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昔の花見はどんな様子だったの?(子供のための年中行事解説)

2022-03-19 08:33:38 | 年中行事・節気・暦
昔の花見はどんな様子だったの?
 『万葉集』には約40首の桜を詠み込んだ歌があります。作者は桜のつもりでただ単に「花」と詠んでいるものも含めると、もっと多くなるはずです。桜を霞に見立てたり、花の一枝を髪に挿して喜んだり、恋しい女性に見立てたり、散ることを惜しんだり、私たちが桜に対して懐いていることと同じ気持ちで花を楽しんでいます。しかしその様な歌があるので、奈良時代以前にいわゆる「お花見」が始まっていたと見ることはできません。花見とは、ただ桜の花を眺めるのではなく、桜の花の下で多くの人が飲食を楽しむふうしゅうのことですから、複数の人であること、飲食をすることという二つの条件がそろわなければ、それは花見とは言えないからです。ただ美しい花をしみじみと見ることなら、今も昔も変わらないはずですから、それは花見の起原とはまた別の問題です。『万葉集』にはその様な花見の歌はありませんから、奈良時代に絶対に花見がなかったとまでは断言できませんが、積極的に花見があったと推測することはできません。ただし唐文化を採り入れる窓口となっていた大宰府の役人達が、集団で梅の花を楽しんでいたことが推測できる歌はあります。
 宮廷行事としての花見の宴は、文献上は嵯峨天皇の弘仁三年(812年)に行われています。天皇が神泉苑(しんせんえん)という御苑(ぎよえん)に行幸されたことを、「花宴の節、これに始まるか」と、宮廷の花の宴の最初であるとしています。平安時代の宮廷の花の宴の様子は、『源氏物語』をはじめとして多くの文献に記録がありますが、それらを総合してみると、およそ次のようなものです。天皇は建物の南に面する庇(ひさし)の下に坐り、親王や公卿たちは建物の周囲にめぐらされた簀子(すのこ)に坐り、文人たちは桜の花の下に設けられた席に坐ります。そこで天皇から詠むべき題が与えられ、詩歌が献上されます。それに対して天皇から褒美(ほうび)が与えられ、管弦の楽が奏され、また舞が披露されたりもします。
 また平安時代の貴族たちはまずは遠山桜を霞や雲や雪に見立てて楽しみ、花見のために郊外に出かけ、花の下に宴を設けて楽しみました。桜は本来は野生でしたから、梅のように庭に植えて楽しむ花ではなく、郊外まで出かけて見る花でした。「軒端の梅」はあっても、「軒端の桜」という表現はなかったのです。桜を詠んだ古歌の中で最も多いのは、散ることを惜しむ歌ですが、惜しみつつも散ることの美しさを喜んでいる様子がうかがえます。そして散る花に人の世の無常を感じ取りました。自然の移ろいに人の心を重ねて理解するのは、古歌にはしばしば見られることです。
 平安時代に庶民が花見をしていたかどうかについては、庶民の日常生活を記録した文献史料が極めて少ないので、あったともなかったとも、詳しいことはわかりません。
 中世になると、花見は武士階級にも広まりました。鎌倉幕府の日誌風歴史書である『吾妻鑑(あずまかがみ)』には、しばしば花見の宴が催されたことが記録されています。室町時代には幕府は京の都に置かれていましたから、さらに直接に公家文化の影響を受けました。鎌倉時代末期の『徒然草』の137段には、風情のわかる「よき人」と、それがわからない「片田舎の人」の花見の様子の違いが説かれています。「風情を理解する人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、のどかに愛でている。しかし田舎者は騒いだり酒を飲んだり、挙句の果てには枝を心無く折ってしまい、遠くから眺めて楽しむということをしない」とかなり手厳しいのですが、地方にも花見の風習が広まっていることを示す文献史料として意味があります。
 室町時代になると、花見の宴で連歌を楽しんだり、各地のお茶の産地を伏せて飲み比べ、産地を当てる「闘茶」という賭け事が行われるようになりました。以前の花見より集団で楽しむという要素が強くなっているのです。
 桃山時代には太閤秀吉が催した吉野山の花見や醍醐の花見が知られています。万事派手好きの秀吉の性格もあり、政治的な意味のある花見が大規模に行われましたから、諸大名もそれぞれの領地でそれを模範に花見を催したことでしょう。権力者の趣味はそのまま裾野の方へ伝染して行くもので、それは江戸時代にも受け継がれました。
 江戸時代には、大名はその屋敷の庭園に桜を植えて楽しみましたが、その影響で庶民も普通に花見を楽しむようになります。江戸の上野にある寛永寺は、徳川家の霊廟(れいびよう)として一般人の立ち入りはできませんでした。しかし第3代将軍徳川家光の頃には、花の時期には一般庶民の立ち入りも認められるようになりました。江戸の市民は寛永寺の東照宮の脇に毛氈(もうせん)や花筵(はなむしろ)を敷き、弁当や茶を飲み食いして花見を楽しんでいました。しかし場所が場所だけに酒や歌舞音曲は禁止され、日没後の暮六つの鐘までに退出しなければなりませんでした。東京の花見の名所といえば、今でも上野が有名ですが、も元はといえば上野の寛永寺に始まっていて、江戸時代以来というわけです。
 第8代将軍徳川吉宗は、江戸の飛鳥山・隅田川堤の向島・品川の御殿山・玉川上水沿いの小金井堤など、江戸の各地に桜を植えさせました。特に王子の飛鳥山には多くの桜・楓・松を移植させ、飛鳥山全体に芝を貼らせました。飛鳥山は神田から約8㎞の距離にあり、周辺には今では想像もできない渓谷や滝が多く、酒や音曲の制限もなく、江戸の市民が日帰りで花見を楽しむには格好の場所でした。江戸市民の娯楽のために各所に桜を植えることも、享保の改革の都市政策だったのです。日本人がこぞって花見を楽しむ風習が根付いたのには徳川吉宗によるところが大きく、庶民の花見が盛んになったのは江戸中期以降のことです。
 ただここで確認しておきたいのは、現在全国的に最も多く咲いているソメイヨシノは、江戸時代にはまだなかったことです。ソメイヨシノが品種改良によって作り出されたのは江戸末期から明治初期ですから、江戸時代の桜は、大雑把(おおざつぱ)に言えばみないわゆる山桜なのです。山桜は花が咲くのと葉が伸び始めるのがほぼ同時期ですから、ソメイヨシノとは少々風情が異なります。ですから古の花の風情を楽しみたい場合には、山桜でなければなりません。しかしソメイヨシノの絢爛(けんらん)さも捨てがたく、それぞれに楽しめばよいことでしょう。 
 現在の花見の行事食は、特定のものがあるわけではありません。しかし江戸時代には桜餅が欠かせませんでした。現在の桜餅には関東風の長命寺餅と関西風の道明寺餅があり、どちらも江戸時代に起原があります。長命寺餅は、小麦粉や上新粉をといた生地を薄く伸ばして軽く焼き、丸めた小豆餡を包み、塩漬けにした桜の葉でくるんだものです。隅田川に近い向島の長命寺の側の「山本や」で最初に売り出されたため、この名があり、山本やは今も桜餅の老舗(しにせ)としてよく知られています。その隅田川の土手には、将軍徳川吉宗が桜の木を植えさせて以来、桜の名所として賑わっていましたから、隅田川堤花見の名物としてよく知られていました。ただし関東の人は、かえって「長命寺餅」と言われてもわからないかもしれません。桜餅と言えば、以前は関東にはこのタイプのものしかなかったからです。
 一方、関西風の桜餅は、道明寺粉で作った餅で小豆餡を包み、塩漬けの桜の葉でくるんだものです。道明寺粉とは、糯米(もちごめ)を蒸して乾燥させてから臼で粒子状にしたもので、古くは携帯用食料として「乾飯(ほしいい)」(糒)として重宝されていました。鍋釜がなくても、湯水に浸しておけばすぐに食べられたからです。大坂の道明寺(現 藤井寺市)が発祥地であるため、この名があります。道明寺餅は表面が糯米(もちごめ)の粒で覆われていますから、長命寺餅との区別は一目瞭然です。最近は関東でも道明寺餅をよく見かけるので、同じ桜餅でも発祥の地の違いが意識されることがなくなりつつあります。もちろん好き好きでよいのですが、同じ食べるのなら、その違いを楽しんでみましょう。



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