長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

米沢燃ゆ 上杉鷹山公<為せば成る大河ドラマ篇>鷹山公ブログ連載小説1

2015年12月28日 04時52分46秒 | 日記










米沢藩の中興の祖・不世出の名君
 「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」
師弟の軍旗
上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生




                   ~為せば成る!~
                   200年前の行政改革
                  total-produced&wrtten&PRESENTED BY
                    MIDORIKAWA washu
                    緑川 鷲羽
       あらすじ

 上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から出羽米沢藩(山形県米沢市)15万石の養子となり藩主となったのは明和四年、17才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。上杉謙信からの膨大な6千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。まさに破産寸前だったのである。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
 そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
 まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
 しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
 のちにゆう『七家騒動』である。
 上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
 鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。

  われわれはこの小説でなにを学ぶか?
 米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。
『上杉の義』とは?Ⓒマサ村田さん
2014-05-08 00:17:40
テーマ:戦国
今回は、大河ドラマなどで『義の武将』として知られる上杉謙信の『義』について考えてみました。
一般には、荒れ狂う戦国時代の嵐の中で、上杉謙信は見返りを求めないで助けを求める軍勢の為に戦を助成したり、将軍家を敬い幕府より官位官職を得て大義名分の下に行動を行った武将として知られています。
これをして、上杉家は『義』という指針を持って家中をまとめたと言うのが有名です。
さてここで、義とは何ぞや?という事を考えてみます。
儒教の教えには、五徳の精神(仁・義・礼・智・信)というのがあります。
仁は、人を思いやる心。
義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心。(利による行動と対比される)
礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。
智は、知識を持つこと。(学問)
信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。
という意味ですが、この中の『義』という、私利私欲で動かずに大きな志を軸に行動する。
これを上杉謙信が実行して来たとさせれていて、それがこの上杉家の家風と言われています。
これは謙信が一度、家臣達の裏切りに合い、世を捨てて仏門に身を捧げようとした事があり、慌てた重臣達の引き留めにより、自身を毘沙門天の化身であるとして、この『義の誠心』と言われる行動を取り出した事に由来します。
この後、武田信玄に信濃を追われてきた村上軍に、奪還後の領土安堵を約束して共に武田軍に対して軍を出します。
そして、将軍から関東官僚という位を拝して、その大義名分を基に関東へ兵を出しました。
さらに謙信は、海に面した領土を持たぬ武田領に対して、当時の隣国であった北条、今川が武田領に対して塩止めを行った際には、武田領への塩の交易を禁止しませんでした。
この事は後に『敵に塩を送る』ということわざになり、現代に受け継がれています。
ライバルの信玄は亡くなる際に、こういった上杉謙信の行動原理を理解していた為に『自らの死後は謙信を頼れ』と語った逸話も残されています。
その後も、将軍足利義昭からの命により、信長討伐に向けて立ち上がろうとしています。
この上杉謙信は、類まれな軍才を持っていて、戦の強さはずば抜けていました。
また、自国の民の為に金銀山を開発したり交易などにも力を入れさせて良政を敷き、人心をまとめ上げています。
謙信の死後に跡目を相続した景勝もこういった謙信の行動規範にならい、秀吉死後の家康による僭王を認めませんでした。
これにより、関ヶ原の前哨戦となる上杉討伐が起こる訳ですが、討伐軍が遠征途中で上方より三成挙兵の知らせを受けて、軍を取って返す事になった際には、三成軍との挟み撃ちを試みるチャンスにも拘わらず、後方より逃げる敵を打つのは上杉の義に反すると言って景勝は追撃を中止します。
戦国末期のこういった話しが、義の上杉というイメージを私達に伝え残しています。
この事から上杉の『義』というのは、私欲を捨てて五徳の誠心を体現するという事だと考えられている訳です。
ただし、これらの上杉の『義』という語り方は実は、江戸時代になってから称されるようになっています。
折しも、家康により天下が治められて戦の時代が終わると、戦国期の荒くれた武士達の考え方を改めさせなければならなくなり、その意識改革を推し進める為に儒教の誠心という考え方が導入されて行きました。
その導入過程において、謙信、景勝らの上杉勢の行ってきた行動規範を『義』と呼ぶことで、江戸期における一つの精神的支柱としてもてはやされた可能性が高いのです。
ですから、当時において上杉謙信や景勝の口から、上杉の『義』という言葉が発せられた訳ではありません。
むろん、数々の謙信の取った行動に対しての、リスペクトも含めた家風というのは確かにあったようですが、義を大義名分にして行動していたというのは少し怪しいのです。
上杉謙信の行動してきた事を検証してみると、先に書いた多くの遠征も、ある種の農繁期が終わった農民の出稼ぎ行動や、現地にて行われた奴隷狩りといった行動が側面にはあったようです。
また、関東官僚という関東攻めの口実(大義名文)を得た事で、再三に関東攻めを繰り返していましたが、手強い北条に対して農繁期には兵を引かなければならず、結果として攻め切ることが出来なかったというのが現状のようです。
さらに塩止めの件も、他の大名が塩の流通を止めているのならば、武田への塩の販売は商業ベースでは実入りの良い商売という側面もありました。
また、謙信死後の跡目相続である御館の乱等は、とても『義』を受け継ぐ者達の争いとはいえません。
この争いに勝った景勝が、その後に徳川遠征軍の追撃を『義』により取り止めたという逸話に対しては、その事実すら怪しいようです。
こうして考えると私には、上杉の『義』というのは、謙信が幾度となく家臣達に裏切られて一度は仏門に入ろうとした経緯から、裏切りなく人を指揮して従えさせるには、目的や大義名分が必要だと考えた事による、合理的判断基準にしたがって行った数々の行動が、後の徳川の世における儒教の誠心普及に上手くマッチングして作られたイメージの様に感じています。
何だかこう書くと上杉謙信は、ずるがしこくて計算高い様に取られがちですが、そうでは無くて逆に、この戦国時代という中においては、常に表裏一体の考え方をする曲者達が多い中で、その者達を一定の目的や大義名分を持たせて一本化する事できちんとまとめ上げていた事を考えると、上杉謙信という人のすごさが解る気がします。
その目的や大義名分がしっかりしていたからこそ、後の世で『義』という言葉に置き換えられて上杉のイメージが生まれたのだと考えています。       おわり

        the novel is a dramatic interpretation
        of event and character based on public
        soutces and an in complete historical
        record.some scenes and events are
        presented as composites or have been
        hypothesized condensed.

       ~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
               成らぬはひとのなさぬなりけり
                        上杉 鷹山(1751~1822)~

<参考文献・一部>*上杉家御年譜、米沢温故会編*鷹山公世紀、池田成章編、池田成彬*鷹山公偉蹟録、甘糟継成著、上杉神社社務所*米沢市史、米沢市史編さん委員会編*興譲館世紀、松野良寅編著、山形県米沢興譲館高等学校*代表的日本人、内村鑑三著、岩波文庫*上杉鷹山公、今泉亨吉著、米沢信用金庫*上杉鷹山公小伝、今泉亨吉著、御堀端史蹟保存会*人物叢書・上杉鷹山、横山昭男著、吉川弘文館*上杉鷹山のすべて、横山昭男編、新人物往来社*上杉鷹山の人間と生涯、安彦孝次郎著、壮年社*上杉鷹山公と農政、斎藤圭助、有斐閣*東海市史、東海市史編さん委員会編*近世藩校の総合的研究、笹井助治著、吉川弘文館*名古屋文学史、川島丈内著、川瀬書房*口語訳・嚶鳴館遺草、皆川英哉、ケイアンドケイ*細井平洲・附中西淡淵、鬼頭有一著、明徳出版*細井平洲と教師像、遠藤秀夫著、共同出版*細井平洲先生とその師友点描、東海市立平洲記念館*現代に生きる細井平洲、東海市教育委員会編*細井平洲『小語』注釈、小野重著、東海市教育委員会*嚶鳴館遺稿注釈 初編・米沢編、小野重著、東海市教育委員会*名指導者・上杉鷹山公に学ぶ、鈴村進、三笠書房*細井平洲と上杉鷹山、鈴村進、三笠書房





         序章

                    
  上杉治憲(のちの鷹山)にとって、それは尋常でない光景だった。
 貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。間違いなく、米沢の領民たちである。
 治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
 そして、治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
  治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、米沢市立図書館「上杉古文書」「上杉家書状」他、藤沢周平著作「漆の実のみのる国」童門冬二著作「小説 上杉鷹山」NHK映像資料「その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ドラマ 上杉鷹山 二百年前の行政改革」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「信長」「天と地と」「秀吉」「功名が辻」「おんな太閤記」「関ヶ原」「天地人」「軍師官兵衛」、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等です。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。

昔は墨田川が武蔵(むさし)国と下総(しもうさ)国の境界だった。そこで二つの国を結ぶ街道の隅田川界隈を両国と呼んだ。両国には火除地(ひよけち)としてつくられた一帯が両国広小路である。川端には茶屋が立ち並び、その両側には見世物、芝居、講釈などの小屋がひとをあつめている。
その雑踏の中で藁科松伯貞祐(わらしな・しょうはく・さだすけ)は足を止めた。
彼は出羽(でわ・現在の山形県)国米沢(よねざわ)藩に支える医師であり、また学者でもある。昨年宝暦七年(一七五七年)から江戸詰めとなり、桜田門にある上杉邸へ出仕している。俊才の誉れが高く、白皙痩身(はくせきそうしん)の彼は生来病弱だが、今日は気分がいい。
先だってから江戸の噂を耳にしていた。
「両国広小路の平洲先生の講釈を聞くと、毎日の仕事が楽しくなるぞ」
平洲(へいしゅう)先生、通称は細井甚三郎(ほそい・じんざぶろう)といって、尾張(おわり・現在の愛知県東海市)から出てきた学者である。いくつかの大名に招かれて講義に赴くかたわら、浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「嚶鳴館(おうめいかん)」という学塾を開いている。そして、度々両国で講釈を小屋で開いては人々を涙と仁愛の世界に導き、いつも黒山の人だかりになるという。
藁科は講釈小屋の人だかりをみて、中に入れずにいたが、平洲先生の語りであろう、よく通るやわらかい声が聞こえてくる。
「よいかな。たとえていえば、この花だ。花がたくさん咲いている木というものはそれは見事なものだ。だが、そうだからといっていつまでもたくさん花をつけていたのでは、しだいに木がひねて実も少なくなり、やがては枯れ枝が多くなって、さしもの銘木も惨めな姿にやつれ果ててしまう。されば、惜しいけれども枝を止め、蕾を透かしてやらねばならぬ。そうすれば木はいつまでも見事な花を楽しませてくれるものだ」
藁科松柏は思わず息を呑んだ。名門上杉家は今まさにそのような状態だ。干ばつや洪水で凶作が続き、藩の財政は極度に緊迫して多額の借財を返す見通しも立たない。改革の声さえ消されるか、押しつぶされ過去の栄光にこだわり、このままでは朽ちて果てる日を待つばかりだ。この先生こそ、米沢藩に是非とも必要なお方である。演壇の平洲は三十歳くらいで、松柏とそれほどかわらなかった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用12~14ページ>

江戸の儒学にはいくつかの学派があった。朱子学派の林羅山(らざん)、山崎闇斎(あんざい)、陽明学派には中江藤樹(なかえ・とうじゅ)、熊沢番山(くまざわばんざん)、古儀(こぎ)学派には伊藤仁斎(じんさい)、そして古文辞(こぶんじ)学派には荻生徂徠(おぎょうそらい)らがいた。
細井平洲はこれらのどれにも属さないので折衷学派といわれた。その説くところは文字や言葉の解釈ではなく、現実の為政および生活面に学問を生かすことであった。そこで彼は実学者ともいわれる。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市荒尾町)の富農の家に生まれた平洲は、幼少時代には近くの観音寺の住職義観(ぎかん・義寛ともいう)の教えを受けた。その才知には大人も舌を巻くほどだったが、やがて彼は勉学を進めようと京都に出た。
しばらくして、わが子は京都でどんな暮らしをしているのか案じた父親が訪ねてみると、平洲の家はひどいあばら家で衣食も粗末だった。見かねた父親は五十両という大金を与えたが、当時の平洲の師となるべき人にはついに巡り会わなかった。およそ一年後に帰郷した平洲が持ち帰ってきたものは、二頭の馬の背に積んだおびただしい書物だった。彼は父親からもらった大金をすべて書物を買うのにつかったのである。
その後平洲は、名古屋の中西淡淵(たんえん)に入門する。淡淵は三河挙母(みかわころも・豊田市)出身の儒学者で折衷学派の洗掘者といわれ、自ら「叢桂(そうけい)社」という学塾を開いていた。
彼の教えは高度であり、その卓抜な識見に感服した平洲は人にこう語った。
「図らざりき。わが師の近きにあらんとは(こんな近くにわたしが求めていた理想の先生がおられるとは思ってもみなかった)」
この感動に応えて、淡淵もまた「わが業を助けるのは平洲である」と漏らした。
平洲は中国人から中国語を学び、さらに韻文、漢文、詩文、書道、南画、禅学などの教養も身に着けた。干天の慈雨のように細井平洲は日本屈指の大学者になる。師が主君である尾張藩付家老(つけがろう)竹越山城守に従って江戸に出ると、平洲はあとを追うように江戸に出た。入門して六年目だった。江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開塾、だが師は急死する。平洲は十巻にもおよぶ『詩経古伝』を著して声望を高めていたが、伊予西条藩主松平頼淳(よりあつ)が、中国黄檗山(おうばくさん)住職大鵬(たいほう)禅師を迎えたときの通訳を務めたことで、その実力を一段と高く評価されるようになった。この頃、彼の門人はすでに千人を超えていた。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用15~17ページ>

  米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは4月頃だ。田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。     それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。   若い儒学者の藁科松伯は米沢にいた。藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。彼は確かに不思議な印象を与える人物である。禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは大変に光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
 弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか!米沢藩のご養子が……」「はっ!」
 松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇孫兵衛門は場を去った。手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿…か」藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
 そして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
 藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。…雪深いため、ぬかるみ、転び…大変苦労した。
「……いやあ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
 松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使ったのである。
「先生、少し休みますか?」
 弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は「いやいや、急ごう!直丸殿に一刻も早く会いたい」「……無理しないでくだされよ、先生」
 莅戸善政がいう。
 木村も笑って「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
 松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
  数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
  米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣当綱が一行を出迎えた。
 竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
 屋敷を歩くと、ぎじぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月佐渡守種美公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
 竹俣は笑顔でいった。「大変に賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
 竹俣当綱は「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
 松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。「…拝謁が楽しみです」
 竹俣当綱は「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
 莅戸や木村も笑顔をつくった。
 竹俣は「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。
秋月直丸(あきづき・なおまる)、出羽米沢藩八代藩主・上杉重定(うえすぎ・しげさだ)の養子となり、上杉直丸(うえすぎ・なおまる)公、元服して上杉治憲(うえすぎ・はるのり)公、後年・晩年・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公となる。父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種美(たねみつ)公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。
 俗な話をすれば上杉鷹山公は2014年度の大河ドラマだった「軍師 官兵衛」の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。
 また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ「忠臣蔵」の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子で、吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞なのである。
 まさにサラブレッドである。頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞(ながさだ)公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。
 では、米沢藩第八代藩主・上杉重定(しげさだ)はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉憲(よしのり・米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗憲(むねのり)、次男・第七代藩主・宗房(むねふさ))である。
 上杉家は子宝に恵まれない家系である。
 藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。
 後述するが上杉家三代目・上杉綱勝(つなかつ)は養子も跡取りも決めないまま若くして病死するのである。
 普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫(さんひめ)と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とするのである。
 何故、会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。
 しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。
 幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「憐れ」に感じたに違いない。
 確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱憲(つなのり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。
 だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。新たなる危機は禄高減少である。
 ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。
 結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどでたった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。
 上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(2009年度大河ドラマ「天地人」の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。
 上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。
 苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。
 私の親戚のひとに聞くと、70年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたんだという(笑)
 雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。
 私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。


平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
快く承知した平洲は浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道すると、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、直接経書に基づく高度なものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。“上杉の義”等という理想論ではなく、“成果主義”でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。平洲は「どんな綺麗事を並べ立てても銭がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で松柏は平洲に入門した。藁科松柏は本国の米沢にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛善政、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)森平右衛門利真(としざね)に籠絡(ろうらく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だが、望みの期待の“改革派の頼りの綱”はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。松柏は“大人物”細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。「上からの論理ばかりでは“死角”ができる」、「諌言をさまたげ、甘言によっては“大きなツケ”ばかり残る」平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」とため息をついた。望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用17~25ページ>



上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか?やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのである。
 米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行したという。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
 当時の図書館員は「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。そして、郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」149ページ参照)」と記している。
 当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
 二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
 鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
 まあ、時代だろう。調べが甘い。夜郎自大も甚だしい。
 宝暦九年(1757年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
 (注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(1757年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
 (注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(1751年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
 実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
 このひとは馬鹿ではないか?とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
 でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
 借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だが、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満主(みつぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
 上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好善太夫(みよし・ぜんだゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
 と不安な心境を吐露したという。
 すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」という。
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
 三好善太夫は鷹山公の傅役である。
 彼は少年の鷹山いや治憲に「奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)」を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に「殿さまとして守るべきことをしたためた「上言集」と「奉贐書」」を送り、宝暦十年(1760年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
 鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
 鷹山公は涙もろいのかも知れない。
 江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣当綱(たけのまた・まさつな)が江戸家老になり、莅戸善政(のぞき・よしまさ)が奉行に、藁科松伯(わらしな・しょうはく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
 時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。

「当節の、わが藩の借財はいかほどになるのか?」
「されば」
当綱は書院の外の畳敷きに膝をおとした。小考してから言った。
「それは若君にはまだご承知なくともよろしいのではないでしょうか」
答えがないので顔を上げると、直丸がきびしい目で自分を見ていた。当綱が思わず言い直そうとしたのを遮るようにして、直丸が言った。
「竹俣、直丸が若年とみて侮るか?」
「あ、いや」
当綱は顔がどっと熱くなるのを感じた。
「そのようなこころはございません。失礼しました!わが藩の借財は、ざっと十数万両と承知しております」
「………十数万両か」少年世子は衝撃を受けたようだった。だが、当綱はのちの鷹山公の本気度をひしひしと感じた。のちに竹俣当綱は松柏に、
「ご家老も、一本取られましたな」
「一本取られた」
当綱は正直に言った。
「いや、おどろいた。直丸さまはもう大人であられる」
「むろんです。臥竜さまですゆえ」
松柏は言った。
参考文献『漆の実のみのる国(上巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版引用142~143ページ

  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。



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