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出鱈目な棚機津女伝説

2018-04-25 13:39:17 | 年中行事・節気
 まだ先のことですが、七夕が近付くと、憂鬱になってきます。その原因はいわゆる棚機津女伝説というものです。ネットや歳時記の本を見ると、まるで判で押したように、中国伝来の織姫・牽牛の物語と日本古来の棚機津女伝説が習合して、七夕の風習となった、と説かれているのです。

 その棚機津女伝説とは、「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというないようで、いかにも見てきたような説明が一般に流布しています。

 しかし奈良時代以前の伝説が、それ程まで具体的な内容を伴って、いったいどのような形で現在に伝えられているというのでしょうか。もしあるというならば、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』、及び古い伝承を含むと考えられる平安時代の諸文献にふくまれていなければなりません。しかしそれらの中には一切ありません。古老の話にあるとか、口伝があるというなら、それが奈良時代以前にまで遡るものであると、どのように証明するのでしょうか。そのような説をまことしやかに説いている人たちは、いったいそのような説の根拠を何所に求めているのでしょうか。問い詰められれば、おそらく何も示せないはずです。なぜなら自分で確認もしないで、先行するその様な説を受け売りしているだけなのですから。

 そのような説は、もとは言えば折口信夫という民俗学者が、『水の女』などの著書によって提唱したものです。その『水の女』はネットで閲覧可能ですから、「十二 たなばたつめ」の章を一度御覧になって下さい。読めばすぐにわかりますが、折口はその主張の根拠となるものを具体的には何一つ提示していません。そして彼の弟子たちは、師折口の説をそのまま受け継ぎ、多くの著書に紹介していきました。私は國學院大學の史学科に学びましたから、折口の弟子と称する人たちの授業をたくさん聞きましたが、彼らの折口に対する態度は、まるで宗教的尊師を崇めているようで、一切の批判は許されない雰囲気でした。史学科の先生達にいろいろ質問しましたが、あれは所詮民俗学だから、証拠がなくても、伝承ということでいくらでも好きなことが言えるのだ。良く言えば仮説であり、詩的想像の産物でしかない。とうてい厳密な学問的批判に耐えられるものではないとのことでした。今から50年も前の話です。その後、民俗学者の説く「棚機津女(たなばたつめ)伝説」には様々に尾鰭が付き、今ではあらゆる歳時記や年中行事の解説書に氾濫しているのです。

 いわゆる棚機津女伝説の中には、『古事記』や『日本書紀』に記されているという説明も散見します。しかしどこを探してもそのような記述はありませんし、さすがに折口自身は、記紀にそのような記述があるとまでは説いていません。女性が布を織るということについて思い当たることといえば、天の岩戸の神話の少し前に、織女が神聖な機屋にこもって神の衣のための布を織っていたという場面があります。また斎部広成が大同二年(807年)に著した『古語拾遺』という書物に、天岩戸に隠れてしまった天照大神を引き出すため、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が八十万神(やそよろずのかみ)を集めて、多くの祭具を作らせました。その中の一つとして、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)が神衣(かむそ)を織ったという記述があるだけです。

 また『万葉集』には約130首の七夕の歌があり、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていました。ただしそれらの歌は、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどです。それでも「棚機津女」なるものが存在したことを示唆する歌はいくつか探し出せます。例えば、「棚機(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織る布の秋去り衣孰(たれ)(誰)か取り見む」(2033)という歌があります。この歌は前後を七夕の歌に挟まれていますから、明らかに七夕の歌であり、七夕に誰かに贈るために、多くの機で布を織る女性の心を詠んだものです。

 中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には祭祀に関わる布を織る「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実でしょう。また『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌もありますから、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。日本の「タナバタツメ」という布を織る女性と、中国伝来の織女という布を織る女性が重なったからこそ、「タナバタツメ」「タナバタ」という大和言葉に「織女」「七夕」という漢語の表記が当てはめられたのです。ここには明らかに中国七夕伝説と日本の機織の習合を確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、全く手掛かりがないのです。いったい何を根拠に、前掲の「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというような、具体的な伝承があったことになってしまうのでしょう。

 伝承と言うからには、伝承があったことを裏付ける史料がなければなりません。もちろん江戸時代の歳時記類にも全く見当たりません。明治44年(1911年)の『東京年中行事』にも、「日本古来の棚機津女伝説と習合した」などということには、全く触れられていません。明治時代までは棚機津女伝説は存在しなかったのに、その後、20世紀になって突然に出現したのです。これは一体どういうわけでしょう。民俗学者によって提唱された棚機津女伝説に次第に尾鰭が付き、さも歴史的事実であるかのように独り歩きするようになったとしか考えられません。

 民俗学者が自説を展開するのは学問の自由として全く問題ありません。しかしネット上や一般に普及している歳時記の書物には、まことしやかに「棚機津女(たなばたつめ)伝説」の解説を書いている人自身は、その「伝説」の根拠も確かめたことはなく、ただ先行する類書を適当に摘まみ食いしているだけのようです。もし史料的根拠があるならば、「・・・・によれば」と大手を振って書くのでしょうが、何もないので、「・・・・と伝えられています」としか書けないのです。現在では「棚機津女伝説」というフィルターの影響を受けていない年中行事解説書を見出すことは困難な程、日本中に共有されてしまいました。そういう意味で、折口信夫の責任は重大なものがあります。

 概して歳時記や年中行事について記述されたものは、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」という書き方に終始し、自分の主張の根拠を明示したものがありません。特にネット情報は書き手の顔が見えないこともあって、無責任な文章が多いものです。根拠を示さない、否、示せないそのような解説には、十分気を付けなければなりません。

史料「日本神話の織女(たなばた)」
『日本書紀』神代下の天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀の場面で、「天(あめ)なるや弟織女(おとたなばた)の頸(うな)がせる玉の御統(みすまる)の穴玉は・・・・」という歌が記されていて、「弟織女」を「オトタナバタ」と読ませています。また9世紀初頭に成立した『古語拾遺(こごしゆうい)』という書物には、天照大御神が天岩屋に隠れた時に、大神に献上するため、「天棚機姫神(あめのたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむそ)を織らしむ。」という記述があります。

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