わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

独立開業のその先

2024-03-29 23:25:35 | カイシャ・シゴト
先日、会計士の田中先生が主催するフリーランス塾のイベント「はじめの一歩」に参加(視聴)して、感動というか衝撃というか、とにかくすごい!!(語彙がw)な感想を抱いたのですが、それはかねてより不思議だなぁ、って思っていたことの一つの答えを見た感覚だったからなのです。


サラリーマンを長くやっていると自分で稼ぐ力がつかない、とか、人生100年時代、定年後も楽しく過ごすためには自分で仕事をすること=フリーランスになる、とか、なんというか、ずっと組織に属しているのはあんまりよろしくなくて、どこかのタイミングで独立したり、独立しなかったとしても副業っぽいことはやった方がいいよ、という論調が昨今では強い気がしている。


昭和のサラリーマン体質、気質のわたしとしては、組織の中でいろんなしがらみや葛藤を抱えながら働き続けるって尊いことだと思っているんだけど、昨今は、そういう働き方は「古く」て、いつまでも組織にしがみついてるなんてナンセンス!と言わんばかりに独立開業を薦められる。もちろん、フリーランスマインドというか、自分の手で稼ぐってことは大事だ。けど、独立礼賛な感じはちょっとなぁ、、、と思っていたのです。


そして、独立したとする。多くの場合は個人事業主として活動をする。法人を立ち上げる人もいる。けど、なんていうのかなー、その先が見えなくて、もやっとしていたのです。


法人化する、ということは雇用が発生する。もちろん1人でも法人は作れるけれど、仲間がいて、組織ができる、継承していく。それこそが法人の醍醐味なんじゃないかと思うのですよ。(これまた偏見、バイアスかかってるかも、だけど)


この、雇用して拡大する、ってところまで考えて独立、起業する人ってどのくらいいるんだろうな?っていうのが長年の疑問でした。どのくらいまで拡大するのか(人と金の両面で)、そして拡大した先の継承はどう考えているんだろうな、っていうのが素朴な疑問でした。ある程度の年齢になって一人で立ち上げて、一人で運営している会社って、その人が引退(仕事を辞める)=会社をたたむ、ってことなのかしら?と。継承していくこと、続いていくことも企業の役割だと思っているので、なんだかちょっともやっとしていたのです。


でも、今回のゲストのスハラさんは違った。もともと商売(自分で何かやりたくて)をしたくて会計士になり、起業を目的にしていたから、どんなネタで起業するのか、起業するにあたって足りない力は何か?を客観的に見極めながら転職して、起業した。
そして、起業した会社をどんどん大きくして、ついには上場まで。そしてご自身は、完全に後進に引継ぎ、別の会社のCFOとなる。CFOになったのも、社員に「こんなキャリアがある」という背中を見せる意味合いもあったとか。すげー。


みんながみんな、上場するような会社を立ち上げなくてもいいし、小さく事業を展開していくのだってあり。けど、どうしても独立することがゴール(目的)になってしまって、その先が描けていないような気がする。いや、ミッションとかビジョンとか、事業としてのやりたいことはあって明確に描けているんだけど、それを動かす組織をどうしていくか?まで考えがが至らないというか、別次元のもの、として捉えているように思う。よしんば上場が目標、といったように規模を追求していったとしても、継承までは視野に入れてないケースが多いんじゃないかしら。


企業経営をしていると継承は切実。これから先どんどんと少子高齢化が進んで働き手が少なくなってくるから、継承はほんとに切実。立ち上げるのは勢いでできても、続けていくこと、引き継いでいくこと、は本当に大変だし、難しい。それをやり遂げてる人がいる、ってことに気づいて、これまで会社を大きくしようだなんて1ミリも思ってなかったけど(継承は結構切実に考えてたけど)、心を入れ替えようかしら?と1ミリくらい思っている。
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年度末というだけでなんだかやり残した感が出てくるの、なんでだろう?

2024-03-28 23:42:44 | コトバ・ニッキ
年度末ですね。
当社は決算月ではないので、そんなに忙しくはないはずが、年度更新やらいろんな申請や切り替えやら、取引先の決算やらでなんだか忙しない。そしてそれ以外の仕事でも相手の異動や退職、転職などで引き継ぎ終わるまで/後任決まるまでストップしちゃったりして、忙しいんだか暇なんだかわかんない。4月に入ってしばらく経つと、急ぎでお願いします、だったり、いついつお願いできますか?といった「どうせなら3月中に言ってくれればいいのにね」っていう依頼が入ってきたり、なんだかバランス悪い。まぁ、仕事は相手があってのことだし、決算や年度の切り替わりなどなんらかの節目や締めは必要だから仕方がない。


仕事相手や取引先の異動、転職、退職といった変化はあるけれど、わたし自身は年度が変わることでの変化はあんまりないし、子どももいないから3月→4月の節目感もあんまりなくて、3月31日と4月1日は地続き。けど、周りが忙しないせいか、のんびりしているのが申し訳な息分になっちゃうんだよね。毎月、月次決算の資料を出して締め終わると(大抵25日以降)ちょっと暇になる。もちろん日々の業務はあるけれど、ピークを超えるのでホッと一息。今がその時期で、余裕があるからのんびりしたっていいはずなのに、なんだか後ろめたい。サラリーマン気質が抜けないみたい笑


あとね、年度末、期代わりのこの時期はなんだか、何かをやり残したような気がしちゃって、わけもなく焦る。小さな積み残しは多分たくさんあるんだろうけど、致命的な何かはないはずなのに、焦る。これもまた、年度末あるあるなのかもね。


やり残したっていうのとはちょっと違うかも、だけど、もう20年くらい前の話。天職だと思っていた仕事(部門)から異動することになった。青天の霹靂。わたし以外にこの仕事ができる人はいないって不遜ながらに思ってたし、誰よりも思い入れを持ってやっていたから、本当にショックだった。とはいえ、美意識もあるから引き継ぎは完璧にしたくて、綿密な引き継ぎ書を作って後任に引き継いだ。そして4月1日には新しい部署に異動した。
なんかね、この時、本当に寂しかったんだよね。3月31日までの日数を数えて、あぁああ、あと○日しかない、、、とどんよりしてた。戻れることなんてないのに、異動は何かの間違いでそのまま残ってくれ、って言われるんじゃないかとすら思ってた。サラリーマンにとって異動はつきものだけど、その時に、偉くならないと自分のやりたい仕事はできないんだな、って痛感した。どんなに実績上げてても、評価されていても人事異動には敵わない。本当にやりたい仕事をするなら偉くならなきゃ、って思った。当時は独立する、っていう選択肢はものすごくレアなことだったし。こんな思いはもうしたくないな、って痛感したよね。結局、半年後には会社辞めて、好きな仕事に就いた。(その仕事も1年くらいで辞めちゃったけどw)


年度末になると、この時のことを思い出す。好きな仕事を取り上げられる悲しさ、悔しさ。もちろん、人事には理由があってのことではあるけれど、そう簡単には切り替えられなくて、辛い春だったよなぁって。この時期がちょっと苦手なのはそんなことも関係しているのかも。


今はこの時期がそんなに苦手じゃない。変化がない生活をしているからなのかもしれないし、年を重ねて何かが変わったのかもしれないし、その理由はよくわかんないけど、苦手なものが少なくなるのは悪いことじゃないもんね。
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選択肢が違いすぎる 都会と地方の間で

2024-03-27 22:14:52 | コトバ・ニッキ
つい先日、甥っ子(オットの弟の次男)の入学祝いを届けに行った時のこと。
オットの弟はとても若く結婚して子どもを持ち、そんな子どもたちも一番上のお兄ちゃんはもう20代も中盤でバリバリと働いているし、二番目のお姉ちゃんも高校生で海外に行きたい、という希望を持つまでに大きくなっている。


二番目のお姉ちゃん(姪っ子)が、ワーキングホリデーを活用しながらオーストラリアに行こうと思っている、という話を聞いたのが今年のお正月。そのために一生懸命アルバイトをして旅費を貯めているとか。それは素晴らしい経験だし、やれるならやっておいた方がいいよね、となんとも頼もしく思っていた。
折からの円安やなかなかビザが降りないなど様々な困難もあって、ワーホリではなくて語学学校への短期留学をすることになったそうで、5月には出発するんだとか。現地で受け入れてくれる人が見つかったり、話をしたりとバタバタバタと決まったのがつい先週、というくらいのスピード感。当初の予定よりは相当短くなってしまいそうだけど、それでも若い頃に違う環境で暮らす経験、それも親と離れて一人で、っていうのはとても得難いものだから、おばちゃん全力で応援する。


そんな話をしていた時に、弟さんがポツリと、「福岡市内にいるから留学とか、いろんな選択肢がある。俺らの頃には考えられもしなかった」と漏らした。もう完全に引き払ってしまっていてお墓とお寺があるだけだけど、オットの実家はお隣佐賀県の原発がある町のすぐ近くの山の中。小学校も中学校も町に1つだけ、という環境で育って、進学も近くの通えるところで、就職するときは街を出たもののそれでもやっぱり選択肢は少なかったそう。


そうなんだよね、都会と地方の格差、みたいなことが言われているけれど、やっぱり圧倒的に違うのは選択肢の差だと思う。


福岡のような地方の都市であれば、高校も大学もある程度の選択肢があるし、仕事も選べる。(もちろん状況や環境によっては選べない人もいることは承知している。)福岡にいたからいろんな情報、選択肢に触れて「留学」が現実的になったんだと思う。けれども、ちょっと離れた“地方”に行くと、県立以外は認めない、とか、手に職つけるために商業科や工業科、といった選択肢しか無くなっちゃう。そんな環境の中にいるから「留学」って言葉は知っていても、よもや自分たちがそれを選択する、なんて選択肢は持っていない。そういうこと。


テレビやメディアからの情報で言葉は知っているし、そういう選択肢があることも知っている。けれどもそれはテレビの世界の話であって、現実の自分たちの住む場所で起きていることではない、っていう感覚。


やっぱりね、格差ってあると思うのよ。格差っていうほどきつい、強いものじゃないけど、差はある、明らかにある。


くだらない例えかもしれないけれど、東京ドームなどで行われる外タレのコンサート。SNSには「行ってきた、素晴らしかった!」な投稿が溢れている。その外タレのことが好き、いわゆる推しってわけではなく、東京にいて自由になるお金と時間があって、見られるのは貴重だから、というプライスレスな経験を得に参加しているんだろうな、と思って拝見している。これ、やっぱり東京にいる人の特権、メリットだと思うんだよね。わたしもビリージョエルやテイラー、クイーン、ブルーノマーズは見たい。けど、飛行機代、宿代、仕事の調整、留守の調整をして行けるか?って言ったらやっぱり行けない。諦めると思うんだよね。(ま、晃司は諦めないですけどねw)東京にいたら「行ってみたいなー、行っちゃうかなー」くらいの軽い気持ちで見にいける。これが地の利、メリットなんだろうな、って思う。本物に触れる機会が格段に違う。


東京にいてそういうメリットを享受してきたからこそ、余計に強く思うのかもしれないね。
けど、やっぱり東京にいる、ってのは何ものにも代え難いメリットなんだと思う。


美術をやっている従兄弟(当時は神戸在住)が、今から20年くらい前に東京で個展を開催した時にやっぱりポツリと言っていた。


関西でも仕事はできるし、見てもらうことはできる。
けど、東京には圧倒的な量の人がいる。それだけたくさんの人の目に止まるって機会は他の地域ではない。


東京に全てが集まっているから、東京が魅力なわけじゃない。いろんなことが東京で行われるから、東京が魅力なんじゃない。いろんな人が集まる、それも絶対的な量が、それが東京の魅力なんだろうな、と思う。そしてその量の差はどうしたって埋められなくて、小さな世界で生きていく幸せももちろんあるし、今が不幸だとは1ミリも思ってないけれど、一度でも圧倒的な量の世界を知ってしまうと満足できなくなっちゃうんだろうな。
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デジタルとかITとか、苦手意識を持っちゃうとできることが限られちゃうのかもしれないね、な話

2024-03-26 22:17:15 | コトバ・ニッキ
ご縁があって、新しくオープンする施設に関わることになりまして。
複合型の施設でその1フロアがこれまでにないタイプのカルチャースクール。子どもも大人も学べて、コワーキングスペースもあって、設備の整ったスタジオやらキッチンも完備されている。そこでイベント的に講座を行うことになったので、何度かミーティングに参加している。スクールや講座を担当される講師の先生はたくさんいらして、ヨガなどのフィットネス系やダンス、アロマ、ハーブ、手芸、英語にウクレレ、などなど本当に幅広い。いわゆるビジネス系の講座はわたしが担当するもの以外は皆無、な感じ。こういった環境で行うのも初めてなので、場違い感も感じながらも「へー」「ほー」と好奇心全開で参加、参画している。


今日は開業前の内覧を兼ねて、教室、講座の申し込みやチェックインなどの仕組みについての説明があった。


今時ですよね。Webから予約をして、当日は入口でQRコードをかざしてチェックインを行う。
前回のミーティングの時に管理サイト、メンバーサイトの説明があって、一度はログイン、アクセスしているはずだから、その画面でチェックインしてくださいね、な案内に多くのみなさんが四苦八苦されていた。そんなに難しい操作でもないし、むしろ簡単で使いやすいUIだと思ったけど、慣れてないと大変なんだな、という発見。


管理サイトの操作も、画面をスクリーンに映しながら説明してくれたのだけど、ログインできない、その画面に辿り着かない、ホーム画面に追加するにはどうしたら?といった初歩的なところでつまずく人が多かった。


イベントの企画や運営をすることも多いので、Peatixなどイベント管理サイトはよく触っているからか、特段の説明をされなくても、なるほどそういうことね、とサクサク進められたけど、そうかー、普段、LINEでのやりとり程度のIT環境だとこういった操作は「難しい」ってことになっちゃうんだな。


わたし自身はそんなにITやデジタルに強いわけでもないし、力技で乗り越えてきてるところがあるから、どちらかというとIT弱い人、情弱な人、の部類だと思ってた。それはオフィスワークを中心としたビジネス界隈にいるからそのポジショニングなだけで、まだまだITツールを使いこなす人というのは多数派ではないんだなーと実感。わたしよりも世代的には若い人たちばかりだったけど、いわゆるホワイトカラー、デスクワークをしている人のようにSlackだとかTeamsだとかkintoneだとか、そういったグループウェアを日常的に使っていなかったりすると「わぁ、難しい!」ってなっちゃうんだろうな。


スマホ持ってる前提、ネットにアクセスするのは当たり前な前提でいろんなことが組み立てられていて(チケット取ったりするのもそうだし)、苦手だなんて言ってるとできることが少なくなっちゃうし、楽しめることが楽しめなくなっちゃうんだなぁ。


相変わらずフリック入力は苦手で、スマホよりもパソコンの方が圧倒的に使いやすい世代だけど、パソコンもスマホも文房具みたいなものだから、気負わずにさらりと使いこなしていきたいし、おばちゃんもう追いつけないよ、なんて卑下したり諦めたりせずに食らいついていきたいなーと思ったよ。そうでないと、コンサートチケットも取れなくなっちゃうもの。
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手放しちゃったら2度と手に入らないかもしれないけど、なくてもなんとかなるかもしれない

2024-03-25 20:03:32 | コトバ・ニッキ
絶賛断捨離中である。基本的に捨てることに対してはドライで、さくさく捨てちゃう。ゴミの分別が大変なので、計画的に少しずつ捨てないとならないのが難点ですが。


5年前にも一度断捨離して、その時は洋服や食器を中心にバッサリと捨てた。
今回は書類や書籍を中心に捨てている。


書類ってなかなか捨てられなかった。電子データにして取っておけばいいじゃん、とも思うけど、紙か電子かはあんまり関係なくて、その情報を持っておきたいか、読み返すのか、ってシンプルに問うてみた。結果、いらないね、ってものが多かった。
女子大の講座を立ち上げた時の打ち合わせの資料や、ミーティングの議事録、手書きで書いた企画書、ワークショップの設計書、そういったものはどうしても思い入れがあるから捨てられないでいた。けど、読み返すことってあるかな?思い出として取っておきたいだけでしょ?と思い返して、バサバサと捨てていった。50mmのリングファイル5冊分くらい捨てた。


多分ね、こんなにバサバサ捨てられたのは、今が節目というか、そういうタイミングに来ているから、な気がする。
これだけやった、こんなにやった、という証拠、爪痕を残しておきたかっただけで、その内容にはもうすでに思い入れもないし、読み返したり参考にしたりするような情報でもなかった。いったんクローズして、次に進む段階なのかもしれないねぇ。


写真もそうで、実家から独立した時、東京から福岡に引っ越した時、それまでフィルムカメラで撮っていた写真を処分してきた。捨てちゃったらもう2度とお目にかかれないから、取っておこうか、持っていこうか、とも思ったけれど、捨ててきた。結果、寂しい、と思ったことはない。見返すことがあったら懐かしく思うのかもしれないけれど、なくてもどうってことないものなんだな、と思った。あんなに吟味して撮った写真たちなのにね。


文春の岡村ちゃんと晃司の対談で
「尾崎との3人の写真が一枚もない、撮っておけばよかった」という岡村ちゃんに
「今も頭の中にはいっぱい残ってるから」と晃司。


そうなんだよな、物で残ってなくてもちゃんと記憶が残っていればそれでいい、って思う。
そして今日もコツコツ、細々と断捨離に精を出すのでありました。
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推しは見つけるものじゃなくて、気づいたらハマってるものだと思う

2024-03-24 19:51:14 | コトバ・ニッキ
推し活がブームみたいね。特にアラフィフ、アラカンといった妙齢のゾーンに。シニアになって夢中になれるものがあるといいよ、楽しいよ、若々しくいられるよ、みたいな論調で語られることが多くて、これまでだったら密やかに行っていた活動や、誰々が好き♡っていうのを臆面もなく、隠したりせずにいえるようになったのはありがたいし、いい風潮だと思う。
こんなレポートも出たように、経済も回すし、幸福度も高まるみたい。


「推し活」が幸福度を高める?!「応援」から「感謝」まで、多様な推しとの関係性を生み出す"オシノミクス" ―HAKUHODO HUMANOMICS STUDIOがレポート第2弾を発表― |お知らせ|博報堂 HAKUHODO Inc.

株式会社博報堂、博報堂DYグループの株式会社 SIGNING は、生活者発想で経営を考える研究開発・社会実装プロジェクト「HAKUHODO HUMANOMICS STUDIO」の活動の第二弾として...

 


けど、ここ最近の推し活ブームにはちょっと違和感もあって。
それは、「私も頑張って推しを見つけます」って発言。他意はないんだろうけど、推しは見つけるものじゃなくて、気づいたら好きになってる類のものだと思うんだよね。頑張って見つけるって、そこは頑張るところじゃない気がする。誰かを好きになるのに理由や理屈なんてなくて、いい!素敵!って思うところからだろうし、その気持ちは言語化できるようなものでもない。


自分が尊敬している人が、推しの地方公演に行ったり、グッズを集めたり、といった王道の(?)推し活をしていると、「私も頑張って見つけます」って気持ちになっちゃうみたい。わからなくもないけど。推し活やってないと、好奇心を持っていろんなことに取り組んでないように思われるんじゃないか?みたいな気持ちが働くのかな?いやいや、そういうもんじゃないよね。


ここ最近は推し活がポジティブに受け止められているけれど、いい年して歌手や俳優といった芸能人に熱をあげて、お金と時間を使うってどうなのよ?もっと建設的で「ためになる」ことにお金と時間を使うべきじゃない?他にやることあるでしょ、と思われても仕方がない。そんな活動なのよ、推し活って。


それがここ最近の推し活やってると毎日が生き生きキラキラ!みたいな風潮で、推しを作らなきゃ、ってなっちゃう。極端すぎる。


好きになるのに理由はないし、「好き」に対する活動量は人それぞれでいいはずなのに、「推し活」という言葉が一人歩きしちゃって、「推し活」しなきゃプレッシャーが生まれちゃうのはなんだか勿体無い。もっと自由に気楽に「好き」を楽しめばいいじゃんねぇ。と、ちょっと前まで、「同じ内容なのに何度もコンサートに行くとか信じられない!」と周りから呆れられてたわたしはそう思うのでした。


おまけ
オタク気質が高いわたしはこんなのも集めちゃう




ライブ終わった後、飲みながらセトリを復習したり(紙ナプキンに書く!?)



なんならカレンダーも作る笑


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50回だよ!キャリバラトーク会

2024-03-23 22:02:54 | ライブ・イベント




本日は50回目となるキャリアバラエティ・トーク会でした。
キャリアバラエティ、通称キャリバラは、福岡で人材開発や組織開発、キャリア開発など人や組織のあれこれに長いこと関わってこられたヒューマナイズの吉次さん(よっしーさん)がずっと温めていた企画で、ひょんなことから一緒に運営をすることになって10年が経ちました。他の仕事や体調などなどいろんな条件が重なって、少しペースダウンする時期があったり、コロナ禍で従来の集まってのトーク会ができなくなった時期があったりとそれなりに紆余曲折はありましたが、ゆるりとふわりと気づけば50回。こんなに続けられたのはひとえによっしーさんの人柄、人脈、そしてご参加いただいた皆さんのおかげです。ますますもって足を向けては寝られない。


キャリバラはパラレルキャリアなど、多様な働き方を実践している(挑戦している)人を紹介することを通じて、多様な働き方・生き方を応援&追求するコミュニティで、事前にインタビューした内容を記事にまとめてnoteに公開、実際にトークゲストとしてお越しいただき、参加者の方との対話を楽しむトーク会を実施しています。以前はFacebookにあったノートの機能を使って記事を上げていたんだけど、今やノート機能がなくなり、閲覧もできなくなってしまった。アーカイブはとってあるけど、一般に公開しているのはvol.30以降のみとなっています。


キャリアバラエティ(キャリバラ)|note

「キャリアバラエティ」は、パラレルキャリアなど、多様な働き方を実践している(挑戦している)人を紹介することを通じて、多様な働き方・生き方を応援&追求するコミュニ...

note(ノート)

 


毎回、キャリバラの取材は楽しくて、記事を作成するのはそれなりに大変でうぅううううぅううん、と眉間に皺を寄せながらの作業になっているけれど、できた記事をゲストのかたが喜んでくださったり、わたしの似てない似顔絵をアイコンにしてくださったり、そういうのが本当に嬉しい。


トーク会は、ものすっごい頑張って集客しているわけではなくて、きっと何かがフック、きっかけになってキャリバラに参加してくださるのだろうから、その時その場に集まる縁や奇跡を大事にしたいよね、というのがよっしーさんの思い。わたしも同じ。きっと何かの必然があってその場に集まってくるんだろうなーって思ってる。もちろん複数回ご参加いただいている常連さんもいらっしゃるけれど、毎回参加者が違って、会の雰囲気も違う。けど、どの回も「今日も楽しかった!いい時間だった!」と心の底から思えるんだよね、不思議なくらい。主催、運営しているわたしたちが一番楽しんで、一番癒されてる気がする。


ゲストはどんなふうに決めてるんですか?とたまにご質問をいただくけれど、よっしーさんやわたしが話を聞きたい人、これに尽きる(おい)。世の中的にすごい功績のある人や、女性活躍とかダイバシティの文脈でいろんな場で登壇されている方、もちろんそういう方にもご登場いただいているけれど、キャリバラで紹介したいのはキラキラしたキャリアじゃない、迷ったり、ご縁に導かれたりして、なるようになっていくんだろうなーと思わせてくれるような、そんなキャリアな気がする。どの方の話も等身大で自然で、だからこそ、参加された方の胸を打つんだろうし、自分に投影していろいろと考えることができるんだろうな、とも思う。


続けるコツは頑張りすぎないこと、と慣れすぎないこと、な気がしている。続けよう、と肩肘張って頑張る必要がないくらい楽しい活動ではあるんだけれど、それでも2ヶ月に1本は記事をあげよう、とか、記事をフォーマット化するなど定型化、省力化していくことでもっと量産できるのかもしれないけれど、そこは目指してないし、目指しちゃいけない気がしている。毎回毎回話を聞いて「!」と思った新鮮な気持ちをベースに、うんうん唸りながらレイアウトを考えたりしながら記事を書いている。50回もやっているんだからもっと上手くできるようになってもいいんだろうけど、ずっと素人のままで、素人のように新鮮な気持ちで書き続けていきたいなーと思う。もうちょっと文章は上手く書けるようになりたいけど、ってか、書けるようになっていいと思うけどw
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生きてまた会おう 

2024-03-23 01:43:44 | ライブ・イベント
行ってきた!怒髪天「ザ・リローデッドTOUR2024」IN福岡 LIVEHOUSE CB




シミさんが「解雇」になったり、増子さんが体調不良で何曲かやれなかったライブがあったりと、きっとこれまでの怒髪天とは何かが違うんだろうな、と始まる前はちょっとドキドキしていた。
結果、これまでの怒髪天とは違うけど、でもすっごいよかった、最高だよ、って思った。


セットリストもよかったよね。1曲目からこれ!!!って怒涛の展開でMCも少なめでガンガン行く。みんなへの応援歌のようでもあり、自分たちを奮い立たせているようでもあり、きっと人によってグッとくるポイントは違うんだろうけど、いちいちグッと来たよね。


サポートベースはアナーキーの寺岡さん。これがもうものすんごい音圧で、新しいグルーブが生まれてた気がする。友康さんと真ん中に出てきて弾き合うのとか、めっちゃかっこよかった。ブギっぽい曲調が途中に何曲かあったけど、ベースラインがずんずん響いて気持ちよかった!


増子さんの体調が心配だったけど、お医者さん曰く何の問題もないそうで、ほっと一安心。そんな元気な増子さんが体調不良になっちゃうくらい、あれこれとストレスがすごかったんだね。


このインタビュー記事に、シミさん解雇の経緯や思いが丁寧に綴られているけれど、「解雇」って言葉は厳しいものがあるけれど、でも、そこにあるのは愛だよなぁ、って思った。「脱退」だとシミさんとは意思を持ってお別れして、またいつか一緒にできる日が来たら一緒にやろうぜ、っていうのはない感じがするけど、「解雇」ってことは「再雇用」があるかもしれないじゃん。いつか、はもうないのかもしれないけれど、いろんなことが整ったらまた一緒にステージに立つ可能性が、受け入れる可能性が残っている、ってそんなふうにも感じた。

怒髪天 増子直純が明かす、“メンバー解雇”決断の経緯 4人最後のステージは「感謝しかない」

怒髪天 ベーシスト・清水泰次の解雇という衝撃。併せて、本人をはじめとしたメンバーの実直すぎるコメントは大きな反響を呼んだ。バンドにとって大事な節目である40周年にこ...

Real Sound|リアルサウンド

 


「ピンチはチャンスなんかじゃない。ピンチはピンチなんだよ。すんごい顔して乗り越えていくからさ、乗り越えた先にチャンスがあるかもしれないって思ってる。」
変に気楽に気安く構えちゃうんじゃなくて、ちゃんとピンチをピンチって認識して、それでも進んで行こうとするの、ほんとかっこいいし、かっこ悪いところもちゃんと見せるのもかっこいい。


「この先どうなるのかわかんないけどさ、ライブやってる時は無条件で楽しい。それでいいじゃん。」
ライブバンドである怒髪天の増子さんが言うこの言葉はとっても重いし、刺さる。わたしも全力で楽しむし、無条件に楽しい。それでいいし、そのくらい集中して自分の中心にあるものをまっとうできたら最高だな、って思った。


最後にいつも増子さんが叫ぶ「生きてまた会おう!」。
年々この言葉の重さが増していくけれど、生きてるだけでオッケー、生きてまた会えるように、しっかりと生きていこう、生き延びよう、とそんな力をもらえた夜でした。


もう1箇所くらい行きたいなー。行けるかなー。

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「思考」だらけ

2024-03-21 21:55:45 | ドクショ
昨日、「余白思考」を読んで感想を書いた。
ふと、そういや「思考」とタイトルについた本がやたらと多いなぁ、と本棚を眺めたら、こんなにあった。



だいぶ偏ったわたしの本棚でこれですから、きっと大型書店に行ったらもっとすごいことになってるんだろうなー。


それだけわたしたちは日々「考えること」をしていて、「考え方」を求めている、ってことなのかもしれないね。


新しいアイデアを考えたり、やもっと効率よく(うまく)仕事をする方法はないのかな?と考えたり、物事をポジティブに捉えようとしたり、今よりももっとよくしよう、きっとよくなる、って思っているからこそ、「考える」し、「思考」の仕方を欲するのかもね。


これらの本は確かにわたしの書棚にあって、一度は読んでいるもの。何かしら引っ掛かりがあったり、覚えている箇所もあるけれど、悲しいかな、全部は覚えていないし、実践もできていない。実践できてたらきっと今頃もっと楽に生きてるだろうし、いろんなことを成し遂げていることでしょう。


けどね、ふと思った。


女子大の学び直し講座でデザイン思考に出会った。厳密に言えば、ラーニングイノベーション論で博報堂大学に見学に行った時に「デザイン思考」という言葉は聞いていたんだけど、ちゃんと認識して、いろんなワークショップに参加したり、自分自身もデザイン思考のプロセスでプロジェクトを回してみたり、それなりに、学びを深めた。デザイナーの感性、考え方をメソッドにしたもので、イノベーションを起こす思考法の一つであるとされている。何やらすごいもののように見えるけれど、誰かの困りごとを解決する、生活者視点が大事であることなど、身の丈にあったというか、地に足ついた感覚があって、だからこそ探究し続けている気がしている。


新規事業や企画に携わっていなくてもデザイン思考的な考えやマインドセットを持つって大事だなぁ、と思っているから、学び直しでもそのことをお伝えしている。


折に触れて思い出すのが、プログラムを立ち上げた森田先生の言葉、思い。
先生はいつもこうおっしゃっていた。


世の中には思考法はたくさんあって、思考法を学ぶ講座、機会はたくさんある。けれどもこの講座では、何が解くべき問いなのか?を見つけることを大事にしたい。それはあなたが本当に解くべき問いですか?


これに尽きる、と思っている。思考法をいくら学んでも解決なんてできない。本当に解くべき問い、課題はなんなのか?課題を見つけ、捉えることこそが大事で、それに時間をかけたい。
アインシュタインも言ってるもん。問題解決に20日かけられるなら、問題発見に19日かけたいって。


本当の問い、課題を見つけるのはそう簡単なことではなくて、だから課題はそこにある前提で、解決に導いてくれる「思考法」に飛びついちゃうのかもしれないねぇ。なんて。


でも、いろんな思考法を知っていることは、それだけ考えの幅を広げてくれるってことだから、いい意味で逃げ場ができて、生きやすくなりそうだよね。いいとこどりでもいいじゃん。どんどん吸収して、使っていこうと思ったよ。
いくつか斜め読みしただけの本もあるので、これを機に再読してみよう。


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余白とは、何も描かれないで残っている部分ではなくて、あえて余らせているスペースのこと

2024-03-20 21:39:40 | ドクショ
「余白思考」を読んだ。

<1/9新刊>『余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術』

気鋭のコメンテーターでアーティスト・デザイナー、経営者の著者が贈る、生産性・業績・処理能力を下げずにクリエイティビティを爆上げする思考法

日経BOOKプラス

 


年明けに開催した強みカフェで、板谷オーナーが最後のワークに向かうみなさんに対して
「余白が大事、正解も優劣もない、強みを活かしたらこんなにハッピー!っていうのを絵にして!」とメッセージを送ったことがアルゴリズムに引っかかったのか、その頃発刊された「余白思考」の広告がどどーんとタイムラインに上がってきたんですって。へぇぇ、余白思考―、最近はなんでも○○思考って名付けるんだねぇ、なんて軽く流してたんだけど、ついこの前、散歩しながらVoicy聴いてたら、日経BPのチャンネルで紹介されていた。本には書かれていないエピソードもたくさん話されていたようで、あらやだ面白そう!!とすぐさま入手。最近、すっかり本が読めなくなったわたしにしては、へぇー、ほぉー、とサクサク読み進められた。


グラレコ講座でも「余白が大事」といつもお伝えしている。どうしたって余白があると埋めたくなっちゃうし、余白ができると「あぁああ、こんなに余っちゃった、バランス悪い、どうしよう?」ってなっちゃう。でもね、そんなことないんだよ、余白は意識して作るくらいでちょうどいいってお伝えしている。後から付け足しができる、自分の考えや感想、わからないこと、腑に落ちないことなどをメモしておける、だから余白はあった方がいいって。


この本で言うところの余白とわたしが伝えている余白とは似ている部分もちょっと違う部分もあるけれど、グラレコでいえば、紙を全部埋める必要なんてなくて、記録ができていればいいのだけど、どうしても余白ができると「こんなに余っちゃったんです、、、」と言われてしまう。本の中でも、余白は悪いことじゃない、ポジティブなことなんだ、とあれこれ表現を変えて伝えていたくらい、余白はあってはならないものプレッシャーは相当なものだ。だからこそ「余白」が必要なのかもね。


この本の中では、いろんな種類、タイプの余白を持つと人生が楽になるよ、仕事が楽しくなるよ、を伝えている(相当意訳)。


苦手なものとの距離(=余白)を取れば、人間関係で悩みすぎることはなくなるし、完璧を目指したり、100%期待に応えようとするんじゃなくてどこかに減点(=余白)を持っておけばうまくいかなかったとしても心が折れることもなくなるよね、なことが書かれている。


人(人間)にとっての余白って、わたしはこの左の図をイメージしていた。



自分の中に余白を持つ。時間的な余白、体力的な余白、いろんな考えを受け止められる気持ちのの余白、、、、そんな余白(余裕)を持つことで新しい何かを受け入れることができる、とそうイメージしていた。


この本でいう「余白」はちょっと違っていて、右側。
ふわふわのクッション、綿飴みたいなものとでも言うのかな、時には跳ね返したり、吸収したり、ちょっと距離を置いたり、自分を守ってくれるもの。鋼の鎧やバリアーみたいに自分の殻に閉じこもるんじゃなくて、面白そうなことや新しいことはジュワッと染み込む、そんな変幻自在な鎧であり、隙間なのかもしれないね。


ここ最近「余白」ってワードをいろんなところで目にして、余白のある暮らしをしなくちゃ!とことさらに言われていて余白を持ちなさい圧も感じていたので、穿った見方もしていたけれど、名言、金言もたくさんあって面白かった。怒られたら「すみません」を20回言おう、なんて秀逸。言葉を発して謝ることで、怒っている相手との間に距離=余白が生まれるから、怒られたことに対して必要以上に心を痛めなくなる、って言うのはなるほど納得。こういうふわりと力の抜けたあり方をしていたいと思ったよ。わたしがイメージしていた「余白」は吸収するために必要なもの、という認識だったけど、苦手なものを遠ざける余白もあっていいんだ、って思うととっても気持ちが楽になるよね。
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