うたことば歳時記

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重陽の節供はどんな節供だったの?(子供のための年中行事解説)

2021-08-31 12:57:59 | 年中行事・節気・暦
重陽の節供はどんな節供だったの?

 若い人に9月9日は何の日かと尋ねると、救急の日という答えが返って来るかもしれません。もちろん間違いではないのですが、歴史的には「重陽の節供」「菊の節供」と呼ばれました。重陽の節供は、現在ではすっかり影が薄くなっています。新暦の9月9日には菊の花が咲いていないこともあるからでしょうか。生花店には一年中菊の花は並んでいるのに、葬儀用の花という印象が強くなってしまったからでしょうか。そもそも「重陽」という言葉がわかりにくいということもあるでしょう。
 古代に中国から伝えられた陰陽思想では、あらゆるものに陰と陽があり、互いに補完しつつ万物が成り立っていると説明されます。陰の力と陽の力は決して対立する関係ではないのですが、陽は吉であり、陰は凶であると理解される傾向があります。数字では奇数は陽、偶数は陰とされ、陽の数が重なる日、つまり1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には、昔から節会(せちえ、節供の祝宴)が行われてきました。もちろん節会はこれらの日以外にも行われていましたが、中でも9月9日は、最大の奇数(陽の数)である9が重なることから「重陽の節供」と呼ばれてきました。そして中国語では「九九」は「久久」に、また「重九」(ちょうきゅう)が「長久」に音が通じることから、陽の重なる節供の中でも特に重視されていました。
 重陽の節供については、中国の6世紀の歳時記である『荊楚歳時記』には、「九月九日、人々は野山に出て楽しく遊び、菊酒を飲む。そして菊酒を飲むと長寿になる」と記されています。その様な風習がいつから日本でも行われるようになったか、はっきりしたことはわかりません。菊が日本に伝えられたのは8世紀末ですから、それ以後のことと見てよいでしょう。重陽の節会の確実な記録は、『日本後紀』という歴史書の弘仁二年(811年)九月九日に見られます。嵯峨天皇が文人に命じて詩を詠ませたことが記されていますが、嵯峨天皇は空海と並んで唐風書道や漢詩に優れ、当代随一の唐風文化人でもありましたから、唐伝来の菊の花を愛でながら、観菊の宴を催したことでしょう。
 7世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物には、菊が長寿に関わる花であることが記されています。菊からしたたる谷川の水(菊水)を飲むある村の人々がみな長寿で、七八十歳ではまだまだ若く、百二三十歳でようやく長生きだと言うのです。四十歳は「初老」とも呼ばれ、長寿の祝いが始まる年齢でしたから、とんでもない長寿ということになります。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた平安時代の貴族達が、百科事典のように身近に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながりました。平安時代の和歌には、菊を髪にさしたり、菊酒を飲んだりして、長寿を祈る歌がたくさんあります。現在の清酒の名前には、「菊」の文字を含むものがたくさんあります。菊正宗・菊水・菊露・喜久水・白菊・菊の里など、探せばいくらでも見つかります。これらの命名の発想は、もともとはこの菊酒が長寿に関わる縁起のよい花という理解によっているのでしょう。
 また重陽の節供では、「菊の被綿」(きせわた、着綿)という面白い風習が行われました。前日の八日、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、露で湿ったその綿をとって身体をぬぐうのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この綿はもちろん蚕の繭をほぐした真綿のこと。これも菊酒と同じく長寿を祈る呪いです。この菊の被綿について、『枕草子』には、夜明けに雨が降り、ぬれた綿が花の香に一層よく香っている様子が趣があると記されています。
 江戸時代の17世紀の『後水尾院当時年中行事』という宮中の年中行事書には、白菊には黄色の綿、黄色の菊には赤い綿、赤い菊には白い綿でおおうと記されています。さらに花をおおった真綿の中心に、小さく丸めた綿を少し乗せてしべとすると定められています。最近では全国各地の神社などで、菊の被綿の行事が復活されています。ただ新暦の9月9日なので、菊の花が咲くには時期が早すぎます。
 現在の菊の節供には、せいぜい菊の花を生けるくらいのもので、被綿の他には何か特別な行事や行事食はありません。しかし江戸時代の各種の歳時記には、九月九日には菊酒を飲み、栗を食べたり贈答する風習があり、「栗の節供」とも呼ばれたと記されています。
 今ではほとんど見ることはありませんが、各種の歳時記には、この日「後の雛」(のちのひな)と称して、雛人形を飾る風習があることが記されています。ただし上巳の節供のような大掛かりなものではなく、夫婦雛とわずかな調度品を飾る程度のことでした。この風習は上方(京阪地方)だけで、江戸にはなかったそうです。
 今さらどうにもならないのでしょうが、敬老の日と重陽の節供が同じ日であったらよかったのにと思います。菊を飾り、菊酒を飲み、栗御飯を食べ、菊の被綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈るというのはどうでしょうか。しかし一つ気になることがあります。それは敬老の日には菊を贈ってはいけないと説かれることがあるのです。菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としてはふさわしくないというのでしょう。しかし菊は本来は長寿のシンボルだったのですから、菊を避けるべき理由はありません。ですから長寿を祝う花であることを丁寧に説明して、高齢者に贈ったらよいと思います。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。

「六日の菖蒲、十日の菊」という諺(ことわざ)があります。菖蒲を必要とするのは五月五日、菊は九月九日ですから、一日遅れで間に合いません。そこで、最も必要とされる時機に遅れてしまうことの比喩として使われます。蛇足になりすみません。




『明六雑誌』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-08-22 09:04:48 | 私の授業
明六雑誌


原文
 曰く、利十ならざれば事を変ぜず、害百ならざれば法を更めずと。今、洋字を以て和語を書す。其(その)利害得失、果して如何(いかん)。曰く、此(この)法行はるれば本邦の語学立つ。其(その)利一なり。童蒙の初学、先づ国語に通じ、既に一般事物の名と理とに通じ、次に各国の語に入るを得(う)。且(かつ)同じ洋字なれば、彼を見る、既に怪むに足らず。語種の別、語音の変等、既に国語に於て之(これ)に通ずれば、他語は唯(ただ)、記性を労する耳(のみ)。是(これ)入学の難易、固(もと)より判然たり。其利二なり。言ふ所書く所と、其法を同うす。以て書くべし、以て言ふべし。即ちレキチュア、トーストより会議のスピーチ、法師の説法、皆書して誦(じゆ)すべく、読んで書すべし。其利三なり。アベセ二十六字を知り、苟(いやしく)も綴字(つづりじ)の法と呼法(こほう)とを学べば、児女も亦男子の書を読み、鄙夫(ひふ)も君子の書を読み、且(かつ)自ら其(その)意見を書くを得べし。其利四なり。方今洋算法行はれ、人往々之(これ)を能(よ)くす。之と共に横行す其便知るべし。而(しかし)て大蔵陸軍等既にブウクキーピンクの法を施行す。之と共に横行字を用ゆ。直(ただち)に彼の法を取るのみ。其利五なり。近日ヘボンの字書、又仏人ロニの日本語会あり。然(しかれ)ども直ちに今の俗用を記し、未だ其肯綮(こうけい)を得ず。今此法一たび立たば、此等亦一致すべし。其利六なり。此法果して立たば、著述翻訳甚便りを得ん。其利七なり。此法果して立たば、印刷の便悉(ことごと)く彼の法に依り、其軽便言ふ斗(ばかり)なかるべし。彼国にてこの術に就(つき)て発明する所あれば、其儘(そのまま)にて之を用ふべし。その便八なり。翻訳中、学術上の語の如きは、今の字音を用ふるが如く、訳せずして用ふべし。また器械名物等に至ては、強(しい)て訳字を下さず、原字にて用ふべし。是其(これその)利九なり。
此法果して立たば、凡そ欧洲の万事、悉(ことごと)く我の有となる。自国行ふ所の文字を廃し、他国の長を取る。是瑣々(ささ)服飾を変ふるの比にあらざれば、我が国人民の性質、善に従ふ流るゝが如きの美を以て世界に誇り、頗(すこぶる)彼の胆を寒(ひや)やすに足らん。是其(これその)利十なり。此十利あり。而(しかし)て之を行ふ、亦何を窮して決行せざる。

現代語訳
 「十の利がなければ、従来の事を変えない。百の害がなければ、その方法を改めることはない」と言われている。では洋字(アルファベット)を用いて日本語を書くことについて、その利害得失とは、果たしてどのようなものであろうか。
 この方法(洋字による日本語表記)が行われたら、(発音を正確に表記できるので)我が国の国語学が確立する。これが一つめの利である。
 子供がものを学ぶには、まずは国語から始めるが、さらに一般の事物の名前や理屈を理解し、次いで各国の言葉を学び始めることができる。この時同じ洋字であるから、外国語を見ても戸惑うことがない。品詞の区別、発音の変化などについては、既に(洋字による)国語学習で理解しているから、他の外国語については、記憶力を働かせることが必要なだけで、学び始める際の難易度の違いは、もとより明白である。これが二つめの利である。
 話し言葉と書き言葉が同じであるから、同じように書いたり、話したりできる。つまり講演、乾杯挨拶から会議の演説、師匠の説法に至るまで、全て書くままに声に出して誦(よ)み、誦むままに書くことができる。これが三つめの利である。
 (古文や漢文は、誰もが読み書きできるとは限らないが)ABCのアルファベット二六文字を覚え、文字の綴りと発音を学びさえすれば、女性や子供でも男性の書いたものを読み、田舎者でも智者の書いたものを読み、また自分の考えを書き表すことができる。これが四つめの利である。
 現在では西洋式の算術が行われ、よくこれを用いている人もいる。それに伴って横書きが行われているから、洋字で書く便利さがわかるだろう。それで既に大蔵省や陸軍では、既に簿記の記帳法が行われ、それに伴って横書きの表記が行われているから、(洋字を用いれば)すぐにでも(簿記の記帳法を)採用できる。これが五つめの利である。
 最近ではヘボンが著した辞書(『和英語林集成』)や、フランス人ロニ(フランスで日本語のアルファベット表記を研究)の日本語会話書が出版されたが、それらは今の俗語がそのまま記されていて、(書き言葉の)要からはずれている。今この表記法が確立されれば、これらが一致するであろう(一致して役立つであろう)。これが六つめの利である。
 もしこの表記法が確立されれば、著述や翻訳がすこぶる便利になるであろう。これが七つ目の利である。
 もしこの表記法が確立されれば、印刷は全て西洋の方法によるので、その手軽で便利なことは言うまでもないであろう。西洋で印刷技術の新たな発明があれば、そのまますぐに採り容れることができる。これが八つめの利である。
 翻訳する際に学術語については、現在、(漢字の)音を用いて表しているように、和訳しないで用いることができる。また器械や物の名前などについては、無理に翻訳せず、原語のまま用いることができる。これが九つめの利である。
 もしこの表記法が確立されれば、およそヨーロッパの全てのことは、我等の知るところとなる。自国の文字を廃止し、他国の長所を採り容れることは、服飾を洋風化するというような些細なことではない。しかし我が国の国民性が、善いことを摂取すること、水の流れるが如くである美点を世界に誇ることになるから、すこぶる西洋人を驚かせるのに十分であろう。これが十個めの利である。
 以上のように十も利があって実行するのだから、いったい何に臆して決断しないのであろうか。(躊躇(ちゆうちよ)する必要などないではないか)
 
解説 
 『明六雑誌(めいろくざつし)』は、明治六年(1873)に結成された啓蒙思想家の結社である明六社の機関誌です。発行が始まったのは翌明治七年(1874)で、明治八年(1875)の四三号まで続きました。大きさは日本古来の規格であるB六版で、二十ページ前後、毎号社員の論説が収められています。発行部数は毎号約三千部くらいですが、その影響は大きく、啓蒙思想の普及に大きな役割を果たしました。ただ、社長の森有礼が後に初代文部大臣となり、社員の西周が軍人勅諭を起草し、加藤弘之が勅撰貴族院議員や帝国大学総長になったように、政権寄りの立場の社員が多く、自由民権運動の活発化に伴う言論統制が厳しくなると、自ずとその活動も縮小し消滅しました。
 ここに載せたのは、創刊号に載せられた西周の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論説です。西周は石見国津和野藩士の出身で、若い頃には荻生徂徠の儒学を学びました。後に脱藩して中浜万次郎に英語を学び、幕命により津田真道や榎本武揚らと共にオランダに留学しています。明治初期には主に兵部省に出仕し、明六社結成以後は主に文筆活動で活躍しました。
 西周は洋字表記の利点を十も列挙していますが、「害」としては、書道用品店の仕事がなくなること、和紙から洋紙に製法を改める必要があること、漢学者や国学者の反対を上げています。しかし実際に行われれば、その程度の「害」ではおさまりません。同音異義語が極めて多い日本語では、文脈やアクセントである程度は同音異義語を識別できるとはいえ、短い文で切り取られたり、書かれた文を読むだけでは、理解するのに混乱が生じることは必至です。
 洋字表記については、明六社の社長である森有礼も「日本語改良」と称して賛同し、さらに簡易化した英語の公用語化・国語化さえも考えていました。彼は決して浅薄な西洋かぶれでそのように考えたわけではありません。当時の日本語には、思考をするのに不可欠な、概念を表現する語彙(ごい)が欠如していて、「国家の法」を表現するには、日本語は貧弱すぎると考えていました。また英国を文明開化の手本と見るだけではなく、いずれは日本が凌駕すべき国とも見ていましたから、言語地政学的視点から、日本人が英語を理解できることの重要性を考えていたのです。
 確かに日本語の洋字表記が実現すれば、欧米語学習の障壁は低くなり、今頃は日本人がもっと国際的に活躍していたかもしれません。しかし日本人が日本の古典を読むことが困難になりますから、アイデンティティーにも関わる重大な問題です。かつてユダヤ人がイスラエルを建国した際に、聖書に用いられ、一部の宗教家にしか理解できなかったヘブライ語を、現代の国語として採用したため、イスラエル人は今でも紀元前に書かれた聖書を普通に理解できるということが、考えるヒントになるでしょう。
 ただし西周は論説の末尾に、「右、聊(いささ)カ愚考ヲ陳シ(述べ)、諸先生ノ可否ヲ請フ。敢テ採用ヲ望ムニアラズト雖モ、諸先生、幸ニ電覧(でんらん)(拾い読み)ヲ賜ハゞ幸甚(こうじん)(幸いである)」と記されていますから、あくまでも試論であって、本気で採用を主張したわけでなさそうです。事実、西周は多くの欧米の学術用語を和製漢語に翻訳しました。philosophyを「フィロソフィー」と音訳することなく、「哲学」という言葉を創ったことはよく知られています。その造語の範囲は、広く人文・自然・社会科学に及び、三千語以上あるそうです。
 その中でも、現在普通に用いられている言葉を、思い付くままに片端から上げてみましょう。主観・客観・演繹・帰納・命題・定義・観念・弁証・理想・反証・断言・再現・義務・意識・観察・転換・衝動・還元・交換・先天・後天・現象・情緒・単元・概括・蓋然・感性・感受性・思考・積極・総合・体験・ 本能・能動・具体・抽象・極端・属性・肯定・否定・理性・実在・感覚・知覚・知識・真理・芸術・科学・取引・消費・習俗・技術・合成・細胞・脂質・焦点・子音・死語・硬質・心理・物理・植物学・動物学・音声学・鉱物学・非金属・法律学・習慣法・急進党・共和党・保守党・想像力・生活力・印刷術、等々きりがありません。森有礼が憂えた社会学的用語の欠如は、同じく洋字の使用を提唱した西周によってかなり改善されたというのは、何とも奇妙な話ではありませんか。「西君、貴殿はかつて『学術語の如きは、翻訳せずして用ふべし』と書いていたではないか」と、からかわれたことでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『明六雑誌』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。








ロシア人歌姫アリシアの「日本語の魔法」

2021-08-18 13:27:57 | その他
若い頃に海外生活の経験があり、高校で日本史を教えていることから、外国人の日本文化理解について関心がありました。それで日本語を話す外国人のユーチューブをよく見ています。その中でロシア人のアリシア・フォードという女性歌手の話に衝撃を受けたので、御紹介します。

 そのタイトルは「日本語の魔法」というものです。アリシアさんの個人情報については、ほとんど知りません。Max Luxuryという女性コーラスユニットで、東京のクラブ(?)のような店で歌っているようです。女優としても通用するような抜群な容姿で、その世界ではよく知られていそうです。ただし今はその容姿は全く関係ありません。来日して何年たっているのか詳しくは知りませんが、多少ロシア訛はあるものの、実に美しい日本語で話します。

 普通、外国人のユーチューバーが話すことの多くは、日本に興味を持ったきっかけ、日本に来た理由、カルチャーショック、好きな日本食や日本文化、日本各地の観光、国際結婚の経緯、同じ外国人ユーチューバーとのコラボレーションなどで、どれも表面的なものが多いのです。もちろんどれも興味深い体験談であり、面白いとは思います。しかしアリシアさんの話には、もちろんそのような話もありますが、それよりさらに一歩踏み込んだ深い思索を感じさせ、他の外国人ユーチューバーとは一線を画しているのです。

 「日本語の魔法」の中で、アリシアさんは次のように語ります。「日本語は日本の文化だから、日本語を学ぶことは同時に日本の文化を学ぶことになる。日本の精神に触れるということである。日本語を話すには、相手を尊重し、相手を立てるようにしなければならない。相手を傷つけないようにしなければならない。それがわからないと絶対に日本語を話せない。これが私が日本語を学んでわかったことである。相手を尊重し、相手を立てる。日本語はそういう言葉だから、日本語を学ぶ外国人は、相手を尊重できるようになり、優しい心に変わってしまう。日本にいる外国人は私も含めて、みな優しくなっている。相手の気持ちを尊重できるようになる。それが日本語という魔法なのである。人は言葉を自分でコントロールしてしゃべっていると思っているが、実は言葉も同時に人をコントロールしている。言葉には日本の精神が宿っていて、これが言霊(ことだま)なのである。」と。まさか外国人から「言霊」という言葉を聞くとは驚きでした。日本人でも『万葉集』を学ばなければ知らない言葉なのですから。

 日本人は自己主張が苦手です。建前と本音を使い分けます。そして空気を読んだり、相手を傷つけまいとして、時には曖昧な対応をしてしまうものです。外国人にはよく理解できないところでしょう。「まあまあ」「そのうちにね」「いずれまた」「一応は」などという微妙な言い回しは、歯がゆくなることでしょう。しかしアリシアさんは、それこそが日本語の特徴であると考えているようです。実際にはもっと優しい言葉でしゃべっているのですが、学者のような分析による論法ではなく、御自身の体験に基づいた、実に説得力と素晴らしい感性とユーモアに富んだ話しぶりです。最後の部分では、私は溢れる涙を堪えることができませんでした。アリシアさんの日本語はネイティブ並です。目をつむって聞いたならば、外国人とは思えない程です。丁々発止的な日本語の上手さということならば、アリシアさんより上手い外国人は他にいるでしょう。しかし言葉の美しさ、格調の高さという点では、他のユーチューバーは足許にも及びません。話すこと自体が詩になっているのでは。そう思わせる部分がある程です。話すことを商売にしている私の日本語がどの程度のものなのか、本当に恥ずかしくなりました。

 「日本語の魔法」はわずか12分くらいの話です。ユーチューブで検索して、是非とも視聴して見て下さい。Max Luxuryの歌も、検索すれば見ることもできます。こちらもなかなかのもので、お勧めします。

 こんなにも日本と日本語を愛して下さるアリシアさんに、感謝を込めて歌を一首詠みました。
○言霊の 幸はふ国に 天降り来て きらら煌めく 露の歌姫
 (ことだまの さきはふくにに あもりきて きららきらめく つゆのうたひめ)

「言霊の幸はふ国」とは『万葉集』に詠まれている言葉で、大和国、つまり日本を意味しています。「露」は天から下ってくるつゆであると同時に、ここでは露西亜(ロシア)を懸けています。表向きには、月影にきらめいている夜露を、アリシアさんになぞらえて詠んだものです。

ツクツクホウシの鳴き声(改訂版)

2021-08-16 13:06:34 | うたことば歳時記
 8月も中旬になると、ツクツクホウシの鳴き声をよく聞くようになります。我が家の周辺では、蝉の仲間では鳴き始める時期が最も遅く、この蝉の声を聞くと「秋」の到来を実感させられるのです。

 ところでこの蝉の鳴き声を文字に表すとどうなるのでしょうか。注意して聞いていると、まず「ジー」と1回鳴いてから、「ツクツクホーシ ツクツクホウシ ツクツクホウシ」と十数回繰り返します。そして「オイヨース、オイヨース」と数回鳴き、また最後は「ジー」と鳴いて終わります。まるで起承転結でもあるかのように、その鳴き方は4部に分かれているのです。鳴き始めてから鳴き終わるまでの時間はそれほど長くはないので、子供の頃に鳴き声を頼りに探しても、探しているうちに鳴き止んでしまい、他の蝉より警戒心が強いこともあって、なかなか捕らえられませんでした。その頃子供達はこの蝉を「オーシン」と呼んでいました。

 この蝉の鳴き声について、一つ疑問がありました。どうでもよいことなのですが、「ツクツクホウシ」か「クツクツホウシ」なのかということです。高齢者に聞いてみると、この二通りの聞き方があるからです。私は平安時代の国語辞書である『倭名類聚鈔』という書物を好きでよく眺めているのですが、それには「蛁蟟 陶隱居本草注云 凋遼二音字亦虭蟧。久都々々保宇之。八月鳴者是」と記されていました。つまり「クツクツホウシ」と聞いているわけです。『蜻蛉日記』には、「さながら八月になりぬ。ついたちの日、・・・・くつくつぼうしいとかしがましきまでなくを聞くにも、我だにものはといはる」と記されていて、「くつくつぼうし」と呼ばれていたことがわかります。

 鎌倉時代の字書である『字鏡集』には、「クツクツホウシ」と「ツクツクホウシ」の両方が記されています。自分では原典を直接確認していませんが、室町時代の『温故知新書』には両方が記されているそうです。室町時代初期の『頓要集』という字書では、「つくつくほうし」であることを確認しました。江戸時代の新井白石が表した博物事典である『東雅』の卷20には、『倭名類聚鈔』を引用して「蛁蟟クツクツボウシ。八月鳴者也。・・・・クツクツボウシとは。今俗にツクツクボウシといふも。其鳴聲をかたとりていふなり。」と記されています。

 現在ではツクツクボウシと呼ぶことが一般的ですが、生き物の名前やその鳴き声には地方によって様々なことでしょう。まあ大まかに言えば、クツクツでもツクツクでも、両方平行して行われていたのでしょうが、次第にツクツクの方が優勢になったようです。

 さてツクツクホウシにしてもクツクツホウシにしても、鳴き声を仮名で書き取っただけで、それ自体に意味を持たせているわけではありません。「ホウシ」は「法師」であるでしょうが、「クツクツ」「ツクツク」は素直に鳴き声を写したものと考えてよいでしょう。「法師」には何かわけがありそうですが、今となってはわかりません。

 数は極めて少ないのですが、ツクツクホウシを詠んだ古歌の中には、その鳴き声を意味のある言葉に置き換えている歌があります。

①蝉の羽のうすきこころといふなればうつくしやとぞまづはなかるる (元良親王集 11)
②我が宿の妻は寝よくや思ふらんうつくしよしといふ虫ぞなくなる (大弐高遠集 118)
③女郎花なまめき立てる姿をやうつくしよし蝉のなくらん (散木奇歌集 342)

 ①~③に共通しているのは、「うつくし」という言葉です。古語の「うつくし」は現在の「美しい」と少々ニュアンスが異なり、「可愛らしい」とか「愛らしい」といった意味です。①は、蝉の羽が透明であることを、蝉が自分で「うつくし」と言って鳴いているという意味でしょうか。なお元良親王は陽成天皇の皇子ですから、10世紀の人です。②には、「屋の端つまに、つくつくぼふしの鳴くを聞きて」という詞書きが添えられています。自宅の屋根の端(妻)の部分、つまり軒端に蝉がとまって鳴いていたのでしょう。端が妻をかけています。我が家の妻は共寝に良いと思うのだろうか、「うつくし」と言って虫が鳴いているよ、という意味です。自分の妻の可愛らしいことをのろけているわけです。なお藤原大弐高遠は10世紀末から11世紀初頭の公卿です。③には「人人まうできて歌詠みけるに蝉を詠める」という詞書きが添えられています。女郎花が美しく咲いているのを、可愛らしくてよいことだと蝉が鳴いている、というのです。女郎花はその名の如く、美しい女性に見立てて詠むのが常套でした。それに蝉が「うつくし」と鳴くことを結び付けたわけで、まあ戯れに詠んだ歌なのでしょう。なお『散木奇歌集』
は11世紀後半から11世紀前半の貴族藤原俊頼の歌集です。①から③にはどこにもツクツクホウシであるとは詠まれていませんが、鳴き方からしてツクツクホウシ以外には思い当たりません。平安から鎌倉期にかけて、ツクツクホウシは「うつくし」とか「うつくしよし」と聞き成されていたことがわかります。

 また1775年に編纂された方言を集めた『物類称呼』の巻二には、「蛁蟟、つくつくばうし・・・・近江にてつくしこひしと云」と記されています。「つくしこひし」は「筑紫恋し」という意味で、江戸時代の1787~1788年に俳人横井也有(やゆう)が著した俳文集『鶉衣』の「百虫譜」には、「つくつくはうしといふせみは、つくし恋しともいふ也。筑紫の人の旅に死して此物になりたりと、世の諺にいへりけり。こえは蜀魄の雲に叫ふにもおとるへからす。」と記されています。筑紫出身の人が旅先で、故郷が恋しいといって亡くなった。そしてその人の魂は蝉になり、「筑紫が恋しい」と言って鳴いている。その声は時鳥が空に鳴く声にも負けないほどである、というのです。ここには何か言い伝えがありそうですが、今となってはわかりません。その伝承は近江国に伝えられたのでしょう。1709年に本草学者貝原益軒が著した博物学書である『大和本草』巻14には、「蛁蟟 クツクツホウシ ・・・・ツクシヨシトナクト云うモノ也」と記されていますから、「ツクツク」を「筑紫」と聞き成すことは、江戸時代の初めからあったと見てよいでしょう。

 「うつくしよし」と聞くのは現代人には少々無理としても、「筑紫恋し」ならその様に聞こえないこともない。北九州出身の人が故郷を離れて聞き、故郷を懐かしく思い起こすことがあれば、是非御紹介下さい。

 そこで私も一首詠んでみました。
○空蝉の なく声かなし みさきもり 筑紫に往(い)にし 人や恋しき
これは夫を防人(みさきもり)として送り出した妻の心を詠んだものです。このような詠み方は現代短歌ではけなされますが、古い和歌では、第三者に成り代わって詠むことは、批判されることはありませんでした。

灯籠流しの起源

2021-08-13 20:34:36 | 歴史
灯籠流
 毎年八月十五日の終戦記念日前後には、戦没者の供養のために、火を点じた手製の小さな灯籠を川に流す
灯籠流が行われることがあります。また戦没者供養に限らず、慰霊を目的に行われるので、精霊流と呼ばれることもあす。

 このような風習は、もともとはお盆の行事として江戸時代に始まったことです。『華実年浪草』(かじつとしなみぐさ)という歳時記には、宇治の万福寺で盂蘭盆会に際して、「水灯会」(すいとうえ)が行われているとが記されています。それによれば七月十六日の夜、白蓮華の造花を三六〇個も造り、それに艾(もぐさ)の芯を立て点火して宇治川に流すのですが、まるで蛍火のようで、多くの観客が押しかけたということです。また中国の伝統的年中行事を記録した『月令広義』という明代の書物に、同様の風習が記されているとも記されています。『華実年浪草』を直接確認したい方は、ネットで「国会図書館デジタルコレクション『華実年浪草」と検索し、その巻9(秋の部巻一)の第25コマ目に載っていますから、一度御覧になって下さい。万福寺は明僧隠元が開山ですから、明の風習が送火の風習と習合したものなのでしょう。

 長崎では毎年八月十五日の旧盆に、現在も精霊流という風習が行われています。長崎出身の歌手さだまさしの歌で、「精霊流し」という名前はよく知られていますが、よく灯籠流と混同されています。歌の「精霊流し」は哀愁のあるメロディーと歌詞で、どこか寂しげな印象なのですが、長崎の精霊流は爆竹が鳴り響き、耳栓を欠かせない威勢のよい祭です。新盆を迎えた故人の関係者が「精霊舟」と呼ばれる舟形を引き廻し、故人の霊を送る盂蘭盆の行事で、歌の「精霊流し」しか知らない人が初めて見ると、余りにも印象が異なるので驚くことでしょう。舟の大きさは二~三mの小さな物から、十m程度の部分を数個連結させた、まるで「デコトラ」のような派手な物まであり、魔除けのためと称して、銃声と紛う程の爆音を響かせながら市内を練り歩きます。その様子はユーチューブで見られます。

 実はこの風習にも江戸時代以来の伝統があります。十九世紀末、寛政年間に書かれた『長崎聞見録』という書物には、「藁にて船を作り、生霊(精霊)祭りたる種々のものを皆積み、この船にも小さきぼんぼりを多く掛つらねて持行き、大きなる船は一二間も有、人拾人弐拾人もかかる。また貧家の船は小さく壱人にて持たるもあり。大波戸(おおはと)といふ海浜にて火を付て推流す。その火海面にかがやきて、流れ行くさま夥しきなり。この夜はみなみな寢る人なく、暁比までかくの如くさわぎて賑々(にぎにぎ)しきなり。」と記されています。

 また明治44年の『東京年中行事』には、お盆過ぎに東京各地の寺で、水難者や日清日露戦争戦没者供養のため、川施餓鬼が行われると記されています。それは阿弥陀如来を刷った紙や、経木塔婆を川に流す風習です。また江戸時代末まで、お盆の頃牛島の弘福寺で、都鳥の形の灯籠100余をつないで、小舟で引いて川に流す流灯会が行われていたと記されています。水灯会がお盆の送り火の行われる7月16日に行われていることからもわかるように、これらの行事はみなお盆の供物を川に流す風習が変化したものと考えるのが自然でしょう。このように灯籠流しの風習は、江戸時代から行われていたのです。

 ところがネット情報や年中行事の解説書には、「灯籠流は8月15日に行われるとは限らないが、広島が発祥地とする新しい風習である。精霊流は長崎で行われるもので、精霊船を引いて歩き、最後には解体するものである」と説明されています。終戦記念日に広島で行われることがニュースなどで放映されることから、検証すらすることなく、安易に広島起源であると思い込んでいるのでしょうか。そのように説いている人は、江戸時代の文献など全く読まず、おそらくは年中行事事典の類や先行する類書を適当に摘まみ食いしているのでしょう。このように年中行事の起源を調べるには、古い文献を読むことが不可欠なのです。慣れていないと江戸時代の文献を読むのは難しいかもしれません。しかし『東京年中行事』などは年中行事研究の基本中の基本図書であり、図書館で普通に閲覧できます。それすら読んでいないようです。たぶん年中行事事典の類を参考にしているのでしょうが、多くは民俗学的視点から書かれていて、信用できません。何故なら、民俗学では伝承を重視するあまり、文献史料が考察の材料として読まれていないからなのです。伝統的年中行事の歴史的理解がどれ程捏造されたものであるか、本当に残念でなりません。悪意があるとは思いませんが、歴史の一部なのですから、歴史的根拠によって裏付けられなければならないのです。

 灯籠流はもともとはお盆の行事でした。ただし全国的には行われていなかった可能性があります。それを記述している文芸や歳時記類が少ないからです。8月15日頃に行われることが多いことには、理由があります。もともとお盆は旧暦7月15日に行われていましたが、太陽暦の採用により新暦で月遅れの8月15日に行われることが多くなっていたのですが、たまたま終戦記念日と重なったため、戦没者慰霊も祖先供養も慰霊ということで、広島の灯籠流が注目されることになりました。決して広島起源ではなく、もともとお盆の風習の一つだったのです。ただし明から渡来した水灯会で、灯籠が用いられていたかどうかはわかりません。それでも灯を点じたものを蛍火と見紛う程に川に流したのですから、似たようなものであったことは間違いありません。また長崎の精霊流しでは、江戸時代の文献では灯を点したまま海に流していますから、全く別物ではなさそうです。なぜなら、隠元は初めは長崎の中国人の寺に住職として渡来し、後に宇治に移ったのであって、長崎での風習も、明由来のものであると考えられるからです。

 本来は慰霊のためとはいいながら、最近では観光的な意味も付加されされているようです。しかし川に流してしまうということから、環境保全の視点から、流しっぱなしというわけにもゆかず、いろいろ制限されるようになっているのは、やむを得ないことなのでしょう。