うたことば歳時記

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雛祭りの蛤(出鱈目な流布説)改訂版

2018-02-28 12:33:06 | 年中行事・節気・暦
しばらく前に雛祭の蛤について書きましたが、訂正すべき事がいくつかありましたので、改訂しました。

 現在の雛祭には蛤を使った料理が定番です。二枚貝の蝶つがいは、同じ大きさでも他の貝とは組み合わせができないことから、現在は女の子が幸せな結婚をして添い遂げることや、夫婦和合の象徴と理解され、雛祭の蛤を解説する全ての情報にそのように記されています。江戸時代に、蛤の蝶つがいは夫婦の和合を連想させるという理解があったことは事実です。『和漢三才図会』の「蛤」の項には、対になっている殻は蝶つがいがぴたりと合うのに、他の貝殻とは合わないことを、「牝牡の交に似て能く繋(?)合す」と記され、さらに蛤の殻に絵を描いた貝合の遊びに言及して、「婚礼には必ずこれを用て和合の義を象る」と記されています。しかし貝合のセットは大変高価な物で、一般庶民が婚礼用に買えるようなものではありませんでした。また『日次紀事』の「正月」にも、「新年に蛤蜊を初めて買うのは、『和合の儀に取る』ためである」と記されています。また天保三年(1832年)の『三省録』(インターネットで閲覧可能)という書物には、「婚礼には蛤の吸い物と定めたのは将軍徳川吉宗で、蛤は同じ蛤でも他の貝とは合わないので、婚礼を祝うに相応しいものである。また上巳の節句には専ら蛤を用いて祝儀としている」と記されています。(なお、徳川吉宗の事績を述べた『明君享保録』(インターネットで閲覧可能)という書物にも、「竹姫様御再婚之事」と題して、同様のことが記されています。)

 以上のような理解があったのは事実ですが、一方ではもともと雛祭の蛤は、それとは異なる意図をもって用いられていました。柳亭種彦が著した『還魂紙料(かんごんしりよう)』(インターネットで閲覧可能)という書物には、多くの書物を引用して、本来は雛人形に食べ物を供える器として蛤の貝殻が使われたことが論証されています。同じように『守貞謾稿』にも、蛤を供えるのは、かつて蛤の殻を用いていた名残であると記されています。また『嬉遊笑覽(きゆうしようらん)』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)という書物にも、「雛祭に必ず蛤を用いるのは、かつて蛤の貝殻を雛の食器としていたことの名残である」と記されています。また江戸時代には3~4月が潮干狩のシーズンでしたが、特に3月3日を選んで行う風習がありましたから、それも雛祭と蛤が結び付く背景となっています。

 雛祭で雛の食器として蛤を用いることと、蛤の蝶つがいが夫婦の和合の象徴であることは、本来は全く別のことでした。しかし天保三年(1832年)の『三省録』という書物に、婚礼に蛤の吸い物を供することを徳川吉宗が定めたという一文があり、その中に「すでに上巳には専蛤を用いて祝儀とす」と記されていますから、江戸時代の後期には、「雛の食器」と「女児将来の幸せな結婚の象徴」という理解が、次第に習合し始めていることを確認できます。ただし雛祭の蛤が夫婦和合の象徴という理解は、江戸時代の主な歳時記や風俗誌は勿論のこと、明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』にも全く見られませんから、そのような理解が広く共有されるようになったのは、大正時代以後のものだと思います。

 史料「雛祭りの蛤(はまぐり)」
①婚礼に蛤の吸物は、享保中明君の定め置給ふよし。寔(まこと)に蛤は数百千を集めても、外の貝等に合ざるものゆえ、婚儀を祝するに是程めで度物なし。夫れ故の御定なり。・・・・すでに上巳には専蛤を用て祝儀とす。(『三省録』(巻二 飲食之部))
②古老の伝へて云。むかしはものごと質素にて雛遊びの調度も今のごとく美麗なるを用ひず。飯(いい)にもあれ汁にもあれ、蛤の貝に盛て備へけるとぞ。柳亭曰、今も古風を存して蛤の貝を用ふる家もたまたまありと聞(きけ)り。「百姓五節句遊(ひやくしようごぜつくあそび)」といふ草紙に、雛遊びのかたかきたる絵の賛に、「蛤は雛に対して昔椀」といふ句を載せたり。・・・・また「都老子」に曰「近年は雛配膳の調度など殊の外美をつくし金銀を鏤(ちりばめ)などすることとはなりぬ。然れども貧賤の家には、蛤の貝殻(から)に飲食を盛て供ずるもまた多し云々」とあり。・・・・「不思議物語」の序に「・・・・蛤化して雛の椀、これは実(まこと)の雛遊び云々」、この文は美を尽したる器にて備るより、蛤貝の椀を用ふるこそ実の雛遊びなれといふにやあらん。(『還魂紙料(かんごんしりよう)』十二「雛の蛤貝」)
③「然れども貧賤の家には、蛤の貝殼に飮食を盛て供するもまた多しといへり、今その殼をば用ひざれども、必蛤を備ふることは これによりてなり」(『嬉遊笑覽』)
④「近世まで雛祭には、物を供ずるに蛤殻を用ひしと聞く。今三都(江戸・大坂・京都)は蛤を供すも、昔殻を用ひし遺意ならん。」(『守貞謾稿』)
⑤「潮干 三月三日、海潮大に乾く。・・・・諸人競ひ来て蛤(はまぐり)蜊(あさり)を拾ひ小魚をとる。」(『俳諧歳時記栞草』)
⑥「汐干 当月より四月に至る。その内三月三日を節(ほどよし)とす。」(『東都歳時記』
 



 

草餅(母子草から蓬へ、出鱈目な流布説)

2018-02-27 10:58:20 | 年中行事・節気・暦
雛祭の行事食には草餅が欠かせません。草餅に練り込む草は、文字通り「餅草」と呼ばれる蓬(よもぎ)と一般に理解されています。蓬にはその香りの故に邪気を祓う呪力があるとされ、端午の節句でも欠かすことのできない呪物となっています。ところが本来の草餅は、蓬ではなく母子草を入れたものでした。母子草は、春の七草に数えられる御形(おぎよう)のことです。一般に「ごぎょう」とルビがふられることがありますが、歴史的には誤っています。

 『荊楚歳時記(けいそさいじき)』という6世紀の中国の年中行事を記録した書物には、3月3日の上巳の節供には、「黍麹菜(しよきくさい)」という草を用いて「龍舌䉽(りゆうぜつはん)」という物を作り、邪気を祓うと記されています。この『楚歳時記』は奈良時代の初めには日本に伝えられ、その後の宮廷の年中行事はこの書物を基準として整えられましたので、伝統的年中行事を研究する最も基本的な文献です。そこに記されている「黍麹菜」は別名を「鼠麹草(そきくそう)」といい、日本の母子草に当たります。この龍舌䉽がどのようなものかはよくわかりません。おそらくは米粉に母子草を煮たものと甘い蜜を混ぜて作った、草餅の原型と考えられています。

 念のため、『荊楚歳時記』に記された史料を上げておきましょう。「三月三日・・・・この日、黍麹菜(しよきくさい)の汁を取りて羮(あつもの)を作り、蜜を以て粉に和(まぶ)す。これを龍舌䉽(りゆうぜつはん)と謂ひ、以て時気を厭(はら)ふ」。

 その様なわけで、日本では3月3日の上巳の節供には、母子草を混ぜた草餅を食べる習慣が定着していました。藤原良房の活躍した頃の『文徳天皇実録』には、女性たちが上巳の節供に合わせて、母子草で草餅を作ることが記されています。これも史料を載せておきます。また母子草を摘む歌がありますので、それも御紹介しましょう。

『文徳天皇実録』 嘉祥三年(850年)五月「田野に草有り。俗名母子草。二月に始めて生じ茎葉白くして脆(もろ)し。三月三日に属(あ)ふ毎に婦女これを採り、蒸し擣(つ)きて以て餻と為(な)す。」

「母子摘む弥生の月になりぬればひらけぬらしな我が宿の桃」(『好忠集』)。上巳の節供に供える草餅の材料である母子草と、桃の開花が詠まれています。「母子摘む弥生の月」という表現には慣用句のような印象がありますから、そのような風習が広く行われていたのでしょう。

 ところがいつの頃からか母子草から蓬に変わってしまいました。それがいつ頃からなのか、私は文献史料ではまだ確認できていません。1676年に出版された『日次紀事(ひなみきじ)』という書物には、最近では母子草に代わって蓬を用いると記され、新井白石の『東雅』(1719年)という辞書にも、かつては母子草を用いたが、今日では蓬を用い、草餅とも蓬餅ともいうと記されていますから、江戸時代には既に蓬餅になっていました。母子草には香がなく、蓬はその香の故に邪気を退ける呪物として端午の節句には不可欠のものとなっていましたから、母子草に取って替わったのでしょう。

 ところが母子草を使わなくなったことについて、ネット上には出鱈目な説が氾濫しています。「母と子を一緒にして搗き混ぜるのは忌むべき事であるとして、蓬に替えられた」というのです。この説は年中行事の解説書にも見られ、いかにも事実であるかのように流布しています。しかしそのようなことを裏付ける文献史料は皆無なのです。どの本にも「・・・・と言われています」というだけであって、根拠を示しているものは何一つありません。いったいネット情報の筆者は、いったい何を根拠に書いているのか。おそらく江戸時代の原典史料など、何一つ見ていないに違いありません。四捨五入して70歳のこの歳になるまで、数え切れない程の歳時記等の原典史料を読みあさっていますが、そのような記述は未だかつて見たことがありません。もちろん私の見落としの可能性はあります。しかし仮に一つ二つあったとしても、広く共有されていたかどうかはまた別の問題です。

 いやそれどころか正反対の根拠さえあるのです。前掲の『日次紀事』というのは、江戸初期の京都の歳時記で、これでもかと言いたくなる程に詳細に記述されています。著者が自分で歩いて集めた材料によって書かれていて、孫引きが少なく、内容的にも極めて信頼のできるものなのですが、それには次のように記されています。

「三日 節供・・・・およそ五節供の内、今日婦女これを重んじ、草餅を製して各これを喰ふ。草には鼠麹草(そきくそう)を用ふ。倭俗母子草、蓋(けだ)しこの草に母子の名存(あ)り。故にこれを用ひて餻(もち)を作る。母子倶(とも)に全きを期す。今専ら艾(よもぎ)を用ひて母子草に代ふ」。

 母と子が「全き」ことを祈念して母子草を用いるというのです。流布説と正反対ではありませんか。母子が健康であるようにと理解されていたものが、なぜ母と子を一緒に茹でてしまうのは不吉だとなってしまうのでしょう。そのような文献的根拠があるならまだしも、「・・・・と伝えられています」では根拠になりません。そのように古老が伝えていたと言う程度のことはあるかもしれませんが、言い伝えというものは、いくらでも作り出せるのです。今私が異説をとなえ、何世代か経てば、「・・・・と伝えられています」ということになってしまいます。信用のおける史料と伝聞とどちらに信憑性があるかと言えば、それは文献史料に決まっています。

 また19世紀初期の膨大な辞書である『本草綱目啓蒙』という書物には、「鼠麹草(母子草のこと)・・・・後その色の濃からんことを欲して艾葉(よもぎ)を以て代」と記されていて、蓬の方が緑の色が濃くなるので母子草から蓬に代わったと記されています。母子草の不吉なことなど、全く触れられていません。著者の小野蘭山という人は、博学多才の本草学者で、およそ身の回りの動植物で知らぬことは無く、古今の文献を跋渉し尽くしている碩学です。その大学者がそのように記しているのです。読者の皆さん。根拠のない伝聞の流布説と、江戸時代の詳細な歳時記や百科事典の記事のどちらを信用しますか。言わずもがなのことでしょう。

 江戸時代の末期の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という書物には、草餅について次のようなことが記されています。「昔はどのような形に作っていたかはわからないが、現在では江戸・京・大坂の三都とも菱形に作る。・・・・江戸では草餅、京坂では蓬餅という。女の子が生まれて最初の上巳の節句には、親族や知人が雛人形やその他の祝いの品を贈る。そのお返しとして、菱餅を贈るのが通例である。・・・・菱餅には大小あるが、横の長さが1尺程あるのが普通である。草餅は本来は母子草を搗き混ぜるものであるが、現在では艾を用いている。・・・・菱餅は三枚重ねで、上下が青、中間が白である」。菱餅の横幅が1尺(約30㎝)もあったのには驚きます。また上巳の節句が女の子の祭であることがはっきりと記されています。桃の節句らしく菱餅に桃色が加わったのは、明治以後のことなのでしょう。

最近は伝統的年中行事について、いずれ著書として出版しようと原稿を書きためています。そして参考までにネット情報や既存の解説しよなどを読むのですが、どれ一つとして史料的根拠を示したものはなく、全てと言ってよいほど「・・・・と言われています」と表現するのです。私も歴史の研究者の端くれとして、史料的根拠のないことを書くわけにはいきません。特にネット情報には出鱈目が多く、腹が立ってくることもあります。母子を共に茹でて搗き込むのは縁起が悪いなどという説は、その様なものの一つです。ネット情報は十分に注意してかからないといけません。

 もし御自分で草餅を作ることがあるなら、一度母子草も混ぜてみて下さい。香がないので物足りないかもしれませんが、歴史を味わうことはできるでしょう。

灌仏会・花祭

2018-02-02 09:59:18 | 年中行事・節気・暦
 日本人は信仰心があるのかないのか、わかるようでわかりません。歴史的には仏教ということになっているのでしょうが、釈迦はの誕生を記念する日は、ほとんどの日本人はしりません。イエス・キリストの降誕を記念するクリスマスは、12月25日ということになっていて、それを知らない日本人はまずいないのでしょうから、何ともおかしな話です。

もっともクリスマスについて正しく理解されているわけではありません。イエス・キリストの誕生日がいつであるかは、聖書には何も書かれていません。一般に12月25日がクリスマスとされていますが、それは誕生日ではなく、誕生を記念するミサの行われる日です。またユダヤ暦や初期キリスト教の暦では、一日の始まりは日没でしたから、クリスマスは12月24日の日没から25日の日没までのことです。一般にクリスマス・イヴが前夜祭のように理解されていますが、イヴはイヴニングと語源を同じくする言葉ですから、クリスマス・イヴは、「クリスマスの夕べ」という意味なのです。

 話をもとに戻しましょう。実際、釈迦の誕生日については、史実としてはよくわかりません。しかし日本に伝えられた仏教では、4月8日ということになっていて、この日、「灌仏会(かんぶつえ)」「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶつしようえ)」「浴仏会(よくぶつえ)」と呼ばれる法会が行われてきました。「灌」や「浴」は水を注ぐことを意味していますが、これは釈迦が生まれた時、梵天と帝釈天が、或いは龍がそれを祝福して、香水を釈迦に注いだという伝説に基づいています。日本では推古天皇の十四年(606年)に行われたのが最初です。

 灌仏会は日本に伝えられて以来、途切れることなく行われてきたので、多くの文献史料に記されているのですが、わかりやすい江戸後期の江戸の歳時記である『東都歳時記』によって、江戸時代の灌仏会の様子を見てみましょう。この日諸寺では本堂の中や境内に花で飾られた小さな花御堂を設け、「甘茶」と呼ばれる香水を満たした灌仏桶に釈迦の小さな立像を置きます。そして参詣者は小さな柄杓で香水を仏像の頭から注ぎます。また各家庭でも新茶と卯の花を仏に供えたということです。また同じく江戸後期の風俗誌である『守貞漫稿』によれば、江戸では仏に供えるための卯の花が売られていたこと、大坂では長い竿の先に躑躅(つつじ)の花を結び付け、屋上に高く掲げる風習があったということです。

 灌仏会は「花祭」とも呼ばれますが、その呼称の起原について、一般には明治初期に浄土宗で使われるようになったと理解されています。おそらくそのこと自体は事実なのでしょう。しかし桜などの花の美しい時期だからと説明されていますが、それは明らかに誤りです。仏に卯の花や新茶を供えるというのですから、本来は旧暦卯月の初夏の行事でした。明治の初期には、民間行事は何ごともまだまだ旧暦で行われていた時期です。新暦に直せば確かに桜の見頃ではありますが、それ以前にもともと花を供えて供養する法会でした。ネット情報には、花祭という呼称が行われるようになった理由として、例外なしに「桜などの花が咲く頃なので」と説明しています。それらの情報の発信者は、自分で文献史料を確かめもせずに、先行する情報を鵜呑みにして、コピペをするのでこういういい加減なことになってしまいます。そしてそれを読む一般の読者も信じてしまいます。ネット情報は玉石混淆ですから、十分に気を付けなければなりません。そもそも花祭と呼ばれるようになったのは、もともと花を供えて供養する法会だったからです。そのことは鎌倉時代の『年中行事秘抄』にはっきりと記されています。また花御堂に誕生仏を安置していたのですから、「花祭」という呼称がない時から、内容は既に花祭だったのです。

史料「花を供えて供養した灌仏会」(『年中行事秘抄』)
 「今人、四月八日に至る毎に、花を買ひて供養す。ならびに仏を浴する者は、四月八日諸寺各供養会を設け、・・・・香花を以て礼拝し、銭を出だして以て仏を灌す。」

 仏像に注ぐ甘茶とは、ユキノシタ科のアジサイの一種であるアマチャという木の若葉を乾燥させ、それを煎じた飲料のことで、その名の如くに甘味があります。江戸時代の文献には「甘茶」と記されていますが、室町時代の各種文献には「五色水」と記されていますから、次第に変化したのでしょう。



コラム「灌仏会の釈迦像」
 灌仏会の釈迦像は、釈迦が生まれた直後、すぐに立ち上がって七歩歩き、右手で天を、左手で地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説上の姿を表しています。母は釈迦を生んで七日後に死んでしまうのですが、このことは物心ついた釈迦にとって苦しみの一つとなり、29歳で出家をする背景となったことでしょう。

コラム「ぺんぺん草の虫除け」
『守貞漫稿』によれば、灌仏会の日、「千早振る卯月八日は吉日よ神さけ虫を成敗ぞする」という戯れ歌を書いて便所に貼っておくと、毒虫除けになるとして、諸国に広く行われていた。そしてぺんぺん草(なずな)を数本束ねて糸で結び、行灯にぶら下げて、虫除けのお呪いとした、ということです。「神さけ(さげ)虫」とは百足であるとか蛆であるとか色々説があり、はっきりしたことはわかりません。それにしてもぺんぺん草という名前が江戸時代以来のものであるとは、大変に興味深いことです。