3 久光との確執
吉之助は三年間島にいたあと、やっと鹿児島にもどった。
「鹿児島じゃ! なつかしいでごわす」
桜島はいつものように噴煙をあげていて、雄大である。
親友の大久保一蔵が出迎えた。
「西郷どん!」
「一蔵どん!」
ふたりは抱き合った。
「一蔵どんのおかげで鹿児島にもどれもうしたばい。感謝感激でごわす」
吉之助は礼を述べた。
「いやいや、西郷どんはわが薩摩の英雄じゃっど。天下がおまんさんを必要としておるっちゅうことでごわそ」
「西郷どん、よかとでごわした」
大久保一蔵は笑みを浮かべた。……なんにしてもこれで倒幕ができる。
「西郷どん! 西郷どんではごわさんか?!」
薩摩藩士の男たちが集まってきて、握手した。みんな西郷吉之助の帰還を喜んだ。
西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と一蔵にきいた。
大久保一蔵(利道)は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
といった。
「そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
西郷は強くいった。
「そげんこついうても、久光公には才能がござらん」
「……なさけなか。藩主がこげな状況では藩に命を捧げたひとたちが浮かばれもんそ」
西郷吉之助(隆盛)は嘆いた。
やがて、島津久光は隠居した。
その隠居は、宮中や朝廷に知らせ、久光は薩摩藩主ではなくなった。
「何の理由もなく兵を動かせば壤夷派にしてやられる」
薩摩藩士たちは、血判状をつくって久光に迫った。
島津久光は、
「よし! わかった! 上洛じゃ!」
と息巻いた。
家臣たちは「やっとごて公がわかってくれもした!」と喜んだ。
『精忠組』も同じように喜んだ。
しかし、久光はいつまでもぐすぐすしている。
「殿! ………はやく行動をば!」
久光は押し黙った。そして、オドオドとなって「わかっとか!」といった。
「西郷どん! ご無事でよかごわした!」
吉之助の元に、薩摩藩士仲間の村田新八と森山新蔵がやってきた。
「新八どん! 新蔵どん! ひさしゅうごわす!」
吉之助は笑顔をふたりにみせた。
「西郷どん、大変じゃったでごわそ?」
と村田。
「まぁそうでごわすな」
吉之助は苦い顔をした。「おいが掃除も洗濯もひとりでしよった」
すると森山がにやりとして、
「じゃっどん西郷どん」
「なにとぜ?」
「奄美で結婚したとでごわそ?」森山はにやにやした。
吉之助はにこりと白い歯をみせ、巨眼と太い眉を細め、
「そうでござりもそ。島の女と結婚しよった」といった。しあわせそうな顔だった。
「……そぜ?」
村田は吉之助に尋ねた。
「そぜ? ってなんじゃっとん?」
「子までできたんでごわそ?」
「ははは」吉之助は大笑いして「そでごわすそでごわす」
「めでたいでごわすな」
一同は笑った。
西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と森山にきいた。
一蔵は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
といった。
「なんどもいうどん。そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
西郷は強くいった。
「まず幕府を倒すためには二条城をせめ、彦根城を攻め一挙に江戸に攻め入るのが最高の策でごわす」
「そげんこついうても……」一蔵は首をふった。
「久光公は”わかっとか!”いうたばってん。ほんとげにわかっちょっとがか?」
村田新八と森山新蔵も、「久光公には倒幕は無理でごわす。西郷どん…」
吉之助は口をつぐんだ。
「西郷どん。あんさんがたつしかなか」
一同の目が西郷吉之助(隆盛)に集まった。吉之助は頭をかいて、
「じゃっどん。おいは幽霊でごわそ?」と冗談をいった。
諸国の志士たちが西郷吉之助によせる期待はただならぬものがあった。
「西郷が動けば薩摩は動く」といわれるほどで、故・斉彬の助手として活躍し、顔も知られていた。
西郷は島津久光との約束を忘れ、急ぎ馬関(下関)を発して京へと向かった。
それを知った久光は、激昴して、
「おのれ! 余をばかにすっとか?!」
といった。
「吉之助め、余の命にそむいて……何をばするつもりか! あの男は余をあなどっておるのではなかか!」
「久光さま。そのようなことは…」
「黙れ! 一蔵!」
大久保は久光をなだめた。
「西郷どんはどげんこつで京へいきもはんじゃろうですか?」
「知るか!」久光は強い口調でまくしたてる。「あの男ばゆるすわけにはいかん!」
「落ち着いてくだされ! 久光さま!」
「一蔵! 誰のおかげで偉くなれもうした?」
大久保一蔵(利通)は押し黙った。…確かに偉くなったのは久光のおかげである。
「いつやめてもよかとぞ? 一蔵」
久光は低い声でつめよった。
大久保一蔵(利通)は押し黙ったままだ。
「吉之助はまた島へ流す! おいを馬鹿にした罰じゃ!」
久光は顔を真っ赤にしていった。よほど腹が立っていたのであろう。
「久光さま。そのようなことは…おいが連れ戻すばってんそれは平にご容赦を!」
「そげんこつはいかん! 吉之助はまた島へ流す!」
「……久光さま!」
「あれはわが藩と幕府を戦わせるつもりぞ。流さねばなりもうさん」
久光は、ふん、と鼻を鳴らすと場を去った。
大久保一蔵は愕然として、城内の庭園でがくりと膝をついた。なんともやりきれない思いであった。………なんてごてじゃっどん。
また西郷どんが島流しにあうとがか?!
目の前が真っ暗になる思いだった。
大久保一蔵はさっそく急いで京へと向かった。
京の薩摩藩邸には西郷がいた。
「おや? 一蔵どんじゃなか! どげんしたでごわす?」
何も知らない吉之助は明るい声でいった。
「西郷どん……」
「?!」
吉之助は驚いた。大久保一蔵が土下座したからだ。
「なにしよっとぞ?! 一蔵どん」
「悪いことしよった……西郷どん…またあんさんを島流しにするちゅうて…」
一蔵は涙を流した。
「島流し? おいを? また久光がそういったでごわすか?」
「……そうでごわす…悪かことしよっとばい」
「頭をあげとせ! 一蔵どん! あんさんが悪いのじゃなかが…」
吉之助は手を差し向けた。
「……じゃっどん…」
「すべては久光の無能のためでごわす」
大久保一蔵は起き上がり、眩暈を覚えながら、
「おいは久光公がわからんとなったでごわす。西郷どんのような人物が今、必要なときになにとぜ島流しなんぞに…」と呟くようにいった。
「一蔵どん………おいはよかとぞ。島流しなんぞなんでもなか。どうせ一度はなくしかけた命じゃっどん。なんでもなかと」
「……おいは…おいは…」
「?!」
吉之助は驚愕した。大久保が切腹しようとしたからである。
「…な?! なにしよっとか一蔵どん?!」吉之助は一蔵のもつ脇差しをとめた。
「馬鹿なことするもんじゃなか?!」
「…死なせて…もうせ! 西郷どん! わしが腹をきってお詫びを…」
「馬鹿ちんが!」
吉之助は一蔵の頬を平手打ちした。
「”死んではつまらん”いうたのはあんさんでなかが?!」
一蔵は脇差しを畳に落とし、茫然とした。
「どうせ死ぬなら…」
吉之助は続けた。「どうしても死ぬなら、天下のために命を捧げもうせ! 犬死はつまらん! 犬死だけはつまらんど」
「……じゃっどん」
「今は乱世のときぞ。あんさんがいのうなったら天下はどげんなっとか?!」
吉之助は諭した。
大久保はしばらく茫然としてから、
「……西郷どん」と囁くようにいった。
村田新八は徳之島へ、西郷吉之助も島へ流された。
久光は大阪へ入った。西郷のいとこ大山弥助(のちの巌)、西郷の弟・西郷慎吾(従道)がやってきた。
久光への意見は、「あにさんを帰してくれもんそ」ということである。
しかし、島津久光の考えはかわらなかった。
そんな最中、文久二年(一八六二)『寺田屋事件』が起こる。
「九州諸藩からぬけだした連中が京へきて何かしようとしちょる。おいどんをかつぎだして久光公のご出馬をこうとる」
吉之助は島流しの前に一蔵にいっていた。
「なぜとめくれなんじゃ?」
「なれどな一蔵どん……久光公の怒りはな……そりゃきびしいど」
「わかっちょる」
いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、一蔵にはそれは知らなかった。
幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
ほどなく、戦闘がはじまった。
数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。 ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
吉之助はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
奄美大島の愛加那と子供ふたりは「吉之助がふたたび島流しにあった」ときいて、思わず興奮した。やっとあえるのだ。
しかし、西郷吉之助が流されたのは大島ではなく、徳之島であった。徳島は奄美大島につぐ二番目に大きな島で、久光が、
「大島にやったのでは家族がいて罰にならない」
と、いったためにこの島が流刑場所に選ばれたのである。
しかし、待ち切れない。
愛加那は興奮して徳島まで舟でむかった。そして、再会した。
「おお! 愛加那でごわそか!」
「旦那さん!」
ふたりは抱きあった。吉之助は息子と女の子をみた。
「これが菊次郎でごわそ?」
「…はい。こちらは菊草という旦那さまの娘です」愛加那は笑顔をつくった。
「そうでごわすか。そうでごわすか」
吉之助の笑顔はわずかだった。すぐに暗い顔をして「……久光公に…嫌われ申した」
と、慙愧の顔をした。
すると、見知らぬじじいとばばあがやってきて、
「おんしは極悪人じゃ!」といった。
「……なにごて?」吉之助は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ふつうの人間は一度島流しにあえばこりて悪さしないものじゃっどん。おんしは二度も島流しにおうてる。極悪人じゃで」
「じじい、ばばあ」吉之助は顔をしかめて「おいどんは極悪人じゃ。その杖でおいを叩きのめしてごわせ!」
やがてばばあとじじいは吉之助を杖で叩きはじめた。
「………旦那はん!」
「愛加那! ……子らに見せんじゃなか! 行け! はよ行け!」
愛加那は子供たちに、ボコボコに叩かれる吉之助をみせて、「よくみとらんせ。あれがあんさんたちの父ど!」と諭した。
吉之助は傷だらけになった。
久光はそれをきき笑ったが、妻子にあえるのは駄目じゃな。とも思い、島流しの場所をかえさせたという。
吉之助は沖永良部島へと流された。
島は石がいっぱいあって、太陽がぎらぎらまぶしく、そんな海岸の炎天下のちいさな檻に西郷吉之助(隆盛)はいれられた。食事はおそまつで、風呂にもはいれない。
雪隠(トイレ)もない。しかも、暑苦しい。狭い。外にでれない。
吉之助は髭をぼうぼうに生やしっぱなし、服も汚れ、さすがに痩せて、頬はこけ、風呂にはいってないから臭くなった。
吉之助は座禅を組んで耐えた。三年間そんな日々が続いた。
島には陽気な薩摩隼人・川口雪篷がいて、酒をラッパ呑みしながら檻にやってきた。昼頃だった。「西郷どん……酒はどうじゃ?」
雪篷がいうと、西郷は目をまわし、気絶した。
「おい! 西郷どんが気絶しよったぞ!」
雪篷はあわてて役人をよびにいった。しかし、吉之助は、死ななかった。
吉之助は三年間島にいたあと、やっと鹿児島にもどった。
「鹿児島じゃ! なつかしいでごわす」
桜島はいつものように噴煙をあげていて、雄大である。
親友の大久保一蔵が出迎えた。
「西郷どん!」
「一蔵どん!」
ふたりは抱き合った。
「一蔵どんのおかげで鹿児島にもどれもうしたばい。感謝感激でごわす」
吉之助は礼を述べた。
「いやいや、西郷どんはわが薩摩の英雄じゃっど。天下がおまんさんを必要としておるっちゅうことでごわそ」
「西郷どん、よかとでごわした」
大久保一蔵は笑みを浮かべた。……なんにしてもこれで倒幕ができる。
「西郷どん! 西郷どんではごわさんか?!」
薩摩藩士の男たちが集まってきて、握手した。みんな西郷吉之助の帰還を喜んだ。
西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と一蔵にきいた。
大久保一蔵(利道)は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
といった。
「そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
西郷は強くいった。
「そげんこついうても、久光公には才能がござらん」
「……なさけなか。藩主がこげな状況では藩に命を捧げたひとたちが浮かばれもんそ」
西郷吉之助(隆盛)は嘆いた。
やがて、島津久光は隠居した。
その隠居は、宮中や朝廷に知らせ、久光は薩摩藩主ではなくなった。
「何の理由もなく兵を動かせば壤夷派にしてやられる」
薩摩藩士たちは、血判状をつくって久光に迫った。
島津久光は、
「よし! わかった! 上洛じゃ!」
と息巻いた。
家臣たちは「やっとごて公がわかってくれもした!」と喜んだ。
『精忠組』も同じように喜んだ。
しかし、久光はいつまでもぐすぐすしている。
「殿! ………はやく行動をば!」
久光は押し黙った。そして、オドオドとなって「わかっとか!」といった。
「西郷どん! ご無事でよかごわした!」
吉之助の元に、薩摩藩士仲間の村田新八と森山新蔵がやってきた。
「新八どん! 新蔵どん! ひさしゅうごわす!」
吉之助は笑顔をふたりにみせた。
「西郷どん、大変じゃったでごわそ?」
と村田。
「まぁそうでごわすな」
吉之助は苦い顔をした。「おいが掃除も洗濯もひとりでしよった」
すると森山がにやりとして、
「じゃっどん西郷どん」
「なにとぜ?」
「奄美で結婚したとでごわそ?」森山はにやにやした。
吉之助はにこりと白い歯をみせ、巨眼と太い眉を細め、
「そうでござりもそ。島の女と結婚しよった」といった。しあわせそうな顔だった。
「……そぜ?」
村田は吉之助に尋ねた。
「そぜ? ってなんじゃっとん?」
「子までできたんでごわそ?」
「ははは」吉之助は大笑いして「そでごわすそでごわす」
「めでたいでごわすな」
一同は笑った。
西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と森山にきいた。
一蔵は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
といった。
「なんどもいうどん。そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
西郷は強くいった。
「まず幕府を倒すためには二条城をせめ、彦根城を攻め一挙に江戸に攻め入るのが最高の策でごわす」
「そげんこついうても……」一蔵は首をふった。
「久光公は”わかっとか!”いうたばってん。ほんとげにわかっちょっとがか?」
村田新八と森山新蔵も、「久光公には倒幕は無理でごわす。西郷どん…」
吉之助は口をつぐんだ。
「西郷どん。あんさんがたつしかなか」
一同の目が西郷吉之助(隆盛)に集まった。吉之助は頭をかいて、
「じゃっどん。おいは幽霊でごわそ?」と冗談をいった。
諸国の志士たちが西郷吉之助によせる期待はただならぬものがあった。
「西郷が動けば薩摩は動く」といわれるほどで、故・斉彬の助手として活躍し、顔も知られていた。
西郷は島津久光との約束を忘れ、急ぎ馬関(下関)を発して京へと向かった。
それを知った久光は、激昴して、
「おのれ! 余をばかにすっとか?!」
といった。
「吉之助め、余の命にそむいて……何をばするつもりか! あの男は余をあなどっておるのではなかか!」
「久光さま。そのようなことは…」
「黙れ! 一蔵!」
大久保は久光をなだめた。
「西郷どんはどげんこつで京へいきもはんじゃろうですか?」
「知るか!」久光は強い口調でまくしたてる。「あの男ばゆるすわけにはいかん!」
「落ち着いてくだされ! 久光さま!」
「一蔵! 誰のおかげで偉くなれもうした?」
大久保一蔵(利通)は押し黙った。…確かに偉くなったのは久光のおかげである。
「いつやめてもよかとぞ? 一蔵」
久光は低い声でつめよった。
大久保一蔵(利通)は押し黙ったままだ。
「吉之助はまた島へ流す! おいを馬鹿にした罰じゃ!」
久光は顔を真っ赤にしていった。よほど腹が立っていたのであろう。
「久光さま。そのようなことは…おいが連れ戻すばってんそれは平にご容赦を!」
「そげんこつはいかん! 吉之助はまた島へ流す!」
「……久光さま!」
「あれはわが藩と幕府を戦わせるつもりぞ。流さねばなりもうさん」
久光は、ふん、と鼻を鳴らすと場を去った。
大久保一蔵は愕然として、城内の庭園でがくりと膝をついた。なんともやりきれない思いであった。………なんてごてじゃっどん。
また西郷どんが島流しにあうとがか?!
目の前が真っ暗になる思いだった。
大久保一蔵はさっそく急いで京へと向かった。
京の薩摩藩邸には西郷がいた。
「おや? 一蔵どんじゃなか! どげんしたでごわす?」
何も知らない吉之助は明るい声でいった。
「西郷どん……」
「?!」
吉之助は驚いた。大久保一蔵が土下座したからだ。
「なにしよっとぞ?! 一蔵どん」
「悪いことしよった……西郷どん…またあんさんを島流しにするちゅうて…」
一蔵は涙を流した。
「島流し? おいを? また久光がそういったでごわすか?」
「……そうでごわす…悪かことしよっとばい」
「頭をあげとせ! 一蔵どん! あんさんが悪いのじゃなかが…」
吉之助は手を差し向けた。
「……じゃっどん…」
「すべては久光の無能のためでごわす」
大久保一蔵は起き上がり、眩暈を覚えながら、
「おいは久光公がわからんとなったでごわす。西郷どんのような人物が今、必要なときになにとぜ島流しなんぞに…」と呟くようにいった。
「一蔵どん………おいはよかとぞ。島流しなんぞなんでもなか。どうせ一度はなくしかけた命じゃっどん。なんでもなかと」
「……おいは…おいは…」
「?!」
吉之助は驚愕した。大久保が切腹しようとしたからである。
「…な?! なにしよっとか一蔵どん?!」吉之助は一蔵のもつ脇差しをとめた。
「馬鹿なことするもんじゃなか?!」
「…死なせて…もうせ! 西郷どん! わしが腹をきってお詫びを…」
「馬鹿ちんが!」
吉之助は一蔵の頬を平手打ちした。
「”死んではつまらん”いうたのはあんさんでなかが?!」
一蔵は脇差しを畳に落とし、茫然とした。
「どうせ死ぬなら…」
吉之助は続けた。「どうしても死ぬなら、天下のために命を捧げもうせ! 犬死はつまらん! 犬死だけはつまらんど」
「……じゃっどん」
「今は乱世のときぞ。あんさんがいのうなったら天下はどげんなっとか?!」
吉之助は諭した。
大久保はしばらく茫然としてから、
「……西郷どん」と囁くようにいった。
村田新八は徳之島へ、西郷吉之助も島へ流された。
久光は大阪へ入った。西郷のいとこ大山弥助(のちの巌)、西郷の弟・西郷慎吾(従道)がやってきた。
久光への意見は、「あにさんを帰してくれもんそ」ということである。
しかし、島津久光の考えはかわらなかった。
そんな最中、文久二年(一八六二)『寺田屋事件』が起こる。
「九州諸藩からぬけだした連中が京へきて何かしようとしちょる。おいどんをかつぎだして久光公のご出馬をこうとる」
吉之助は島流しの前に一蔵にいっていた。
「なぜとめくれなんじゃ?」
「なれどな一蔵どん……久光公の怒りはな……そりゃきびしいど」
「わかっちょる」
いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、一蔵にはそれは知らなかった。
幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
ほどなく、戦闘がはじまった。
数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。 ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
吉之助はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
奄美大島の愛加那と子供ふたりは「吉之助がふたたび島流しにあった」ときいて、思わず興奮した。やっとあえるのだ。
しかし、西郷吉之助が流されたのは大島ではなく、徳之島であった。徳島は奄美大島につぐ二番目に大きな島で、久光が、
「大島にやったのでは家族がいて罰にならない」
と、いったためにこの島が流刑場所に選ばれたのである。
しかし、待ち切れない。
愛加那は興奮して徳島まで舟でむかった。そして、再会した。
「おお! 愛加那でごわそか!」
「旦那さん!」
ふたりは抱きあった。吉之助は息子と女の子をみた。
「これが菊次郎でごわそ?」
「…はい。こちらは菊草という旦那さまの娘です」愛加那は笑顔をつくった。
「そうでごわすか。そうでごわすか」
吉之助の笑顔はわずかだった。すぐに暗い顔をして「……久光公に…嫌われ申した」
と、慙愧の顔をした。
すると、見知らぬじじいとばばあがやってきて、
「おんしは極悪人じゃ!」といった。
「……なにごて?」吉之助は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ふつうの人間は一度島流しにあえばこりて悪さしないものじゃっどん。おんしは二度も島流しにおうてる。極悪人じゃで」
「じじい、ばばあ」吉之助は顔をしかめて「おいどんは極悪人じゃ。その杖でおいを叩きのめしてごわせ!」
やがてばばあとじじいは吉之助を杖で叩きはじめた。
「………旦那はん!」
「愛加那! ……子らに見せんじゃなか! 行け! はよ行け!」
愛加那は子供たちに、ボコボコに叩かれる吉之助をみせて、「よくみとらんせ。あれがあんさんたちの父ど!」と諭した。
吉之助は傷だらけになった。
久光はそれをきき笑ったが、妻子にあえるのは駄目じゃな。とも思い、島流しの場所をかえさせたという。
吉之助は沖永良部島へと流された。
島は石がいっぱいあって、太陽がぎらぎらまぶしく、そんな海岸の炎天下のちいさな檻に西郷吉之助(隆盛)はいれられた。食事はおそまつで、風呂にもはいれない。
雪隠(トイレ)もない。しかも、暑苦しい。狭い。外にでれない。
吉之助は髭をぼうぼうに生やしっぱなし、服も汚れ、さすがに痩せて、頬はこけ、風呂にはいってないから臭くなった。
吉之助は座禅を組んで耐えた。三年間そんな日々が続いた。
島には陽気な薩摩隼人・川口雪篷がいて、酒をラッパ呑みしながら檻にやってきた。昼頃だった。「西郷どん……酒はどうじゃ?」
雪篷がいうと、西郷は目をまわし、気絶した。
「おい! 西郷どんが気絶しよったぞ!」
雪篷はあわてて役人をよびにいった。しかし、吉之助は、死ななかった。