明治乳業争議団(blog)

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中労委命令取消し 行政訴訟(原判決)に対する 東京高裁「控訴審」、第一回口頭弁論開かれ、審理の継続が確認される

2019年05月13日 13時54分56秒 | お知らせ

第一回口頭弁論期日 中西茂裁判長裁判官、谷口園恵裁判官、倉澤守春裁判官の訴訟指揮で開かれる 4月16日 11時 424号法廷

 

口頭弁論終了後の報告 傍聴席に入りきれなかった支援者と傍聴者に、訴訟指揮の要点を菊池弁護士、意見陳述した井村控訴人が感想を述べました。

明治乳業差別事件の高裁第1回口頭弁論が4月16日に開かれ、控訴人側弁護団と原告代表が意見陳述をおこないました。

【意見陳述 代理人 金井克仁弁護士の骨子】

 金井弁護士が、◆長年累積した職分・賃金格差は非常に大きく、退職後の現在にも及んでいる。◆中労委は申立人らの集団性、職分・賃金の格差を認め、会社による不当労働行為を明らかにした。◆しかし中労委も地裁も「継続する行為の該当性」を否定。◆労組法による「除斥期間」を画一的に引用し、申立て直近の1年間には有意な格差は無いとした…などを指摘し、適正な審査指揮を求めました。

 さらに今後、◆専門家による「意見書」提出、証人申請・立証計画採用などを要請し、口頭弁論が継続されることになりました。

【意見陳述 控訴人大阪 井村隼啓】

 私は山口で高校を出て、昭和37年3月10日明治乳業大阪工場の門をくぐって社会人としてのスタートをきりました。42年間大阪工場で勤務し、15年前に定年を迎えました。75才になりました。学校を出て56年間、私の社会人としての人生はその3分の2を明治との争議の原告や申立人などの当事者として過ごさなければならない人生となってしまいました。

 本件は先行した市川事件からすでに34年が経過し、今回の中労委命令を前後して新たに3名の仲間が亡くなってしまいました。全国64名の申立人のうち、実に15名もが他界してしまったのです。

 自分が一生懸命働いてきた会社から「ならず者」「無能力者」「生産阻害者」「赤虫」「赤ダニ」など、いわれのない、人格まで否定されるようなレッテルをはられたまま生涯を終えなければならなかった労働者をこれだけ多く出してもなお、解決の話し合いにも応じようとしないという異常な明治の対応に、私たちは「人生このまま終われない」との思いを強めています。

 私は入社後工場事務課の会計に配置されました。1年の見習いを終えて組合に加入し、1年後には事務職場の代議員になりました。その翌年から組合関西地区本部の執行委員となり青婦部長を、さらに次年度は教宣部長を務めながら組合の勉強をさせてもらっていました。

 こうした私も会社から「ならず者」のレッテルを貼られたのでしょうか。昭和42年には食堂の一角に設けられたミルクコーナー担当となり机がやっと一つ入るような場所に隔離されました。そこでの仕事は従業員が昼食時に支給される牛乳を1本づつ手渡す事それだけです。そんな見せしめとしか言いようのない作業を5ヶ月間した後はまた再び会計に戻され、今度は倉庫の担当として倉庫内の事務所に隔離されました。

 その間、昭和44年に導入された新職分制度のもとで私への評価は毎年Dでした。そんな関係もあって私は、今回の控訴人でもある伊藤、同じく七枝両氏らとともに大阪地裁で思想差別、不当労働行為事件として裁判をたたかいました。この裁判は11年8ヶ月かかりましたが昇格等を条件として和解で終結しました。私はこの大阪での裁判を経験したことを通して、明治における賃金制度の変遷は全て差別を合理化するための司法対策としか言いようがないと考えるようになりました。

大阪での裁判は昭和50年1月に始まりましたが、その年の10月に私は倉庫の担当から事務所に戻されました。あわせて、それまで私に対する人事考課は毎年D考課が続いていましたが、その年からは全てC考課に変わりました。

私のC評価は22年間も続きました。私は、42年間の在職期間中に1回だけ「指導書」をとられるという経験をしました。なぜかと言うと、倉庫勤務を解かれて事務所に戻ってしばらくしたころ窓口を担当していた人が「井村さんお客さんです」と呼んでくれたので出てみると日産自動車のセールスが訪ねてきていました。私は当然ながら「仕事中だから」とすぐに引き取ってもらいました。その直後に係長に呼ばれ「指導書」にサインするように求められました。私は当然、守衛室で仕事中の私用面会はできないからと入場を断るべきことを主張してサインは拒否しました。今まで1回もそのような指導書などなかったのに人事考課はD続きでしたが、しかし裁判中でもあったためかこの年も人事考課はC評価でした。

 その一方で、会社は職分給の6号から7号への昇号級にはB考課必要、職分の昇格にもB考課が必要との制度変更を行い、職分給や職分昇格でB考課がなければ頭打ちとなる制度に変えたのです。昇格させようと思えばBをつけ、そうでなければDやCにすればよい。平均的C考課を受けていることで労働委員会での審査対象にもならない。こんな制度に変更されたのです。

 そればかりではありません。申立人外の池田証人が中労委で証言に立ってくれましたが、係長から「私は今年池ちゃんを監督職に昇格させようと思っていたが、今年は井村が昇格することになった。同じ職場で2人同時にと言うわけにはいかなかった。来年は必ずあげるから」と言われ、「翌年本当に監督職に昇格してビックリした。」と証言してくれていますが、これは同じ職場で云々の問題ではなく、明治では定年が55才から60才に延長された時に、退職金の算定基礎は55才の時点の職分、賃金をベースに算定すると言う点は変更していないのです。平成12年確かに私は基幹監督職に昇格しましたが、その年私は66才になったからです。逆に池田証人は昭和19年生まれで翌年66才になるのを待って翌年に監督職に昇格したのです。

 このように「真面目に働く者と、そうでない者に同じ賃金を支払うことは出来ない」として導入された「特別昇給制度」や「新職分制度」は、労働者がインフォーマル組織に加入しているかいなかで仕事も賃金も決まるというシステムとして運用され続けてきたのです。1年でどうなるというものではなく、定年退職金の算定にまで継続するシステムとして運用されてきたのです。

 これ程長期にわたる賃金差別は本人が他界してもそれで終わりではありません。残された遺族までもが遺族年金で、明治によるいわれもない差別を引きずって行かなければならないのです。申立人の伊達修さんが亡くなった時、奥さんが「修は、争議団の一員として頑張ってきました。解決前に逝ってしまうのが全国の皆に申し訳ないと言い続けていました。しかし、争議に参加したことで全国の素晴らしい仲間と出会うこともできた。明治に来て本当に良かった。明治に来なかったらこんな仲間と出会うことも出来なかった。自分の人生に悔いはない。これが修が私に託した遺言です」と挨拶されていました。

 奥さんは遺言を胸に今も争議の継承人として頑張っていただいています。都労委の段階での要請行動にも上京して頂き「家族みんなで力を合わせて明治のために頑張ってきた。バラバラの勤務で夜勤の日などは主人にゆっくり寝てもらうために、小さかった子供を一日外に連れて出て遊ばせた。そんな苦労もして頑張ったのになぜ」と訴えてもおられました。

 大阪15名の原告の内5名がすでに亡くなっています。さらに自分で動けなくなり車椅子での生活になってしまった原告など様々な病気と闘いながら頑張っている原告もいます。私たちに残された時間は長くはありません。

 一日も早く解決の道が切り開かれることを念願して私の陳述とします。貴重な時間を頂き有難うございました。

明治乳業争議支援共闘会議 松本議長

 

 明治を取り巻く情勢と中労委命令に応じない、東京地裁から2度にわたる和解勧告にも背を向け続ける明治は、36件もの不祥事を繰り返すなど、争議団、消費者団体から不祥事の原因究明と食の安全守れの要請にも応えない。この様な経営体質を変えさせるために、不買宣言署名を取り組んでいます。この運動を成功させ、高裁でこの争議解決を必ず勝ちとることにご支援をと訴えられました。

争議団を代表して小関団長から参加者へお礼と決意

 中央労働委員会は、不当労働行為を認定し職分間差別は紛れもない事実とした命令をもとに、話し合いでの解決を明治に求める運動を様々な角度から展開しています。東京地裁の和解勧告に足を向けなかった明治に対し、これまで不祥事を繰り返す異常、死亡災害7件の異常、労働争議が絶えない異常を質す運動を通して、消費者の安全を守れと経営陣の責任を求めて来ましたが、一向に耳を貸さない状況です。いま取り組んでいる道理ある不買宣言署名を広く拡散している運動にご協力を訴え、この高裁で必ず解決の道筋を切り拓く決意を示し、次回の口頭弁論期日7月11日への傍聴支援をお願いしました。

以上

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