずーっと跳ねっぱなし踊りっぱなし。いい汗かきました。
いつもいつもライブに行くと思うけど、パワーもらえる。元気がチャージできる。ホントありがとう。


1回目のアンコールが終わって、4分の3くらいの人が残って「WE ARE ONE」のコールをしてたらキタ━━━(゜∀゜)━━━!!!、ダブルアンコール!!!!
「FUTURE HOLDER」。前回のツアーのときにも思ったけど、この曲、ものすっごくライブ映えするね


  突き上げろ まだ何も掴んでないこの手
  胸張れよ さまようFUTURE HOLDER
  折り曲げろ 欲しいものがある 絶対手にいれてみせるよ


だねー。このくらいの強い意思がなくっちゃダメだね。がんばろ


ホント、トライセラのライブには愛と元気が詰まってる。


うーむ、12月1日のAX行きたくなってきたー。その週はほぼほぼ毎日定時ダッシュなので自粛していたんだが、行きたい…。

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人材育成をカイシャでするのはやめた方がいい。

2010-11-19 01:03:39 | オトナの学び
Facebookのノートにさくっと今日の授業のこと書こうと思って、書きはじめたら、結局いつも並みのぐだぐだ長文に。
ってことで、そのままコピペしてこっちにも(笑)



長岡先生の大学院の授業に忍び込んできました。
長岡先生の授業は必ずゲスト講師が2回くらいいらっしゃる。去年はベーリンガーの早川さんとバイオラッドの石山さん。
その前の年のフィールドワークの授業では慶應の加藤先生。


今年はどなたがいらっしゃるんですか?とお聞きしたら、
伊藤忠の浅川さんと石山さん。


ってことで、無事潜入。



前半はいつもの授業。
LIN論の課題図書でもある「企業内人材育成入門」を1章ずつ代表者2名がプレゼン。それに対して質疑応答、対話ってスタイル。


おおぅ、長岡先生っぽい!って突っ込みがいきなり。


教育はいいことだから必要だ(ちょっとプアーな表現ですが)と言った学生に対して
「教育とか学習とか学びというラベルを貼るといいことだ、というふうに頭ごなしに決めつけていいんですか?っていうのがこの章の問いだ。」
とぴしゃり


そう、この「問い」をどうつくるか、これを徹底的にたたき込まれるんだよねー。だからぐるんぐるんする。もやもやする。


企業内に限らず、教育、学習は”よく”変わるが大前提ではあるが、その”よい”っていうのは誰にとっての”よい”なのか?
学習者個人?教育担当者?学習者の上司?経営者???
ステークホルダーによってニーズが違う。でも、えてして教育担当者は自分が薦めたい学びを”いいものだ”と信じて突き進めようとしてしまう。それでいいんですか?あなたにとっての”よい”が他の人にとっての”よい”とは限らない。
だから、教育担当者は社内営業マンとして、自分のお薦めを営業することも大事だろうし、相手の意向を飲むことも必要だろうし、ときには接待とか駆け引き、バーターだって必要でしょ。


と、熱く語っておりました。
うん、その通り。でも1年生たちのアタマの上には「?」が飛んでた(笑)



そして石山さんのお話。ASTDとタレントマネジメントのお話。
興味深いことたくさん聞けた。


理想と現実のギャップの中に課題・根本原因があるからそれを取り除こうと頑張っちゃうのがGap Approach。でもそれでごりごりと生産性アップだ~をやり続けると疲れる。できてないことを矯正していくアプローチね。
それに対して最近、声高に言われているのがPositive Approach。夢を語り合う。夢だけを語る。でもそれでいいの?って問い。生産性を追求しないで、ほんわかと夢だけ語っていて、ホントに取りたい実は取れるんじゃろか?

 →おおいに同感。どっちも真剣に追い求めるからこそ価値・意味があるように思う。


タレントマネジメントとは浅い解釈では「優秀な人を確保せよ」となるんだけど、そうじゃない。
個性があるから画一的にはマネージできない。これからはいかにタレント≒組織の目標を満たしてくれるスペックを持った人材をカイシャにとどめておけるか(=タレント・サスティナビリティ)が人事戦略になるんじゃ?

 →おお、そのためにEngagementを高めておくんかな?でも一方でEngagementが高い人はカイシャ内でのパフォーマンスが高いという報告もあるとかないとか・・・


タレントマネジメントの中心はSuccession Planning(≒後継者計画)。
日本企業には暗黙のエリートルートがあって、どんな部署のどんな仕事を経験するか、そしてその時の様子を見ながらみんなの目線で持って評価していく。
けど、欧米ではそうではない。後継者として必要な Job Discliptionを満たす人を開発・調達する。そして Job Discliptionを満たす人を評価する。
でも日本企業で評価されるのは「三遊間のゴロを捕れるような融通の利く人」。

 →どっちも一理、一長あり。三遊間のゴロが取れて、さらには社会化されとる人、とも言える。


Informal Learningは学びの質を高める。やや意訳。偶発的な学びは効果がありそうだ。
でもそ偶発的な学びを自然に任せず、偶発性を計画的に起こすのがこれからの人事の役割なんじゃ?

 →えぇっ?そんな都合よく偶発をデザインできるのかな???イメージわかないなぁ。あれってチャンス、きっかけだったんだ~って気づくのは、むしろ、振り返ってみて、のことが多いように思う。とすると振り返り≒内省の機会をデザインすることがまず大事そうな気がするなぁ。



最後、長岡先生からのこれまた過激なご発言。

  人材育成をカイシャで行うのはやめた方がいい。
  人は勝手に学ぶ≒越境学習するんだから、それを支援し、どう活用するかを考えるだけでいい


え?それって、人はすべからくLearnerであるって前提に立ってない?そんなのごく一部なんちゃう?と思っていたら石山さんからフォローありました。曰く、欧米では、ニンゲンは学習するものなのだ、という前提に立っている。だから学習する個人をどう支援し活用していくか、と考える。でも日本では馴染みにくいのも確か。


ちょっと文脈忘れちゃったんだけど、長岡先生の、主体的に学ぶ越境学習とタレントマネジメントには可能性がある、的な発言を受けて、石山さんが興奮気味に「越境学習者が日本中に溢れて行ったら素敵だ!」っておっしゃっていたのが印象的でした。


授業の最後に、
皆さんも修了した後にもぜひ越境学習者として遊びに来てください、と長岡先生から嬉しい言葉。
石山さんと同期の一期生も何人かお越しになっていて、越境学習者が集まったこと、とっても嬉しそうでした。


あたしも越境学習者のはしくれ。がんばりたい。>何に? とりあえず明日の社内ワークショップ。がんばろ



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「やれてないことがつらくなる」 越境学習者は敬遠される

2010-11-16 02:38:26 | オトナの学び
しつこく越境学習。
「なんで、あたしは越境学習するのか?」って問いをぐるんぐるんと考えている。


産業カウンセラー講座のラストセッション、50分間のカウンセリング実習のときの話。
これが最後ですよ、っていうのと、クラスみんなとラポールが形成されているから、クライエント役になったときに最後に話せたこと。


 あたしの存在が周りの人を追い詰めているんじゃないか?


ん?越境学習とどう関係あるの?って思うけど、あたしには関係がある。
このことは、自分の中では、整理がつきつつあったんだけど、ずっと書けないでいた。ここを読んでる人の中で「え?もしかして自分のこと?」と思う人もいるかもしれない。そうかな?くらいに思って読んでね(笑)


昨日の深夜につぶやいたこと。(ちと表現は変えてます)


  越境学習者は敬遠される
  なぜか?
  みんな、少なからず勉強しなくちゃ、と思っている 
  けどいろんな事情があってできない、踏み出せない
  なのに、越境学習者は簡単(そう)にやってのけている
  それは不健全な劣等感を生む



外に学びに行っていると、いろんな人から「そんなに勉強してどーするの?」「どこに行こうとしているの?」と言われます。
「どこにも行かないよ、好きなことをしてるだけ」って答えてましたが、この質問の裏には軽い嫉妬もあるんだろうな、とは思ってました。
純粋に「すごいねー」って思ってる人もいるだろうけど、でも「偉いね(でも自分はできない)」と劣等感を持ったり、「三日月さんは特別」と違う世界の人として捉えてしまって自分に投影するってことをしないのがほとんどだと思います。


だから、最近は外に学びに行っていることは言わない。面倒だから。


それって、外学びの効果を説明できないからだって思ってたけど、そうでもないかも。


あたしは好きでやってるし、それを人に強要するつもりはない。これはまぎれもなく本心で、いいことだから薦めたいとは思うけど、もっとみんな勉強しなよ~、とは思わない。
でも、忙しそうだけど楽しそうにしている、次から次へと、「○○始めました」って言ってるあたしを見ていると、凹む人、おもしろくない人ももいるんだろうな、とは思っていました。


そう、昔、仕事で、役割以上のことをしてしまったら、同じ役割(階層)の人が「三日月さんはすごい、でも私にはそこまでできない」とネガティブになって、結局、会社を辞めてしまったことがあった。もちろん、あたしが原因ではなく、そもそも仕事の種類と本人の志向にギャップがあったからなんだけど、追い詰めてしまったのは事実。


だから、気を付けるようにはしていた。出る杭にならないように。上から打たれるのは全然かまわないんだけど、同じ役割の人を無意識のうちに傷つけるのはイヤだなと。(ちょっと不遜な言い方ですね。)
それもあって、外学びに行ってることを隠したり、「あたしなんて全然たいしたことないよー」と言ったりしていたのかも。


外学びだけではなくって、リア充な生活送ってる人に対して、そうなりたい、けど、そうなれない自分を自覚して凹むってことはおおいにあると思っています。
リア充なあたしは知らず知らずに他人を凹ませているのかもしれません。
(別にあたし自身は全然リア充だとは思ってないし、世の中もっともっとすごい人も、イキイキした人もいるわけで、他人と比較して凹むなんてもったいないじゃん、と思ってはいるけど)


この気持ちは、近しい人ほど抱きやすいような気がします。
近くで見ているから余計に比較してしまう。
そして、特にだんじょの中だと顕著な気がします。


働きマン@安野モヨ子 にこんなセリフがあって、とても痛かった。弘子の恋人新二が言う言葉。


  「(弘子ほど)やれてないことがつらくなる」


弘子は仕事に命かけてるくらい没頭して、そこには迷いなんかなくって突き進んでいる。結果もそれなりに出ている。でも新二はそんなに仕事がうまくいってない。でも自分でわかっている、そこまで情熱傾けてぎりぎりのところまで仕事してないからなんだ、ってこと。
比較対象はあくまで自分であるはずだけど、身近な人は比べる対象になりやすい。で、比べて落ち込んだり凹んだりしてしまう。それが、だんし→ぢょし、だとことさらに。


あたしもそうかも、って思った。


何もかもうまくいってるわけでもないし、悲しいことも理不尽なこともやりきれないこともたくさんある。
でも、自分で決めて自分で動ける、そして、その結果に自分でオトシマエつけられるから、結果として「よくがんばりました」と自己評価できる。そんなあたしを見ている近しい人は「自分はあれもできてない、これもできてない、姫はすごい(自由にできる姫はうらやましい)」と思う。


あたしの深夜のつぶやきにきょーこちゃんが、こんなことをリプライしてくれた。
 

  女性はビジネスシーンで同性からのロールモデルとして、
  異性からはパートナーとしてのモデリングを、
  ビジネス"以外"の側面からも受け続けるから結構ストレス高い。
  頑張れば手が届くような先輩&
  自分より少し拙い異性でなければ規格外とされる感あり。


納得。そして、キモチ軽くなった。ありがとね。


互いに認め合って高め合うって関係性を構築できるだんじょもいるだろうけど、世の中そんなひとばっかりじゃぁないんだと思うなー。


そう、同じ「外に出て学ぶ」と言っても料理教室にかよってるぢょしは容認される。楽しいから行く、知ってしまったら使いたくなる(by SWA001さん)のは一緒なのにねー。



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越境学習で何を学ぶか。越境学習その2。

2010-11-14 13:43:12 | オトナの学び
昨日書いた「なんであたしは越境学習してるの?」。あまりにもわけわかんない内容になってしまったので、ちょっと違う視点でまとめ直してみます。


結論としては、
あたしが越境する理由は、突き詰めて行くと
 
 「越境学習してる=他に行く場所ある あたしってイケてるでしょ」って優越感

なんだと思ってます。


でもそれじゃあ、あまりにも学習者として寒いので、ラーニングイノベーション論の最後に中原先生が投げかけてくださった3段階目の「越境学習」と合わせて考えてみます。


昨日も書いたけど、最近のあたしは越境学習しに行くときには、面倒なので黙っていく。面倒な理由は何かって言ったら、「それに行って何になるの?」という問いに答えられないから。
昨日お会いした人は「その場に行って、世間の人たちはこんなすごいことを考えているのか、言うのかっていうのを身近に感じるだけでも意味がある(=健全な劣等感を持つ」と言ってくださったんだけど、「気づき」っていうのは内面のことなので、他者にはわかりにくい。カイシャってやつはわかりやすい成果を期待するから、「気づきや刺激を受けるだけでも価値がある」というのは声高らかには言いにくい。


それに、クレバーで感度の高い方たちは、何したって「気づき」は得られるわけです。それこそ、石ころからだって学べる。でも、ニンゲンはすべからく生まれながらのLearnerなのだ、と言うのであれば、今はそうじゃない人たちに対しては、きっかけは提供すべきなんじゃないか、と思う。でも、目に見える、手に取れる効果・成果がわからないと二の足を踏みがち。これが越境学習を阻む理由な気がします。


当社の事情で言えば、
あたしは全社の人材開発担当という役割と、大学院行ったりして勉強するのが好き(と映っているらしい)だというキャラクターによって、三日月さんはそういう人=越境学習する人、って認知されています。
でも、あまりにもそのキャラが強すぎて、三日月さんのマネしよう、とは思ってもらえない。別の世界の人なんですね。


で、最近のあたしは、この外学びの楽しさやおもしろさ、そして効果について(効果という点で言えば、少なくともケイエイキカク部門での仕事には相当、外で学んできたことを注入しとるもん)広報・普及活動をしていきたい、と思っている。
けど、阻まれる。


それが「で、どんな効果があるの?」


外に出ることって、果たして効果があることなんでしょうか?
越境しっぱなし、では越境学習ではなくてそれは場所を変える=引っ越すことになるから越境学習ではない。越境学習者は元いた場所に戻る。元いた場所に戻る、というのは、つまり、学んだことを持ちかえるってこと。


ラーニングイノベーション論の最後に中原先生がおっしゃっていたこととブログに書かれていたことをまとめると、

 越境第1段階:誰かの作った学びの場に参加すること
 越境第2段階:学びの場との相互交流≒持ち帰る
 越境第3段階:自分で学びの場を作ること

となるんだと思います。あくまで、あたしの浅い理解ですが(^^ゞ


こんな感じかな?




ぢゃあ、越境学習することの効果って?っていうのを考えると

 ■第1段階:外に出る
   ・新しい知識を知る、身につく
   ・刺激や気づきが得られる
   ・健全な劣等感が得られる

 ■第2段階:持ち帰る
   ・知識を使ってみる(自分の仕事で)
   ・応用してみる
   ・他者に伝える、教える

 ■第3段階:場を作る
   ・今までの知識や知見を総動員する≒学びほぐしが行われる?
   ・学習者を育てる/仲間を作る

となるのかなー?


何が言いたいかって言うとね、誤解を恐れずに言うと、あたしはそんなに優秀じゃない。そして、当社のメンバーも優秀じゃない。優秀じゃないっていうよりも学習機会は圧倒的に少ない状態にある。経験できることも少ない。だから、先生がおっしゃるような第3段階とか、オトナの学びは自律的である・・・これらのことがにわかにはピンと来ないのです。
つまり、場を作って、あとは自発的に、というのは難しくって、手取り足取り、1から10までを段階的にフォローするってことが必要だし、都度都度どこまで到達してるかなーとチェックしてチューニングするってことも必要だったりします。
そう考えると、場があるから行きなさい、行くときっと何か気づくよ、っていう送り出し方、仕立て方ではなくって、そこに行って何を学べるのか、何を学びに行くのかというのは明確にしなくちゃならないんだと思います。


はて、それを自律的、と呼ぶのか?という疑問もありますが、気づきを得てそれを自分の中に還元できる人ってのはごくごく一部の優秀な人のように思うのです。多くの人は、そこまで自律・自立しようにもできない気がするのです。
そう、ラーニングイノベーション論をはじめ多くのところで語られる「越境学習」は、ぶっちゃけ、偏差値高い進学校の生徒さんだけを相手にしているような気がしてならないのです。ま、実際、そうなんだけどね。優秀なホワイトカラーの学び、なわけで。うわー、暴言!ごめんなさいっ


でも、これがあたしが最近感じている違和感なのです。


ニンゲンは生まれながらにしてLearnerである、根源的能動性があるのだ、と言い切るのだとしたら、自律的に学ぶことが困難な人に対して、どうしたら学べるのか、何を学ぶのかっていうのは永遠の問い、な気がします。
出来の悪い子は切り捨てるのか?という学校教育の問題と一緒ですね。
でも、ニンゲンは働いて生活していかんといけん。そのためには自分の能力はあげていかんといけん。そうするとやっぱり学習は必要なんだろうと思う。



あたしは少なくとも自分のカイシャ、自分のチームのメンバーとは一緒に学習して、一緒に能力あげて、一緒に働いて行きたいと思っている。それが、あたしのさらりーめんとしての役割だと思うし、越境学習しているあたしの恩返し、な気もしている。


そう、キーワードは「美しい労働者」。長い長い道だけど、がんばろ。


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越境学習者は隠れキリシタン。

2010-11-14 01:38:51 | オトナの学び
先週は「越境学習」に関するインタビュー受けて、今週は慶應大学の講義受けたり、大学院の授業を聴講したりとまさに「越境学習」して、越境学習者の集まりと言ってよい「日吉の会」にお邪魔して・・・ここんとこ、あたしのまわりは「越境学習」が溢れてる。


えっと、今、あたし結構落ちてます。


  なぜあたしは越境学習をするのか?そして、それはあたしに何をもたらしているのか?
 

これをぐるんぐるんと考えて、さ、がんばってみようかな?と思ったら、いろいろいろいろカラ回ってます。


この問いに対する答えを整理しないことには先に進めないような気がするので、まだ十分に練れてないけど、書き残しておくことにします。


イシヤマさんに「日本を代表する越境学習者」などと恐れ多いご紹介をいただいちゃいましたが、あたし自身はここでも何度も書いているように、楽しいから、好きな人に会いに行くって感覚で越境学習しておりました。
とは言え、4年前に大学の通教課程に行ったのは、明らかにカイシャから逃げて、カイシャ以外の場が欲しかったからだし、2年前に大学院に行ったのは、スクーリングとか、順番に課題を出して試験を受けて単位をもらうっていうプロセスとか…通教で学ぶってことが意外と楽しくって、せっかくだからこのまま何か続けようかなって思ったことがベースにはあるけど、じゃあなんでMBAコースだったのか?って言ったら、当時おつきあいしていた人がアメリカにMBA取りに行ったこと(待ってる間にあたしも!と思ったから。その後の話は・・・・まぁ、そういうことだ)、通教で奨学金もらえちゃったこと(大学院の授業にもついていけるんじゃん?)というのが理由。もちろん、キャリアに箔がつく、とも思っていた。


だから大学院での学びは苦行でした。最初の数カ月は特に。
それが「楽しい」に変わったのは(正確には”楽しいかも?”くらいのニュアンスですが)、長岡先生の授業から。
答えを出すのではなく、答えを出すプロセスこそが大事っていう学び方は衝撃的だった。学びには「場」が必要だっていうことも。
ワークプレイスラーニングとか、加藤先生@慶應とか、外の世界をいろいろご紹介いただいて、外に出るってことを知った。


ん?すでに、大学院に行ってる時点で、カイシャの「外」には出ているはずだけど、さらにもう一歩外に出たってことではエポックでした。


はじめは紛れもなく中原先生のおっかけからスタートしたし、最初の頃は外に出ても、壁の花になることもあったし、対話を楽しむなんてレベルでは到底なかった。いつの頃からかその場に身を処すことが楽しくなっていった。慣れたのかもしれない。はじめまして、の人と話をするってこと、違いを楽しむってことに。そして、話がはずまなくてもそれはそれで“気づき”なんだ、って思えるようになったってことかもしれないね。


手作りスイーツ差し入れたり、文集作ったり、(そういや大学院のときも、論文の発表会を有志で開いたりしたなー。まさに「ポスターセッションおかわり」だ)本流とは違うところで楽しめるようになってからはさらに加速。
修論のテーマを決めた頃から、キャリアに箔をつける、学んだことをカイシャで生かす、みたいな色気がなくなって、純粋に自分のために学び始めた。このきっかけは書くと長くなるので端折りますが、カイシャからの協力が得られない中で、組織の課題を解決する論文なんか書けるはずがない。最初はそのギャップに苦しんでたけど、上田先生の「プレイフルシンキング」を読んで憑き物が落ちた。自分がプレイフルでなくてどーしてカイシャの課題が解決できよう。ここからあたしの視座は完全に「個人」のものになっていきます。


そして、この頃から、絶対的に仕事でストレス感じなくなった。
正確にはストレスを感じないように、不干渉≒不感症になったんだと思う。この頃からあたしはカイシャで怒らなくなった。悔しくて泣く、みたいなこともなくなった。上司からは「やっとあいつもオトナになった」と評価されたし、怒らずに平穏でいた方が精神衛生上はいいのかもしれないけれど、でも、自分で気づいてました。暑苦しくない自分は「らしくない」ってことに。理不尽な思いをしている人のことは放っておけなかったんじゃないの?って。


あたしには、カイシャ以外にも居場所があって、そっちが結構大変だったり、おもしろかったりしたわけです。修論書いてたから物理的にも時間が欲しかったってのもあるけど、マインドシェア的には、外で学ぶ>>>>カイシャだった。
つまりね、
あたしにはカイシャ以外にも大事な場所があって、そこを守るためには、カイシャや仕事でストレス抱えてる暇はないんだよ、ってこと。カイシャでストレス溜めて、悩んで、その結果として、外学びの場に向かうキモチが萎えたり、外学びの時間が侵害されるのはたまんないなーってこと。だから、今までのあたしだったら怒ってたようなことも「見ないふり」してやり過ごしてきた。ホントはキモチ悪い。けど、そんなことしてる暇ないんだもん、って言い聞かせて。


カイシャと家庭(あたしはシングルなので、ここはあんまり意識したことないけど)以外の場があるから、ストレス溜めずにバランス取れてたっていうのはあるけど、ホントのところはそういうこと。
外で学んでるあたしってイケてるでしょ、あたしは仕事やカイシャの愚痴を言ってるだけの人じゃないんだよ、って思いが深層にあったことは否めない。間違いなくある。


もちろん、カイシャ以外で出会う人、聞く話からものすごーーーーく刺激も気づきももらうし、仕事のヒントもたくさんもらう。それは外に出ているからこそ。「外に出ているあたしがイケてるから」だけで外で学んでいるわけではない。ピュアじゃないよなー。


でも、そんなもんかも。
もちろん、外に出て学ぶこと、そのものにも意味はあるし、学んだ内容は紛れもなくなんらかの形・効果にはなっているはず。
でも、外で学んでいる=カイシャと家の往復だけじゃない、っていうライフスタイルがかっこいい、っていうのはある。あと、あたしはあなたたち(って誰のことを言ってるのかわかりませんが(^^ゞ)とは違うのよ、という優越感とか。


「日吉の会」のときに石山さんが、
「越境学習者は迫害される、勉強して辞めるつもりだろ、と思われたり、スキルがつくことを疎まれたりする。勉強に行くので帰りますっていうと白い目で見られるけど、婚活しに行ってきますって言うと温かい」と冗談めかしておっしゃっていたけど、確かにそれはあるなー。資格取って独立する気じゃろ?ってのは昔からあっただろうし、キャリアに生かさないでなんで勉強してるの?って逆説もあるだろうね。
あたしも最近はめんどーなので、休みを取ることにしてます、理由は特に言わない。休んでもだいじょうぶな日に、そして休んでもだいじょうぶなように仕事を調整して。ホントは、もっと大腕振って行って、行ってきたらそれを還元するってサイクルにしないといかんのだと思うけど。迫害されるのわかってるからめんどくさくて言わない。でも仕事には相当生かしてると思うけど(あくまで、自分基準で)。


でも、そんなことじゃいかんのだよねー。


あたし自身も「何のために越境しているのか?」って問いに答えられるようにしなくちゃならないし、自分自身が越境学習してよかった!って思っているならそのよさを普及しないといけんよね。でも、それって結構ハードル高くってくじけそうになる。そう、今落ちてるのはそこ。まだ自分の中で整理がついてないので、外化できないけど、越境学習すること=外に出ることが、その人個人だけでなくカイシャ組織のパフォーマンスを上げるってことをきちんと説明できないから、くじけるんだ。


越境学習することがその人個人の能力を高めてくれそうなのは感覚的にわかるけど、それはカイシャが求める能力向上なのか?ってのが結び付かないから自信ないんだよね。そして能力高めるって言うけど、きっと能力の高い人はどんな手段であっても高まっていくし、いろんなことに気づいて自分で可変していくようにも思う。


越境学習はなんでいいのか?っていうのを端的に語れるようにならないといかんね。がんばります。
でも、ホントのところは、時間をもてあましそうだから、ってのも結構大きいなぁ。あたしの場合は特にね。







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小さなくるくる/大きなくるくる

2010-11-08 00:59:12 | オトナの学び
リフレクションムービーのこと。


YouTubeにアップすることはできたんだけど、著作権にひっかかってしまうので、リンク貼るのはやめときました。サンプル画像のみ。


リフレクションムービーを皆さんと共有できたら、それでラーニングイノベーション論も大団円。
一昨日だったかな?の感謝日記にも書いたけど、楽しい時間だったし、いつまでも反芻していたい思いはあるけど、なんだか思い出に浸ってそこにとどまっていることは「らしくない」って思った。
あたしは結構うじうじずるずるひきずっちゃうタイプだけど、でも、次に進むためにあの講座があったんだから、だったら先に進まないといけんよね、と。それは仕事やカイシャ、ジンザイイクセイの側面だけじゃなくって、働く、学ぶオトナとして、先に進むってことは大事だよな、って。


ということで、リフレクションムービーについてちょこっと思うことを書いてフィナーレ。


創造力は十人並みかそれ以下なので(妄想力はあるけど)、きっとどこかで見たり聞いたりしたものぱくってきたんだと思うけど、このリフレクションムービー的なものは、会社で室の半期ごとのキックオフミーティングの冒頭に流しています。たしか、ケイエイキカク室に異動して半年後くらいからやってた。1年半くらい前から?


なんでやろうと思ったのか、今となっては記憶が定かではないんだけど、偉い人のお話、しかも概念的かつ抽象的な話を聞くだけではつまらないし、何も記憶に残らない。あたしの立場では、若者たちと一緒に「ふむふむ」と話を聞くのではなく、いかに、その話を翻訳し腹落ちさせるか、ってことが求められている。


そして、こういうキックオフの場で語られることって、大抵が「これからの半期はこんなことしていきますぜ」っていう前に向かっての宣言が大半。
もちろん、業績上の振り返りはあるけれど、どっちかっていうと「○○が未達成だった、引き続きがんばろう」的なものが多くって、よくやった、みんながんばった!というポジティブなフィードバック、リフレクションってあんまりない。


それってどうよ?と思っていた。特に、リーマンショック以降、切り詰めるだけ切り詰めて、職場はギスギスしているし、怒られたり、できてないことを詰められたりすることはあっても、褒められるってことはほとんどなかった。でも、毎日みんなきっちりちゃんとやっているし、そんな積み重ねがあるから仕事もカイシャも成り立ってるんじゃん?って。


だから褒めたいって思った。褒めたいっていうか、あたしたちがやってきたことを讃えたいって思った。
結構がんばってるじゃん、あたしたち。大変なこともあるけどね、きっとこれからもがんばっていけるよね、っていうメッセージを送りたいって思った。非常に青臭いし、暑苦しいんだけど(^^ゞ


それで、半年間にどんな出来事があって、みんながどんなことに関わって頑張ってきたのかっていうのをスライドにして、キックオフの企画なんてのも仕事のひとつにあったのをいいことに、勝手に作って勝手にプログラムに入れて勝手にやった。
反応は上々。5分間で振り返って、これからの半年間もがんばろうよ、ってメッセージを最後に入れるって仕立ては、リフレクションツールとしても決起ツールとしてもなかなか好評です。意外と感動できるし、なんだか高揚感が漂って一体感も湧き出る。


ということで、室の伝統にしていきたいね、と若手を巻き込んで現在は運営中。


ラーニングイノベーション論のラストにあたって、卒業文集的な形に残るものは作りたいなって思ってたけど、ふと、リフレクションムービー作ったらいいんじゃん?ってひらめいちゃった。
もう、その瞬間に妄想スイッチ入っちゃうんで、コピーとかサムネールが浮かんできて止まらない(笑)
事務局のホーヤさんに相談したら、なんとホーヤさんもムービー作れないかな?と考えていたそうで、ならば、と室で作ったムービーをお見せして写真を提供いただきました。


作り方とか技術的なことはさておき、作成するときにあたしのなかでこだわっていることは「笑い」と「ねぎらい」、そして「元気」。


ちなみにリフレクションムービー(カイシャ編)の作り方としては、
半年間の出来事を時系列にインデックスで洗い出す。これは、定例会議の資料なんかが役に立ちます。その仕事に誰か関わったかをピックアップして、偏りがないように取り上げる項目を決めて、画像を集めて、コピーワークを考える。ここまでの作業の方が時間はかかるけど、妄想しながら楽しみながらなので、あんまり時間をかけてるって感覚はない。実際、業務時間外にやってるし。
PowerPointファイルを作るのは、2時間もあれば終わります。タイピングは早いんで。(やや自慢。爆。)


全員にまんべんなくスポットあてたいけど、なかなかムリ。だったら、笑いの取れる誰かに道化になってもらって、その人中心にみんなが笑い合えるようにしたい。LIN論版では学級委員長のフクイさんを勝手にその役にキャスティングしました。もちろん、あたしの独断で(笑) >フクイさん、ごめんなさい。でもきっと喜んでくれたと信じてます(笑)


そして、全編を通じて、「ありがとう」と「おつかれさま」を伝えること、これをカイシャのリフレクションムービーを作るときにはポイントにしています。
最後にはがんばろうって思えるようにポジティブに終わらせるってことは特に気をつけている。お尻をたたくだけじゃなくって、楽しんでやろうよってメッセージを込めている。
ちなみに、10月に作った室のリフレクションムービーでは「おもしろい仕事なんてない、タフな仕事を楽しむだけ」っていうアキレスさんの言葉を引用させていただいた。


一人で作っているのでどーしたってあたしのバイアスのかかった目線での編集になってしまうんだけど、でも「笑い」と「ねぎらい」と「元気」。この3つがベースにあればちゃんとメッセージは伝わるような気がします。


そして、音楽。
やっぱり音楽の力って偉大じゃね。


選曲もあたしの独断。今回からカイシャでは若手にセレクトしてもらったんだけど、割とどんな曲でもはまるし(ミディアムテンポで、AメロBメロサビ、みたいなオーソドックスなパターンの方がはまります)、そこには選曲する人の思いやこだわりがあっていいと思っています。ちなみにカイシャではストーンズのStart me up でした。


ラーニングイノベーション論で使ったのはGOD清志郎の「JUMP」。
GODのライブでは本編ラストかアンコールで必ず演奏されて、でっかいバルーンが客席を縦横無尽に行き交って「じゃーんっ」とともに客席みんなでジャンプする。この瞬間、あぁ、GODのライブに来たんだーって実感する。
武道館の復活祭も、涙涙でジャンプした。あたしがちょうど病気を抱えていた時期にGODも癌と戦っていたので、その存在にはとても勇気づけられてきた。


今回、ムービー作ろう、って思ってから、絶対に「JUMP」を使おうって決めてた。ずっとね、GODがいなくなったことが受け入れられなくて、なかなかGODの歌を聴くことができなかった、どうしたっていろんな思い出が交錯しちゃうから。あらためて聴いて、その深い世界に感銘。GODの勇気に敬意を表したいって思った。そしてGODがいつもいつも言っていた「愛と平和」。甘っちょろいかもしれないけど、やっぱり愛だろって。ジンザイイクセイには愛だろって。


だからGOD、だからJUMP。



  何が起こっているのか、誰にもわからない
  いいことが起こるように ただ願うだけさ


  眠れないよるならば 夜通し踊ろう
  ひとつだけ多い朝 うしろをついてくる


  くたばっちまう前に旅に出よう
  もしかしたら君にも会えるね


  夜が落ちてくるその前に
  もう一度高くジャンプする

                 ~「JUMP」 忌野清志郎~


そう、朝は必ずひとつだけ多くやってくる。だから、その朝をきもちよく迎えられるように、体だけがジャンプするんじゃなくって、アタマも、ココロも、今の自分も、規制も、しがらみも飛び越えていきたい。
そんなことをGODは教えてくれている。
きっとラーニングイノベーターもそうなんだろうな、高くジャンプしていかんといけん。
がんばります


Have Fun!


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じゃあね

2010-11-07 00:22:01 | コトバ・ニッキ
今日、お片づけついでに模様替えしてたら、懐かしいモノがたくさん出てきた。極めつけはこれ。



1回目のぢょしだいせい時代に作った卒業文集。


あたしたちの4代くらい前までは、卒業文集を作っていたんだそうです。部費で。だからこんな立派なお名前。でも財政難とか、メンバーが少なかったり、卒業文集?別にぃ?みたいな風潮もあってか途絶えていたのを、同期の男子がやろうよ、と声を上げて作ることに。
当時はまだワープロの時代なので先輩や先生からの原稿はワープロ打ちし直してるけど、あたしたちの原稿は手書きのまま。一人見開き2ページ、書きたいことがある人はいくらでもどーぞ、という仕立てでちょうど100ページのボリューム満点なものになっていた。


確か、お正月休みに原稿書いてこい!って指令が出て、試験が終わった1月の下旬くらいに部室でしこしこせっせと輪転機回して、印刷して、製本して・・・ってことをしたような記憶があります。うん、インクで手を真っ黒にしながら。懐かしい。隔世の感(笑)


ちょうど、ラーニングイノベーション論でも卒業文集作ったけど、やってること変わってないなーとちょっとおかしかった。
本流とはちょっと外れたところで精いっぱい頑張っちゃったり楽しんじゃったりするところとか。
そしてその中であたしが書いてたこと、全然変わってないじゃん、ってか成長しとらんねーと、しかも文章のテイストまで一緒。なんだか10うん年前のあたしが愛おしく感じました。


人の本質って変わんないのかもね。みんなの原稿読み返してみても、みんながみんな「あいつらしいな」って文章だもん。
だらんだらんと原稿用紙にして4枚くらいだけど、いいリフレクションツールだったのかもしれないなーって思った。



せっかくなので、卒業文集原稿べた打ち。授業の名前に時代を感じます(笑)


::::::::::::::::::::::::::::::

じゃあね


4年間・・・
生まれたばかりの赤ん坊なら言葉を覚えるだろうし、小学生なら中学生になる。4年間は何かを変えるには十分だったろうし、私の中でもみんなの中でも4年間はそれなりに過ぎている。

高校生の頃、大学に行く気なんて、さらさらなくて、目標なんてなくて、なんとなくフツ―に人生が送れればそれでいいと思っていた。このままじゃいけない、大学に行こうと思ったのは、3年のころ出会った先生の影響が大きい。おもいっきり高校生活を楽しんでいた私を、先生は「キラキラしてる」と言ってくれた。そう言ってもらって私は初めて自分自身が好きになった。だけど、そんなふうに言われる資格はないと思った。先生が過大評価している自分に近づこうと思った。10年後、20年後にこうありたいと思う自分に近づいていこう、人に頼らないで、自分の足で生きていけるに人になりたい、わからないなりに考えて、学歴ではなく生きて行くための技量を身につけるために大学に行こうと思った。

こんな崇高な意志を持って入った大学だが、成績に関しては、お粗末としか言いようがない。でも、自然科学概論を落とそうが、多国籍企業論でAを取ろうが、そんなことはそれほど重要じゃなくて、自信を持ってこれだけはと言えるものがあればいいと思っている。往復5時間の通学時間を言い訳にして、ただなんとなく日々を過ごすのだけはやめようと、授業もそれなりに出たし、バイトもしたし、週4時間のサブゼミにもきちんと参加、昼連も3年間ほとんど毎日参加、速研の行事もお金の続く限り参加してきたし、ひこばえ制作、これを抜きに大学生活は語れないくらい楽しかったし、思い出深い。参加するのも受け身じゃいけない、もっと主体性を持とう、そんなふうに感じるときは、ひこばえの表紙にメッセージを託したりした。私の大学生活はだれよりも充実していたと言いきれる自信がある。

この4年間はいろんなことを学んだ。お酒の飲み方も覚えたし、1年に1度くらいは自分を捨てることも必要だ、人間、下ネタの一つや二つ軽く聴き流せなくちゃ、世の中は女子大生だからってちやほやしてはくれないってことも。

人生を70年として、秒に換算すると20億秒になる。日本人全員と会おうとすると、一人あたりたったの20秒にしかならない。ということは、みんなに会えて、こんなにも深い、いいつきあいができたのは、すばらしい偶然の積み重ねであり、幸運であったとしか言いようがない。みんなに会えたことを本当にうれしく思うし、もし神様がいるのなら、こんなに素敵な連中に会わせてくれたことを感謝したい。

最後の全日の2日前、偶然、先生に会った。大学生活が充実しているようで生き生きしていると言ってくれた。少し近づけた気がする。こうやって少しずつ、少しずつ近づいていければと思う。それが私の人生の指針であり、目標であるから。

苦境にあってもまっすぐな心を失わないでいよう。

みんなにはまたいつでも会えると思うから、さよならじゃなくて、じゃあねで卒業していこうと思う。

じゃあね。



(注)
速研(そっけん):速記研究会の略。あやしい、いぶかしいサークルに見えるよね。速記の練習は昼休み30分毎日。ちゃんと練習もしてたけど、そのほかは当時一世を風靡した夏はテニス、冬はスキーっていうサークルとなんら変わらないサークルでした。

ひこばえ:サークル会報誌の名称。隔月発刊してました。イベントの記事とかメンバー紹介とか、これも手作り・手書きでB5版40ページくらいだったような。表紙のイラストなんかも持ち回りで手描きしてた。確か「待ってるだけじゃつまんない、自分で探しに行こうよ!」みたいなコピーを書いた記憶があります。

全日:全日本大学速記競技会の略。春は大阪、秋(冬)は東京で開催されていて、4階級設定されていてそのうち3階級に出場する団体戦で、トータルのミスの少なさで競う。



::::::::::::::::::::::::::::::

つっこみどころは満載だし、大学生活、もうちょっと充実させてもよかったんじゃん?特にレンアイ方面とか、成績方面とか(笑)とも思うけど、変わってないなーって思って興味深い。
そして、やっぱり周りの人に恵まれていたこと、支えられていたこと・・・人と人のつながりってそういうことなのかもしれないけれど、あらためてシアワセだなって実感。


今年、6月に立て続けに大学の同期と会って、みんな変わってないねー、もちろん見た目とかは変わってるけどさ、会えばすぐにタイムスリップしたみたいになるよねーって思ったけど、何年経っても変わらずに付き合えること、ホントに嬉しく思うし、みんなに会えて、ホントよかったです。
これからもどうぞよろしくね。





ちなみに
>苦境にあってもまっすぐな心を失わないでいよう。
このコトバは、高校を卒業するときに、この先生からいただいたご本にメッセージとして描かれていたもの。
確か二十日鼠と人間だったような。うぅ、たび重なる引っ越しでどこかにいってしまったことが悔やまれます。
ついでに言うと、この先生は担任でもなんでもなくって、あたしが一方的に好きだった先生です。ぢょし高生のパワーってすごいねー、卒業祝いもらっちゃうんだよー。
こんなところも変わってない。自意識過剰なくせに、一方的な片思いなのに近づいちゃうあたり(笑)
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ネットワーク型OJTのススメ

2010-11-04 23:15:11 | オトナの学び
ネットワーク型OJTのススメ  ラーニングイノベーション論裏セッションのこと。


8月の、多分インプロの回の頃、「N銀行見学行きたい!」とか「N自動車工場見学おもしろそー」とか、番外編企画が続々持ち上がりました。ノリと勢いと遊び、冗談半分だったけど、シラバス作って、中原先生完コピのスライド作って、ラップアップまでしちゃってたら、ついには本格的な裏セッションを実現することができた。
企画してくださったイマベップさん、ご登壇・ファシリテートしてくださった関根さんのご尽力にほかならないんだけど、それでも、悪ノリからここまで本格的な学びの場が作れたことに感動すら覚えます。身から出た錆、の逆バージョン。言い続ければ形になるねー。


この裏セッション、裏と呼ぶのは「そりゃ失礼だろ」ってくらい、充実。そして、使い勝手よく使っていたOJTという言語、概念、やり方などなど、再考させられる時間、出来事でした。


これまた、端的にレポーティングする、なんていう高等技術はあたしにはないから、あくまであたし目線、あたし基準で思ったこと、気づいたことをつらつらと。



あらためて考えさせられたことは「OJTで何を学ぶのか?何を身に付けるのか?」
 

当社では、2年前にOJT担当者研修なるものが大々的に行われました。対象者60名。おかしいのが、その60名に教える対象がいない人も含まれてたってことと、60名の中にOJT対象者を何人も持つ人が含まれていなかったこと。まぁ、このあたりのねじれに、その後、全社のジンザイイクセイを引き継いだあたいはえらく苦しめられましたが、それでも、
「OJTは行き当たりばったりではなく計画(ゴール)を設定して行うのだ」
というのは、それなりに職場に浸透した。


で、おぢさんたち的には「成功だ」と言われているこの研修がちゃんと職場で根付いているのかね?と宿題もらって、担当を引き継いでからはマネージャーやリーダーに何度となく話を聞きに行った。そこで感じた違和感。
確かにマネージャーもリーダーも行き当たりばったりでなく、計画的に新人、若手を育てようとしている。計画書も8割強の人が作成していて、熱心な部門では月1回の振り返り面談も行っていた。


けど、
何を教えているのか、すわ、新人・若手が学んでいること、身につけていることは何なのか?が曖昧。そしてそれぞれの職場で異なる。
つまりね、その職場で1人工としての仕事をしてもらうための手順を覚えることは当然のことながら、たとえば電話応対とか、社会人としての基礎(ほうれんそー、とか、優先順位をつけた仕事とか・・・)的なことを身に付けるのか、とか、それこそパソコン操作やらプレゼンテーションといった汎用的なスキルを身に付けることを意味しているのかとかとか・・・。


全体を通して言えたのは、その職場で1人工としての働きをするための手順教育はほとんどすべての部署で計画的に行われていた。スキルマップを作って、いつまでにこれを教える、これができるようになる、一人でできるようになる、教えられるようになる・・・的なことが実現されていた。
結果として、生産性はアップしたかのように見えるんだけど、ところがリーダーたちは相変わらず忙しい。それって何か?って言ったら、決められた手順通りに仕事はできるけど、新しい仕事は手順を細かく説明されないとできないし、問い合わせに対応するとか、イレギュラーな処理が発生したときにはたちどころに「できない人」になってしまう。よしんば、業務設計なんてとんでもない。


そして、現場のマネージャーやリーダーに困っていることはないですか?と聞くと必ず出てくるのが、社会人としての基礎力はどーやったら身につくんだろ?ってこと。
レベルが低いかもしれないけど、朝ちゃんと来る、休まず来る、ってレベルから、言われたことだけやるんじゃなくて、その先をやってはじめて期待にこたえられるんじゃよ、とか、まー働く上でのスタンスとかマインドとか、ってこと。自分の給料、ちゃんと自分で稼いでる?って覚悟、と言ってもいいかな。



無理やりだけど、職場で身につけさせたい能力ってどんなものがあるか?っていうのを、まとめてみた。





左上の象限にある「手順」についてはOJTがとてもよく機能していた。でもそのほかはどーやって授けていいかわからないし、そもそも、授けるわたしがそのスキルを持ってないもん、という不安。


あたしは、そういうのってどこで教わったかよくわからない代物で、つまりは、日日の先輩や上司(時には同僚、後輩)からなにくれとなく教わってきたもののように思う。だから、研修でなんとかしてよーといわれると、むむ?そういうもん?と思ってしまうし、チームを預かっているのであれば日日の仕事や関わりの中で働きかけたい、と思う。


でも、全社視点で行くと、現場が困っていることにはなんらか力を貸したい、と思うわけで。ジレンマは抱えつつ、いっそのこと切り分けてしまえ!と整理してみた。
それがこれ。





まだ機能はしてないけど、徐々に進行中。あたし自身の中で、「現場は手順を教えるだけの場じゃないだろー」という思いは拭いきれてないんだけど、これもまぁ、ネットワーク型と言えばネットワーク型。職場の先輩、OJT担当がひとりでやらなくたっていいんだよ、っていうメッセージでもある。


そして、今回のセッションでいろいろなお話を聞いて、もやもやっとしてしまったことがあります。
関根さんのお話のなかで、『先輩が教える3つの役割』として、

 1)仕事を教える
 2)ルール(組織に参加するためのルール)を教える
 3)人を教える/紹介する

というものがありました。
うーん、当社のマトリックスで言うと、1)は職場のOJTで機能していますが、2)3)は微妙。職場ごとに濃淡あるんだろうな。あたし自身はこのカイシャは中途で入ったけれど、引継をしてくれた人が本当に親切に細かく教えてくれる人だったので、1)2)3)ともに網羅できた。これは本当にありがたいと思った。
でもケイエイキカク室に異動したときには1)も2)も3)もなかったけどね(爆)


で、翻って考えてみたときに、ジンザイイクセイは何のためにするんだ?って問い。
これは、ラーニングイノベーション論の最終課題でも書いたけど、あたしは当社における答えは「リテンション」だと思っています。
雇用率達成のために必ず○○ポイント相当の障害者は雇用していなければならない。でもそれはアタマ数ではなくて、AさんはずっとAさんのまま、BさんはBさんのまま在籍し続けること、そして在籍してパフォーマンスを上げていくことでなければ意味がないと思っている。だから、長く働いてもらうために、風土になじみ、仕事になじみ、仕事の力をつけていくってことが大事なんだと思っている。


そう考えると、青臭いかもしれないけれど、1)2)3)もまじめに真剣にやっていかなきゃならないんだろうなってことは明白。
今は、便宜上、手順は現場、それ以外は全社、みたいな切り分けしちゃったけど、ホントにそれでいいのかな?と。あたし自身、部下や後輩にはできる限りのことを授けたいって思うもん。それは仕事、業務を通じて身に付けたことの方が力になるんじゃないかって思うし、裏セッションのときにセタさんがおっしゃっていたけれども、汎用スキルはどんな仕事・業務をしても身につく力だと思う。そして、この汎用スキルこそが力なんだと思うし、汎用スキルが身についていれば、職場特有のスキル身につけやすくなるんじゃなかろうかと思う。


ということはですよ、いかに、仕事や業務を通じて汎用スキルが身に着くように仕向けていけるか、つまり、経験をデザインすることができるか、ってこと???
うわー、ここでも出た、質のよい経験とそこから学ぶこと。経験学習モデル万歳(笑)


まだもやもやしていて答えも進むべき道も決まってないけど、ここからこここは現場でお願い、ここから先は研修でなんとかするよーなんてきっちり割算できるようなものじゃないんだ、ってことだけはわかった。答えは見つからなくってもやもや中だけど、でも、このままじゃいけない気がする感MAX。この気持ちはあたしの背中を押してくれる。がんばろ。

コメント (2)
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