うたことば歳時記

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再び「中秋の名月」と「仲秋の名月」について

2019-09-14 13:02:47 | 年中行事・節気・暦
昨日13日は旧暦8月15日で、いわゆる十五夜でした。残念なことに曇っていて見えませんでしたが、14日未明に少し見ることが出来ました。

 中秋とは、旧暦の秋7・8・9月の約90日(実際には89日くらいですが)のちょうど真中の日、つまり8月15日の日を指しています。秋の真中という意味ですね。一方、仲秋とは旧暦8月全体を指しています。7月は孟秋、8月は仲秋、9月は季秋というのですが、孟とは「はじめ」、仲は「なか」、季は「すえ」とも読み、3カ月ある一つの季節を月ごとに三等分する呼称というわけです。ですから仲秋は旧暦8月全体を指しているわけです。

 すると「中秋の名月」は旧暦8月15日の名月ということになりますが、「名月」を満月と理解すると、少々問題が出て来ます。旧暦では毎月15日に満月になるとして、15日の月夜を十五夜と称したのですが、天文学的な計算によれば、その日に満月になるとは限りません。天文学的には、月が一巡するのは29.53日であり、月の地球を回る軌道が楕円で、地球に近い時には早く、遠い時には遅く動くため、必ずしも十五日目が満月になるとは限らないのです。また天文学的には満月というのは月が地球を挟んで太陽と正反対の位置に来た瞬間のことですから、満月は一日単位で認定されるのではなく、瞬間として認定されます。ですから満月の瞬間は夜とも限りませんし、夜であっても日付が替わるのは午前0時なのですから、カレンダー上では満月が前後することもあるのです。実際には14日のこともあれば、17日の月が満月に最も近いこともあります。まあ天文学的には細かい計算があるのですが、それは専門家に任せておきましょう。

 それなら「仲秋の名月」とはどのような意味なのでしょうか。仲秋は8月全体を指しますから、「仲秋の名月」は8月の満月と理解することができます。そしてその日は14日から16日の間のどれかの日になります。

 ですから「十五夜」という言葉にこだわるならば、中秋の名月ということになります。中秋とは8月15日その日をさしているからです。しかしその日が満月とは限りませんから、満月であることにこだわるならば、15日ではないこともありますから、仲秋の名月という言葉が正確ということになります。ただし15日が満月の場合は、中秋の名月と仲秋の名月は一致するわけです。

 今年(令和元年)の旧暦8月の満月は、新暦9月14日の午後1時33分ということですから、今年の中秋、つまり9月13日はいわゆる十五夜に当たりますが、満月ではありませんでした。そして今日14日が満月の瞬間を含んでいますから、今日が仲秋の名月ということになります。やかましく言えば、今年は中秋の名月ではなく、仲秋の名月なのです。

 ネット上には中秋の名月と仲秋の名月のどちらが正しいかとか、その相違点について、さまざまな記事がありますが、いい加減なものが多いものです。どちらが正しいかという議論はあまり意味がありません。なぜなら古くから両方の表記が平行して行われていましたし、古くは正確な観測をしていたわけではありませんから、厳密に使い分けられていたわけではありません。どちらも間違いではないのです。

 ただネット上では中秋の名月が正しく、仲秋の名月は誤りであるという記事が多いので、ついむきになって中秋と仲秋の厳密な区別を書いてみました。「仲秋の名月」がついついかわいそうになって、弁護してやりたくなったのです。昔の人は厳密に区別していたわけでもないので、どっちでもよいではありませんか。

 ただ言葉の意味としては、中秋とは8月15日のこと、仲秋とは8月全体のことという違いは、理解しておいた方がよいと思います。今夜は仲秋の名月を楽しみたいと思っています。



風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

2019-09-05 14:25:10 | 短歌
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

 もうすぐ秋の彼岸というのに、季節外れの歌ですみません。百人一首に収められているので、よく知られた歌です。詞書きによれば、藤原道家の娘が後堀河天皇の中宮として入内する際の屏風に貼られていた色紙に書かれた歌ということです。

 この歌は6月晦日の夏越の祓えを詠んだものです。奈良時代以前から6月と12月の晦日には、禊をして半年間の罪穢れを祓い清める大祓の神事が行われていました。6月末の祓えは夏の最後の日のことですから、「夏越の祓え」と呼ばれました。

 「ならの小川」というのは上賀茂神社の境内を真っ直ぐに南北に流れる御手洗川のことで、私が若い頃は水量もわずかしかありませんでした。しかし江戸時代の絵図には川幅も広く膝まで濡れるほどに、とうとうと清流が流れていたようです。最近は水を汲み上げているのでしょうか。水流が復活しているようです。また「なら」は川の名前であるだけでなく、両岸に繁る楢の木をも懸けています。

 川が流れる森は「糺の森」と呼ばれ、神域となっています。そこには楢の木が繁っていたのでしょう。楢はの葉は幅が広く、涼しい木蔭となっていたようです。楢は柏と共に冬になっても落葉しないことから、葉守の神が宿る神聖な木という理解があり、そのことを詠んだ歌が伝えられています。現代人にとっては楢の葉はただ単に楢の葉というだけのことですが、往事の人にとっては、楢は神聖な木であり、禊の川に相応しい樹木だったのです。現代の注釈書はあまりそこまでは踏み込んでいないのですが、そこまで理解するからこそ禊の神聖さがさらに増幅されるのだと思います。

 暑さの厳しい夏でも、夕暮は涼しいものです。それで夕暮が選ばれているのでしょうが、夕暮は秋の到来を実感させる時間帯でもあります。それは日本人に共通している感覚なのでしょうか。『枕草子』にも「秋は夕暮」と記されています。そして翌日は秋7月となるのですから、なおさら秋の到来を予感したことでしょう。当時は風に秋の到来を感じるものと共通理解されていましたから、肌に感じるところはすでに秋だったのでしょう。しかし夏の最後の日の夏越の禊をするのですから、理屈上はまだ夏なのです。それで肌で秋を予感しても、夏越の祓えをしているのが見えるので、まだ夏であるというわけです。

 現代人は季節は徐々に移ろうものと思っていますが、古人はある日を境にして、はっきり定規で線を引くように、季節は交代するものと思っていました。7月になれば、たとえ猛暑であっても秋は秋。季節の感じ方は現代人とは異なっていたのです。

 室町時代の有職故実書である『公事根源』や室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、この日に茅の輪潜りをしたことが記されています。その際には麻の葉を持ちながら、「水無月の 夏越のはらへ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(『拾遺和歌集』292)という歌と、「思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな」(『後拾遺和歌集』1204)という和泉式部の歌を唱えながら、八の字のように茅の輪を潜るものとされていました。これは夏越の祓えの変化したものでしょう。

 私自身の経験としては、國學院大學の学生の頃、神社の神主の人手が足りないときに手伝いに行き、人の形に紙を切り抜いた形代(かたしろ)と呼ばれるものを持って、氏子を一軒一軒訪ね、半年の罪穢れを書き込んでもらい、100円といっしょに受け取って神社に持ち帰りました。そしてお祓いをしたあと、その形代を川に流す神事をしたことがあります。そのころは言われるままに深い考えもありませんでしたが、今思い起こせば貴重な体験だったと思います。このような神事が、まだ行われている神社もきっとあることでしょう。同じ6月晦日の祓えですが、この方が茅の輪潜りより、この歌の禊に近い形を遺しています。


夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く

2019-09-01 09:47:49 | 短歌
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く

 百人一首に収められている有名な秋の夕暮の歌ですね。意味は、「夕方になると、秋風が家の前の田の稲の葉にそよそよと吹いて来て、芦で葺いた小屋にも吹いて来ることだ」というもので、大変にわかりやすく、私がわざわざ解説するほどのこともなさそうです。なんて書いてしまうと、もうそこで終わってしまうので、思い付くままに書き散らしてみましょう。

 この歌には「師賢(もろかた)朝臣の梅津に人々まかりて、田家ノ秋風といへることをよめる」という詞書きが添えられています。梅津というのは京都の桂川の東岸一帯で、「梅津」は京都に住んでいない私にとっては、かつて「梅小路蒸気機関車館」があった辺りとして印象に残っています。因みに現在は京都鉄道博物館になっているそうです。梅津から嵐山・小倉山辺りは、貴族の別荘があった所で、一日掛かりで遊びに行くにはちょうどよい距離だったのでしょう。「芦の丸屋」などと謙遜していますが、貴族の別荘ですから、それなりの建物ではあったことでしょう。

 「夕されば」という言葉は「夕方が来ると」と高校時代に習い、「来るというのになぜ去るというのか」と、よくわからなかった記憶があります。「去る者は追わず、来る者は拒まず」はどういうことになるのだと、先生につっかかった思い出もあります。

 辞書によれば、「さる」とは本来は移動することや進行することを表すと記されています。それでこの場合の「夕されば」は「夕方になったので」という意味なのですが、「来る」という意味で使われるのは、時間や季節に限られているようです。それ以外に「さる」が「来る」の意味で使われている例を、私は見たことがありません。そういうわけで、「夕されば」という言葉は、事実上は慣用句となっていると理解した方がよさそうです。「夕されば」という句から始まる有名な歌をいくつか上げておきましょう。
①夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里       藤原俊成が秀
②夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも   舒明天皇
③夕されば野にも山にも立つけぶりなげきよりこそ燃えまさりけれ   菅原道真

 「門田」とは門の前に広がる田のことで、日本史の授業では、農村経営をする武士の館の前にある田で、在地の有力者である武士に隷属していた農民が耕した直営田であると習いました。それで中世の言葉とばかり思っていましたが、『万葉集』にも例があるので、古い言葉のようです。門田の他に、「前田」も同じような意味ですね。どちらもよく見かける苗字ですが、もともと在地領主の名田があったところが門田・前田と呼ばれ、それが名字として地名になり、そこに居住した人がその名字を自分の苗字として名乗ったことから、現在も苗字・姓として伝えられているわけです。

 「おとづる」は「訪る」という意味ですが、本来は「音づる」と書くべきもので、「音をさせてやって来る」いう意味です。秋風は稲葉や荻の葉をそよがせて、葉擦れの音をさせながら吹いてくるという理解が共有されていて、古歌では秋風を「おとづる」と詠む暗黙の約束事がありました。解説書の中には「「おとづれて」は「訪れる」と誤解される」という記述がありましたが、誤解ではありません。おとをさせながら訪れると言う理解が正解です。現代人は擬人的な理解をしませんが、古歌の世界では秋風を擬人的に理解することがしばしばあります。

 水田が近いので、周辺には芦や荻が繁っていたことでしょう。荻・薄(すすき)・芦・稲などのイネ科の植物は、硅酸物質を含んでいるため、微かな風でもサワサワと葉擦れの音をさせます。ですから秋の到来を葉擦れの音として聞き取ることが出来るのです。秋を秋風の音で知ることを詠んだ歌がよく知られていますが、風自体の音ではなく、実際には葉擦れの音なのです。

 「芦葺きの粗末な小屋」と説明されることが多いのですが、芦や薄は萱葺き屋根の材料ですから、当時としては萱葺きの家が粗末な家とは限りません。板葺きがまだ珍しかった頃は、萱葺きは普通のことでした。芦葺きというので粗末な印象を受けるのでしょうが、萱葺きの萱とは芦や薄や荻など、屋根を葺く材料の総称です。萱という固有の植物があるわけではありません。

 秋の夕暮れの風景を詠んだ歌には、なかなか優れた歌が多いものです。「・・・・・夕暮れ」というように、結句が「秋の夕暮」となっている歌がいくつも知られています。『枕草子』に「春はあけぼの・・・・秋は夕ぐれ」という冒頭部があまりにも有名なので、その影響もあるでしょうが、四神思想では、春は東、夏は南、秋は西、冬は北に配されていまいから、当時の人にとっては、秋と言えば自然に西を思い起こすものでした。これは当時の人にとってはもう理屈ではなく、しみじみと秋を実感するのは、一日の中でも夕暮れの時間帯だったのです。

 もちろん現代ならば、朝日に秋を感じ取ることもあるでしょうし、その方が個性的であると高く評価されるでしょう。しかし古歌の世界では個性的な感覚は高く評価されません。共有される美意識の中で、如何に詠むかが問われるものでした。現代では共有される美意識ではなく、個性的な美意識が問われますから、如何に詠むかより、何を詠むかということの方がはるかに重要なのでしょう。現代短歌の歌人に「田家ノ秋風」という題詠をしてもらうと、どのように詠むのでしょうか。全く歌の雰囲気は異なるでしょう。もしこの歌が現代の題詠に応募されたとしたら、審査員は一顧だにしないことでしょう。そう考えると、和歌と現代短歌は、形式だけは同じでも、全く異なる文芸であると思います。

 思い付くままに構想もなく書き散らしているので、話が脱線してしまって済みません。