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おめでたい時にはどうして赤飯を食べるの?(子供のための年中行事解説)

2021-10-01 06:09:52 | 年中行事・節気・暦
おめでたい時にはどうして赤飯を食べるの?
 赤飯とは、餅米にゆでた小豆を混ぜて蒸したものです。赤飯の起源について、弥生時代の赤米に由来し、後に赤米に代わって小豆を入れて赤い色を着けたと説明されることがあります。これは柳田国男という民俗学者の説なのですが、彼自身もその論文で正直に「奇抜な解釈」や「暗示」であると認めているように、確かな根拠があるわけではありません。
 また近年では赤米が「古代米」と称して売られていますが、それは野生の稲の玄米の表皮には、赤い色素を持つものがあることを根拠に、短絡的に日本の原始時代の米は赤米であったと説く人がいるだけのことです。話としては面白いのですが、古代の米が赤米であったという考古学的確証は何一つなく、弥生時代に赤米が栽培されたことや、赤米が赤飯の起源であるとは、学問的にはとうてい認められません。ただし藤原京や平城京の遺跡などから発見された木簡(木の板の札)の中には、「赤米」と書かれたものがいくつもあるので、7~8世紀に赤米が栽培されていたことは事実です。7~8世紀を「古代」であるというなら、確かに「赤い古代米」はありました。しかし原始的稲作栽培が始まった頃に、日本に赤米があったかどうかは、全くわかりません。現在「古代米」と称して売られている赤米も、古代の野生種を遺伝子的に再現したものではなく、あくまでも販売促進をねらった商品名です。その様に名付けられて普及してしまったため、弥生時代の米は赤米であったという俗説が広まってしまっただけなのです。
 赤飯があったことの確実な記録は、平安時代末期から鎌倉時代末期の公家の調理のについて記録した『厨事類記』(ちゅうじるいき)という書物です。それによれば、三月三日・五月五日・九月九日の節供には、赤飯が供えられたことを確認できます。節供はめでたい日ですから、祝い事に赤飯を食べる風習は、かなり早くから行われていたのです。
 一般には祝い事では、紅白幕や紅白饅頭、紅白の水引など、紅白の配色が好まれます。そのため赤はめでたい色だから、めでたい時には赤飯を食べると理解されています。もちろんそれでよいのですが、赤はめでたい色であると同時に、もともとは魔除けの力があると理解されていました。大和時代の古墳では、棺の内側を真赤に塗ることがありましたが、遺体に魔物が取り付かないようにするためと考えられています。また古代中国では、正月十五日と冬至の日に、魔除けのために小豆を入れた粥を食べる風習があり、奈良時代に日本にも伝えられました。赤色についてのそのような理解は、その後も長く受け継がれます。江戸時代には、疱瘡(ほうそう)という伝染病のために早死にする子供が多かったのですが、枕元に赤色の玩具を置いたり、赤色で刷ったお札を貼る風習が行われていました。今も残っている金太郎・達磨・木菟(みみずく)・鯛・鯉・牛などをかたどったこれらの赤色の郷土玩具は、本来はみな魔除けのために子供の身近なところに置かれていたものです。同じように赤飯にも魔除けの意味がありました。祝い事の行われる日には、絶対に不吉なことが起きないようにしなければなりません。ですから、めでたいことを祝うことと、魔除けをすることは、表裏の関係にあります。そのため魔除けの赤飯が、同時に祝賀の赤飯にもなったのです。
 『嬉遊笑覽』(きゆうしょうらん、1830年)という書物には、「京の都では、凶事(不吉なこと)に赤飯を用ることは、民間の習慣である」と記されています。葬儀に赤飯をふるまう習慣は、現在も各地で行われています。赤色はめでたい色という理解では、葬儀などに赤飯を振る舞えば不謹慎であると怒られそうですが、もともと赤色は魔除けの色でしたから、不吉な行事の時こそ、邪気をはらうために赤飯を食べる風習があったのです。このように縁起の悪い時に、縁起がよくなるように祝いなおすことを「縁起直し」といいます。赤飯には「難を転じる」と称して、南天(なんてん)の葉を添えたり重箱に敷き詰めたりすることは、江戸時代の多くの文献で確認できます。ですから南天の葉を添える風習は、本来は凶事(不吉なこと)にも食べたことの名残なのです。そもそも慶事(めでたいこと)にだけ食べるならば、今さら「難を転じる」必用などないではありませんか。因みに黒胡麻と塩を添えることも、江戸時代の文献で確認できます。
 


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