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ポール・オースター『インヴィジブル』その10

2019-05-21 00:09:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 (中略)目の前にセシルが立っている。(中略)君、学校に行ってる時間じゃないの? とウォーカーは言う。(中略)ディナーの夜以来、あなたは一度も電話してくれない。何があったの?(中略)母さんがあなたに何か言ったのよ、そうでしょ。(中略)君のお母さん、とウォーカーは言う。たしかにお母さんは僕に話をした。(中略)でも僕は怖気づいたりしていない。そうなの? もちろんさ。(中略)
 彼女はまだ喋っているが、ウォーカーはもはや聞いていない。(中略)彼自らエレーヌと話すのだ、それが正しい解決策、唯一まっとうな解決策だ、かりにエレーヌを味方につけられなくとも、とにかくこの醜い一件にセシルを巻き込んではならない。(中略)
 やるなら土曜日だ、とウォーカーは決める。エレーヌの仕事は休みで、セシルは半日学校に行っている。(中略)ヴェルヌイユ通り、土曜の朝。初めの三十分、ウォーカーはセシルの話に集中する。(中略)あの子のことを心配しないなんてありえないわ。それが私の仕事なのよ、アダム。(中略)
 (中略)ここでおよそ四分の一ページほどの空白があって、この白い長方形のあとでテクストが再開されると、文章のトーンはすでに違っている。(中略)物語の結末が大急ぎで要約される。(中略)これがウォーカーの人生最期の日々であったことを忘れてはならない。前と同じように書き進めるにはあまりに健康が損なわれ、体力も失われ消耗しきっていたにちがいない。(中略)

キッチンテーブルのH(エレーヌ)とW(ウォーカー)。(中略)Wはすべてを放棄する気になりかけている。(中略)僕はあなたとセシルに幸せになってほしいんです。それだけです、そしてあなたが恐ろしい過ちを犯そうとしていると僕は思うんです。もし僕の言うことが信じられないのなら、(中略)ルドルフに訊いてごらんなさい━━なぜあなたは飛び出しナイフを持ち歩いているのかと。
 日曜の朝。(中略)坊や、あんたに電話だよ。Wはフロントへ降りていって受話器を取り上げる。ボルンの声が言う。ウォーカー、君は私の悪口を言っているそうだな。(中略)さっさとアメリカに帰ったらどうだ?(中略)とどまったらきっと後悔するぞ。(中略)
 月曜日の午後。Wはリセ・フェヌロンの前に陣取り、Cが校舎から出てくるのを待つ。やっとほかの生徒たちに囲まれて出てきた彼女は、Wの目をまっすぐに見て、それから顔をそむける。(中略)どうして何も言わないんだ? と彼は言う。どうしてあんなひどいことを? と彼女は大きな、甲高い声で答える。私のお母さんに、あんなおぞましいことを言って。(中略)
 月曜の夜。(中略)売春婦はこれが初体験だ。(中略)
 火曜日。一日中パリの街を歩き回って過ごす。(中略)
 火曜の夜。午前三時。(中略)いくつもの拳骨の一隊が、彼の部屋のドアを叩いている。制服の警察官二人(中略)。ビジネススーツを着た年上の男一人。(中略)(たんすの)一番下の引出しが開けられ、(中略)ハッシッシだ、と男は言う。たっぷり二キロ半、ひょっとしたら三キロある。ボルンの報復の絶妙な皮肉。ドラッグを絶対にやらない若者、ドラッグ不法所持で捕まる。(中略)取調べを行なう判事は(中略)不法ドラッグをこれほど大量に所持するのはフランスでは重罪であって、普通なら何十年も刑務所に入れられることになる。幸い、政府筋に相当の影響力をお持ちの方が君のために口を利いてくださって、(中略)君が国外追放に応じるなら告発を取り下げる。君は二度とフランスに入国を許されないが、自国では自由の身でいられる。(中略)受けます、とWは言う。
 こうして、ガリアの地におけるWの短い滞在は終わる。(中略)
 彼は二度と戻らないだろう。それらの人々の誰にも二度と会わないだろう。
 さようなら、マルゴ。さようなら、セシル。さようなら、エレーヌ。
 四十年後、彼女たちはもはや幽霊ほどの実体もない。
 彼女たちはいまやみな幽霊であり、Wもじきに彼女たちに仲間入りするだろう。



 サンフランシスコからニューヨークへ帰る飛行機のなかで、僕は1967年秋にウォーカーを見た瞬間の記憶を喚び起こそうとした。(中略)ミルトンの授業ではウォーカーも一緒で、テイラーが英文科で断然ベストの教師だということで僕たちは意見が一致していた。(中略)授業のあと僕たちは廊下で立ち話をしたが、アダムは気が散って落着かない様子で、出し抜けのニューヨーク帰還についてもあまり喋りたがらなかった(いまでは僕もその訳を知っている)。(中略)アダムに姉がいることは前から知っていたが、ニューヨークにいるというのは初耳だった。(中略)二週間後、キャンパスで初めて彼女を見かけた。(中略)(また明日へ続きます……)

ポール・オースター『インヴィジブル』その9

2019-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
済んだことは水に流して、また友だちづき合いができたらと思ってたんだがな。私の未来の妻の娘に君を引きあわせたらとも思っていたんだ。(中略)遠慮します、とウォーカーはテーブルから立ち上がりながら言う。(中略)ま、気が変わったら電話してくれ。(中略)ボルンは(中略)名刺を取り出す。(中略)その日一日、そして夜遅くまでウォーカーはこの件について考え、やがてある案を思いつく。それは悪魔的な案、あまりに残忍で卑劣でそんなものを自分が想像できてしまうことに呆然とさせられる案だ。(中略)翌朝彼はカフェ・コンティに出かけ、公衆電話にまた一枚専用コインを入れて、計画を始動させる。(中略)アダム・ウォーカーか、とボルンは驚愕を極力隠そうとしながら言う。(中略)済んだことは水に流そうと決めました。(中略)あなたのフィアンセとそのお嬢さんに合わせていただけるという話が出ましたよね。そこから始められたら素敵かなと。(中略)引き受けた。手はずを整え次第、君のホテルに伝言を届ける。
 夕食は翌日の晩、サンジェルマン大通りにある、世紀末から続いているブラスリー〈ヴァジュナンド〉で、と決まる。(中略)もし、セドリック・ウィリアムズ殺害をめぐる話を彼女たちに納得してもらえたら、チャンスはある。(中略)結婚式は中止され、ボルンは花嫁に見捨てられるのだ。ウォーカーの目標はこれだけである。(中略)だがとにかく、今晩やろうとしたことは突如一気に達成された。ジュアン母娘と、今後も接触できるのだ━━ボルンのいないところで。
 (中略)(翌朝、マルゴが訪ねてくる。)昨日の晩、友だちとサンジェルマン大通りを歩いていたのよ。(中略)で、レストランの前を通ったのよ、(中略)で、誰が見えたと思う? ええ、言わなくていいですよ。(中略)どういうつもりよ、アダム? 今度はいったいどんな変態ごっこ始めたのよ?(中略)話したいんです、とウォーカーはやっとのことで言う。あなたにすべてを話したいんです。(中略)ウォーカーはこの数日の出来事を物語る。ボルンとの偶然の出会い(中略)、セドリック・ウィリアムズ殺害をめぐるボルンの偽りの否認、エレーヌとセシルに会わせるという誘い、ウォーカーが破きかけた名刺、ボルンの結婚を阻止する計画の思いつき、計画を始動させるためのしおらしい電話。ヴァジュナンドでのディナー、今日四時にセシルと会う約束。(中略)やめておきなさい、アダム。絶対上手く行かないわよ。あの人に八つ裂きにされるだけよ。もう手遅れです、とウォーカーは言う。もう始めてしまったんだ、最後までやり通すしかありません。(中略)
 マルゴの狭いベッドで彼らは二時間を過ごし、ようやく立ち去るときウォーカーはセシル・ジュアンとの約束に遅刻しかけている。これは全面的に彼の落ち度である。(中略)
 〈ラ・パレット〉にウォーカーは四時二十五分に入っていく。ほぼ半時間の遅刻だ。セシルがもう帰ってしまったとしても(中略)彼は驚くまい。だが違う、彼女はまだそこにいる。(中略)
 こうしてウォーカーとセシル・ジュアンの交友が始まる。多くの面で、セシルがどうしようもない人間であることをウォーカーは知る。(中略)明日の夜うちに夕食に来ないかって母親が言ってるんだけど、とセシルが言う。(中略)聞けばボルンは家族の用事(家族の用事?)でいまロンドンに行っていて、エレーヌ、セシル、ウォーカーの三人きりだという。喜んで伺うよ、と彼は答える。(中略)少しして、ちょっと失礼とセシルが言って席を外して廊下を歩いていき、(中略)この晩初めてウォーカーは母親と二人きりになる。(中略)問題はあの子があなたに恋してしまったということです。(中略)見ればわかります。(中略)どうか気をつけてください。お願いですから。
 懸念が事実になった。(中略)元々そうではないかと思ってはいたが、その疑念が確証されたいま、ここは新しい戦略を考え出さねばならない。まず第一に、毎日セシルと街を歩くのはもうやめにしないといけない。(中略)ウォーカーは翌朝マルゴに電話する。彼女と一緒に過ごして、このややこしい、不安な状況から気を紛らわせればと願っているが、むろんそれもマルゴの気分次第、時間が空いているかどうか次第だ。(中略)あなたに会いたくてたまらない。そうできるといいんだけど、駄目なのよ。(中略)私、一週間出かけるのよ、(中略)ロンドンに。ロンドン? どうして私の言うことをくり返すの? すみません。でもロンドンにはほかにも誰かいるから。(中略)ボルンです。(中略)ボルンに会うんじゃないですよね。馬鹿なこと言わないでよ。(中略)(また明日へ続きます……)

ポール・オースター『インヴィジブル』その8

2019-05-19 00:01:00 | ノンジャンル
また昨日の続きです。



 「夏」の原稿を読んだ一週間後、僕はカリフォルニア州オークランドにいて、ウォーカーの家の呼び鈴を鳴らしていた。(中略)結局言おうとしたことは言う機会がないまま終わった。ウォーカーは僕に原稿を送った二十四時間後に死んでいたからである。彼の家の玄関に僕が着いたとき、灰は地中に埋められて三日経っていた。こうしたことを話してくれたのはレベッカである。アダムが二通目の手紙で名を挙げていたあのレベッカ、三十五歳になる彼の義理の娘だ。(中略)お父様は何かを書いてらっしゃいました。そのことはご存じでしたか? 書いているとは言っていました。『1967年』と題した本を。お読みになりましたか? いいえ。一語も? 一文字も。二か月くらい前に、もし書き終える前に自分が死んだらコンピュータから文書を削除してくれと頼まれたんです。(中略)で、削除なさったんですか? ええ、もちろん。死んでいく人の望みに背くのは罪ですから。(中略)グウィン伯母さん。東部に住んでるんで、私はあんまりよく知らないまま来てしまいました。(中略)あなたにお渡しするものがあるんです、と彼女は言った。(中略)マニラ紙封筒がひとつ、閉じたコンピュータの上に載っている。(中略)表に活字体で僕の名前が書いてあり、そのすぐ下に、ずっと小さい筆記体で、「秋」のためのメモ、とあった。(中略)
 その夜僕はホテルの部屋に戻って封筒を開け、ウォーカーの短い手書きの手紙と、コンピュータで清書してプリントアウトしてくれた、行間の詰まった三十一ページのメモを取り出した。手紙にはこうあった。
 君と電話で話してから五分後。励ましてくれて本当にありがとう。(中略)すべてのことに関する君の判断を僕は信頼する。僕の旅の幸運を祈ってくれ。それじゃ アダム
 
 秋

 授業が始まる一か月前にウォーカーはパリに着く。(中略)(ウォーカーの住居となった)オテル・デュ・シュッドは六区のマザリーヌ通りにある古い崩れかけた建物で、サンジェルマン大通りにある地下鉄オリオン駅からも遠くない。(中略)ウォーカーはぜひもう一度マルゴに会いたい。(中略)(ウォーカーはマルゴに電話し)、彼らは一時間後に〈ラ・パレット〉で会う約束をする。午後四時、ウォーカーが先に、十分早く到着する。(中略)マルゴがふらっと入ってくる。(中略)遅れたことを詫びはしない。(中略)ウォーカーは突然、頭のなかでもう二度と彼女をボルンと切り離せないだろうと理解する。(中略)単刀直入に、ボルンは間違いなくセドリック・ウィリアムズの殺害の犯人だと告げる。(中略)ウォーカーが物語を話し終えると、マルゴはテーブルから立ち上がり洗面所の方へ駆けていく。(中略)(戻ってきたマルゴが語るには)私に言えるのは、ニューヨークのパーティで私たちがあなたを見たとき、あんなに美しい男の子は見たことがないってルドルフに言ったのは私だったこと。あの人も賛成したわ。(中略)ストレートの男があなたに惚れ込むってことも完璧にありうると私は思う。(中略)カフェで話をしたいま、彼女は明らかに、前に想像したより率直で、自分の考えをはっきり口にする、より傷つきやすい人物であるようだ。とはいえ、じきホテルに着くことに胸を膨らませながらも(中略)僕はとてつもない過ちを犯したんじゃないだろうかとウォーカーは自問せずにいられない。(中略)マルゴは彼に時間を与え、やがて彼は憂鬱な落ち込みから立ち直ってくる。まあ完全にではないにせよ、(中略)するっと服を脱いだ彼女のむき出しの肌に両腕を回すときもぞくっと感じるし、彼女とも首尾よく愛しあう━━一度のみならず、二度。(中略)彼はセックスに狂っている。(中略)セックスは至上者であり贖い主でありこの世で唯一の救済なのだ。二人は結局レストランにたどり着かない。ワインを一本空けたあと二人とも眠りこけて、夕食のことなど忘れてしまう、翌朝早く、夜明け前に目を開けると、自分が一人でベッドにいることをウォーカーは発見する。隣の枕に紙切れが置いてある。マルゴの書き置き━━ごめんなさい。このベッドあまりに寝心地悪くて。来週電話してね。(中略)
 二日後、彼はサンタンドレ・デザール広場の戸外カフェに座って、ビールをちびちび飲みながらノートに文章を書いている。(中略)オッペンの最新詩集『この そこに在って』のなかの数行を彼は書き写す━━(中略)顔を上げると、すぐ目の前に、ルドルフ・ボルンが立っている。(中略)僕、あのこと忘れてませんよ。いまでもずっと考えてます。考えるって、何を? あなたがあの子にやったこと。私は何もしちゃいないぜ。よしてください。一回刺しただけさ。(中略)(また明日へ続きます……)

ポール・オースター『インヴィジブル』その7

2019-05-18 00:13:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
たしかに、時が経つにつれて二人とも少しは控え目になったけれど、肉体が変化しはじめてもなお、たがいから完全に離れはしなかった。(中略)やがて、大いなる実験の夜が訪れた。(中略)しばしのあいだ君たちは相手の腕に抱かれて横たわり、脚を絡ませ、頬を触れあい、畏怖の念に打たれてただただたがいにしがみついて、掛け値なしの恐怖に体が破裂してしまわぬように願っていた。(中略)女体の神秘へのこの入門儀式によって君はいまや限界の彼方まで押し出され、グウィンから何ら促しも受けることなく突如その夜最初の射精を遂げ、痙攣の如き噴出が彼女の腹一杯に広がった。(中略)グウィンはすでにケラケラ笑い出し、君の達成を祝って片手で陽気に自分の腹をさすったのである。それは何時間も続いた。(中略)グウィンが初めて絶頂に達したときの鼻から空気が波のように出入りする音、なおも加速する二人の息、最後に訪れる勝ち誇った喘ぎ。(中略)やがて姉がベッドに倒れ込み、脚を開き、触るよう君に命じた。(中略)
 その六年後、君は姉とシェアしている西107丁目のアパートのキッチンに座っている。いまは1967年7月初旬、週末はニューヨークにいたい、バスで両親の家まで出かけていく気はないと姉に告げたところだ。(中略)(姉は言う。)だから、あの夜二人でやったこと、あれってまるっきり狂ってた。そう思う? 思わない? そんなには。(中略)正直、唯一残念なのはもう一度やらなかったってことだね。 へぇ。じゃああたしと同じこと考えてたんだ。
 君と姉はこうして過去の話をする。両親の会話なき結婚の話、死んだ弟の話、(中略)その夏二人で交わす言葉の大半は、現在と未来をめぐるものだ。(中略)トリュフォー最良の作品群は君たち二人の胸を打つが、グウィンはゴダールを格好ばかりだと考え君はそう考えない。彼女はベルイマンとアントニオーニこそこの宇宙の双璧だと讃えるが、君は彼らの映画に退屈してしまうことをしぶしぶ白状する。(中略)本や映画や戦争を君たちは語り、自分たちの仕事や将来の計画を、過去と現在を語り、加えて君はボルンのことを語る。(中略)だけど二十歳の赤の他人の将来が気がかりだっていうだけで何千ドルも渡す人間なんかいないわよ。そういうことをするのは同性愛的に惹かれているからよ。(中略)セックスはセックスよ、アダム。両方の人間が望む限り、すべてのセックスは善なのよ。(中略)
 君はまさにそれだ━━どうしようもない。(中略)彼女は君が話すことができるただ一人の人物、君を生きている気にさせてくれるただ一人の人物なのだ。(中略)
 寒々とした内省を二十四時間経たあと、苦悩はゆっくり鎮まってゆく。転機は土曜日、君たちがマンハッタンで過ごすことにした七月初旬の週末二日目の晩に訪れる。夕食のあと、君は姉と(中略)カール・ドライヤーの1955年の映画『奇跡』を観る。(中略)
 弟が死んでからずっと、君と姉は毎年彼の誕生日を祝ってきた。(中略)基本的に、この誕生日ディナーは三部に分かれた会話である。(中略)第一段階。君たちはアンディのことを過去形で語り、まだ生きていたころの彼について思い出せることを片っ端から掘り起こす。(中略)第二段階。君たちはアンディのことを現在時制で語る。(中略)第三段階。君たちは未来について、今から次の誕生日までのあいだにアンディの身に何が起きるかを語り合う。(中略)もう駄目、と彼女はやっと口を開き、うなだれて床に向って言う。(中略)君は何も言わない。そこに座って、腕を姉の体に回したまま姉が泣くがままにさせている。(中略)君はグウィンに酒を渡し、彼女と並んでソファに座る。(中略)本当の愛はね、と彼女は言う。悦びを与えることからも、悦びを受けとるのと同じくらい悦びを得るものなのよ。(中略)君たち二人はソファの背に寄りかかり、グウィンが君の手を握って指を君の指に絡ませる。(中略)そして君の頬に、ひどく優しくキスする。(中略)たっぷり三十分が過ぎ、どちらもやめようという素振りを見せない。そのとき君の姉が口を開く。そのとき君が口を開き、二人一緒に君たちは頭からまっさかさまに夜の闇へ墜ちていく。
 もはやルールはない。大いなる実験は一度きりの出来事だったが、二人とも二十歳をすぎているいま、思春期の戯れの拘束はもはや当てはまらない。君たちはその後の三十四日間、君がパリへ発つ当日まで二人でセックスをしつづける。(中略)君たちは一緒に風呂に入る。(中略)彼女は 君のペニスをバラエティショーと呼ぶ。(中略)養子にしたいと彼女は主張する。(中略)
 最後の日が来る。(中略)君は行きたくない。(中略)(また明日へ続きます……)

ポール・オースター『インヴィジブル』その6

2019-05-17 00:07:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 (中略)ここまで頼りにされたら、こっちとしてもできるだけのことはしようという気になろうというものだ。(中略)死にかけた友人がほぼ四十年ぶりに再登場し、僕は突如、この男を裏切ってはいけないという義務感を抱く。だがいったい、どんな助けを与えてやれるだろう?(中略)書かれる必要がある本ならば、いずれ彼はその道を見つけるはずだ。次の手紙ではだいたいそういうことを書いた。(中略)その手紙を送った時点では、カリフォルニア行きはまだ一か月半先の話だった。(中略)まったく予想していなかったときにふたたび連絡があった。今回は郵便ではなく電話。(中略)じゃあ第二章は終わったのか? 第一稿はね。十日ばかり前に終わりにたどり着いた。(中略)おぞましい話なんだよ、ジム。(中略)いいから送ってくれ。(中略)君にまた会いたいんだ。(中略)電話を切って初めて、この会話に自分がどれだけ動揺させられたかを僕は悟った。(中略)だが本の第一部での自分自身をめぐる明晰で率直な書き方を想い、送ってくれた二通の勇気ある整然とした手紙もあわせて考えると、実際に話したときの落差には、やはりいささか戸惑わざるをえなかった。(中略)電話があった二日後に、(中略)第二部が届いた。簡単な添え状が入っていて、『1967年』という書名をようやく思いついたこと、それぞれの章には季節の名が冠されることが書いてあった。第一部は「春」、届いたばかりの第二部は「夏」、そしていま取り組んでいるのは「秋」。電話ですでにこの章の話は聞いていたし、「暴力的」「醜い」「おぞましい」といった言葉もまだ耳に残っていたから、(中略)「春」よりももっと過酷で不穏なものが出てくることを僕は覚悟していた。

 夏

 (中略)君は西107丁目の、ブロードウェイとアムステルダム・アベニューのあいだにあるビルの二寝室アパートに住んでいる。ルームメイトはちょうど卒業して街を出ようとしているところで、代わりの同居人が必要なので、もうひとつの寝室の住人として君はすでに自分の姉を招いた。折よく姉は(中略)これからコロンビアの英文科の大学院に通うことになっている。君と姉は昔から仲よしだった。(中略)彼女は君と一歳四か月しか違わないが、世界とのつきあい方はつねづね君より常識的で分別があり、(中略)数日後にはもう、自分の興味や能力とも適合するアルバイトを探しにかかった。かくして(中略)彼女はミッドタウンの大きな商業出版社で編集助手として働き出す。一方君は、いかにも君らしく散漫かつ運任せにぐずぐず職探しを引きのばし、(中略)コロンビアのバトラー図書館の図書整理係の仕事に応募するのだ。君は朝十時から夕方四時まで、月曜から金曜まで勤務する。(中略)基本的に、為すべき仕事は二つだけである。本を棚に戻すか、請求のあった本を小型エレベータを使って上の階から中央受付に送り出すか。(中略)それでもこの書架業務は、時おり思いがけない発見に繋がり、君を包む退屈の雲がつかの間晴れたりする。たとえば、1670年版の『失楽園』に行きあたったとき。(中略)この一年のあいだに教わった最高の教授によるこの有名なミルトン購読授業の、講義とゼミ両方に君は出席し、『アレオパジティカ』『失楽園』『復楽園』『闘士サムソン』をこつこつ読み進め、(中略)いまではミルトンを愛するようになり、その時代のほかのどの詩人よりも偉大だと思うようになった。(中略)閉架の空間にはものすごく圧迫感があって、(中略)唯一上手く行くのは、性的妄想にふけることだけだ。
 姉が君に言う。どう思う、アダム? あたしたち週末は家に帰るべきかしら、それともニューヨークにいて暑さに耐える? ここにいようよ、と君は(中略)答える。(中略)(弟の)アンディが死んだとき君は十歳で、君も(姉の)グウィンもニューヨーク州のサマーキャンプに送り出されていたから、事故が起きたとき二人ともその場にはいなかった。(中略)母親が精神病院に運ばれていった数時間後、君は一生ずっと善人でいることを、弟の記憶にかけて誓った。(中略)アンディが生まれる直前、両親は君と姉を三階の隣同士の寝室に移した。(中略)1957年8月のエコー湖での大変動以降は、そこが君の避難所に、傷心の砦のなかで唯一、君と姉が悲しみに暮れる両親から逃れられる場になった。(中略)小さいころは風呂も一緒に入り、お医者さんごっこにふけってたがいの体を熱心に探索した。(中略)やがて子供はみな、幼年期の野蛮なキャリバン的裸体主義から尻込みするようになり、六歳か七歳になるころには慎みの障壁がすでに立ち上がってしまっている。だがどういうわけか、君とグウィンにはこれが起こらなかった。(中略)(また明日へ続きます……)