わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

デジタルとかITとか、苦手意識を持っちゃうとできることが限られちゃうのかもしれないね、な話

2024-03-26 22:17:15 | コトバ・ニッキ
ご縁があって、新しくオープンする施設に関わることになりまして。
複合型の施設でその1フロアがこれまでにないタイプのカルチャースクール。子どもも大人も学べて、コワーキングスペースもあって、設備の整ったスタジオやらキッチンも完備されている。そこでイベント的に講座を行うことになったので、何度かミーティングに参加している。スクールや講座を担当される講師の先生はたくさんいらして、ヨガなどのフィットネス系やダンス、アロマ、ハーブ、手芸、英語にウクレレ、などなど本当に幅広い。いわゆるビジネス系の講座はわたしが担当するもの以外は皆無、な感じ。こういった環境で行うのも初めてなので、場違い感も感じながらも「へー」「ほー」と好奇心全開で参加、参画している。


今日は開業前の内覧を兼ねて、教室、講座の申し込みやチェックインなどの仕組みについての説明があった。


今時ですよね。Webから予約をして、当日は入口でQRコードをかざしてチェックインを行う。
前回のミーティングの時に管理サイト、メンバーサイトの説明があって、一度はログイン、アクセスしているはずだから、その画面でチェックインしてくださいね、な案内に多くのみなさんが四苦八苦されていた。そんなに難しい操作でもないし、むしろ簡単で使いやすいUIだと思ったけど、慣れてないと大変なんだな、という発見。


管理サイトの操作も、画面をスクリーンに映しながら説明してくれたのだけど、ログインできない、その画面に辿り着かない、ホーム画面に追加するにはどうしたら?といった初歩的なところでつまずく人が多かった。


イベントの企画や運営をすることも多いので、Peatixなどイベント管理サイトはよく触っているからか、特段の説明をされなくても、なるほどそういうことね、とサクサク進められたけど、そうかー、普段、LINEでのやりとり程度のIT環境だとこういった操作は「難しい」ってことになっちゃうんだな。


わたし自身はそんなにITやデジタルに強いわけでもないし、力技で乗り越えてきてるところがあるから、どちらかというとIT弱い人、情弱な人、の部類だと思ってた。それはオフィスワークを中心としたビジネス界隈にいるからそのポジショニングなだけで、まだまだITツールを使いこなす人というのは多数派ではないんだなーと実感。わたしよりも世代的には若い人たちばかりだったけど、いわゆるホワイトカラー、デスクワークをしている人のようにSlackだとかTeamsだとかkintoneだとか、そういったグループウェアを日常的に使っていなかったりすると「わぁ、難しい!」ってなっちゃうんだろうな。


スマホ持ってる前提、ネットにアクセスするのは当たり前な前提でいろんなことが組み立てられていて(チケット取ったりするのもそうだし)、苦手だなんて言ってるとできることが少なくなっちゃうし、楽しめることが楽しめなくなっちゃうんだなぁ。


相変わらずフリック入力は苦手で、スマホよりもパソコンの方が圧倒的に使いやすい世代だけど、パソコンもスマホも文房具みたいなものだから、気負わずにさらりと使いこなしていきたいし、おばちゃんもう追いつけないよ、なんて卑下したり諦めたりせずに食らいついていきたいなーと思ったよ。そうでないと、コンサートチケットも取れなくなっちゃうもの。
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手放しちゃったら2度と手に入らないかもしれないけど、なくてもなんとかなるかもしれない

2024-03-25 20:03:32 | コトバ・ニッキ
絶賛断捨離中である。基本的に捨てることに対してはドライで、さくさく捨てちゃう。ゴミの分別が大変なので、計画的に少しずつ捨てないとならないのが難点ですが。


5年前にも一度断捨離して、その時は洋服や食器を中心にバッサリと捨てた。
今回は書類や書籍を中心に捨てている。


書類ってなかなか捨てられなかった。電子データにして取っておけばいいじゃん、とも思うけど、紙か電子かはあんまり関係なくて、その情報を持っておきたいか、読み返すのか、ってシンプルに問うてみた。結果、いらないね、ってものが多かった。
女子大の講座を立ち上げた時の打ち合わせの資料や、ミーティングの議事録、手書きで書いた企画書、ワークショップの設計書、そういったものはどうしても思い入れがあるから捨てられないでいた。けど、読み返すことってあるかな?思い出として取っておきたいだけでしょ?と思い返して、バサバサと捨てていった。50mmのリングファイル5冊分くらい捨てた。


多分ね、こんなにバサバサ捨てられたのは、今が節目というか、そういうタイミングに来ているから、な気がする。
これだけやった、こんなにやった、という証拠、爪痕を残しておきたかっただけで、その内容にはもうすでに思い入れもないし、読み返したり参考にしたりするような情報でもなかった。いったんクローズして、次に進む段階なのかもしれないねぇ。


写真もそうで、実家から独立した時、東京から福岡に引っ越した時、それまでフィルムカメラで撮っていた写真を処分してきた。捨てちゃったらもう2度とお目にかかれないから、取っておこうか、持っていこうか、とも思ったけれど、捨ててきた。結果、寂しい、と思ったことはない。見返すことがあったら懐かしく思うのかもしれないけれど、なくてもどうってことないものなんだな、と思った。あんなに吟味して撮った写真たちなのにね。


文春の岡村ちゃんと晃司の対談で
「尾崎との3人の写真が一枚もない、撮っておけばよかった」という岡村ちゃんに
「今も頭の中にはいっぱい残ってるから」と晃司。


そうなんだよな、物で残ってなくてもちゃんと記憶が残っていればそれでいい、って思う。
そして今日もコツコツ、細々と断捨離に精を出すのでありました。
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推しは見つけるものじゃなくて、気づいたらハマってるものだと思う

2024-03-24 19:51:14 | コトバ・ニッキ
推し活がブームみたいね。特にアラフィフ、アラカンといった妙齢のゾーンに。シニアになって夢中になれるものがあるといいよ、楽しいよ、若々しくいられるよ、みたいな論調で語られることが多くて、これまでだったら密やかに行っていた活動や、誰々が好き♡っていうのを臆面もなく、隠したりせずにいえるようになったのはありがたいし、いい風潮だと思う。
こんなレポートも出たように、経済も回すし、幸福度も高まるみたい。


「推し活」が幸福度を高める?!「応援」から「感謝」まで、多様な推しとの関係性を生み出す"オシノミクス" ―HAKUHODO HUMANOMICS STUDIOがレポート第2弾を発表― |お知らせ|博報堂 HAKUHODO Inc.

株式会社博報堂、博報堂DYグループの株式会社 SIGNING は、生活者発想で経営を考える研究開発・社会実装プロジェクト「HAKUHODO HUMANOMICS STUDIO」の活動の第二弾として...

 


けど、ここ最近の推し活ブームにはちょっと違和感もあって。
それは、「私も頑張って推しを見つけます」って発言。他意はないんだろうけど、推しは見つけるものじゃなくて、気づいたら好きになってる類のものだと思うんだよね。頑張って見つけるって、そこは頑張るところじゃない気がする。誰かを好きになるのに理由や理屈なんてなくて、いい!素敵!って思うところからだろうし、その気持ちは言語化できるようなものでもない。


自分が尊敬している人が、推しの地方公演に行ったり、グッズを集めたり、といった王道の(?)推し活をしていると、「私も頑張って見つけます」って気持ちになっちゃうみたい。わからなくもないけど。推し活やってないと、好奇心を持っていろんなことに取り組んでないように思われるんじゃないか?みたいな気持ちが働くのかな?いやいや、そういうもんじゃないよね。


ここ最近は推し活がポジティブに受け止められているけれど、いい年して歌手や俳優といった芸能人に熱をあげて、お金と時間を使うってどうなのよ?もっと建設的で「ためになる」ことにお金と時間を使うべきじゃない?他にやることあるでしょ、と思われても仕方がない。そんな活動なのよ、推し活って。


それがここ最近の推し活やってると毎日が生き生きキラキラ!みたいな風潮で、推しを作らなきゃ、ってなっちゃう。極端すぎる。


好きになるのに理由はないし、「好き」に対する活動量は人それぞれでいいはずなのに、「推し活」という言葉が一人歩きしちゃって、「推し活」しなきゃプレッシャーが生まれちゃうのはなんだか勿体無い。もっと自由に気楽に「好き」を楽しめばいいじゃんねぇ。と、ちょっと前まで、「同じ内容なのに何度もコンサートに行くとか信じられない!」と周りから呆れられてたわたしはそう思うのでした。


おまけ
オタク気質が高いわたしはこんなのも集めちゃう




ライブ終わった後、飲みながらセトリを復習したり(紙ナプキンに書く!?)



なんならカレンダーも作る笑


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50回だよ!キャリバラトーク会

2024-03-23 22:02:54 | ライブ・イベント




本日は50回目となるキャリアバラエティ・トーク会でした。
キャリアバラエティ、通称キャリバラは、福岡で人材開発や組織開発、キャリア開発など人や組織のあれこれに長いこと関わってこられたヒューマナイズの吉次さん(よっしーさん)がずっと温めていた企画で、ひょんなことから一緒に運営をすることになって10年が経ちました。他の仕事や体調などなどいろんな条件が重なって、少しペースダウンする時期があったり、コロナ禍で従来の集まってのトーク会ができなくなった時期があったりとそれなりに紆余曲折はありましたが、ゆるりとふわりと気づけば50回。こんなに続けられたのはひとえによっしーさんの人柄、人脈、そしてご参加いただいた皆さんのおかげです。ますますもって足を向けては寝られない。


キャリバラはパラレルキャリアなど、多様な働き方を実践している(挑戦している)人を紹介することを通じて、多様な働き方・生き方を応援&追求するコミュニティで、事前にインタビューした内容を記事にまとめてnoteに公開、実際にトークゲストとしてお越しいただき、参加者の方との対話を楽しむトーク会を実施しています。以前はFacebookにあったノートの機能を使って記事を上げていたんだけど、今やノート機能がなくなり、閲覧もできなくなってしまった。アーカイブはとってあるけど、一般に公開しているのはvol.30以降のみとなっています。


キャリアバラエティ(キャリバラ)|note

「キャリアバラエティ」は、パラレルキャリアなど、多様な働き方を実践している(挑戦している)人を紹介することを通じて、多様な働き方・生き方を応援&追求するコミュニ...

note(ノート)

 


毎回、キャリバラの取材は楽しくて、記事を作成するのはそれなりに大変でうぅううううぅううん、と眉間に皺を寄せながらの作業になっているけれど、できた記事をゲストのかたが喜んでくださったり、わたしの似てない似顔絵をアイコンにしてくださったり、そういうのが本当に嬉しい。


トーク会は、ものすっごい頑張って集客しているわけではなくて、きっと何かがフック、きっかけになってキャリバラに参加してくださるのだろうから、その時その場に集まる縁や奇跡を大事にしたいよね、というのがよっしーさんの思い。わたしも同じ。きっと何かの必然があってその場に集まってくるんだろうなーって思ってる。もちろん複数回ご参加いただいている常連さんもいらっしゃるけれど、毎回参加者が違って、会の雰囲気も違う。けど、どの回も「今日も楽しかった!いい時間だった!」と心の底から思えるんだよね、不思議なくらい。主催、運営しているわたしたちが一番楽しんで、一番癒されてる気がする。


ゲストはどんなふうに決めてるんですか?とたまにご質問をいただくけれど、よっしーさんやわたしが話を聞きたい人、これに尽きる(おい)。世の中的にすごい功績のある人や、女性活躍とかダイバシティの文脈でいろんな場で登壇されている方、もちろんそういう方にもご登場いただいているけれど、キャリバラで紹介したいのはキラキラしたキャリアじゃない、迷ったり、ご縁に導かれたりして、なるようになっていくんだろうなーと思わせてくれるような、そんなキャリアな気がする。どの方の話も等身大で自然で、だからこそ、参加された方の胸を打つんだろうし、自分に投影していろいろと考えることができるんだろうな、とも思う。


続けるコツは頑張りすぎないこと、と慣れすぎないこと、な気がしている。続けよう、と肩肘張って頑張る必要がないくらい楽しい活動ではあるんだけれど、それでも2ヶ月に1本は記事をあげよう、とか、記事をフォーマット化するなど定型化、省力化していくことでもっと量産できるのかもしれないけれど、そこは目指してないし、目指しちゃいけない気がしている。毎回毎回話を聞いて「!」と思った新鮮な気持ちをベースに、うんうん唸りながらレイアウトを考えたりしながら記事を書いている。50回もやっているんだからもっと上手くできるようになってもいいんだろうけど、ずっと素人のままで、素人のように新鮮な気持ちで書き続けていきたいなーと思う。もうちょっと文章は上手く書けるようになりたいけど、ってか、書けるようになっていいと思うけどw
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生きてまた会おう 

2024-03-23 01:43:44 | ライブ・イベント
行ってきた!怒髪天「ザ・リローデッドTOUR2024」IN福岡 LIVEHOUSE CB




シミさんが「解雇」になったり、増子さんが体調不良で何曲かやれなかったライブがあったりと、きっとこれまでの怒髪天とは何かが違うんだろうな、と始まる前はちょっとドキドキしていた。
結果、これまでの怒髪天とは違うけど、でもすっごいよかった、最高だよ、って思った。


セットリストもよかったよね。1曲目からこれ!!!って怒涛の展開でMCも少なめでガンガン行く。みんなへの応援歌のようでもあり、自分たちを奮い立たせているようでもあり、きっと人によってグッとくるポイントは違うんだろうけど、いちいちグッと来たよね。


サポートベースはアナーキーの寺岡さん。これがもうものすんごい音圧で、新しいグルーブが生まれてた気がする。友康さんと真ん中に出てきて弾き合うのとか、めっちゃかっこよかった。ブギっぽい曲調が途中に何曲かあったけど、ベースラインがずんずん響いて気持ちよかった!


増子さんの体調が心配だったけど、お医者さん曰く何の問題もないそうで、ほっと一安心。そんな元気な増子さんが体調不良になっちゃうくらい、あれこれとストレスがすごかったんだね。


このインタビュー記事に、シミさん解雇の経緯や思いが丁寧に綴られているけれど、「解雇」って言葉は厳しいものがあるけれど、でも、そこにあるのは愛だよなぁ、って思った。「脱退」だとシミさんとは意思を持ってお別れして、またいつか一緒にできる日が来たら一緒にやろうぜ、っていうのはない感じがするけど、「解雇」ってことは「再雇用」があるかもしれないじゃん。いつか、はもうないのかもしれないけれど、いろんなことが整ったらまた一緒にステージに立つ可能性が、受け入れる可能性が残っている、ってそんなふうにも感じた。

怒髪天 増子直純が明かす、“メンバー解雇”決断の経緯 4人最後のステージは「感謝しかない」

怒髪天 ベーシスト・清水泰次の解雇という衝撃。併せて、本人をはじめとしたメンバーの実直すぎるコメントは大きな反響を呼んだ。バンドにとって大事な節目である40周年にこ...

Real Sound|リアルサウンド

 


「ピンチはチャンスなんかじゃない。ピンチはピンチなんだよ。すんごい顔して乗り越えていくからさ、乗り越えた先にチャンスがあるかもしれないって思ってる。」
変に気楽に気安く構えちゃうんじゃなくて、ちゃんとピンチをピンチって認識して、それでも進んで行こうとするの、ほんとかっこいいし、かっこ悪いところもちゃんと見せるのもかっこいい。


「この先どうなるのかわかんないけどさ、ライブやってる時は無条件で楽しい。それでいいじゃん。」
ライブバンドである怒髪天の増子さんが言うこの言葉はとっても重いし、刺さる。わたしも全力で楽しむし、無条件に楽しい。それでいいし、そのくらい集中して自分の中心にあるものをまっとうできたら最高だな、って思った。


最後にいつも増子さんが叫ぶ「生きてまた会おう!」。
年々この言葉の重さが増していくけれど、生きてるだけでオッケー、生きてまた会えるように、しっかりと生きていこう、生き延びよう、とそんな力をもらえた夜でした。


もう1箇所くらい行きたいなー。行けるかなー。

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「思考」だらけ

2024-03-21 21:55:45 | ドクショ
昨日、「余白思考」を読んで感想を書いた。
ふと、そういや「思考」とタイトルについた本がやたらと多いなぁ、と本棚を眺めたら、こんなにあった。



だいぶ偏ったわたしの本棚でこれですから、きっと大型書店に行ったらもっとすごいことになってるんだろうなー。


それだけわたしたちは日々「考えること」をしていて、「考え方」を求めている、ってことなのかもしれないね。


新しいアイデアを考えたり、やもっと効率よく(うまく)仕事をする方法はないのかな?と考えたり、物事をポジティブに捉えようとしたり、今よりももっとよくしよう、きっとよくなる、って思っているからこそ、「考える」し、「思考」の仕方を欲するのかもね。


これらの本は確かにわたしの書棚にあって、一度は読んでいるもの。何かしら引っ掛かりがあったり、覚えている箇所もあるけれど、悲しいかな、全部は覚えていないし、実践もできていない。実践できてたらきっと今頃もっと楽に生きてるだろうし、いろんなことを成し遂げていることでしょう。


けどね、ふと思った。


女子大の学び直し講座でデザイン思考に出会った。厳密に言えば、ラーニングイノベーション論で博報堂大学に見学に行った時に「デザイン思考」という言葉は聞いていたんだけど、ちゃんと認識して、いろんなワークショップに参加したり、自分自身もデザイン思考のプロセスでプロジェクトを回してみたり、それなりに、学びを深めた。デザイナーの感性、考え方をメソッドにしたもので、イノベーションを起こす思考法の一つであるとされている。何やらすごいもののように見えるけれど、誰かの困りごとを解決する、生活者視点が大事であることなど、身の丈にあったというか、地に足ついた感覚があって、だからこそ探究し続けている気がしている。


新規事業や企画に携わっていなくてもデザイン思考的な考えやマインドセットを持つって大事だなぁ、と思っているから、学び直しでもそのことをお伝えしている。


折に触れて思い出すのが、プログラムを立ち上げた森田先生の言葉、思い。
先生はいつもこうおっしゃっていた。


世の中には思考法はたくさんあって、思考法を学ぶ講座、機会はたくさんある。けれどもこの講座では、何が解くべき問いなのか?を見つけることを大事にしたい。それはあなたが本当に解くべき問いですか?


これに尽きる、と思っている。思考法をいくら学んでも解決なんてできない。本当に解くべき問い、課題はなんなのか?課題を見つけ、捉えることこそが大事で、それに時間をかけたい。
アインシュタインも言ってるもん。問題解決に20日かけられるなら、問題発見に19日かけたいって。


本当の問い、課題を見つけるのはそう簡単なことではなくて、だから課題はそこにある前提で、解決に導いてくれる「思考法」に飛びついちゃうのかもしれないねぇ。なんて。


でも、いろんな思考法を知っていることは、それだけ考えの幅を広げてくれるってことだから、いい意味で逃げ場ができて、生きやすくなりそうだよね。いいとこどりでもいいじゃん。どんどん吸収して、使っていこうと思ったよ。
いくつか斜め読みしただけの本もあるので、これを機に再読してみよう。


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余白とは、何も描かれないで残っている部分ではなくて、あえて余らせているスペースのこと

2024-03-20 21:39:40 | ドクショ
「余白思考」を読んだ。

<1/9新刊>『余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術』

気鋭のコメンテーターでアーティスト・デザイナー、経営者の著者が贈る、生産性・業績・処理能力を下げずにクリエイティビティを爆上げする思考法

日経BOOKプラス

 


年明けに開催した強みカフェで、板谷オーナーが最後のワークに向かうみなさんに対して
「余白が大事、正解も優劣もない、強みを活かしたらこんなにハッピー!っていうのを絵にして!」とメッセージを送ったことがアルゴリズムに引っかかったのか、その頃発刊された「余白思考」の広告がどどーんとタイムラインに上がってきたんですって。へぇぇ、余白思考―、最近はなんでも○○思考って名付けるんだねぇ、なんて軽く流してたんだけど、ついこの前、散歩しながらVoicy聴いてたら、日経BPのチャンネルで紹介されていた。本には書かれていないエピソードもたくさん話されていたようで、あらやだ面白そう!!とすぐさま入手。最近、すっかり本が読めなくなったわたしにしては、へぇー、ほぉー、とサクサク読み進められた。


グラレコ講座でも「余白が大事」といつもお伝えしている。どうしたって余白があると埋めたくなっちゃうし、余白ができると「あぁああ、こんなに余っちゃった、バランス悪い、どうしよう?」ってなっちゃう。でもね、そんなことないんだよ、余白は意識して作るくらいでちょうどいいってお伝えしている。後から付け足しができる、自分の考えや感想、わからないこと、腑に落ちないことなどをメモしておける、だから余白はあった方がいいって。


この本で言うところの余白とわたしが伝えている余白とは似ている部分もちょっと違う部分もあるけれど、グラレコでいえば、紙を全部埋める必要なんてなくて、記録ができていればいいのだけど、どうしても余白ができると「こんなに余っちゃったんです、、、」と言われてしまう。本の中でも、余白は悪いことじゃない、ポジティブなことなんだ、とあれこれ表現を変えて伝えていたくらい、余白はあってはならないものプレッシャーは相当なものだ。だからこそ「余白」が必要なのかもね。


この本の中では、いろんな種類、タイプの余白を持つと人生が楽になるよ、仕事が楽しくなるよ、を伝えている(相当意訳)。


苦手なものとの距離(=余白)を取れば、人間関係で悩みすぎることはなくなるし、完璧を目指したり、100%期待に応えようとするんじゃなくてどこかに減点(=余白)を持っておけばうまくいかなかったとしても心が折れることもなくなるよね、なことが書かれている。


人(人間)にとっての余白って、わたしはこの左の図をイメージしていた。



自分の中に余白を持つ。時間的な余白、体力的な余白、いろんな考えを受け止められる気持ちのの余白、、、、そんな余白(余裕)を持つことで新しい何かを受け入れることができる、とそうイメージしていた。


この本でいう「余白」はちょっと違っていて、右側。
ふわふわのクッション、綿飴みたいなものとでも言うのかな、時には跳ね返したり、吸収したり、ちょっと距離を置いたり、自分を守ってくれるもの。鋼の鎧やバリアーみたいに自分の殻に閉じこもるんじゃなくて、面白そうなことや新しいことはジュワッと染み込む、そんな変幻自在な鎧であり、隙間なのかもしれないね。


ここ最近「余白」ってワードをいろんなところで目にして、余白のある暮らしをしなくちゃ!とことさらに言われていて余白を持ちなさい圧も感じていたので、穿った見方もしていたけれど、名言、金言もたくさんあって面白かった。怒られたら「すみません」を20回言おう、なんて秀逸。言葉を発して謝ることで、怒っている相手との間に距離=余白が生まれるから、怒られたことに対して必要以上に心を痛めなくなる、って言うのはなるほど納得。こういうふわりと力の抜けたあり方をしていたいと思ったよ。わたしがイメージしていた「余白」は吸収するために必要なもの、という認識だったけど、苦手なものを遠ざける余白もあっていいんだ、って思うととっても気持ちが楽になるよね。
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余裕を楽しもう

2024-03-19 21:25:44 | コトバ・ニッキ
あえて宣言するほどのことじゃないけど、自分の備忘、戒めとして書き残しておくことにする。戒めってほどでもないな、ついつい流されたり、日和ったり、焦ったり、羨んだりしてしまいがちなので、もっとニュートラルでいようよ、って思いを込めて書いておく。


去年はかなり忙しくて(特に9月まで)、今となってはどう両立していたのか思い出せないけど、本業に加えて、週2もしくは3日、9−18時で拘束される仕事をして、そのほかにも女子大の授業やら、グラレコ描いたり、講座やったり、とまぁまぁ忙しかった。依頼される仕事はなんでも受けてたわけじゃなくてお断りするものも多かったんだけど。で、いよいよどうにもスケジュールが組めなくなって、9−18時の仕事を辞めた。


週に2−3日9時間(移動も含めると10時間超)の時間ができたけど、結局その時間を有効に使っているわけでもなんでもない。キックボクシング始めたくらい。他の仕事も増えたわけでもない。忙しくなっちゃって、「もう無理、こんな生活!」って思って辞めたこともあって、新しい仕事を入れずに、これといって働きかけることも営業することもせずに数ヶ月過ごしていたらですよ、ほんとに仕事がない笑


いや、仕事をしてないわけじゃなくて、本業はそれなりのボリュームと責任があるし、女子大も今年は継続するし、みきさんとのお仕事も「引き続きお願いします」と言っていただいている。けど、それ以外はない。


そうすると、なんだか焦っちゃうわけですよ。あら、こんなに仕事してなくていいの?って。周りの人が忙しく仕事をされている中で、わたし結構ゆったりダラダラしてて、って。


いや、いいんだよ、ちゃんと仕事してるんだから、それで。去年までのペースじゃないってだけなんだから。と言い聞かせるもののなんだか焦ったり、不安になったりしちゃうんだよね。


でね、考え方を変えてみた。
今、予定が入っていない(仕事がない)状態なのは、受けたい仕事の依頼が来たときに「はい!」と受けられるってことだよね。そういう待ちの姿勢でこの1年過ごしてみようって。


ありがたいことに、経済的にも精神的にも時間的にも少しは余裕があるから、今年はボランティア的な活動に軸足をおこうかなーと思っている。クラファンのリターン品に協力するとか、そういう時間と力の使い方をしていくのも悪くない。実家の母が50の声を聞く頃から、いろんなボランティア活動をはじめて(今でも小学校の特別支援級でのサポートボランティアは続けてる、すごいよねー、80を超えてもお声がかかるって)、地域にお友達がたくさんできて、楽しいシニアライフを送っているように、わたしもちょっとはこの地に根付いた活動をしようかなーと珍しくそんなことを思っている。


もちろん、面白そうなご依頼や、やってみたいと思う仕事がくれば「はい!」とお受けするだろうし、まだまだ平日にのんびり優雅にティータイムを楽しんじゃうような有閑マダム的な時間の使い方はしっくりこないけど、今年はたくさん仕事をする喜びはちょっとだけ傍に置いて、余裕を楽しむ、を大事に過ごしたい。


年度末、新年度を迎えて、いろんな人が環境変えたり、新しいチャレンジをされている。「それに比べてわたしは、、、」と卑下したり、自信をなくしたり、焦ったりせずにゆるりとふわりと新年度を迎えたい。
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グラレコは誰のものなのか?

2024-03-18 21:17:39 | グラレコ
言語化しておきたいことの一つに「グラレコは誰のものなのか?」がある。
グラレコを使った場や、ちょっとだけ実践要素の強い講座を行うときに、伝えようとあれこれ言葉を尽くしているのだけれど、どうにもうまく伝わっていない感があって、やきもきしている。


≈グラレコ?流行ってるよねぇ」と揶揄されたり、「グラレコって漫画みたいなイラストが描かれてるあれでしょ、何がどう役に立ってるのかわかんないよね」と批判的、懐疑的なお声も多くいただくグラレコではあるけれど、なんかね、この「グラレコって誰のものなのか?」をちゃんと伝えられたら(その前にちゃんと定義して、ちゃんとブレずにいられて)、わたしも自信を持って「グラレコ楽しいよ、みんな描けばいいのにー」って言えるんだろうなーって思ってる。


グラレコが描かれる場によっても「誰のものなのか?」は違うと思う。
いつも講座では「自分のノートが楽しく描けて、それを見返して記憶が蘇ってくるような、そんなグラレコが一番!」って言っている。自分の手元のノート、自分の振り返りのために使うグラレコは間違いなく自分のため、なんだと思う。
(それはグラレコではなくて単なるノートテイキング、スケッチノートでしょ、というお声、ご指摘はごもっとも。)


けど、役割として「描く」ときには、誰のものなのか?は意識したい。
講演やシンポジウムなど登壇者の話を記録する時は、原則、話し手のものだと思っている。もちろん、参加者への情報保障の意味合いで導入されているケースも多いので、その場合には「参加者のもの」でもある。


チームでの対話や議論を可視化する時、これは間違いなくそのチームのもの。リアルに起きていること、その場で話されたこと、問題や不満といった出したくないものも含めてその場に吐き出されたものを書き留める(可視化する)ことに意味を求めて「描く」のだから。


いずれにしても、描き手のものじゃないことだけは明白だと思っている。
グラレコは作品じゃない。あくまでも記録。そして、そこに描かれているものは、話し手が発した大事な言葉、エピソードである。それを描き手が解釈を加えたりすることはあってはならない、と思っている。


たまに、トーン&マナーを指定されることがあるんですよ。こういうイラスト使ってください、こんな色合いでお願いします、他のグラフィッカーと同じテイストで描いてください、とかとか。
謎。もしかしたら深淵なる理由があるのかもしれないけれど(理由をお知らせいただくこともあって、その場合にはなるほど納得できるものが多い)、トンマナを指示されるってことは作品としての完成度や統一感を求めているのかな?それってグラフィックレコーダーじゃなくて、イラストレーターに依頼すべき案件なんじゃない?って思ってしまう。


出来上がったグラレコは、視覚的にかなりインパクトがある。初めて見る人にとってはかなりの衝撃もあるだろう。そうするとついつい、グラフィッカーの作品っぽくなっちゃうけれど、いや違う、極論、話し手の言葉をそのまま描いているだけ。話し手が発した言葉を文字と絵にして残しているだけ。それはテキストデータで文字起こしするのも、動画データで残しておくのも一緒。ただ、加工の仕方にグラフィッカー個人のフィルターがかかってしまって、個人差が起きるから、「作品」として受け止められてしまう。


描き初めの頃は楽しくて、ついつい描いたものを「見て見てー」ってシェアしがち。わたしが描いたグラレコはわたしのものかもしれないけれど、でもね、話し手の話があってこそ、のものだし、話を丁寧に描くことこそがグラレコなんだから、そこは自覚的でいたいよね。著作権がどうーみたいな面倒なことを言うつもりはないけれど。


まだまだうまく言葉にできないんだなぁー。引き続き、いろんな人に話したり、発信したりしながら研ぎ澄ましていこう。


(もしかしたら描き手のもの、って時もあるのかな?)











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大人の学びは痛みを伴うっていうけどメジローのそれとはちょっと違った経験だったかも。

2024-03-17 21:30:46 | オトナの学び
卒業式シーズンですね。大学院を修了してからもう2年も経つのかーとびっくり。思えば、大学院に入学できたのはよかったものの、1年目は本当に辛くて、2022年の4月に「修了しました!」って報告をする、ただそれだけのために頑張っていたような気がする。


なんで1年目がそんなに辛かったんだろう?2年目は少しは緩和されて「辛い」って気持ちは無くなってきたけど、でも「楽しい!」なんて境地には到底至らずに終わった気がする。


50人からの同期がいて、オンラインで完結するプログラム、しかも時はコロナ禍真っ最中。学ぶことそのものには何の弊害もなかったはず。ハイスペックでエッジの効いた人たちの集まりはそれだけで魅力的だ。けれども、わたしはコミュニティにうまく入っていくことができなかった。越境学習だなんだとそれなりに学びのコミュニティには参加して、それなりにうまくやってきた自負があったけど、なぜだかうまく入れなかった。


ものすごい経歴の同期たち。自己紹介も自信に溢れていて、あらららー場違いなところにきちゃったかも、な気後れ感満載だった。のちに、みんなも緊張して、若干自分を盛っていた部分もあったってことがわかるんだけど、当時は一方的に引け目を感じてしまっていた。


あれから随分と月日が流れて、今となっては、夜の時間は完全にお互いに好きなことをやるようになったけれども、当時は夜ごはんは一緒に食べる(しかも何時に帰ってくるかわからない、帰ってきたら温かい料理を出す)生活で、部屋にこもって一人時間を楽しむ、なんてことができにくい環境だった。特にオンラインで何やら楽しげにやってる、なんてことはあまり歓迎されなかった。なので、ハッピーアワーと称する自主的なオンライン飲み会にも参加することができず、そうなるとどんどん足が遠のく。最初の一歩が踏み出せない。


ま、オンライン飲み会だけが交流じゃないし、そもそも学びに、探究しにきているわけだから別に参加しなくても何の問題もない。わたしがつまづいて、辛かったのは学びそのものだった。


出された課題の意味がわかんないんですよ。
いや、わかるんですよ。日本語としては。けど、この課題にどのように取り組むことを期待されているのか、がわからない。文面、額面を読んで、さらりと取り組んじゃったら、周りは全く違った。へ?ここまで深く取り組むの?設問にそこまで書いてあった???と混乱。さらにはテキストでのコミュニケーション(相互フィードバック)も、まずコメントを読んで意味を理解するところから始めなければならず、それに対してコメントする、ってことに相当な時間を要した。おかしいなぁ、フィードバックコメント的なことはずっと仕事でもやってきているのに、もっと要領よくできると思ってたのに、、、と自分ができていない、できないことを突きつけられて混乱していた。


メジローの言う「痛みを伴う」は、新しく学んだ知識やスキルがもともと持っているものに拒否反応を示す、だから一度捨てなきゃならない、このプロセスが本当に痛い、ってことなんだと解釈しているけれど、その域まで達することができなかった。なんでこんなにできないんだろう?わからないんだろう?と混乱したまま月日が流れていって、それでも、締め切りまでに提出する、言われたことはやる、を繰り返していた。


辛さの度合いは薄まったけれど、最後まで楽しいとは思えないままだったなぁ。キラキラした同期たちに圧倒されたって言うのもあるし、なんだか最後まで何を学びにいったのか、何を学んだのか、研究ってこういうものなのか、とかとか、腑に落ちないままだった。


チームで取り組んだ修了研究は、チームだったからなんとか最後まで完走できたけど、これ一人だったら絶対リタイアしてたな、ってくらい何が何だかよくわからないままだったなぁ。


その何がわからないのか?が最近ちょっとわかるようになってきた。他の同期と比較して、わたしは大学院での学び(内容や先生、クラスメイト)に絶対的な愛着を持てないままで修了してしまったのかもしれない。かけがえのない2年間だった、とか、ここでの出会い全てに感謝、みたいな言葉は到底出てこなかったんだよね。


だからといって、辛いことばかりで、行かなきゃよかった、行かなくてもよかった、と思っているか?といったらそんなことなくて、行ってよかったんだろうな、とは思っている。


新しい何かを身につけた・得た、とか、かけがえのない出会いがあった、などではなくて、ライフワークになるようなテーマに出会えたこと。それがそらウェル(空の写真を撮り続けると幸福度が上がる)。
ただね、研究員として活動(研究)を続けているわけじゃないから、あんまり認められてなくて、まぁ、そりゃそうだよね、全然違う先生、団体の元で研究を継続してます、なんて気持ちの良いもんじゃないことはわかる。不文律なのかもしれないしね。けど、研究は世の中を良くするためのものなんだから、誰に師事しようと、どこで活動しようと、続けること、そしてそれが広まっていくことが大事なんじゃないかなーと勝手に思っている。都合のいい解釈だけどね。


修了してからこっち、大学院の中では投げかけられなかった問いに、ずっと答え続けている。


「ひめさんたちの問題意識は解消(解決)されたの?」


アウトプット(アイデア)が素晴らしければ素晴らしいほど、この根源的な問いに答えることをおざなりにしてしまっている気がする。この問いに立ち戻って審査、助言をされなかったのはとても残念ではあるんだけど、そんなの問われなくても自問自答しなさいよ、ってことなのかもね。それが研究だよ、ってことなのかもね。


これからもそらウェルは続けていく。研究としてきちんと実証したい、という思いもあるし、いいことだから広めていこう、流通させていこう、という思いもある。けど、施策を一人歩きさせてはいけない。
そらウェルで「問題意識は解消(解決)されたのか?」
この問いに答え続けていくことがわたしにとっての研究、実践なんだと思う。


卒業おめでとうございます。























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