『「私」という男の生涯』石原慎太郎より
2013年、春先にクルーたちが通していたヨット(『コンテッサ(イタリア語で伯爵夫人)Ⅱ号』)で沖縄からトカラ列島を経て、ホームポートの油壷まで帰ってきた。
記録映画も含めて合計四度目の航海。今年の春、思いかけず脳梗塞。次男の良純と一緒。ヨットの船先のデッキにねころがり満天の星空を見る。
かつての愛人の女を思い出す。この女を囲って妻や息子を捨てて〝駆け落ち〟も考えた。
だが、女は去り、別の男と結婚。しかし、旦那が浮気をし、求めに応じて女を抱いたが、すでに薹(とう)が立ちよくなかった。
神戸で生まれたが、神戸の記憶はほぼない。
自宅の近くに工場だか学校があって、その不気味な鐘の音が嫌いで、母の着物の袖にかくれた。神戸の線路に悪童たちと石。しかし、脱線しなかった。
釘を線路におくと、釘は〝まっ平〟に。列車の重さを知った。
父の栄転で北海道小樽へ。
雪まみれの中、登下校。雪ぞりに飛び乗り、ドイツ人の幼稚園。そこで英会話を習う。
父は山下汽船の小樽支店長。いつも宴会で。
小学生の頃、お人形さんのような美少女に恋をしたが、美少女が教室内で〝おもらし〟をしてしまい幻滅。最初の失恋であったという。
小樽時代、弟の裕次郎は幼稚園にもいかず山で遊んでいた。
ある日、悪童たちと箱に入った犬を川に流した。浮くかどうか試したのだ。
だが、箱は急流で流れていき、箱も犬も沈んで見つからない。
飼い主に両親は謝った。だが、裕次郎少年は首がひこひこ横に何度も振るような原因不明の奇病になった。霊媒師に祈祷してもらい、なんとか治ったという。
(中訳)わたしはもうすぐ死ぬだろう。だが、忘却はいやだ。すべて記憶して(ボケないで、介護とかもなしで)死にたい。
『石原慎太郎伝』(MdN新書)大下英治著作より
令和四(二〇二二)年二月一日、東京都知事などを歴任した作家の石原慎太郎が膵臓がんのために逝去した。八九歳であった。平成十一年(一九九九)年頃、大下英治氏は石原慎太郎氏の都政進出の意気込みを、一時間半にわたって聞き入り、石原は「編集者を返して、二人っきりでメシでも食おう」と誘った。
石原「なんで日本人はこんなに責任を取らない、だらしない民族に成り下がったと思う?」
大下「……ん。え~と」
石原「もっとも国家に責任を持つべき天皇陛下が昭和二〇(1945)年八月十五日の太平洋戦争終戦の日、自ら割腹して果てなかったからだよ」
作家・大下英治氏はどきりとした。
大下「考えさせる意見なので書いてもよろしいか?」
すると、石原は待ったをかけた。
石原「いや、君に考える材料を与えたのだ。僕の生前には困るが、僕の死後は書いても大丈夫だ」
石原慎太郎は作家の三島由紀夫との対談でも爆弾発言をする。
三島「日本は共和制は駄目。あなたが共和制を主張したら、おれはあなたを殺す。ぼくは戦後の人間が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。これは天皇に対する反逆です」
石原「僕もそう思う」
三島「戦後に、罪なき無垢なんだけど、石原君みたいな天皇制反対の人間を生み出してきた」
石原「ぼくは天皇制に反対しているんじゃなくて、幻滅したの」
三島由紀夫の自決について、回想。石原「結局、あのひとは全部バーチャル、虚構だったね。『豊饒の海』でも、自分の人生は虚構だった、って認めているし。天才に見られたくて、母親の体内から出てくる記憶……とか。最後の自殺行動だって、ちっとも政治行動じゃない。バーチャルだよ。(中訳)結局、三島は、天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核とした一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具。ひとつの大事な飾り物だったのだろう」
(『三島由紀夫 石原慎太郎全対談 中央公論』)
石原は中国なにするものぞ、という気概が強く、尖閣諸島問題にはとくに力を入れていた。(『文藝春秋』)
「かつて私は拠金して有志の学生たちと(尖閣諸島・魚釣)島にはいり手製の灯台をつくったりしたものだ」と自慢した。ところが実は、右翼団体の日本青年社が、死者を出しながらも多額の資金を投入して立派な灯台を建てていた。日本青年社の衛藤豊久(えとう・とよひさ)会長が、石原の文章に激怒し、「事実なら魚釣島には二基の灯台があるはずだが、いったいどこにあるのだ?!」と石原に七項目の公式質問状をよこした。
結局、松浦良右(まつうら・りょうすけ)がことなく収めた。石原は勇み足過ぎる面もあった。
あれだけ批判していた田中角栄に関する本(政界引退後の晩年)『天才』というタイトルで「稀代の政治家・田中角栄を一人称で描き出すノンフィクションノベル」と出版(92万部のベストセラー)。
最後の小説『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』(幻冬舎)も、訳も伝えず、大下英治氏に何度も電話で安藤のことをきき、「出版」した。
石川達三(たつぞう)(作家)の『金環蝕』より政治の世界はもっと深く暗くて重い、と石原。ならその政治の世界を最後の小説で書くべきであった。
石原慎太郎(当時22歳)の『太陽の季節』は昭和三十年(1955)秋、第一回文学界新人賞を受賞(大学在学中に受賞)(弟の裕次郎が、ある仲間の噂として慎太郎にきかせた話が原案)25万部のベストセラーになった。(『慎太郎刈り』という彼のヘアスタイルをマネするブームまで)。
映画プロデューサーの水の江滝子は、映画『太陽の季節』の最初の主人公を石原慎太郎で。と、推薦するが駄目だった。なら、弟の裕次郎をつかってくれ、と慎太郎。
結局、主人公の龍哉役は長門裕之。裕次郎は端役だった。
だが、映画『狂った果実』では、石原裕次郎は主役、ヒロインはのちの夫人・まき子さん。美少年役は津川雅彦さんであった。映画は大ヒットし、石原慎太郎は芥川賞まで受賞する。この当時、芥川賞直木賞はまったく人気でもないし、一大イベントでもなかった。
この石原慎太郎氏の受賞によって、芥川賞直木賞は年二回の一大ショーとなる。
石原裕次郎は昭和三十八(1963)年に自身が経営する芸能プロダクション・石原プロを設立。社長は石原裕次郎。兄の慎太郎氏も役員で。資本金は500万円。
だが、経営的には厳しいもので、映画産業は斜陽になり、テレビの時代になっていた。
そこで、映画『黒部の太陽』(昭和四十三(1967)年)石原裕次郎と三船敏郎の共同でその映画をつくることになった。そこに立ちふさがったのが、五社協定……
黒部ダムの建設の物語であったが(今世紀最大のプロジェクト。総工費513億円。延べ990万人の労力、7年の期間を費やし、171人の犠牲者を出しながらも昭和三十八(1963)年6月5日、世界第四位の巨大アーチ形ダムとして完成)、映画会社が頑として受け付けない。
五社協定を破れば、どこの映画館でも上映しない、ときた。
だが、石原プロも三船プロも策を練った。
全国の公民館や体育館などどこででも上映する。大手電力会社の支援も取り付けた。
こうして、映画『黒部の太陽』は大ヒットした。
三島由紀夫の自決の後、当時政治家の石原慎太郎は関係者に「どうぞ。」と現場に案内されそうになるが断ったという。「自分なんかが……」と。その代わりに三島のよき理解者で作家の川端康成が現場を見学し、手を合わせたという。
石原慎太郎は「核保有論者」でもあった。
自民党の若手グループで青嵐会をつくり、血判状まで書かせたという。
それに参加したのは多くの若手議員だが、栃木の渡辺美智雄や米沢の近藤鉄雄(官僚政治家)などで、ある。
「青い嵐ってなんだ?」と、渡辺美智雄がずうずう弁できくと、石原が、
「青い嵐とは、寒冷前線のこと。夏に激しく夕立を降らせて、世の中をさわやかにする嵐」
「なるほど。誰かにそのことをきかれたら、石原くんみたいに説明すれば頭がいいと思われるな。これは」渡辺は笑う。
石原の側近には、いまの都知事の小池百合子の父親の勇二郎の姿もあった。
勇二郎は、結局、選挙に弱かったが、石原が彼に着けた側近が、のちの副都知事・浜渦武生(はまうず・たけお)。彼は今でも小池を「ユリちゃん」と呼ぶのだとか。
石原は、盟友・中川一郎の死、には衝撃を受けた。
新党を作り、立ち上がれ日本→太陽の党→日本維新の会と合流(+橋下徹)分党→次世代の党→選挙落選(政界引退)。
「橋下徹が〝義経〟なら、ぼくは〝弁慶〟」
石原は嘯く。
『石原慎太郎と日本の青春』(文春ムック)雑誌。
さらば、友よ、江藤淳よ。(旧制中高の親友で級友)
対談 勝新太郎(侠気について 二人のシンタロウが丁々発止)
対談 野坂昭如(きみは日本をどうするのか? ライバルが語りつくした「言葉の死闘」)
あばよ、さよなら談志師匠(親友への弔辞)
小林秀雄(無頼の素直と、無頼の自由)
角さんと飲んだビール(『天才』田中角栄との対峙)
対談 五木寛之(「自力」か「他力」か 同年同月同日生まれの対談)
最後の未知「死」との対峙
対談 曽根綾子 老いてこそ冒険の時(死んだとき「ざまぁみろ」と言われたい)
*弟の放蕩で家が傾く *シャンソンを歌って担任を驚かせる
*戦後の食糧難→鍋で猫を食べる *『太陽の季節』ブームで、肉体関係がバレて、絶縁を強いられていた幼馴染と結婚できた。
*親友 三島由紀夫と江藤淳
*老人作家・佐藤春夫「石原〝不謹慎太郎〟」じいさんたちの慎太郎叩き。
*慎太郎が芥川賞を有名にした。