長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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蒼天の白虎隊 会津藩と八重と桜と(特別一部先行公開)ブログ掲載版小説プロローグVOL.1

2015年03月23日 20時09分56秒 | 日記






蒼天の白虎隊 
会津藩と八重と桜と


                会津藩の義の戦い!
               ~少年たちの決断!
               松平容保たちの「会津戦争」はいかにしてなったか。~
                フィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

*(本作中の歴史説明文群は一部インターネットによるウィキペディア記事「ネタバレ記事」等を参照しています。なお、この物語の参考文献は池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」「白虎隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK大河ドラマ「八重の桜 ガイドブック」NIKKO ムック、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。盗作ではなくあくまで引用です。)
また日本テレビで80年代後半大晦日放送された里見浩太朗・森繁久彌主演の時代劇歴史ドラマ『白虎隊』<第一部 京都動乱><第二部 落城の賊(うた)>から参照してこの作品『蒼天の白虎隊 会津藩と八重と桜と』を執筆しました。
ちなみに盗作ではなく引用です。日本テレビドラマ『白虎隊』のキャスト(当時)もご紹介します。
井上丘隅(おかずみ・森繁久彌)松平容保(かたもり・風間杜夫)ちか子(坂口良子)神保修理(しゅり・国広冨之)秋月梯次郎(ていじろう・露口茂)近藤勇(いさみ・夏八木勲)山本八重(田中好子)とめ(山岡久乃)千恵(野川由紀子)中野竹子(岩崎良美)中川宮(秋本克太郎)松平定敬(ただあき・中村橋之助)田中土佐(とさ・佐藤慶)野村左兵衛(さひょうえ・竹脇無我)坂本竜馬(中村雅俊)神保内蔵助(丹波哲郎)山本覚馬(竜雷太)沖田総司(中川勝彦)ゆみ子(工藤夕貴)キク(佐藤貴子)川崎尚之助(田中健)雪(池上季実子)土方歳三(ひじかた・としぞう・近藤正臣)西郷頼母(たのも・里見浩太朗)他。
          
             あらすじ

<記事の一部に「ネタバレ」からの引用がある為「出版時」に印税の0.39%を引用元に>

 1868年10月6日(慶応4年8月21日)に新政府軍が国境の母成峠を突破して会津に侵攻する。これの一報を受けた会津藩は1868年10月7日の朝と夜の2回、「屋並触(やなみぶれ)」を行った。
屋並触(やなみぶれ)とは、会津藩の役人が藩士の家々を戸別訪問して廻り、会津藩の方針や指示を告げていく行為である。役人は夕方の屋並触で、藩士の家を一軒一軒廻り、留守を守る婦女子に「鐘が鳴ったら、若松城の三の丸へ集まれ」と籠城に関する指示をしていく。
やがて、山本家にも役人がやってきた。屋並触を受けた母・山本佐久は、「女は足手まといになる。無駄に食料を消費するのは忍びない。市外へ逃げよう」と言うが、山本八重は「死んだ弟・山本三郎のため、主君のため、私は決死の覚悟で入城します」と言い放った。
それを聞いた屋並触の役人は、山本八重の意見を絶賛し、「女性は女中の仕事を頼みます。男が女中の仕事をしていては戦力が減ります」と言い、山本佐久にも入城を促した。こうして、母・山本佐久も若松城で籠城することを決めた。
山本八重は自宅で飼っている馬に乗って威風堂々と入城しようとしたのだが、役人に「状況は切迫している」と止められたため、馬での入城を中止して歩いて入城することにした。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、台風の影響で雨が降りしきるなか、若松城の城下町に早鐘が鳴り響く。
早鐘の音は、屋並触で通達した通り、城に逃げ込めという相図だったが、大砲や鉄砲の音にかき消されていた。既に新政府軍は戸ノ口原を突破し、そこまで迫っており、城下町は大混乱となった。
一方、山本八重は、山本家に寄宿していた仙台藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助を見送っていた。
仙台藩は新政府軍との戦争に備えて、仙台藩士の内藤新一郎ら40数名を会津藩へ砲術修業へ出していた。
そして、内藤新一郎らに砲術を指南したのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
戦争が近づくと、砲術修業に来ていた40数名は仙台へ戻ったが、内藤新一郎と蔵田熊之助は連絡役として会津に残ることを命じられ、山本家に寄宿していた。
やがて会津戦争が始まり、新政府軍は一気に会津領内に進入してきた。内藤新一郎らはこの状況を報告するため、仙台へと引き上げたのである。
内藤新一郎らを見送ると、山本八重は亡き弟・山本三郎の形見の紋付袴を着て、両刀を腰に差し、7連発スペンサー銃を担ぎ、飛んでくる銃弾をくぐり抜けながら、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」と嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」を伴って若松城へと向かった。
飛んできた鉄砲の弾が山本八重の耳元をかすめると、山本八重は思わず怯んだ。すると、母・山本佐久は「それでも藩士の家族ですか」と叱咤し、若松城を目指し、無事に若松城までたどり着いた。
なお、山本八重(新島八重)は54歳のとき、周囲の人間に促され、紋付き袴を着て若松城に入城した時の姿を再現し、写真を撮影している。
会津藩士の家族が取った行動は主に「若松城へ入城する」「食料を消費するのは申し訳ないため、自害する」「市外へ逃げる」の3つであった。
しかし、市外へ逃げようとした者は、卑怯者として身内の手で殺される者もいた。乳飲み子は足手まといになるとして、乳飲み子を殺して若松城へ向かう母親も居た。西郷頼母の一族のように、一族揃って自害する者も居た。
若松城に入城した会津藩士の家族には、着物が鮮血で染まった者も多く、山本八重が入城したとき、城内は殺伐としていた。
新政府軍の進軍は早く、若松城の直ぐに閉ざされた。若松城に入れなかった者も多かった。城外に残された者は市外へと逃げた。自宅に火を放ち、自刃に倒れた者も居た。
国境の母成峠が破られたことは、早々に若松城にも伝わっていたが、薩摩藩などから「鬼の官兵衛」と恐れられている会津一の猛将・佐川官兵衛が「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と豪語して戸ノ口原へ出陣したため、城下町に避難命令は出ていなかった。
もし、前日に会津藩の役人が屋並触(やなみぶれ)を行った時に避難していれば、籠城初日の大混乱を起こすことは無かったに違いない。
黒船来航…幕末、松平容保は幕府の京守護職に抜擢された。会津藩主の殿様である。奮起して新選組とともに京都を守っていく。先進国を視察した容保にとって当時の日本はいびつにみえた。彼は幕府を批判していく。だが彼は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。勝海舟に不満をもつ榎本武揚らは海軍を保持するが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、会津藩の容保は官軍と戦う。幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 そして会津戦争勃発。松平容保の「会津藩」は五ケ月で官軍につぶされる。切腹しようとしてとめられれた容保は官軍に投降、やがて投獄されるがあまりの知識をもっていたため新政府の要職へ。少年たちの死をもとに容保は明鏡止水の心だった。
 今から百数十年前、福島県・会津藩、戊辰戦争は会津戦争終結の明治二年夏までまたなくてはならない。その会津に共和国をつくったのが松平容保である。
「会津には心儀がある! 官軍何するものぞ!」
 幕府海軍副総裁の榎本武揚らは薩長官軍に反発して、奥州(東北)、そして蝦夷(北海道)まで旧幕臣「榎本脱走兵」たちとともにいく。そこで共和国をつくるが、わずか五ケ月で滅ぼされてしまう。
 その間も松平容保は会津の鶴ケ城で官軍と対峙する。松平容保の戦略とは何だったのか?
「白虎隊」と呼ばれて組織された少年たちとは何だったのか?
 それを拙書であきらかにしたい。幕末の英雄・松平容保とは新島八重とは………


         1 江戸最後の日


 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。銃弾が飛び交い、八重の近くでも大砲の砲弾がさく裂する。会津若松城はもう砲撃でぼろぼろだ。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!……会津は渡さねえ。会津の地を土足で踏み荒らす薩長をわだすは許さねえ。ならぬものはならぬものです」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」少年兵たちも笑顔になった。「やっだあ!薩摩の大将に当だっだ!」「さすけねが?ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(公明天皇のこと)や幕府を守っで戦っだのだべした。なら会津に義があるべず!会津の地を渡ざねえ!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


さては歴史時代劇ドラマ『白虎隊』である。ドラマは井伊大老暗殺、つまり幕府の要人・彦根藩主・井伊直弼(いい・なおすけ)大老が暗殺された『桜田門外の変』から始まる。時代は万延元年三月三日の雪の早朝である。薩摩藩士ひとりと水戸浪人十七人での襲撃であった。
この襲撃で大老の井伊直弼が暗殺されるが、まさかそれが会津藩士たちにとって七年後にやってくる悲劇とは思わない。

場所は会津若松城下、桜田門外の変から二年後の文久二年夏である。
井上丘隅の邸宅では料理の支度でおおわらわである。丘隅の妻・とめや家僕の七兵衛や妻のもよも忙しく動いていた。なんせ丘隅の娘・雪の婚礼は明日である。
井上丘隅の長女・雪は、会津藩の要職をつとめる家老・神保修理(しゅり)に嫁ぐのだ。
白無垢の雪の姿に次女のちか子もまだ幼い末女・ゆみ子も思わずうっとりした。
井上丘隅と昵懇の仲の会津藩家老・野村左兵衛(さひょうえ)は縁側で話をしていた。いい天気だった。
「いやあ、まんず、井上先生、いがったなっし」
「まんずまんず、んだなあ。ほんでもおらの家は女子しがいねがらなっし。跡取りがなあ」
「んだげんじょ、井上先生」野村は笑顔で「ご養子のお話が殿から出てるんだべ?」
「ああ、養子の話がっす?んだども俺らの禄高は左兵衛殿の半分以下だがらなあ」
「そげなごどねっぺ。井上先生ほどの人格者なら大勢の養子候補の童子が集まるべした」
「んだどいいげんどなあ。」丘隅は笑った。
「まあ、んだげんじょ雪が神保修理さまに嫁ぐんだがら、まあいがっだっぺ?」
「んだなあ、いがっだなっし」
ふたりは白無垢姿の雪にみとれていた。まだ幼い末娘のゆみ子等は「んだげんじょ、かぐや姫みだいだなっし!」などという。次女のちか子も「ほんに」という。
丘隅は「雪や。神保家に嫁ぐならいいげんじょ、月に行っではなんねえぞ」と冗談を言った。一同は爆笑の中にいた。井上丘隅、会津藩士、六十歳、二〇〇石家禄。代々、教職の家柄である。学問こそが井上丘隅のすべてであった。
のちに『悲劇の少年兵士隊 白虎隊』として歴史に名を残す少年たちも教え子である。彼らは井上丘隅や藩校・日新館で学んだ元・会津童子である。
ある日、井上丘隅と幼少の少年たちは釣りをした。
あまり釣りの成果はかんばしくなかった。だが、帰りの午後、ある邸宅の低い垣根から『若い女子たちの水浴』が無意識に覗けた。丘隅はいやらしい気持ちはなかったが、少し興味ありげに覗いた。少年たちは「なにしでんのがっす?先生」などという。
軽服の中野竹子が薙刀を構え、「こらっ!卑怯者め!」と門から出てきた。
井上丘隅も少年たちも逃げた。
「あ!いげねえ、釣竿なぐしだ」
少年たちは「井上先生、ならぬものはならぬものです!」と声をそろえていう。
日新館や会津藩内で教わる“什の掟”で、あった。
丘隅は苦笑して「んだな、おれが助兵衛であっだ。あいすまねえなっし!」
と頭を下げた。(「什の掟」は後述する)少年たちは笑った。
 会津磐梯山のふもとの猪苗代湖では、会津藩士で砲術指南役の山本覚馬と妹の山本八重(2013年度NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公)と、覚馬の弟子の川崎尚之助が砲術指南をまさに受けているところであった。オランダ製の砲術ではあったが命中力は高かった。だが、薩長軍は打撃力の物凄いアームストロング砲を持っている。
確かに会津藩の旧式砲門でも的には当たる。だが、アームストロング砲には逆立ちしても敵わない。
井上丘隅が「よう、覚馬殿!きばりんしゃい!」と励ます。
「ながなが板についできでるようだんべ」
すると覚馬が「いや、これでは駄目だんべした。アームストロング砲にはこれでは勝てね」
と弱音を吐く。八重は「んだげんじょ、アームストロング砲はそげに日本中にいっぺいあるのがっす?あんつぁま」と訊く。
覚馬は「今はそんげにないみだいだげんじょ、薩摩藩長州藩は隠れでどんげな砲門もってっかわがんね。会津の軍備は遅れでるがらなあ。まずは用心が肝要だべ」
丘隅は感心して「覚馬殿は会津の誇りだべず。会津藩ももっといい砲門を用意せねばのう」
「まったくです。ですが会津藩の家老たちは「金がないから無理だ」の一辺倒…このままでは危うい」川崎尚之助は嘆いた。
「他藩出身の川崎さんも会津のことをそげに心配しでぐれるなんでありがでいなっし」
丘隅は感激までした。そして「のう八重、にしももう嫁に行く歳だんべ?相手は決まったが?なんならこの井上丘隅が相手ばみつくろってやるが?」と訊いた。
八重は「相手はおりやす。尚之助さまです」などという。
「んだが?八重、いがったなっし」
「んだなっし、ありがどなっし井上先生」
八重は微笑んだ。
結婚式の為に会津に向かっていた神保修理が歩いてやってきた。
現代のように自動車も列車も自転車もバスも飛行機もない時代、陸上移動はもっぱら徒歩である。丘隅が「修理殿!」と声をかける。
「これは義父上!ごぶさたぶりにござる」旅姿のまま頭をさげる。
「おれはいいがら、修理殿、雪にばはよう顔ばみせでやってくれなんもし。娘は首ば長うしでまってんがら」と笑顔になる。
「これは修理殿」山本覚馬や妹の八重や川崎は頭をさげた。「いがっだなっし、修理殿」
次の日、神保修理と井上丘隅の娘・雪が祝言をあげた。
式には会津藩家老の西郷頼母(たのも)の姿もあった。野村左兵衛(さひょうえ)夫妻の詩吟で、井上丘隅は日本舞踊を舞った。神保修理は緊張の為かぐいぐいと酒をのどに流しこんだ。雪はきれいな花嫁である。のちにまさかの最期を飾る『悲運の会津女性』でもある。神保修理自身も歴史の仇花というか、なんというか壮絶な最期をのちに遂げる。
だが、それはまだ歴史の上では先のことである。
西郷頼母や田中土佐、野村左兵衛ら家老はその夜、早馬にて『会津藩の京都守護職就任要請』を知らされる。一同は驚いた。
「京都守護職じゃと?!」
「ばかな!」
「誰がそげな要請しよっだんだべ?松平春嶽公と一橋慶喜?!そげな…」
一同の返答はもう決まっていた。「とにかく反対!絶対に反対である!」
会津に戻った会津藩主・松平容保にもすぐにその旨を伝えた。誰が考えても損な役回りである。絶対反対!この四文字に尽きる。
「殿!会津藩が京都守護職を受ける事だけはやめでぐなんしょ!末代まで会津に禍根を残すことになりまする!」頼母は強調した。
「絶対に御引き受けはしないでくなんしょ!お殿様!」
「わたしからもお願いします!どうが辛抱を!」田中土佐も西郷頼母も平伏するのみである。「今、京を荒らしまくっている攘夷派の浪人どもを敵に回しては井伊大老の二の舞です」
「強大な強い力ははじめはありがたがられますが次に疎まれ、最後は憎まれます。会津が火中の栗をわざわざ拾う必要はありません!どうか守護職就任だけはご辞退を………!」
だが、容保は「わしはこの話受けようと思う」という。
「なじょしてで御座りまするか?」
「徳川家の為じゃ!藩祖・保科正之公の御家訓(ごかきん)じゃ!」
西郷頼母も田中土佐らも無言で平伏する。
「会津藩御家訓「将軍のため一心大切に忠勤に励まなければならない。もし二心を抱く藩主がいれば私の子孫ではない」(保科正之公)」
「……殿は…生真面目すぎる」
頼母は言うが御家訓や保科正之公まで出されては手足も出せない。
損ばかりの“火中の栗を拾う”が如しの会津藩の京都守護職就任なれど、もはや、策なし、というものだ。
<松平容保。天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。安政7年(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。美貌の姫として歴史上に知られる照姫は義理の姉さまである。>
もうどうしようもない。頭を抱えるしかない。家老たちは泣いた。
会津藩の地獄の日々の始まりであった。
かくして松平容保率いる会津藩士たちは『京都守護職就任』の為に京都(明治維新まで京都が日本の首都)に向けて出陣した。松平容保公らの陣列に領民どもは頭をさげて平伏している。井上丘隅らは旅立つ藩士たちに「さすけねえ、京都で悪い女郎に手えだすんでねえど。深酒にはきいつけんだぞ」という。「修理殿、娘ば頼んます」
「父上!」「義父上!まかせてください!」
「んだが?さすけねえが?」
山本覚馬と弟の三郎も京都に向かうことになった。「ちゃんと母上や父上の面倒みるのだぞ、八重」兄貴の山本覚馬は微笑んだ。
「はい!さすけねえ、あんつぁま!まがせでくれなっし!」
八重は弟の三郎に「いいが、三郎!山本家の名前に泥をかげねようにきばらんとだめだじょ!」という。すると三郎が「でも、僕より八重姉さんのほうが鉄砲の腕も腕力もうえなのだがら八重姉ちゃんが本当はいぐべきなんだず」などという。
「なにを情げねえごといっでんだ?三郎、それでも会津藩士が?!」
「僕は八重姉さんが母上のお腹の中に忘れてきたものをつけて生まれてきたんだもの」
三郎は冗談を言った。「母上のお腹の中に忘れてきた………?」
覚馬と尚之助らはにやりとなる。やっとわかった山本八重は頬を赤らめ、
「三郎の馬鹿者!」と笑った。
井上丘隅は「これは会津藩の国難じゃ。………会津のこの美しい土地が汚されねばいいがのう」とうつろな溜息をついた。
まさに国難で、ある。
『会津戦争』まで数年の、地獄の日々の始まり、であった。





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