海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「自白がなければ、罪もない」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2005年04月28日 | 国際政治
「犯人意識と犠牲の神話と自己憐憫--日本の過去との関わりとその隣人の反応」という副題を持ったウーヴェ・シュミットの論説。
ワシントン発:日本は8月15日にその戦後の最も孤独な日々の一つを耐えなければならない。ジャカルタやマニラやホー・チミン市やシンガポールや台北やソウルや平壌や北京の人々は、お祝いや慰霊の列を作って、優越感から彼らを「三等市民」と蔑み、白人の植民地支配から解放するという名目で破滅的な戦争に巻き込んだ国を指さすのだ。それだけでは十分ではない。ロンドンやパリやモスクワやキャンベラやウェリントンの白人達は、確かに抑制してではあるが、勝ち誇るだろう。日本が降伏文書に調印した9月2日には、悪循環は、ハワイでのアメリカの日本に対する戦勝記念日でもって、閉じられるかもしれない。
 戦勝国は、日本が戦争の責任を理解もせず、代償を払いもせず、それ故時代錯誤的な自己理解にとらわれたままであるという状態にあることに責任がある。それは攻撃者を犠牲者に変えた原爆投下と共に始まった。当然の同情の壁の背後で、何十年も集団的自己憐憫が蔓延するのを許された。犠牲の神話は、占領国の長年の秘密主義的政策に助けられて、記憶が薄れるにつれ、次世代に知識を教えないことによって、成長した。日本の核アレルギーと平和主義は、尊敬に値するが、それは情緒的であり、気分的なものである。それらは日本の国体の血の純潔さと生まれの良さを強調する日本の人種主義と連合国のプロパガンダにおいて、ナチとジャップとを区別する西欧の人種主義の反映である。彼らはドイツ人の中にいる敵とそうでない者とを区別したが、日本人はすべて「敵」であった。ヒロシマとナガサキの原爆投下の数日後に、トルーマン大統領は、何ら遺憾の意を表すことなく、「獣と関わっているのなら、彼らを獣として扱わなければならない」とある私信のなかで(原爆を投下した理由を)説明した。
 ヒロヒトはヒットラーではなかった。ナチ的な心情をもった官僚や将校の、暴行の限りを尽くす軍隊を中国や日本の植民地であった台湾や朝鮮に投入しようという試みは、失敗した。「聖戦」における日本軍の嫌悪すべき残虐や虐殺は、(ナチの)ホロコーストではなかった。中国側の資料によれば、20万人が虐殺された南京においても、1945年2月と3月において殆ど10万人の民間人が日本軍によってかアメリカ軍の空襲によって殺されたマニラにおいても、一民族を工場的なやり方で絶滅することはなかった。朝鮮人は、日本名を名乗り、神道の神々を礼拝し、自分たちの言葉を否定し、従軍慰安婦となるように強制された。南京では、6週間の間に、少なくとも2万人の女性が強姦された。空中に投げ挙げられた赤子を銃剣で突き刺している写真が存在する。召集される前は、百姓であったものが、司令部が大目に見たために、支配者として人を殺した。人間の想像を超えたに違いない虐殺は、血に飢えた家庭の父や職人や米作りの百姓によって、天皇の名においてなされたのだ。
ヒロヒト天皇は、連合国が望むならば、戦争裁判でそれらの出来事を耳にしただろう。アメリカ人は天皇が共犯者であることを選んだ。天皇は神であることを断念した。すべての臣民は、弱々しく聞き取れない声で読み上げられた8月15日の「終戦の詔勅」を知っている。それは多くの者が何を信じているかを明らかにした。「帝国の存続と東亜の安定を確保するために、われわれは米国と英国に宣戦を布告したのであって、他国をわれわれの主権に従わせたり、あるいは領土を占領せんとする意図に出たものではない。」有名な箇所で、天皇は、「耐え難き耐えん」と決意した和平の意志を明らかにした。天皇はこのように語り、彼が勅語を述べている最中に、彼の臣民の何人かは腹を切った。他の臣民は、謙虚に占領軍に服従し、西欧の国々との長い競争に着手した。
 あの戦争が日本では統一的な名称を持たないことは不思議ではない。「太平洋戦争」という呼び名と並んで政治的な色彩に応じて、異なった名称で呼ばれている。極右は、あの戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ。左翼自由主義者は、1931年の満州事変から数えて、「15年戦争」と呼ぶ。ドイツ人が第二次大戦を婉曲に「崩壊」と呼ぶように、日本では「暗い谷間」というような呼び名が使われる。学校では、攻撃的戦争は、「事変」とか「前進」という決まり文句で矮小化される。品位を持ち貴族の出であった細川護煕首相が1993年夏に、あの侵略戦争をずばりその名で呼んだとき、まるで彼が天皇自身を殴ったみたいに、愛国者達は吠え立てた。
 白状しなければ、責任がないかのように、終戦に以来振る舞ってきたことは、日本の外交の重大な間違いである。北京とソウルが経済力をつけて、型どおりの憤激で靖国参拝や図々しい南京虐殺を否定する人たちをやり玉に挙げた1970年代の初め以来、日本の責任追及は、跡を絶たない。田中角栄首相がニクソン・ショックの中で、北京で日中国交正常化をしたとき、彼は日本の罪責として賠償支払いをしないという愚行を犯した。北京は、寛大な人を演じ、田中は彼の安直な和解をしたことで祝福された。だが、北京は賠償を諦めることによって何十年も金を搾り取り、東京を政治的に恐喝することができるということを予想しなかった。
 日本とドイツは、どちらも、侵略者であり、負けたが故に戦争に勝った国だが、この比較は、分かりやすいと同時に、誤解を招くものである。日本人は、人種イデオロギー的な民族抹殺はやらなかった。ナチの裁判官によって下された何万人もの死刑宣告とゲシュタポのテロ行為とは、日本で60人ほど殺され、1600人ほど拷問と病気で収監中に死んだ政府の反対者とを、比較することはできない。
 これらすべてによっても、アジアでは日本に有利にはならない。どんな懺悔も、許しを請うことも、どれほどの金を積んでも、天皇が南京でブラント首相のように膝を屈することも、反感を解消しない。日本の右翼がすべての和解の裏を掻こうと可能なことをやるからだけでなく、かっての被害国にとっては、金持ちの犯人は、貧乏な罪人と同じぐらい貴重だからである。
訳者の感想:アジアにおける日本の立場をよく見ていると思います。最後の箇所を読むと何をしても日本は中国や韓国の非難を回避することはできないように見えます。日本とドイツの戦争犯罪の性質が違うことをはっきり指摘している点が、ドイツ人らしいと思います。
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