長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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男装の麗人・川島芳子 ああわれ日中の橋渡しに!ブログ連載1

2012年04月20日 11時45分44秒 | 日記
小説   『男装の麗人』



              ~川島芳子の真実~

                  だんそうのれいじん かわしまよしこ
                ~昭和のマタ・ハリ 川島芳子の人生!
                 わが心の昭和史~
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
……この作品は事実をもとにしたフィクションです。事実とはいささか異なる点がありますご了承ください………

          あらすじ

  川島芳子こと粛親王の第十四王女・顕シは1907年に生まれた。辛亥革命を受けて王族は北京を離れて日本軍の支配する旅順へ逃れる。……裕仁は嫡男として皇太子に。しかし、病弱だった大正天皇はすぐに死んでしまう。時代は昭和へ。日露、日清戦争で勝った日本帝国は野望をもち中国などを侵略していく。時代は黒闇の戦争へ……
 日本人・川島浪速の養女となった顕シ改め空島芳子は軍部のパペット(あやつり人形)と化して太平洋戦争を黙認する。しかし、日本に勝ち目はない。やがて原爆投下で日本は敗戦。芳子は中国軍の手で戦後に『戦犯』として銃殺……天皇は「人間宣言」をして巡幸してまわる。やがてそんな天皇は八十七歳で崩御……時代は平成へと移る。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊……冷戦終結…時代は新たな一ページを刻む。
 昭和天皇はいう。
「戦争がさけられないのならばせめて治療法のない兵器は使わないでください」
                                    おわり
         1 男装の綺人






  東洋のマタ・ハリ……
  慈悲深いアジアのジャンヌ・ダルク…
これが川島芳子(1907~1949)の名称である。
 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。川島芳子こと粛親王の第十四王女・顕シは1907年に生まれた。
 清国(中国)の王女のひとりとして生まれた訳だが、すぐに孫文による『辛亥革命』によって祖国をおわれることになる。
 それと交差するように生きたもうひとりの王族がいた。いうまでもない二先年の歴史の皇族にして、大悪人戦犯・昭和天皇……裕仁である。
 裕仁と顕シ(川島芳子)の人生はまったく逆のベクトルを辿る。昭和天皇はヒトラーと同罪の罪を犯しながら、戦犯として裁かれる事もなく、88歳まで生きる。
 一方の芳子は、自分の国の人間によって、戦後、『戦犯』として銃殺されてしまう。
 先の戦争で昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。
 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。
 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。
 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。
 これは太平洋戦争の二十数年前に遡らなければならない。

  粛親王は紙に主色のペンで、”顕シ”と書いた。
 それが『男装の麗人』第十四王女(のちの川島芳子)の名前である。
 川島芳子は、一九〇七年(明治二十年)、中国に産まれた。父は粛王である。
 川上芳子こと顕シが生まれたとき、時代は混沌としていた。苦悩する世界。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。
「私は粛王家の十王女として生まれた。殿下の希望のために働いた。父は非常に有能なひとであった。が、病弱ですぐに風邪をおひかれになられた。父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、日本の経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」
 幸せもつかのまで、孫文による『辛亥革命』が勃発……1912年に清国が滅亡すると、父・粛親王は復権を望んで日本の支配(侵略した)している旅順へと一家は逃れた。
 関東都督府の好意により、日露戦争で奪取した旧ロシア軍官舎を提供され、幼い顕シもそこで育った。やがて親王が復権のために日本へ養女として川島家へ彼女を提供した。
 1915年四月、芳子は川島家から豊島師範付属学校に進学した。院長は日露戦争の英雄でもある乃木希典陸軍大将である。
 十歳頃になると、もう帝王学を習いはじめ、事務や税務、事業、憲法、もろもろの”いろは”を手ほどきをさせられた。会議、部下からの報告、打ち合わせ、中学生になるともっぱら事業で一日が過ぎてしまったそうである。
 なお、川島家の転居にともなって長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校…(現・長野県松本蟻ケ崎高等学校)へ馬で通った。
 養父・川島浪速は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。
 芳子は、クラシック音楽が好きで、レコードを聴いた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。日本では第一号であったという。
 1922年に実父・粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず、中退した。そして、事件は起こる。
 山家小尉との恋愛中であった芳子は、養父の川島浪速に性的暴行を受ける。つまりレイプだ。芳子は必死に抵抗した。「やめて! いやあ~っ! 痛い、痛い! いやあ~つ!」 しかし、男の力には勝てず、服や下着をとられて愛撫され、挿入され、芳子は泣きながら抵抗した。が、それも無理だった。「いやあ…痛い痛いやめて~っ! いやあ~っ!」       
  翌朝、芳子は放心状態で、鋏を持って長い髪を切り落とし断髪して、男装する。
 もう私は……いや僕はもう女じゃない。これからは男だ!
 それをマスコミがとりあげて、川島芳子は『男装の麗人』として女性ファンが出来た。 白馬にまたがり、疾走する姿は、まるで宝塚の男役みたいにかっこよく見えた事だろう。 
  昭和天皇・裕仁は東宮学院で帝王学を学んだという。教えるのは東宮御学学問所総裁東郷平八郎である。帝王学と軍事兵法……
 1921(大正十)年、昭和天皇は皇太子としてヨーロッパを視察した。船でいき、第一次世界大戦後のヨーロッパをみてまわった。オランダ。ベルギー、イギリス……
 立憲君主として学ぶためだった。
 しかし皇太子は「……本当にこれでよいのだろうか?」と思っていたという。
 1926年(昭和元年)、つまり病気だった大正天皇が崩御して、皇位を継承した。元号は昭和となり、裕仁は昭和天皇となった。
 視力が悪くなり、眼鏡をかけ、国民の前にも姿を見せない。そんな天子さまは軍事色に染まっていく……
 1930年(昭和5)年4月、ロンドンで軍縮会議が始まった。このとき、「相当権干渉」と日本軍部が騒ぎ始めた。この頃から熱しやすい軍部と日本国民は軍事色の波にのまれていく。それはドイツでも同じであった。
  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。
 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。
 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。
 そして、”宣伝”という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。
 しかし、それはまだ先の話しだ。
 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。
「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。
 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!
 ヒトラーは屈折していく。
 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部”己のため”である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。
 そして、ヒトラーは”武装蜂起”を考えた。
 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……
 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。
 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。
 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!
 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!
  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。
 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。
 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。
 ヒトラーは意を決する。
「よし、”武装蜂起”だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。
 ナチスは人々に”今日と明日のパン”を約束した。輝かしい未来、”ドイツ第三帝国”をも……人々の飢餓に訴えたのである。
 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。
「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」
「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」
「売国奴! 楽隊、”ホルスト・ヴェッセル”をやれ!」
「ナチスを黙らせろ! 楽隊”インター・ナショナル”だ!」
 まさにカオス状態だった。
 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。
「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。
                かざ                        ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」
「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」
「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日のパン””輝かしい未来”をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」
 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”金”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」
 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。
 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。
「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」
 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。
 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。
 一九三三年、ナチス・ヒトラーが政権を奪取…
 一九三六年、ドイツ軍非武装地帯ラインラント進軍…
 一九三八年、オーストラリア併合
 ……「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒトラー!」
  (ヒトラー万歳)という民衆がナチス式敬礼で興奮状態だった。

  一九三二年、日本帝国は世界の反対をおしきって満州国という傀儡国家を作った。国際連盟はこれを非難、翌三三年連盟はリットン調査団の報告書を採択、満州国不承認を四十二対一、棄権一で可決した。一は当然日本、棄権はシャム……
 日本は国際連盟を脱退した。
 そのときの様子を日本の新聞は”連盟よさらば! 総会勧告書を採択し、我が代表堂々退場す”と書いている。これを機に日本は孤立し、ヒステリーが爆発して「パールハーバー(真珠湾)」攻撃にふみきる。結果は完敗。
 当時の世界情勢をきちんとみていれば日本はあんな無謀な戦争に突入するはずはなかった。しかし、現実は違った。軍部によってつくられた戦闘ムードに熱しやすい国民は踊らされ、破滅へと走った。そこにはまともな戦略もヴィジョンもなかった。
 あるのは「大東亜共栄圏」という絵にかいた餅だけ……
 その結果が、アジア諸国への侵略、暴行、強姦、強盗、虐殺である。
 その日本人のメンタリティーは今もかわらない。
 国会や世俗をみても、それはわかる。
「日本は侵略なんてしなかった」だの「従軍慰安婦なんていなかった」だの「南京虐殺などなかった」などという妄言を吐く馬鹿があとをたたないのだ。
 最近ではある日本のマンガ家がそういう主旨の主張を広めている。
 戦争当時も盛んにマンガや映画やラジオで、同じように日本とナチスとイタリアは戦闘ムードを煽った。現在となんらかわらない。
 プロパガンダに踊らされているだけだ。

  昭和6年に『満州事変』が勃発した。事変……などというと何か自然におこったことのようだが、ハッキリいうと日本軍による侵略である。1932年(昭和7年)には満州国という日本軍の傀儡政権国が成立する。
   浜口首相暗殺の後の後継者は若規となったが、人気がなく、ついに犬養毅が昭和6年(1931)12月13日、第29代首相となった。大蔵(現・財務省)大臣には高橋是清が就任した。
 犬養毅は軍縮をすすめようとした。そこで軍部からの猛反発にあう。
「満州は仕方ないとしても、中国との関係をよくしなければならない」
 しかし、またも軍部が暴走する。
 昭和7年(1932)2月9日 前大蔵大臣・井上準之助が暗殺される。続いて3月5日には三井の会長が暗殺。そして、ついに5月15日午後に軍部の若手将校たちが首相官邸に殴り込む。将校たちは警備の警察菅たちを射殺していく。そして、ついに犬養毅が食堂で発見される。将校は拳銃を向けて、トリガーを引くが弾切れ。
「まぁ、待て。話せばわかる」犬養毅はいった。
 しかし、午後5時30日頃、将校が「問答無用!」と叫び、犬養毅に発砲して殺した。
 世にいう”五・一五事件”である。
 事件を起こした青年将校たちの90%もが東北などの貧しい地方出身者であったという。 自分の妹や親戚の娘が売春宿に売られ、大凶作で餓死者が続発しているのに恨みを抱いての事件だった。
 斎藤実海軍小佐が犬養毅の後の首相に。これで事実上、政党政治がダメになったのだ。   軍部が実権を握った瞬間だった。斎藤は満州国を認め、昭和8年(1933)3月、日本は国際連盟から脱退した。…すべては軍部のためである…………
  この当時、世にいう二・二六事件が勃発していた。
 昭和11年(1936)2月26日、軍の若手将校一団が徒党を組み、斎藤実や高橋是清らの邸宅を襲撃し、暗殺した。そして、次の年には日中戦争が勃発した。
 昭和天皇はいう。
「これまでのところ満州国はうまくやっているようだが、万一のときにそなえて仇義をかかさぬように…」
 天皇は米英の軍事力を心配していた。のちの山本五十六のように欧米の軍事力と日本の差を知っていたからだ。ならばもっとましな策を考えればよさそうなものだが、神の子としての天皇に、「人間的な言葉」は禁じられていた。
 ただ、「であるか」という「お言葉」だけである。
 今でいう、カリスマ・ジャーナリスト(勝海舟や森鴎外、山本五十六、中曽根康弘、東篠英機などと親交)徳富蘇峰はTVがなかった時代、ラジオで、
「アメリカ人たちに一泡ふかせてやれ! あいつら天狗どもをぶっつぶせ!」とアジる。 そして、蘇峰は天皇の『開戦』の詔まで執筆する。
 昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件(侵略)が勃発して本格的な日中戦争になった。昭和天皇は軍部の暴走を止められない。
「重点に兵を集めて大打撃を加えため上にて(中訳)、速やかに時局を収拾するの万策なきや」昭和天皇は戦争の早期終結を望んでいた。
 しかし、パペットには何もできはしない。
 昭和13年(1937)11月、皇居内に大本栄が設置される。天皇は国務と統帥に任ぜられた。といっても”帽子飾り”に過ぎない。
 昭和15年(1940)6月、ナチス・ドイツがパリに入城した。つまり、フランスがやぶれてドイツが侵略したのである。ヒトラーはシャンゼリゼ通りをパレードした。ナチスの鍵十字旗が翻る。ナチス式敬礼……
 日本は真似をした。原料補給のための侵略は日本軍部にとっては口実だった。
 同年9月、日本軍は北部仏領・インドシナに侵攻した。
 昭和天皇は呟く。
「私としては火事場泥棒的なことはやりたくないが、認めておいた」
 それは心臓がかちかちの岩のようになり、ずっしりと垂れ下がるかのようだった。
 ……朕は無力ぞ……
 そして、日独伊三国同盟が成立される。悪のトライアングルである。
 昭和天皇は帝国日本の象徴として、白馬に跨がって軍事パレードを行った。
 昭和16年(1941)4月、日ソ中立条約が成立した。つまりソ連(現・ロシア)と中立にいると日本側がサインした訳だ。
 昭和16年(1941)7月には、日本軍は、南部仏領・インドシナに侵攻した。米国のフランクリン・D・ルーズベルトは日本への石油輸出を禁止。日米関係は悪化した。
 昭和天皇はいう。
「外交による戦争回避をしたかったが、御前会議で軍部が猛烈な戦争運動を展開。もっともらしい数字をあげて戦争には必ず勝てるという」
 天皇はパペットに過ぎない……
 米国国務長官コーデル・ハルによる命令書『ハル・ノート』が出される。東篠英機は何とか戦争を回避したかった。昭和天皇も同じだったろう。
 しかし、統帥部(陸軍統帥部と海軍統帥部)の暴走に負けた。東篠は天皇に開戦の言葉を述べながら号泣したという。すべての運命はここで決まった。破滅の道へ……
 そして、
 昭和16年(1941)11月「大海令」……日本は戦争の道を選んだ。


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