父の納骨を京都の東本願寺にする前に買った、大内文雄さん監修の「七高僧ものがたり」を読みました。浄土真宗の祖・親鸞が紹介した七人の高僧と聖徳太子についての話です。
「龍樹菩薩」は、今から1850年ほど前の南インドのバラモン階級に生まれ、乳飲み子の頃から人語を解し、若くしてあらゆる学問を修め、その後快楽にふけるも、仲間を殺されたことを契機に出家し、龍の守っていた大乗の経典を読んで「空」の概念を知り、不退転の境地に到り、軍に入って王の信頼を得、王を大乗の教えに導きました。
「天親菩薩」は、龍樹菩薩の時代から約250年後、北インドのペシャワールに生まれ、当時衰えていた仏教を広めることを母に託され、小乗仏教を広めていきましたが、兄から大乗仏教を教えられて以降は、大乗仏教の布教に努めました。不退転の境地に到れずに悩んでいた時、阿弥陀仏の「無量寿経」に出会って救われ、「浄土論」を著しました。
「曇鸞大師」は、今から1500年ほど前、仏教が広まっていた中国の南北朝時代に生まれ、経典の注釈を行なっていましたが、50才でまだ道半ばであることから、苦労して長生不死のための経典を手に入れますが、インドの僧侶に会うことで、その経典を焼き、以後「浄土論」に注釈を付け、念仏を唱えることを民衆に説きました。
「道綽禅師」は、廃仏の困難な時代を経て、曇鸞を祭る寺に到り、以後その寺から出ず、ひたすら念仏を唱えることを説きました。
「善導大師」は、道綽に師事し、師の死後、唐の都・長安に出て、浄土教を布教し、中国全土に広めました。
「源信僧都」は、平安時代、延暦寺で天台宗を修めた後、隠遁し、念仏を唱えて浄土へ行くための「往生要集」を著し、多くの人を救いました。
「法然上人」は、平安時代から鎌倉時代にかけて生き、延暦寺で修行を積んだ後、善導大師の著作に出会い、それ以後、念仏を唱えることを世に広めました。
「聖徳太子」は、日本に初めて仏教を紹介し、広めました。
昔の話にはどう考えてもおかしな話もありますが、大体事実に即した話なのだと思います。具体的な浄土宗の内容については、詳しくは述べられていませんが、高僧たちの高い志は伝わってきました。浄土宗に興味のある方にはオススメです。
「龍樹菩薩」は、今から1850年ほど前の南インドのバラモン階級に生まれ、乳飲み子の頃から人語を解し、若くしてあらゆる学問を修め、その後快楽にふけるも、仲間を殺されたことを契機に出家し、龍の守っていた大乗の経典を読んで「空」の概念を知り、不退転の境地に到り、軍に入って王の信頼を得、王を大乗の教えに導きました。
「天親菩薩」は、龍樹菩薩の時代から約250年後、北インドのペシャワールに生まれ、当時衰えていた仏教を広めることを母に託され、小乗仏教を広めていきましたが、兄から大乗仏教を教えられて以降は、大乗仏教の布教に努めました。不退転の境地に到れずに悩んでいた時、阿弥陀仏の「無量寿経」に出会って救われ、「浄土論」を著しました。
「曇鸞大師」は、今から1500年ほど前、仏教が広まっていた中国の南北朝時代に生まれ、経典の注釈を行なっていましたが、50才でまだ道半ばであることから、苦労して長生不死のための経典を手に入れますが、インドの僧侶に会うことで、その経典を焼き、以後「浄土論」に注釈を付け、念仏を唱えることを民衆に説きました。
「道綽禅師」は、廃仏の困難な時代を経て、曇鸞を祭る寺に到り、以後その寺から出ず、ひたすら念仏を唱えることを説きました。
「善導大師」は、道綽に師事し、師の死後、唐の都・長安に出て、浄土教を布教し、中国全土に広めました。
「源信僧都」は、平安時代、延暦寺で天台宗を修めた後、隠遁し、念仏を唱えて浄土へ行くための「往生要集」を著し、多くの人を救いました。
「法然上人」は、平安時代から鎌倉時代にかけて生き、延暦寺で修行を積んだ後、善導大師の著作に出会い、それ以後、念仏を唱えることを世に広めました。
「聖徳太子」は、日本に初めて仏教を紹介し、広めました。
昔の話にはどう考えてもおかしな話もありますが、大体事実に即した話なのだと思います。具体的な浄土宗の内容については、詳しくは述べられていませんが、高僧たちの高い志は伝わってきました。浄土宗に興味のある方にはオススメです。