しばらく前に雛祭の蛤について書きましたが、訂正すべき事がいくつかありましたので、改訂しました。
現在の雛祭には蛤を使った料理が定番です。二枚貝の蝶つがいは、同じ大きさでも他の貝とは組み合わせができないことから、現在は女の子が幸せな結婚をして添い遂げることや、夫婦和合の象徴と理解され、雛祭の蛤を解説する全ての情報にそのように記されています。江戸時代に、蛤の蝶つがいは夫婦の和合を連想させるという理解があったことは事実です。『和漢三才図会』の「蛤」の項には、対になっている殻は蝶つがいがぴたりと合うのに、他の貝殻とは合わないことを、「牝牡の交に似て能く繋(?)合す」と記され、さらに蛤の殻に絵を描いた貝合の遊びに言及して、「婚礼には必ずこれを用て和合の義を象る」と記されています。しかし貝合のセットは大変高価な物で、一般庶民が婚礼用に買えるようなものではありませんでした。また『日次紀事』の「正月」にも、「新年に蛤蜊を初めて買うのは、『和合の儀に取る』ためである」と記されています。また天保三年(1832年)の『三省録』(インターネットで閲覧可能)という書物には、「婚礼には蛤の吸い物と定めたのは将軍徳川吉宗で、蛤は同じ蛤でも他の貝とは合わないので、婚礼を祝うに相応しいものである。また上巳の節句には専ら蛤を用いて祝儀としている」と記されています。(なお、徳川吉宗の事績を述べた『明君享保録』(インターネットで閲覧可能)という書物にも、「竹姫様御再婚之事」と題して、同様のことが記されています。)
以上のような理解があったのは事実ですが、一方ではもともと雛祭の蛤は、それとは異なる意図をもって用いられていました。柳亭種彦が著した『還魂紙料(かんごんしりよう)』(インターネットで閲覧可能)という書物には、多くの書物を引用して、本来は雛人形に食べ物を供える器として蛤の貝殻が使われたことが論証されています。同じように『守貞謾稿』にも、蛤を供えるのは、かつて蛤の殻を用いていた名残であると記されています。また『嬉遊笑覽(きゆうしようらん)』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)という書物にも、「雛祭に必ず蛤を用いるのは、かつて蛤の貝殻を雛の食器としていたことの名残である」と記されています。また江戸時代には3~4月が潮干狩のシーズンでしたが、特に3月3日を選んで行う風習がありましたから、それも雛祭と蛤が結び付く背景となっています。
雛祭で雛の食器として蛤を用いることと、蛤の蝶つがいが夫婦の和合の象徴であることは、本来は全く別のことでした。しかし天保三年(1832年)の『三省録』という書物に、婚礼に蛤の吸い物を供することを徳川吉宗が定めたという一文があり、その中に「すでに上巳には専蛤を用いて祝儀とす」と記されていますから、江戸時代の後期には、「雛の食器」と「女児将来の幸せな結婚の象徴」という理解が、次第に習合し始めていることを確認できます。ただし雛祭の蛤が夫婦和合の象徴という理解は、江戸時代の主な歳時記や風俗誌は勿論のこと、明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』にも全く見られませんから、そのような理解が広く共有されるようになったのは、大正時代以後のものだと思います。
史料「雛祭りの蛤(はまぐり)」
①婚礼に蛤の吸物は、享保中明君の定め置給ふよし。寔(まこと)に蛤は数百千を集めても、外の貝等に合ざるものゆえ、婚儀を祝するに是程めで度物なし。夫れ故の御定なり。・・・・すでに上巳には専蛤を用て祝儀とす。(『三省録』(巻二 飲食之部))
②古老の伝へて云。むかしはものごと質素にて雛遊びの調度も今のごとく美麗なるを用ひず。飯(いい)にもあれ汁にもあれ、蛤の貝に盛て備へけるとぞ。柳亭曰、今も古風を存して蛤の貝を用ふる家もたまたまありと聞(きけ)り。「百姓五節句遊(ひやくしようごぜつくあそび)」といふ草紙に、雛遊びのかたかきたる絵の賛に、「蛤は雛に対して昔椀」といふ句を載せたり。・・・・また「都老子」に曰「近年は雛配膳の調度など殊の外美をつくし金銀を鏤(ちりばめ)などすることとはなりぬ。然れども貧賤の家には、蛤の貝殻(から)に飲食を盛て供ずるもまた多し云々」とあり。・・・・「不思議物語」の序に「・・・・蛤化して雛の椀、これは実(まこと)の雛遊び云々」、この文は美を尽したる器にて備るより、蛤貝の椀を用ふるこそ実の雛遊びなれといふにやあらん。(『還魂紙料(かんごんしりよう)』十二「雛の蛤貝」)
③「然れども貧賤の家には、蛤の貝殼に飮食を盛て供するもまた多しといへり、今その殼をば用ひざれども、必蛤を備ふることは これによりてなり」(『嬉遊笑覽』)
④「近世まで雛祭には、物を供ずるに蛤殻を用ひしと聞く。今三都(江戸・大坂・京都)は蛤を供すも、昔殻を用ひし遺意ならん。」(『守貞謾稿』)
⑤「潮干 三月三日、海潮大に乾く。・・・・諸人競ひ来て蛤(はまぐり)蜊(あさり)を拾ひ小魚をとる。」(『俳諧歳時記栞草』)
⑥「汐干 当月より四月に至る。その内三月三日を節(ほどよし)とす。」(『東都歳時記』
現在の雛祭には蛤を使った料理が定番です。二枚貝の蝶つがいは、同じ大きさでも他の貝とは組み合わせができないことから、現在は女の子が幸せな結婚をして添い遂げることや、夫婦和合の象徴と理解され、雛祭の蛤を解説する全ての情報にそのように記されています。江戸時代に、蛤の蝶つがいは夫婦の和合を連想させるという理解があったことは事実です。『和漢三才図会』の「蛤」の項には、対になっている殻は蝶つがいがぴたりと合うのに、他の貝殻とは合わないことを、「牝牡の交に似て能く繋(?)合す」と記され、さらに蛤の殻に絵を描いた貝合の遊びに言及して、「婚礼には必ずこれを用て和合の義を象る」と記されています。しかし貝合のセットは大変高価な物で、一般庶民が婚礼用に買えるようなものではありませんでした。また『日次紀事』の「正月」にも、「新年に蛤蜊を初めて買うのは、『和合の儀に取る』ためである」と記されています。また天保三年(1832年)の『三省録』(インターネットで閲覧可能)という書物には、「婚礼には蛤の吸い物と定めたのは将軍徳川吉宗で、蛤は同じ蛤でも他の貝とは合わないので、婚礼を祝うに相応しいものである。また上巳の節句には専ら蛤を用いて祝儀としている」と記されています。(なお、徳川吉宗の事績を述べた『明君享保録』(インターネットで閲覧可能)という書物にも、「竹姫様御再婚之事」と題して、同様のことが記されています。)
以上のような理解があったのは事実ですが、一方ではもともと雛祭の蛤は、それとは異なる意図をもって用いられていました。柳亭種彦が著した『還魂紙料(かんごんしりよう)』(インターネットで閲覧可能)という書物には、多くの書物を引用して、本来は雛人形に食べ物を供える器として蛤の貝殻が使われたことが論証されています。同じように『守貞謾稿』にも、蛤を供えるのは、かつて蛤の殻を用いていた名残であると記されています。また『嬉遊笑覽(きゆうしようらん)』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)という書物にも、「雛祭に必ず蛤を用いるのは、かつて蛤の貝殻を雛の食器としていたことの名残である」と記されています。また江戸時代には3~4月が潮干狩のシーズンでしたが、特に3月3日を選んで行う風習がありましたから、それも雛祭と蛤が結び付く背景となっています。
雛祭で雛の食器として蛤を用いることと、蛤の蝶つがいが夫婦の和合の象徴であることは、本来は全く別のことでした。しかし天保三年(1832年)の『三省録』という書物に、婚礼に蛤の吸い物を供することを徳川吉宗が定めたという一文があり、その中に「すでに上巳には専蛤を用いて祝儀とす」と記されていますから、江戸時代の後期には、「雛の食器」と「女児将来の幸せな結婚の象徴」という理解が、次第に習合し始めていることを確認できます。ただし雛祭の蛤が夫婦和合の象徴という理解は、江戸時代の主な歳時記や風俗誌は勿論のこと、明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』にも全く見られませんから、そのような理解が広く共有されるようになったのは、大正時代以後のものだと思います。
史料「雛祭りの蛤(はまぐり)」
①婚礼に蛤の吸物は、享保中明君の定め置給ふよし。寔(まこと)に蛤は数百千を集めても、外の貝等に合ざるものゆえ、婚儀を祝するに是程めで度物なし。夫れ故の御定なり。・・・・すでに上巳には専蛤を用て祝儀とす。(『三省録』(巻二 飲食之部))
②古老の伝へて云。むかしはものごと質素にて雛遊びの調度も今のごとく美麗なるを用ひず。飯(いい)にもあれ汁にもあれ、蛤の貝に盛て備へけるとぞ。柳亭曰、今も古風を存して蛤の貝を用ふる家もたまたまありと聞(きけ)り。「百姓五節句遊(ひやくしようごぜつくあそび)」といふ草紙に、雛遊びのかたかきたる絵の賛に、「蛤は雛に対して昔椀」といふ句を載せたり。・・・・また「都老子」に曰「近年は雛配膳の調度など殊の外美をつくし金銀を鏤(ちりばめ)などすることとはなりぬ。然れども貧賤の家には、蛤の貝殻(から)に飲食を盛て供ずるもまた多し云々」とあり。・・・・「不思議物語」の序に「・・・・蛤化して雛の椀、これは実(まこと)の雛遊び云々」、この文は美を尽したる器にて備るより、蛤貝の椀を用ふるこそ実の雛遊びなれといふにやあらん。(『還魂紙料(かんごんしりよう)』十二「雛の蛤貝」)
③「然れども貧賤の家には、蛤の貝殼に飮食を盛て供するもまた多しといへり、今その殼をば用ひざれども、必蛤を備ふることは これによりてなり」(『嬉遊笑覽』)
④「近世まで雛祭には、物を供ずるに蛤殻を用ひしと聞く。今三都(江戸・大坂・京都)は蛤を供すも、昔殻を用ひし遺意ならん。」(『守貞謾稿』)
⑤「潮干 三月三日、海潮大に乾く。・・・・諸人競ひ来て蛤(はまぐり)蜊(あさり)を拾ひ小魚をとる。」(『俳諧歳時記栞草』)
⑥「汐干 当月より四月に至る。その内三月三日を節(ほどよし)とす。」(『東都歳時記』