長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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【秀頼身長二百体重二百】体格があまりにも違すぎ 豊臣秀頼の父親は秀吉ではなかった!?

2016年11月26日 15時48分39秒 | 日記

































体格があまりにも違すぎ 豊臣秀頼の父親は秀吉ではなかった!?





編集部F: それにしても、まったくまとまらないですね、豊臣方は……。先週(11月20日放送)の『真田丸』でも早く戦わせろと憤った浪人衆が勝手に徳川方に攻め込もうとしました。結局、真田信繁(幸村)がうまく立ち振る舞って、事なきを得た形になりましたが。

小日向えり: ただ、夜討ちの大将、塙団右衛門が存在感を放っていましたね。木札、今でいう名刺を配った目立ちたがり屋の武将です。日本で初めて名刺を配った人物かもしれませんね。

編集部F: あと、印象的だったのは、豊臣秀頼と信繁のやり取りですね。それまで秀頼は母である茶々の顔色をうかがってばかりだったので、信繁は秀頼に総大将としてリーダーシップを取ってほしいと願い、その思いを伝えました。秀頼もその気になったのは良かったのですが、織田有楽斎などにそそのかされて「徳川と和睦する」という誤った判断を下してしまいました。そこで信繁が茶々に密かに手を回して、それを食い止めようとし、秀頼が混迷を極めてしまったのです。最初、信繁は秀頼に直接諫言もせずに随分とドライだなと思ったのですが、これは目標(勝利)を達成するには手段を選ばないということの表れだと痛感しました。

小日向: そうそう、秀頼と言えば、実は豊臣秀吉の子どもではないという俗説があるのをご存じですか?

編集部F: え、そうなんですか!?

小日向: 秀頼は身長197センチメートル、体重161キログラムだったという記録が残っているほど、大男だったと言われています。一方、父親の秀吉は140センチほどだったようで、あまりにも体格が違いすぎるため、実の子どもではないという説があるのだと思います。

編集部F: それで、父は誰だと言われているのですか?

小日向: 大野治長です。治長は、長身、色白、イケメンだったそうで、秀頼に通じるところがあります。

 秀吉は天下を獲ってから、多くの側室を抱え、側室にせずとも一夜限りの相手をした女性がたくさんいたようです。宣教師のルイス・フロイスは『日本史』の中で、大坂城には300人ほどの女性がいて、宮殿というよりも遊郭のようだったと記しています。それでも秀吉になかなか子どもが生まれなかったのですから、秀頼の出自を疑う気持ちも分からないでもありません。

編集部F: 治長はどのような人物なのでしょうか?

小日向: ドラマでも紹介されている通り、母は大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)です。大蔵卿局は茶々の乳母でした。真田丸の中では、最近やけに大蔵卿局が権力を持っているのが気になりますよね(笑)。治長は、そんな母の紹介で秀吉のお世話をする馬廻り衆になって、豊臣家に仕えるようになりました。

編集部F: えっと、治長の実母が茶々の乳母なのですよね。すると二人は、身分は違えど兄妹的な距離感にあったわけで、その間に秀頼が生まれたというのは……。なかなかセンシティブですね。

小日向: まぁ、戦国時代には同じ血筋同士の結婚はよくあることですから。

編集部F: ちなみに、治長はどのような最期だったのですか?

小日向: 大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められ、大坂城本丸近くの山里曲輪で秀頼や茶々、大蔵卿局などとともに自害しました。享年47歳だったようです。

編集部F: 秀頼もそうですが、治長も母親がすぐ近くで目を光らせていて、さぞかしやりにくかっただろうと思います。ただ、母のおかげで豊臣家の中枢にいられたのも事実ですから、どちらが治長の人生にとって良かったのかは分かりませんね。

 ドラマの中で、真田昌幸の母・とりが死ぬ間際に放った「人は誰も宿命(さだめ)を持って生まれてくる。遅いも早いもない。おのが宿命に気付くか気付かぬか」というセリフが胸に刺さりましたが、治長がもし早く生まれていても、そのころの豊臣家は錚々たる武将がいたので、ますます何とも言えませんね。
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