海外のニュースより

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「人を恥じ入らせること、--それはドイツ人のコンプレックスだ」と題する『ツァイト』紙の記事。

2007年03月24日 | 差別と格差
 「身綺麗にする前に人を馬鹿にすることを覚える国がドイツ以外にあるか」とゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは問うた。
 国連の特別顧問ヴェルノール・ムニョスは、ドイツ人の傷である他人を恥じ入らせること、それと結びついてる尊大な態度に触れた。
 この報告書自体われわれを恥じ入らせる。彼はドイツの教育施設の三分法、あるいは、特殊学校を入れる場合には4分法から縁を切るように忠告する。この制度は、社会的下層出身の子供や障害者や移民にとって差別的である。
 恥じ入らせられた者は、傷つき、傷跡が残る。「お前は劣っている。」基幹学校(日本の小学校と中学校を合わせたもの)の生徒は、基幹学校生という呼び名で呼ばれるだけで、侮辱され貶められたと感じる。特殊学校の生徒はますますそう感じる。三分法による学校制度が問題になる場合、彼らは数には入っていない。特殊学校の割合は、ドイツでは非常に高く、5%に達している。
 例えば、フィンランドでは、特殊学校は大抵の校区からは撤去された。確かに、第9学年までみんなが通う共通学校には、特別教員がいる。殆ど子供達の4分の1は、小グループ授業を受ける。生徒は部分的には学級を通過する。平均値が推測させるように、これは低学年でよりしばしば生じる。高学年では特別授業はまれになる。
 私が確信する前には、私はフィンランドの子供達は、この特別学級の授業を差別的だと感じていないとは思わなかった。それは可能ではないと思われた。これらの子供達は、彼らが普通学級から連れてこられたとき、他の子供達から馬鹿だとからかわれないだろうか?実際には、私はジヴェスキリやヘルシンキのいくつかの学校を訪問した際、このような軽蔑を見出さなかった。反対だった。両親や子供達は、学校が費用の理由で提供できる以上のものを個人の特別授業に求めていた。このことが、私にとってフィンランドでは、何か決定的なことがドイツとは違ったやり方で行われているという最も強力な証明だった。
 子供達を決して辱めないこと、これがそこでは最高の教育原則だった。この原則は、1960年代や70年代に実行された学校改革にとって、機会の平等を貫くことや、できるだけ多くの青少年に高等教育を受けさせるという目標よりも、もっと強力な動機だった。それどころか、この原則によって反対のことが起こった。学校における考え方の変化が、フィンランドでは青少年の70&が大学での研究を始めることの原因である。この数字を見ると、多くのドイツ人は、これは誤植であるか、高校卒業生におけるインフレーションの結果にちがいないと思う。各人の中には人が信じる以上のものが隠れているということがドイツでは全く想像されていないかのように思われる。それはまるで他人を貶め、取るに足りないと思わせるかのようである。
 「私は、繰り返し、授業中に子供達が屈辱を感じさせられているのに愕然とした」とマックス・プランク教育研究所の定年になった所長であるヴォルフガング・エーデルシュタインは言う。彼の息子のベンヤミンは、小学生として米国に行った。そこでは、先生は、午後、生徒の科目上や個人的な質問に対していつでも応じる用意があった。ドイツに帰国して、彼の息子は習慣に従って教師のところへ行き、彼に質問した。教師の答えは、「私は個人的相談に答えるために給料を貰っているのではない」だった。「ありえないことだ」と父親は、このドイツ人教師から受けた冷淡さのショックについて声を荒らげる。「ベンヤミンは、米国では本当の教師に出会った。ここでは彼が得たのは、乱暴な返答だけだ。」 
 なぜ、ドイツでは多くの子供が歯医者へ行くような様子で学校へ行くのか?なぜ多くの教師は、相変わらず知識を隠して生徒に探させるような教育をするのか?なぜ教師は生徒の誤りに興味を持ち、そこから学ぶのでなくて、誤りを生徒のせいするのか?
 ドイツにおける最初のピサ研究の主任であったユルゲン・バウメルトのピサ研究は、ドイツの先生達が彼らの生徒を好きで、およそ生徒をよく知っているかどうかについて疑念を抱かせる。(中略)
 ドイツの先生達は、彼らの生徒のことを殆ど知らない。授業時間は、図式的に流れ去る。
 バウメルトは、スイスのフリブール大学で客員教授だった。あるとき、彼はドイツの数学授業のビデオを持って行った。少し経つと学生達が「自分たちの見ていることは、信じられない」と言った。バウメルトは、彼らが何を意味しているのか最初は分からなかった。学生達は「先生の言葉遣いだ」と言った。「教師が口に出す絶えず傷つけるような評価だ。」例えば、「また間違えた。何度も言っただろう? おい、お前達は知っているはずだ。」このような口調は、余り敬意を払っていない口調だ。「否定的で距離を置いていない」というのがスイスの学生の評価だった。(後略)
[訳者の感想]日本の先生は、もう少しましでしょうか、それとももっと酷いでしょうか?
大学紛争のとき、ドイツで批判されたことの一つは、大学における権威主義だったようですが、それは初等教育や中等教育ではまだ残っているようです。
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