長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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『義の武将 上杉謙信』『上杉の義』とは何か?Ⓒマサ村田さん<戦国時代の義の武将上杉謙信公正体>

2015年07月17日 16時02分36秒 | 日記








『上杉の義』とは?
2014-05-08 00:17:40
テーマ:戦国
今回は、大河ドラマなどで『義の武将』として知られる上杉謙信の『義』について考えてみました。




一般には、荒れ狂う戦国時代の嵐の中で、上杉謙信は見返りを求めないで助けを求める軍勢の為に戦を助成したり、将軍家を敬い幕府より官位官職を得て大義名分の下に行動を行った武将として知られています。

これをして、上杉家は『義』という指針を持って家中をまとめたと言うのが有名です。

さてここで、義とは何ぞや?
という事を考えてみます。

儒教の教えには、五徳の精神(仁・義・礼・智・信)というのがあります。

仁は、人を思いやる心。
義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心。(利による行動と対比される)
礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。
智は、知識を持つこと。(学問)
信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。

という意味ですが、この中の『義』という、私利私欲で動かずに大きな志を軸に行動する。
これを上杉謙信が実行して来たとさせれていて、それがこの上杉家の家風と言われています。

これは謙信が一度、家臣達の裏切りに合い、世を捨てて仏門に身を捧げようとした事があり、慌てた重臣達の引き留めにより、自身を毘沙門天の化身であるとして、この『義の誠心』と言われる行動を取り出した事に由来します。

この後、武田信玄に信濃を追われてきた村上軍に、奪還後の領土安堵を約束して共に武田軍に対して軍を出します。

そして、将軍から関東官僚という位を拝して、その大義名分を基に関東へ兵を出しました。

さらに謙信は、海に面した領土を持たぬ武田領に対して、当時の隣国であった北条、今川が武田領に対して塩止めを行った際には、武田領への塩の交易を禁止しませんでした。
この事は後に
『敵に塩を送る』
ということわざになり、現代に受け継がれています。

ライバルの信玄は亡くなる際に、こういった上杉謙信の行動原理を理解していた為に
『自らの死後は謙信を頼れ』
と語った逸話も残されています。


その後も、将軍足利義昭からの命により、信長討伐に向けて立ち上がろうとしています。

この上杉謙信は、類まれな軍才を持っていて、戦の強さはずば抜けていました。
また、自国の民の為に金銀山を開発したり交易などにも力を入れさせて良政を敷き、人心をまとめ上げています。


謙信の死後に跡目を相続した景勝もこういった謙信の行動規範にならい、秀吉死後の家康による僭王を認めませんでした。

これにより、関ヶ原の前哨戦となる上杉討伐が起こる訳ですが、討伐軍が遠征途中で上方より三成挙兵の知らせを受けて、軍を取って返す事になった際には、三成軍との挟み撃ちを試みるチャンスにも拘わらず、後方より逃げる敵を打つのは上杉の義に反すると言って景勝は追撃を中止します。


戦国末期のこういった話しが、義の上杉というイメージを私達に伝え残しています。

この事から上杉の『義』というのは、私欲を捨てて五徳の誠心を体現するという事だと考えられている訳です。

ただし、これらの上杉の『義』という語り方は実は、江戸時代になってから称されるようになっています。
折しも、家康により天下が治められて戦の時代が終わると、戦国期の荒くれた武士達の考え方を改めさせなければならなくなり、その意識改革を推し進める為に儒教の誠心という考え方が導入されて行きました。
その導入過程において、謙信、景勝らの上杉勢の行ってきた行動規範を『義』と呼ぶことで、江戸期における一つの精神的支柱としてもてはやされた可能性が高いのです。


ですから、当時において上杉謙信や景勝の口から、上杉の『義』という言葉が発せられた訳ではありません。
むろん、数々の謙信の取った行動に対しての、リスペクトも含めた家風というのは確かにあったようですが、義を大義名分にして行動していたというのは少し怪しいのです。


上杉謙信の行動してきた事を検証してみると、先に書いた多くの遠征も、ある種の農繁期が終わった農民の出稼ぎ行動や、現地にて行われた奴隷狩りといった行動が側面にはあったようです。

また、関東官僚という関東攻めの口実(大義名文)を得た事で、再三に関東攻めを繰り返していましたが、手強い北条に対して農繁期には兵を引かなければならず、結果として攻め切ることが出来なかったというのが現状のようです。

さらに塩止めの件も、他の大名が塩の流通を止めているのならば、武田への塩の販売は商業ベースでは実入りの良い商売という側面もありました。

また、謙信死後の跡目相続である御館の乱等は、とても『義』を受け継ぐ者達の争いとはいえません。
この争いに勝った景勝が、その後に徳川遠征軍の追撃を『義』により取り止めたという逸話に対しては、その事実すら怪しいようです。


こうして考えると私には、上杉の『義』というのは、謙信が幾度となく家臣達に裏切られて一度は仏門に入ろうとした経緯から、裏切りなく人を指揮して従えさせるには、目的や大義名分が必要だと考えた事による、合理的判断基準にしたがって行った数々の行動が、後の徳川の世における儒教の誠心普及に上手くマッチングして作られたイメージの様に感じています。

何だかこう書くと上杉謙信は、ずるがしこくて計算高い様に取られがちですが、そうでは無くて逆に、この戦国時代という中においては、常に表裏一体の考え方をする曲者達が多い中で、その者達を一定の目的や大義名分を持たせて一本化する事できちんとまとめ上げていた事を考えると、上杉謙信という人のすごさが解る気がします。

その目的や大義名分がしっかりしていたからこそ、後の世で『義』という言葉に置き換えられて上杉のイメージが生まれたのだと考えています。
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