重陽の節供はどんな節供だったの?
若い人に9月9日は何の日かと尋ねると、救急の日という答えが返って来るかもしれません。もちろん間違いではないのですが、歴史的には「重陽の節供」「菊の節供」と呼ばれました。重陽の節供は、現在ではすっかり影が薄くなっています。新暦の9月9日には菊の花が咲いていないこともあるからでしょうか。生花店には一年中菊の花は並んでいるのに、葬儀用の花という印象が強くなってしまったからでしょうか。そもそも「重陽」という言葉がわかりにくいということもあるでしょう。
古代に中国から伝えられた陰陽思想では、あらゆるものに陰と陽があり、互いに補完しつつ万物が成り立っていると説明されます。陰の力と陽の力は決して対立する関係ではないのですが、陽は吉であり、陰は凶であると理解される傾向があります。数字では奇数は陽、偶数は陰とされ、陽の数が重なる日、つまり1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には、昔から節会(せちえ、節供の祝宴)が行われてきました。もちろん節会はこれらの日以外にも行われていましたが、中でも9月9日は、最大の奇数(陽の数)である9が重なることから「重陽の節供」と呼ばれてきました。そして中国語では「九九」は「久久」に、また「重九」(ちょうきゅう)が「長久」に音が通じることから、陽の重なる節供の中でも特に重視されていました。
重陽の節供については、中国の6世紀の歳時記である『荊楚歳時記』には、「九月九日、人々は野山に出て楽しく遊び、菊酒を飲む。そして菊酒を飲むと長寿になる」と記されています。その様な風習がいつから日本でも行われるようになったか、はっきりしたことはわかりません。菊が日本に伝えられたのは8世紀末ですから、それ以後のことと見てよいでしょう。重陽の節会の確実な記録は、『日本後紀』という歴史書の弘仁二年(811年)九月九日に見られます。嵯峨天皇が文人に命じて詩を詠ませたことが記されていますが、嵯峨天皇は空海と並んで唐風書道や漢詩に優れ、当代随一の唐風文化人でもありましたから、唐伝来の菊の花を愛でながら、観菊の宴を催したことでしょう。
7世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物には、菊が長寿に関わる花であることが記されています。菊からしたたる谷川の水(菊水)を飲むある村の人々がみな長寿で、七八十歳ではまだまだ若く、百二三十歳でようやく長生きだと言うのです。四十歳は「初老」とも呼ばれ、長寿の祝いが始まる年齢でしたから、とんでもない長寿ということになります。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた平安時代の貴族達が、百科事典のように身近に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながりました。平安時代の和歌には、菊を髪にさしたり、菊酒を飲んだりして、長寿を祈る歌がたくさんあります。現在の清酒の名前には、「菊」の文字を含むものがたくさんあります。菊正宗・菊水・菊露・喜久水・白菊・菊の里など、探せばいくらでも見つかります。これらの命名の発想は、もともとはこの菊酒が長寿に関わる縁起のよい花という理解によっているのでしょう。
また重陽の節供では、「菊の被綿」(きせわた、着綿)という面白い風習が行われました。前日の八日、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、露で湿ったその綿をとって身体をぬぐうのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この綿はもちろん蚕の繭をほぐした真綿のこと。これも菊酒と同じく長寿を祈る呪いです。この菊の被綿について、『枕草子』には、夜明けに雨が降り、ぬれた綿が花の香に一層よく香っている様子が趣があると記されています。
江戸時代の17世紀の『後水尾院当時年中行事』という宮中の年中行事書には、白菊には黄色の綿、黄色の菊には赤い綿、赤い菊には白い綿でおおうと記されています。さらに花をおおった真綿の中心に、小さく丸めた綿を少し乗せてしべとすると定められています。最近では全国各地の神社などで、菊の被綿の行事が復活されています。ただ新暦の9月9日なので、菊の花が咲くには時期が早すぎます。
現在の菊の節供には、せいぜい菊の花を生けるくらいのもので、被綿の他には何か特別な行事や行事食はありません。しかし江戸時代の各種の歳時記には、九月九日には菊酒を飲み、栗を食べたり贈答する風習があり、「栗の節供」とも呼ばれたと記されています。
今ではほとんど見ることはありませんが、各種の歳時記には、この日「後の雛」(のちのひな)と称して、雛人形を飾る風習があることが記されています。ただし上巳の節供のような大掛かりなものではなく、夫婦雛とわずかな調度品を飾る程度のことでした。この風習は上方(京阪地方)だけで、江戸にはなかったそうです。
今さらどうにもならないのでしょうが、敬老の日と重陽の節供が同じ日であったらよかったのにと思います。菊を飾り、菊酒を飲み、栗御飯を食べ、菊の被綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈るというのはどうでしょうか。しかし一つ気になることがあります。それは敬老の日には菊を贈ってはいけないと説かれることがあるのです。菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としてはふさわしくないというのでしょう。しかし菊は本来は長寿のシンボルだったのですから、菊を避けるべき理由はありません。ですから長寿を祝う花であることを丁寧に説明して、高齢者に贈ったらよいと思います。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。
「六日の菖蒲、十日の菊」という諺(ことわざ)があります。菖蒲を必要とするのは五月五日、菊は九月九日ですから、一日遅れで間に合いません。そこで、最も必要とされる時機に遅れてしまうことの比喩として使われます。蛇足になりすみません。
若い人に9月9日は何の日かと尋ねると、救急の日という答えが返って来るかもしれません。もちろん間違いではないのですが、歴史的には「重陽の節供」「菊の節供」と呼ばれました。重陽の節供は、現在ではすっかり影が薄くなっています。新暦の9月9日には菊の花が咲いていないこともあるからでしょうか。生花店には一年中菊の花は並んでいるのに、葬儀用の花という印象が強くなってしまったからでしょうか。そもそも「重陽」という言葉がわかりにくいということもあるでしょう。
古代に中国から伝えられた陰陽思想では、あらゆるものに陰と陽があり、互いに補完しつつ万物が成り立っていると説明されます。陰の力と陽の力は決して対立する関係ではないのですが、陽は吉であり、陰は凶であると理解される傾向があります。数字では奇数は陽、偶数は陰とされ、陽の数が重なる日、つまり1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には、昔から節会(せちえ、節供の祝宴)が行われてきました。もちろん節会はこれらの日以外にも行われていましたが、中でも9月9日は、最大の奇数(陽の数)である9が重なることから「重陽の節供」と呼ばれてきました。そして中国語では「九九」は「久久」に、また「重九」(ちょうきゅう)が「長久」に音が通じることから、陽の重なる節供の中でも特に重視されていました。
重陽の節供については、中国の6世紀の歳時記である『荊楚歳時記』には、「九月九日、人々は野山に出て楽しく遊び、菊酒を飲む。そして菊酒を飲むと長寿になる」と記されています。その様な風習がいつから日本でも行われるようになったか、はっきりしたことはわかりません。菊が日本に伝えられたのは8世紀末ですから、それ以後のことと見てよいでしょう。重陽の節会の確実な記録は、『日本後紀』という歴史書の弘仁二年(811年)九月九日に見られます。嵯峨天皇が文人に命じて詩を詠ませたことが記されていますが、嵯峨天皇は空海と並んで唐風書道や漢詩に優れ、当代随一の唐風文化人でもありましたから、唐伝来の菊の花を愛でながら、観菊の宴を催したことでしょう。
7世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物には、菊が長寿に関わる花であることが記されています。菊からしたたる谷川の水(菊水)を飲むある村の人々がみな長寿で、七八十歳ではまだまだ若く、百二三十歳でようやく長生きだと言うのです。四十歳は「初老」とも呼ばれ、長寿の祝いが始まる年齢でしたから、とんでもない長寿ということになります。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた平安時代の貴族達が、百科事典のように身近に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながりました。平安時代の和歌には、菊を髪にさしたり、菊酒を飲んだりして、長寿を祈る歌がたくさんあります。現在の清酒の名前には、「菊」の文字を含むものがたくさんあります。菊正宗・菊水・菊露・喜久水・白菊・菊の里など、探せばいくらでも見つかります。これらの命名の発想は、もともとはこの菊酒が長寿に関わる縁起のよい花という理解によっているのでしょう。
また重陽の節供では、「菊の被綿」(きせわた、着綿)という面白い風習が行われました。前日の八日、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、露で湿ったその綿をとって身体をぬぐうのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この綿はもちろん蚕の繭をほぐした真綿のこと。これも菊酒と同じく長寿を祈る呪いです。この菊の被綿について、『枕草子』には、夜明けに雨が降り、ぬれた綿が花の香に一層よく香っている様子が趣があると記されています。
江戸時代の17世紀の『後水尾院当時年中行事』という宮中の年中行事書には、白菊には黄色の綿、黄色の菊には赤い綿、赤い菊には白い綿でおおうと記されています。さらに花をおおった真綿の中心に、小さく丸めた綿を少し乗せてしべとすると定められています。最近では全国各地の神社などで、菊の被綿の行事が復活されています。ただ新暦の9月9日なので、菊の花が咲くには時期が早すぎます。
現在の菊の節供には、せいぜい菊の花を生けるくらいのもので、被綿の他には何か特別な行事や行事食はありません。しかし江戸時代の各種の歳時記には、九月九日には菊酒を飲み、栗を食べたり贈答する風習があり、「栗の節供」とも呼ばれたと記されています。
今ではほとんど見ることはありませんが、各種の歳時記には、この日「後の雛」(のちのひな)と称して、雛人形を飾る風習があることが記されています。ただし上巳の節供のような大掛かりなものではなく、夫婦雛とわずかな調度品を飾る程度のことでした。この風習は上方(京阪地方)だけで、江戸にはなかったそうです。
今さらどうにもならないのでしょうが、敬老の日と重陽の節供が同じ日であったらよかったのにと思います。菊を飾り、菊酒を飲み、栗御飯を食べ、菊の被綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈るというのはどうでしょうか。しかし一つ気になることがあります。それは敬老の日には菊を贈ってはいけないと説かれることがあるのです。菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としてはふさわしくないというのでしょう。しかし菊は本来は長寿のシンボルだったのですから、菊を避けるべき理由はありません。ですから長寿を祝う花であることを丁寧に説明して、高齢者に贈ったらよいと思います。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。
「六日の菖蒲、十日の菊」という諺(ことわざ)があります。菖蒲を必要とするのは五月五日、菊は九月九日ですから、一日遅れで間に合いません。そこで、最も必要とされる時機に遅れてしまうことの比喩として使われます。蛇足になりすみません。