うたことば歳時記

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ウクライナの悲しみを詠める歌3首

2022-05-08 18:37:18 | その他
ウクライナの悲しみを詠める歌三首

 ロシアが理不尽にもウクライナに侵略を始めて、既に2カ月を過ぎました。東部に近い都市は、ミサイルや砲撃により破壊し尽くされ、見る影もなく廃墟と化しています。ウクライナ人の悲しみを思う時、遠く離れて何も出来ないもどかしさに、いても立っても居られません。せいぜい私に出来ることは、義捐金をウクライナ大使館に送る程度のこと。ロシアに対する激しい怒りと、ウクライナに対するやり場のない悲しみに急かされるように、歌を詠みました。

①かはらぬは 青き空のみ 上げひばり 身を隠すべき 麦畑(むぎはた)もなし

 ウクライナは世界有数の小麦の産地です。ウクライナ国旗の色には、歴史的には色々な意味が込められているのでしょうが、上半分は青空、下半分は小麦畑を表しているという理解もあるそうです。私は高校の日本史の教師ですので、応仁の乱で京の都が荒廃したことを悲しんで、室町幕府の評定衆の一人である飯尾彦六左衛門尉が詠んだ歌を思い起こしました。それは次のような歌です。「汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀(ゆうひばり) 上がるを見ても 落つる涙は」(『応仁記』)。ヒバリは囀りながら上空に上ってゆきますが、突然に鳴き止むと、まるで墜落するかのように急降下します。古の歌人達はその習性をよく知っていて、ひばりを詠む歌は、「上がる」と「落つ」を効果的に詠むということが常套とされていました。上記の歌にも、雲雀は上がるが、涙は落ちるというように、常套的に詠まれています。
 我が家の周辺にも麦畑があり、雲雀が鳴いています。まだ麦秋にはなっていませんが、そのうちウクライナ国旗のような配色になることでしょう。暴虐によって巣を破壊されたウクライナの雲雀は、いったいどこに身を隠せばよいのでしょうか。


②外つ国(とつくに)に 妻子を遣りて 益荒男(ますらお)は 国まもるべく 勇み留まる

 戦が家族を引き裂くと言えば、『万葉集』に多く残された防人の歌を思い起こします。中心的編者の一人であった大伴家持の本職は、兵部省の高級官僚でしたから、職業柄、兵士の別れの歌を収集できる立場にいました。名もない当時の田舎の農民が遺した歌は、歌の善し悪しを超越して、今も読む者の心を揺り動かします。結果として防人は戦いには遭いませんでしたが、事故や病気で故郷に帰れなかった男達は少なくなかったでしょう。防人ではありませんが、663年の白村江の戦いに出征した農民兵士達の多くは、異国での戦いに斃れたはずです。
 ウクライナの益荒男たちは、親・妻・子を安全な外国に避難させ、自分は祖国を守るべく、踏みとどまって戦っています。降伏を促す呆れたコメンテイターがいましたが、降伏すれば命が助かる保証などありません。事実シベリア送りになったり、降伏しても殺されているではありませんか。ウクライナの人が命を掛けて戦っているのは、自分のためばかりではなく、未来のウクライナ人のためでもあるのです。もし日本が暴虐により侵略されることがあれば、私は高齢ではありますが、祖国と未来の日本人のために、この命を捧げるつもりです。自分の命が保全されても、祖国が滅びたら、何のための命でしょう。年はとっても、そのくらいの勇気と意地は持っているつもりです。所詮、安全地帯での空威張りと批判させるかもしれません。まあそれは仕方がないでしょう。しかし実際に命懸けで祖国のために戦っているウクライナの益荒男と、夫と別れても親と子を守って異国で戦っているウクライナの女性達に、心の底から敬意を表さない人がいるでしょうか。

③山河(やまかわ)を 異(こと)にすれども 我が背子の 眺むる月は 我も見る月

 老父母や子供達を守るため、妻達は夫と別れて異国で闘っています。月が鏡なら愛する人の姿も映るものを。せめて同じ月を眺めていることに、強い絆を感じていることでしょう。かつて奈良時代の長屋王は千枚の袈裟を作り、それに「山川異域 風月同天」(山川を異にすれども、風月天を同じうす)と刺繍して中国の僧に贈り、それが唐僧鑑真渡日の契機の一つとなったことを踏まえています。家族が再会し、祖国復興のために共に汗を流せるのはいつのことか。国歌には「ウクライナは滅びず」と歌われています。ウクライナに栄光あれ



端午の節供では菖蒲はどのように使われていたの?

2022-05-05 06:50:34 | 年中行事・節気・暦
端午の節供では菖蒲はどのように使われていたの?
 端午の節供は「菖蒲(あやめ)の節供」とも言われるように、菖蒲が重要な役割を果たしています。菖蒲が用いられるのは中国伝来のことで、奈良時代に日本に伝えられた『荊楚歳時記』には、端午の節供で菖蒲の葉を刻み、酒に浮かべた菖蒲酒を飲んで邪気を払うことが記されています。
 ところがこの植物としての「菖蒲」を、正しく見分けるのはなかなか難しいのです。古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と読んでいましたから、青紫色の美しい花が咲く「花あやめ」だと思い込んでいる人がかなりいます。こどもの日の風習を描いた絵図には、よくこの花あやめが描かれているのですが、これは本来は端午の節供とは全く関係ありません。花あやめの葉は端午の節供の菖蒲と区別ができない程よく似ているのですが、香りが全くありませんし、乾燥気味の土地に生育します。
 それに対して端午の節供の菖蒲は、茎を揉(も)んで嗅いでみると、爽やかに香ります。とくに薄いピンク色の地下茎の部分がよく香ります。また湿地や池沼に群生します。花は緑色の蒲(がま)の穂やヤングコーンのような形で、花あやめとは似ても似つかない地味なものです。しかもサトイモ科であるというのですが、里芋の葉とは全く似ていません。最近は新暦五月になると店頭に並んでいますが、田舎の湿地には持て余すほどに生育していて、店で買うものではありませんでした。決して珍しいものではありませんから、是非探してみて下さい。
 『万葉集』には菖蒲を詠んだ歌は12首もあります。ただし「あやめ」とか「あやめぐさ」と読みます。そのうち4首は「縵」(かずら、鬘・蘰)にすることを、6首は薬玉に作る(「玉に貫く」たまにぬく)ことを詠んでいます。蘰というものは、花や枝葉を髪や冠に挿して、長寿や魔除けの呪いとするもののことです。この縵について、奈良時代の歴史書である『続日本紀』の天平十九年(747年)五月には、大変興味深い記事があります。「昔は五月五日には菖蒲の蘰を用いていたのに、この頃は行われなくなったので、今後は菖蒲の蘰(縵)を着けていない者は宮中に入ってはならない」という、元正上皇の詔が記されているのです。高齢の元正上皇が「昔は」というのですから、7世紀にはそのように行われていたのでしょう。この風習は後々まで伝えられ、江戸時代には女の子が菖蒲の葉を髪に挿す風習がありました。
 また菖蒲は薬玉の材料にもなりました。当時の薬玉は現在のものと異なり、菖蒲の葉や地下茎・蓬・橘や楝(おうち)の花などで球状にこしらえ、五色の糸を垂らしたものです。現在の薬玉を割ると、中からカラフルなテープが現れますが、これは五色の糸が変化したものです。生花は傷みやすいので、後には造花に変わりました。これも縵(かづら)と同様に長寿や魔除けの呪いとするもので、明らかに中国の端午の節供の風習にならったものです。『荊楚歳時記』には、女性が五色の糸で「長命縷」(ちょうめいる、「縷」は糸や紐のこと)を作り腕に懸けると記されていますが、薬玉にも五色の糸があり、長命縷にならったものです。平安時代には、貴族はこの薬玉を柱に魔除けの呪いとして、5月5日から半年間、柱に懸けておいたものです。また親しい人に贈る風習があったことを示す歌も残されています。薬玉を御所の柱などに懸ける風習はその後も江戸時代まで続きますが、『日次紀事』に「端午日児女の玩具なり」と記されているように、女の子のおもちゃにもなってしまいます。
 16世紀から江戸時代末期まで、天皇に奉仕する女官達が書き続けた『御湯殿上日記』という記録があるのですが、それには端午の節供に匂袋を贈答したことが数え切れない程記されています。薬玉の材料とされたものは、奈良時代には香りのある菖蒲・蓬・花橘・楝の花などで、平安時代になると、貴族の経済力によって丁子(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀などの高価な香料を包んだ袋を造花で飾ったものに変化しますが、一貫して香りのあるものが主体でした。ですから匂袋は薬玉が変化したものなのです。まあ薬玉は「和製ポプリ」と言うことができるのでしょう。
 平安時代には、端午の節供に菖蒲と蓬を軒先に挿すという風習が、身分の別なく広く行われていました。『古今和歌集』以後の和歌集には、軒の菖蒲を詠んだ歌が、数え切れない程残されています。また『枕草子』には、「内裏のような高貴な建物から、庶民の家に至るまで、軒先に隙間なく菖蒲や蓬を葺いているのがとても趣がある」と記されています。これは「軒のあやめ」と呼ばれ、江戸時代までは普通に行われていました。
 現代では菖蒲湯という風習が行われています。これも江戸時代までは「あやめゆ」と読まれていました。5月5日に、菖蒲と蓬を浮かべた湯に入るのですが、自宅ではやらなくとも、銭湯では新暦でまだ普通に行われています。菖蒲湯がいつまで遡るかは不明ですが、室町時代の公家の日記である『建内記』(15世紀前半)や、『年中恒例記』(1544年)という室町幕府の年中行事を記録した書物ににも記されていていますから、公家や在京武家の風習として定着していたようです。一般庶民に広まったのは、もちろん江戸時代のことでしょう。江戸時代には川柳などにも詠まれていますから、庶民の間に普及したようです。
 菖蒲湯の起原は古代中国の「蘭湯」(らんとう)にあると考えられます。この場合の「蘭」とは、秋の七草の藤袴のことで、葉を揉むと芳香があります。しかしいかにも東洋的な香で、西洋の香水に慣れている人にとっては、良い香りとは感じないかもしれません。『荊楚歳時記』には五月五日が「浴蘭節」であると記されています。日本にも早い時期に伝えられたことでしょうが、藤袴の「蘭湯」の風習は日本では定着せず、同じ香草の菖蒲が専ら用いられてきたわけです。
 その他には「菖蒲枕」と称して、菖蒲の葉を枕の下に敷くことが平安時代以来行われていました。菖蒲には爽やかな香りがあります。これは簡単にできますから、菖蒲の葉が手に入るのなら、試してみるとよいでしょう。
 端午の節供では菖蒲ばかりが注目されますが、蓬(よもぎ、艾)も重要な役目を持っています。『荊楚歳時記』には蓬で人の形に作り、門に懸けて邪気を祓うと記されています。蓬には薬功もあり、その葉からもぐさを作って灸を据えますが、そのことも『荊楚歳時記』に記されています。

昔の端午の節供ではどんなことをしていたの?

2022-05-01 19:15:04 | 年中行事・節気・暦
昔の端午の節供ではどんなことをしていたの?
 現代のこどもの日には、武者人形を飾る程度の男児の節供らしいことはありますが、法律の文言では男児・女児の区別は一切ありません。しかし江戸時代には、上巳(じょうし)の節供が女児の節供であるのに対して、端午の節供は男児の節供とされていました。端午の節供には菖蒲の葉を飾るので、「菖蒲の節供」とも呼ばれます。年中行事の解説書には、「武士の時代になると、菖蒲(しようぶ)という言葉の音が尚武(しようぶ)(武をとうとぶ)や勝負(しようぶ)に通じ、菖蒲の葉が刀の形に似ているので、端午の節供を祝うことが武士の間で奨励されるようになり、逞(たくま)しい男の子に成長することを祈念する節供に変化した」と説明されています。
 「武士の時代になると」といえば、鎌倉時代からと理解できますが、古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と読むのであって、「しょうぶ」と読むのは明治時代以後のことです。また鎌倉幕府の日誌風歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、それらしき記事があってもよさそうなものですのに、全く見当たりません。『吾妻鏡』の五月の記述を全て調べましたが、鶴岡八幡宮で端午節の神事があること、将軍がたまに参詣する年もあること、幕府の建物の軒に菖蒲を葺くこと、幕府で和歌の会が開かれること、将軍(頼経)が菖蒲枕を調進したことなどの記述がある程度で、「尚武」を表す武家らしいことは何一つ見出せません。
 それでも端午の節供にも、古くから武家らしいことが全くなかつたわけではありません。8世紀の初めには、五月五日に天皇が競馬を見る行事がありました。その後しばらくは途切れますが、平安時代には盛んにおこなわれていました。この行事は現在では毎年京都の上賀茂神社で行われています。また平安時代から江戸時代の前期にかけて、印地打(いんぢうち)という石合戦が行われることがありました。しかし当たり所が悪ければ死に至る危険な遊びであったため、しばしば禁止令が出されています。さすがに朝廷の行事ではありませんが、これも端午の節供の勇壮な要素の一つでしょう。桃山時代の京都市中を画いた洛中洛外図屏風(上杉本)には、模擬の刀や長刀を振り回し、菖蒲合戦に興ずる若者達が画かれています。江戸時代初期の『日次紀事』(1676)には、京の賀茂川の河原で少年達が印地打をすると記されています。
 このように江戸時代になる前に、すでに端午の節供は勇壮な性格を強めていましたが、1616年に江戸幕府が幕府の節日として「五節句」を定めると、これが端午の節供がさらに「男児の節供」となることのきっかけとなりました。五日には諸大名は節供にふさわしい御祝儀や粽を将軍に献上するのですが、菖蒲・粽などの他にいかにも武家らしい幟(のぼり)・武具などが献上されました。そして将軍の若君が生まれた年には、ことさらに盛大に祝われました。
 このような風習は旗本や御家人や諸藩士など江戸在住の武士の風習として模倣され、さらには庶民にも影響します。『東都歳時記』(1838年)には、「四月二十五日から五月四日まで冑市が立ち、冑人形・菖蒲太刀・幟(のぼり)や節供用の飾り武具を商うこと。江戸では武家から町人に至るまで幟や武者人形を飾り、男児の出世を祈念して紙製の鯉幟を飾ること。また初めて生まれた男児があれば、初節供として特別に祝う」と記されています。
 『長崎歳時記』(1798年)には、「家々の軒先には菖蒲と蓬を葺き並べ、家紋を染め出した大きな布の幟を立て、冑や槍や青竜刀や造り物を飾る。裕福な家では紙の幟を五百から千枚も立てる。また吹き流しや鯉の風車を作って竹竿の先に結い付ける。幟には鈴を付けるので、風になびいて勇ましい音がする」と記されています。長崎の上巳の節供は大変に賑やかなものでしたが、端午の節供はそれ以上に勇ましいものだったようです。長崎は中国との貿易が行われていましたから、中国風の「青竜刀」が飾られたのは長崎ならではのことでしょう。

 一般には菖蒲が勝負・尚武と同音であることから、武士の武士の祭であり、鎌倉時代になると男児の節供となったと説明されることが多いのですが、それを証明する文献史料は確認できません。男児の節供の原形が出来たのは、江戸時代になってからなのです。