長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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オードリー・ヘプバーンの真実「ローマの休日」ブログ連載小説1

2012年04月29日 05時44分39秒 | 日記

オードリー・ヘプバーンの真実

                       Aidry Hepburn
                       
                ~新たな真実!渾身の書き下ろし
                『永遠の妖精』の真実が甦る!
                 total-produced&PRESENTED&written by
                   Midorikawa Washu
                   緑川  鷲羽

          this story is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

……人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。
 くよくよするもんじゃない。肝心なことはねぇ、
  望んだり生きたりするのに飽きないことだ。………
     ロマン・ローラン作『ジャン・クリストフ』より















    『オードリー・ヘプバーンの真実』あらすじ

  オードリー・ヘプバーンは、一九二九年五月四日に生まれた。
 母の名はエラ。没落貴族の子である。幼い頃のオードリーはよく両親の喧嘩を目にしたという。やがて、第二次世界大戦勃発。オードリーの父親はナチスに浸透して、行方不明になる。エラは反ナチで、レジスタンス活動家であった。
 一家はオランダに移住する。幼いオードリーは飢餓を味わう。食べるのはチョコレートだけ。両親は離婚。エラの兄も戦死。そんな中、オードリーはバレエに専念する。華奢で美貌のオードリー嬢はたちまち人気に。しかし、もらうのはチョイ役ばかり。
 戦争が終結しても、彼女にはチャンスがやってこなかった。
 しかし、やがて映画の話しが舞い込む。もちろんチョイ役だった。が、それは失敗。科白がよくききとれず、演技もなってない。『ジジ』という舞台の仕事も最初のうちは「声がホールの奥まで響かない」と、落第点をもらう。落ち込み、葛藤する日々。
 そんなとき、永遠の師匠となるコレット(有名なプロデューサーのおばさん)に見出だされ、演技を習い、映画に出演し、オードリーは活躍していく。
『ローマの休日』が大当たり、大ブレイクする。しかし、恋はうまくいかない。メル・ファラーと別れ、ドッチ博士と再婚。子宝に恵まれる。しかし、オードリーがスターへの階段を駆けあがったためにふたりの仲には亀裂が。
 やがて、オードリーも老いていく。皺やしみが目立ち始め、スイスで余生を暮らす日々。そんなとき、ユニセフの仕事に目覚める。子供の頃、飢餓を経験したオードリーはユニセフの仕事に全身全霊であたる。だが、オードリーは志し半ばで天国へと召されてしまう。 オードリーは一九九三年に死くなった。しかし、彼女の魂、思想、博愛は、いまもなお輝きを失ってはいない。
                                おわり




  オードリー・ヘプバーン演じるアン王女は、イタリアのトレビの泉でアイスを食べていた。白いジェラート・アイスで、それを舐めるオードリーは妖精のように美しい。
 現代版おとぎ話ともいうべき『ローマの休日』は、王室のこまごまとした決まりに嫌気がさした王女が、グレゴリー・ペック演じる、貧乏でどこかうさんくさいアメリカ人新聞記者とローマを歩きまわり、名所を訪ねるというものだ。シンデレラ物語を逆にしたようなこの映画は、人々を魅了した。庶民の生活に憧れる王女・アンを、オードリーは見事に演じきった。そして、この映画で、オードリーは「永遠の妖精」として愛されるようになるのである。……
第一章 スター誕生




        オードリーと母・エラ


  オードリー・ヘプバーンは、以外なことに赤ん坊の頃はぷっくらとした子供であったという。成長してからはオードリーはすっとした痩せたスレンダーな体型だったのに比べれば、赤子の頃は健康優良児だった訳だ。彼女は、一九二九年五月四日に生まれた。
 オードリーの洗礼してからの名は、エッダ・キャスリーン・ヴァン・ヘームストラ・ヘプバーンーラストンである。彼女はブリュッセルで産声をあげた。
 赤子のオードリーは誰よりもミルクを飲む、食欲旺盛な子供だったという。
 愛情が足りない分を食べ物で補っていたのだろうか?
 母親のエラは、夫(つまりオードリーの父)とうまくいっていなかった。まず、
 ……身分が違うこと。そして、母親の最初の結婚で生まれたふたりの兄、アレクサンデルとヤンの存在……。
 それが、不和の原因のひとつだった。
 オードリーの母親、バロネス・エラ・ヴァン・ヘームストラは、オランダの貴族の生まれであった。が、すでに没落していて、経済的に貧困であったという。
 しかし、エラは、常に「自分は貴族なのだ」と、妙な誇りをもっていたという。
 オードリーの祖父までは、城住まいで、贅沢三昧だった。
 だが、没落すると、エラはお手伝いさんもいなくなりひとりで身の回りをやらなければならなかった。しかし、贅沢ざんまいで何事も『ひとまかせ』だったエラは、最初はなにひとつまともに出来なかったという。
 やがて、結婚し、二度目に女の子を産んだ。それが、オードリーである。
「母は本気で女優になりたいと思ってたの」
 オードリーはある対談でこう語った。
 エラは少女時代、女優になりたいと頑張った。しかし、父親に反対される。父親の意見は絶対なので、彼女は従った。女優への憧れが、のちにステージママと揶揄されるような存在になった訳だ。エラは父親に夢を破られたことをトラウマのように感じていたという。 二十歳になると、結婚を父親が決めてしまった。相手は名前の前にオナブラル(閣下)がつくヤン・ヘンドリック・グスターフ・アドルフ・カルソス・ヴァン・ウフォルトというやたらに長い名前の男だった。男爵の彼は、俗物だったという。
 君主制を必死で守り、思いやりの心も博愛もない……ただ、自分だけのことを考える男で、贅沢を好み、酒色を好む、ひたすら醜い根性の男だった。
 マリー・アントワネットの男版といったところだ。
 エラは反発した。それは、しんとした静かな反発だ。
 しかし、結局、父親のいう通り結婚した。子宝にも恵まれた。
 だが、結婚生活はとても憂欝なものだった。結婚当初から、エラと男爵は衝突した。
 エラは三度離婚を試みたが、そのたびに父親に、「幼いふたりの息子のことを考えろ」と、説得されて離婚はオジャンになるのだった。
 結婚五年目の一九二五年、エラはやっと離婚できた。離婚はスキャンダラスに報道され、人々の話題となった。そこで、ヘームストラ一家は未開地・スリナムに移住せざるえなくなったという。まぁ、夜逃げというか、左遷というか……とにかく逃げたのだ。
 スリナムとは南米の小国で、首都はパラマリボ。その当時は本当に”未開地”で、道路や電気、水道などのインフラもまともに整備されていなかったという。
 なぜ、こんな未開地へ……?
 やはり、逃げた、といっても過言ではないだろう。ヘームストラ一家は、スキャンダルから逃げてきたのだ。おめおめと逃げてきたのだ。
 エラと父親とエラの息子は、スリナムで静かに暮らしはじめた。
 長い休暇のような滞在中に、エラは『バロネス(女男爵)』という称号を正式に授かった。が、現地のひとたちは「見栄をはってバロネスなどと名乗っている」としか見なかった。それだけ馬鹿にされていたということだろうか。
 とにかく、滞在中にエラはひとりの男性と恋におちる。
 ジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ヘプバーンーラストンという男である。エラが近くの島に旅行にいったとき知り合ったのだという。彼は銀行家で、イングランド人とアイルランド人の血をひく男で、平凡な容姿だったという。しかし、人柄は魅力的で、エラはひかれた。男に幻滅していたエラさえも、彼はひきつけたのである。
 彼は、愛する女性には親切に、つくすタイプの男であった。
 ジョゼフの方も、エラに夢中になった。
 電報をわざわざ打って、ヨーロッパからエラのためにプレゼントを送ってもらいプレゼントしたり、蘭の花束を送ったり、いろいろ贈物をした。
 また、彼は、女性に奴隷のようにつくすタイプだったため、エラは益々、ジョゼフにひかれるのだった。(エラは男運が悪く、ジョゼフのような男の正体でさえ見抜けなかった) 問題は、ジョゼフはエラに優しくしてはくれるのだが、そのために必要な金はエラに頼りきっていたことだ。つまり、財産目当てにジョゼフは近寄ってきたのだ。
 このこともまた、ふたりの間をギクシャクさせる原因ともなる。
 結婚生活をさらにギクシャクさせたのはブリュッセルへの移住であったという。
 ベルギーの首都ブリュッセルは貴族的で排他的なところで、生活もふたりをギクシャクさせる原因ともなった。エラとジョゼフはいつも口論をしていた。
 その被害者は、たったひとりの娘、エッダ(オードリー。幼い頃はエッダと名乗っていた。以下からは、オードリーと呼ぶ)だった。
「私は両親にかまってもらえなかった。それが、愛に飢えた性格になった原因ね」
 オードリーはある対談で話す。
 とにかく両親はケンカばかりしていた。
 ブリュッセルは保守的な土地柄で、エラのような意志の強い女性を敬遠しだした。当時のご時世でも、『女性は男より目立ってはいけない』というような男尊女卑が支流であった。当然、エラは”ペルソナ・ノン・グラータ”(好ましくない人物)になった。
 しかし、オードリーは母の影響を受けて育ち、そっくりになった。
 一九八四年にエラがこの世を去るまで、母娘はぴったりと寄り添っていた。
 エラがオードリーに与えた影響は大きく、恋人から友達、結婚にいたるまで常に母親の影響下におかれていたという。エラが厳しく接したため、オードリーの潜在的な拒食症を助長したと友人や親類たちは語ったそうだ。
 結婚前からエラの父親のブリュッセルの屋敷にいたオードリーは、その隔離されたような家でいたるところに置かれていたチョコレートを手当たり次第食べたという。
「子供の頃はチョコレートが恋人だったわ。チョコレートはわたしを裏切らなかったんですもの。あのころはチョコレートを食べるか、爪を噛んでたわ。それだけ心配事が多かったということでしょう」
 対談でオードリーは語る。
 また、第二次世界大戦中に、オードリーたちはオランダのアルンヘムにある母親一族の家に隠れて暮らしていた。ナチスに追われて暗い地下室で餓死寸前の経験をしたオードリーは深い罪悪感に悩むことになる。
「生き残れないひとたちがたくさんいたのに…」
 飢餓を経験したオードリーにとって、食事は”贅沢”であった。
 彼女にとって、食事は、『なくても困らないもの』だったという。つまり摂食障害の女性にありがちな考えを生涯もっていた。つまり、……食べないことが、問題解決の道……という考えである。
 エラの体型を見ていて、摂食障害になったという見方も出来るだろう。
 母親のエラは太りやすい体質だったという。
 いつも標準体重より十キロ以上も太っていた。そのため、移り気な夫を繋ぎ止めておくためにダイエットなどを心掛けたという。しかし、痩せなかった。
 醜い体型の母を見て、……母のような”おデブさん”にはなりたくない!……
 そう思っても不思議ではない。
 オードリーは、生涯、四十六キロ以上の体重にはならない、と誓っていた。それは妊娠期間以外は守られた。エラという反面教師がいたからだ。母のようなデブはごめんだわ、と思った。それにしてもどうして彼女が、厳格な裕福な家庭で育った、頭のいい、美しい少女が、映画俳優などになったのだろう。人生ではもっとすばらしいこともあったはずだ。ハンサムな男と結婚し、ことあるごとに「愛してるよ」といってくれる男と結婚し、子供を沢山産むことだってできたはずだ。なぜ……そうだ、思いだした。お金…大金…それが理由だ。そして、ステータス。とにかく、成功するためにはデブになってはいけない。
  現代アメリカでは、”デブ”と”スモーカー”は出世できないという。
 ”デブ”は食事のコントロールが下手で、自己管理ができてない訳だし、”スモーカー”もセルフ・コントロールが弱い結果だ。
 ”デブ”も”スモーカー”も、ある意味で醜い。”デブ”は外見が醜いし、”スモーカー”は精神が醜く他人に煙りで迷惑をかける。
 出世しなくて当たり前である。
 まぁ、オードリーがそういうことを考えてダイエットしていたのかは不明だ。が、オードリー・ヘプバーンにはスレンダーな体型こそ似合う。彼女がデブな体型だったら……果たして”売れた”だろうか?
  オードリーは幼かったため両親の不仲が自分のせいではないことがわからなかった。 父親のジョセフはロンドンで一八八九年に生まれた。家は貧乏というほどでもなかったが、裕福という訳でもない。生活するためにずっと働かなければならなかった。いわゆる平凡な中流階級の庶民であった。オードリーの母親・エラとの喧嘩の原因は、いつも『お金』のことでだった。喧嘩でいつもエラは夫の卑しい出をもちだしたという。
 エラとジョセフはしかし世間体を気にして、なかなか離婚しなかった。
 十二歳年下のエラと同様に、ジョセフにも離婚経験があったため、「今度こそは結婚を失敗させたくない」という信念があった。
 一九二六年九月七日、エラとジョゼフはジャカルタ(インドネシアの首都)で結婚した。エラはすぐにでも本国・ベルギーへ戻りたがった。
 が、ジョゼフの勤めるイングランド銀行は、ジョゼフをそんなに重要都市でもないジャカルタで修行させてから本国へ帰す所存であった。だが、それでは嫌だと、エラは金に物をいわせ、夫のジョセフをベルギーに帰国させるように仕掛けた。それは成功し、ジョゼフはブリュッセル支店の取締役としてベルギーへ戻った。一家もついてきた。
 それからは平和だった。
 オードリーの義兄・アレクサンドルとヤンはよく悪戯をして遊んだという。妹のことなどふたりには眼中になかった。悪さのターゲットは召使の料理女であったという。
 しかし、平和は長くは続かない。
 ジョゼフはナチスに浸透し、家に帰ると大声でプロパガンダ(大衆操作)を並び立てた。子供たちは怖がった。が、オードリーはのちに言う。
「私は父親が嫌いではありませんでした。だって本当の父なんですもの」
 ジョゼフはやがて、家を去った。
 オードリーは捨てられたことにショックを受けた。その恐怖は、オードリーが一生背負うこととなる。

  一九三五年にジョセフがロンドンへ移ってから、一家はしんみりとした生活をしていた。
「お人形で遊んだことなんて一度もないのよ」
 オードリーはのちにある対談でいっている。「母はひとりっきりの娘だから、お人形と遊ぶ娘の姿を見たかったんだと思うの。でも、人形を嫌いだった本当の理由は、ままごとが嫌いだったの。現実の家庭生活で味わう痛みを、わざわざ思い出すようなことはしたくなかった。わたしはどうしようもなく困惑してたし、動揺もしていた。そんな生活から逃げたかった。できればそんな気持ちは口にしたくなかったし、できれば知らないふりをしていたかった」
 オードリーはチョコレートなどの食べ物で寂しさを紛らわそうとしたという。
 しかし、そんな彼女を救ったのが、音楽バレエだった。
 あるとき、母とオードリーは劇場でバレエをみた。
 その瞬間、オードリーはバレエにひかれた。ひきつけられた。
 インスピレーションを与えられた。オードリーの端整な顔に少女っぽい笑みが広がった。それは魅力的で説得力のある微笑だった。
 オードリーはいう。「わたしはバレエを習いたいと思ったの。で、母にいうと、母は喜んだわ。自分が舞台に立てなかったけど、その夢を娘が叶えるのですもの。母は有頂天だったわ」こうして、のちの”ハリウッド・スター”オードリー・ヘプバーンの成功への長い第一歩が始まる。彼女は熱心にバレエを習い始めた。

  オードリーはできるだけロンドンの父親に会いにいった。
 しかし、父親は仕事で忙しく、また女出入りも激しかったのでオードリーは相手にもしてもらえなかった。彼女は父にむらがる女性たちにやきもちを焼いたという。
 学校に通うようになると、オードリーは今まで以上に疎外感を味わうようになる。
 オランダ訛りが強く、英語がうまく話せず、スポーツになんの興味も示さないオードリーはクラスのからかいの対象となる。
「人生を通してわたしが興味をもったことは読書だった。およそ社交的とはいえないわね」 オードリーはいう。
 この期に及んでも、オードリーは両親が元のさやに収まるのではないか……としんと期待していた。しかし、両親は元にはもどらなかった。九歳になったオードリーは、父のはからいでロンドンで週に一回バレエのレッスンを受けることになった。
 
  一九三八年(書類を提出してから三年後のこと)、エラとジョゼフは正式に離婚した。原因はジョゼフがヒトラーを支持する黒シャツ党に関わっていたことだという。が、そのほかにエラの財産を横領していたともいわれる。それが原因だ。
 両親は苦しい思いで離婚し、娘を嫌な目にあわせたことも理解していた。だから、オードリーをロンドンの学校に通わせることにした。
 オードリーは英語とフランス語も話せるようになり、スポーツもやり、友達もいっぱい作ることに成功しだす。オードリーはヨーロッパ流の躾をうけた典型的な上流階級の子供になった。この頃、激しい偏頭痛に悩まされたのは現実との葛藤のせいだろう。
 オードリーはけして感情を表にださなかった。
 それは、そうしたほうが解決策が見付かるとわかっていた節がある。
 ……能ある鷹は爪隠す、………である。
 しかし、オードリーたちの前には不気味な戦争の影が忍び寄って、いた。      

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