うたことば歳時記

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『歎異抄』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-04-30 15:10:28 | 私の授業
歎異抄


原文
 親鸞におきては、「たゞ念仏して、弥陀に助けられ参らすべし」と、よき人の仰せを被(かぶ)りて信ずる外(ほか)に、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るゝ種子(たね)にてや侍らん。また地獄に堕(お)つべき業(ごう)にてや侍るらん。惣(そう)じて以て存知せざるなり。たとひ法然聖人に賺(すか)され参らせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。その故は、自余(じよ)の行(ぎよう)も励みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候はゞこそ、賺(すか)され奉りてといふ後悔も候はめ。いづれの行(ぎよう)も及び難(がた)き身なれば、とても地獄は一定(いちじよう)住処(すみか)ぞかし。

 善人なほもちて往生を遂(と)ぐ。況(いわ)んや悪人をや。しかるを世の人常に言はく、「悪人なほ往生す。いかに況んや善人をや」と。この条、一旦その言はれあるに似たれども、本願他力の意趣(いしゆ)に背(そむ)けり。その故は、自力作善(じりきさぜん)の人は、偏(ひと)へに他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがへして、他力を頼み奉れば、真実報土(ほうど)の往生を遂(と)ぐるなり。煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行(ぎよう)にても、生死(しようじ)を離るゝことあるべからざるを憐み給ひて、願(がん)を起し給ふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼み奉る悪人、もっとも往生の正因(しよういん)なり。よりて「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と、仰せ候ひき。

現代語訳
 「この親鸞にとっては、『ひたすら念仏を唱(とな)えて、阿弥陀如来に救われなさい』という立派なお方(法然上人)の仰せをいただき、それを信じているだけで、他に何か特別なことがあるわけではない。念仏は本当に浄土に往生する縁因なのか、あるいは地獄に堕(おち)るはずの行いなのか、全く私の知るところではない。たとえ法然上人にだまされて、念仏を唱えたため地獄へ堕たとしても、今さら後悔するはずはない。そのわけは、念仏以外の修行に励んで成仏できる者が、念仏を申したために地獄に堕るのであれば、だまされたと後悔することもあろう。しかし私はどのような修行をしても、成仏には及び難い身であるから、もともと地獄は確かに私の堕るべき所なのである。」

 善人でさえ往生を遂げる。まして悪人は言うまでもない。それなのに世の人々は常に、 「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」と言う。これは一応もっともに聞こえるが、阿弥陀如来が本願をお立てになった御意(みこころ)に反している。なぜなら、自分の力を信じて善事を行える人は、ひたすらに阿弥陀如来にすがる心が欠けているので、阿弥陀仏の本願に外(はず)れているからである。しかし自分に頼る心を棄て去り、他力本願の御誓いにおすがりするなら、まことの浄土に往生することができる。煩悩から離れられない我等は、いかなる修行によっても、生と死という迷いの世界から逃れられないことを憐(あわ)れに思われ、本願をおこされた阿弥陀如来の御意(みこころ)は、悪人をこそ成仏させるためであるから、阿弥陀如来の本願におすがりする悪人こそ、本来最も浄土に往生するに相応しい縁因を持っている。それで、「善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもない」と、親鸞聖人は仰せられたのである。

解説
 『歎異抄(たんにしよう)』は、親鸞(しんらん)(1173~1262)の弟子唯円(ゆいえん)(1222~1288?)が著した宗教書です。唯円著の確証はないのですが、様々な状況証拠からそう考えられています。書名は、著者が師である親鸞の説と異なる教えがはびこっていることを歎(なげ)き、「泣く 〳〵筆を染めてこれを記す。名付けて歎異抄と言ふべし」と後序に記したことによります。『歎異抄』は、室町時代に衰微していた本願寺を再興させた蓮如が注目するまでは、知られていませんでした。そして明治時代以後に多くの知識人がその価値を認め、今も多くの解説書が出版されています。
 「師説と異なる歎き」が、具体的に何を指すのかはわかりません。ただ親鸞が直に布教した関東地方に、後に異説を説く者があり、親鸞は息子の善鸞(ぜんらん)を派遣しそれを正そうとしたのですが、肝腎の善鸞の説くところが変容してしまい、親鸞が親子の縁を絶つ義絶状を送る事態となったことがありました。ただしその義絶状は、後に書き写されたものが伝えられているだけで、歴史学的にはどこまでが史実であるのかわかりません。
 ここに載せたのは、前半が親鸞の法然に対する、絶対的な信頼を述べた第二章、後半が有名な悪人正機を説いた第三章です。「正機」とは、この場合は「仏の悟りを得させる直接の対象となる人」という意味ですから、「悪人正機」は「悪人こそが阿弥陀仏の救いの主要な対象である」という意味です。ただし法然の弟子が著した法然の伝記(醍醐本『法然上人伝記』)にも、「善人尚(なお)以て往生す、況や悪人をやの事」という文言がありますから、親鸞独自の表現ではありません。
 浄土真宗に限らず、常識的には、悪人とは倫理に反する行為をする人であり、善人は救済されるが、悪人は救済されないと考えるのが普通です。しかし親鸞の説くところはその正反対で、悪人こそ往生すると理解されることがあります。悪人を自覚する人にとって、これ程有り難い救済はありません。
 しかし原文をよくよく読めば、悪人も善人も往生すると、はっきり書かれているではありませんか。また親鸞は「悪人」のことを、「いづれの行にても生死をはなるゝこと」ができない「煩悩具足のわれら」と言い換えていますから、親鸞自身も悪人ということになってしまいますが、親鸞は「地獄は一定すみかぞかし」というのですから、それでよいのです。親鸞でさえ悪人ならば、本人の自覚は別として、阿弥陀如来から見れば、誰が善人であり得ましょう。
 それなら往生(救済)の決定的要因は、何であるというのでしょう。「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」。つまり自力で往生しようという心を棄て去り、全面的に阿弥陀如来の本願にすがる心があることと説かれていて、それ以外は無条件なのです。ただ善人を自覚する者は、他力を頼む心が稀薄となる傾向があるのに対して、悪人を自覚する者は、全面的に他力を頼まざるを得ないだけに、阿弥陀如来の救いの「正機」、つまり救いに与(あずか)る優先的対象となりやすいというのです。
 善人と悪人とは、人の側から見れば大きな相違ですが、絶対者である阿弥陀如来の側から見れば、同じようなもの。親鸞は、人が常識にとらわれて、善人の方が往生できると思い込んでいるが、それは「本願他力の意趣にそむく」と説いているのであって、阿弥陀如来の本願にすがる、絶対的な他力の心の有無を問題にしています。ですからあまり「悪人正機」にとらわれ過ぎると、親鸞の説く本意を理解できません。
 このことは、イエス・キリストが十字架に架(か)けられる際、共に架けられた二人の強盗の話を連想させます。一人は「お前が救世主であるなら、自分自身と我等を救ってみよ」と罵(ののし)りました。しかしもう一人は罪を自覚しつつ、「イエスよ、あなたが御国に入る時に、私を思い出して下さい」と息も絶え絶えに言いました。するとイエスは、「あなたは今日私と一緒に天国にいるであろう」と応えました。強盗ですから、二人とも極悪人です。しかしここでも、善悪は全く問題とされず、一途に依り頼む信仰だけが問われています。宗教を越えて相通じるものがあるのでしょう。

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『五重塔』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-04-29 09:09:36 | 私の授業
五重塔


原文
 「さあ十兵衛、今度は是非に来(こ)よ。四の五のは云はせぬ。上人(しようにん)様の御召ぢゃぞ」と、七蔵爺(じじ)いきりきって門口から我鳴(がな)れば、十兵衛聞くより身を起して、「なにあの、上人様の御召なさるとか。七蔵殿、それは真実(まこと)でござりまするか。嗚呼(ああ)なさけ無い。何程風の強ければとて、頼みきったる上人様までが、此(この)十兵衛の一心かけて建てたものを、脆(もろ)くも破壊(こわ)るゝ歟(か)のやうに思(おぼ)し召されたか、口惜(くや)しい。・・・・・・ゑゝ口惜(くや)しい、腹の立つ。お浪(なみ)、それほど我(おれ)が鄙(さも)しからうか。嗚呼(ああ)ゝゝ、生命(いのち)も既(もう)いらぬ、我(わ)が身体(からだ)にも愛想(あいそ)の尽きた。此世(このよ)の中から見放された十兵衞は、生きて居るだけ恥辱(はじ)をかく、苦悩(くるしみ)を受ける。ゑゝいっその事塔も倒れよ、暴風雨(あらし)も此上(このうえ)烈しくなれ。少しなりとも彼(あの)塔に損じの出来(でき)て呉(く)れよかし。空吹く風も地(つち)打つ雨も、人間(ひと)ほど我には情(つれ)無(な)からねば、塔破壊(こわ)されても倒されても、悦(よろこ)びこそせめ、恨(うらみ)はせじ。板一枚の吹きめくられ、釘(くぎ)一本の抜かるゝとも、味気無(あじきな)き世に未練はもたねば、物の見事(みごと)に死んで退(の)けて、十兵衞といふ愚魯漢(ばかもの)は、自己(おのれ)が業(わざ)の粗漏(てぬかり)より恥辱(はじ)を受けても、生命(いのち)惜しさに生存(いきながら)へて居るやうな鄙劣(けち)な奴(やつ)では無かりしか、如是(かかる)心を有(も)って居しかと、責(せ)めては後(あと)にて吊(とむら)はれむ。一度はどうせ捨つる身の、捨処(すてどころ)よし捨時(すてどき)よし。仏寺を汚(けが)すは恐れあれど、我が建てしもの壊(こわ)れしならば、其(その)場を一歩立去り得べきや。諸仏菩薩(ぼさつ)も御許しあれ。生雲塔(しよううんとう)の頂上(てつぺん)より、直ちに飛んで身を捨てむ。投ぐる五尺の皮嚢(かわぶくろ)は潰(やぶ)れて醜(みにく)かるべきも、きたなきものを盛(も)っては居(お)らず。あはれ男児(おとこ)の醇粋(いつぽんぎ)、清浄(しようじよう)の血を流さむなれば愍然(ふびん)ともこそ照覧(しようらん)あれと、おもひし事やら思はざりしや。十兵衞自身も半分知らで、夢路を何時(いつ)の間にか辿(たど)りし、七藏にさへ何処(どこ)でか分れて、此所(ここ)は、おゝ、それ、その塔なり。

 上(のぼ)りつめたる第五層の戸を押明(おしあ)けて、今しもぬっと十兵衞半身あらはせば、礫(こいし)を投ぐるが如き暴雨の、眼も明けさせず面(おもて)を打ち、一ツ残りし耳までも扯断(ちぎ)らむばかりに、猛風の呼吸(いき)さへ為(さ)せず吹きかくるに、思はず一足退きしが、屈せず奮(ふる)って立出でつ。欄(らん)を握(つか)むで屹(きつ)と睥(にら)めば、天(そら)は五月(さつき)の闇より黒く、たゞ囂(ごう)々たる風の音のみ宇宙に充(みち)て物騒がしく、さしも堅固の塔なれど、虚空(こくう)に高く聳(そび)えたれば、どう〳〵どっと風の来る度(たび)ゆらめき動きて、荒浪の上に揉(も)まるゝ棚無(たなな)し小舟(おぶね)の、あはや傾覆(くつがえ)らむ風情。流石(さすが)覚悟を極(きわ)めたりしも、又今更におもはれて、一期(いちご)の大事死生の岐路(ちまた)と、八万四千の身の毛竪(よだ)たせ牙咬定(かみし)めて眼(まなこ)を睜(みは)り、いざ其(その)時はと手にして来し六分(ろくぶ)鑿(のみ)の、柄(え)忘るゝばかり引握(ひつつか)むでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや。風雨いとはず塔の周囲(めぐり)を幾度(いくたび)となく徘徊(はいかい)する、怪しの男一人ありけり。

解説
 『五重塔(ごじゆうのとう)』は、明治二四年(1891)十一月から翌年にかけて新聞「國會」に連載された、幸田露伴(1867~1947)の中編小説です。露伴の文章は力強く、声に出して読むと心地よいリズム感があります。同時代の尾崎紅葉が、恋愛小説や女性の心理描写を得意としていたことと対照的に、理想主義的な力強い男性像の描写に優れていたため、「紅露(こうろ)時代」と称されました。『五重塔』はそのような幸田露伴の作品の中でも、如何にも露伴らしい代表作です。会話は口語、地の文は露伴独特の文語で、口語と文語が入り交じる文体を雅俗折衷体といい、「紅露時代」の相方である尾崎紅葉の小説にも、特徴的に用いられています。
 主人公の十兵衛は、大工の腕前だけは抜群に優れているのですが、人付き合いが悪く、動作も緩慢なため、「のっそり十兵衛」と呼ばれていました。江戸の谷中(やなか)の感応寺に五重塔が建てられることになり、棟梁の源太が請け負うのですが、十兵衛は一生一度の大仕事を、自分にやらせてほしいと住職に頼み込みます。度量の寛(ひろ)い源太は二人で協同でと言うのですが、十兵衛は独りでやると言い張り、結局源太が引き下がり、十兵衛が頭(かしら)となって建築が始まりました。途中、源太の弟子たちに襲われ、片耳を切られてしまうのですが、十兵衛は仕事を休むことなく、五重塔は立派に竣工します。そして落成式の前夜、大暴風雨が襲ってくるのです。
 ここに載せたた前半は、大暴風雨の真最中、心配した感応寺の世話役の七蔵が、住職の使いと偽って十兵衛を呼び出そうとしたのですが、十兵衛の技量に絶対の信頼を寄せてくれていたはずの住職に疑念を持たれたと、自暴自棄になる場面です。自分の仕事に自信のある十兵衛は、塔がよもや倒れるとは思わないのですが、「上人様」の要請とあっては断れず、悲壮な覚悟で塔を見に行くのです。
 後半は、「塔の倒れる時が自分の死ぬ時」と心に決めた十兵衛が、泰然自若と塔の最上階に突っ立っている場面です。時を同じくして、十兵衛を寛い心で受け容れてくれた棟梁の源太が、心配の余り、塔の周囲を「怪しの男」となって徘徊していました。そして夜が明けると、江戸の各地で甚大な被害が明らかになるのですが、十兵衛の建てた五重塔は無傷で聳(そび)えていたのです。
 この「五重塔」には実際のモデルがあります。寛永二一年(1644)、谷中の感応寺に五重塔が竣工したのですが、明和九年(1772)、江戸三大大火の一つであるの目黒行人坂(ぎようにんざか)の火事で焼けてしまいました。そして寛政三年(1791)に棟梁の八田清兵衛により再建されました。この棟梁が十兵衛のモデルです。感応寺はその後天保四年(1833)に天王寺と改称されます。露伴は短期間ですが、この五重塔のある谷中天王寺町に住んでいたことがあり、朝に夕に仰ぎ見ていたわけです。ところが昭和三二年(1957)に放火心中事件により焼失し、現在は東京谷中霊園内に礎石だけが残っています。
 実際、五重塔は、地震や暴風に対しては倒壊しにくい構造になっているそうです。五重塔は独立した層が五層が積み重ねられているだけの構造で、中心を貫く心柱は最上層でのみ他の構造物と連結しています。そして地震などの大きな力が加わると、各層が連結されていないため、衝撃を吸収する様に動きます。心柱は重量のある振り子と同じで、各層が横揺れしすぎない様に働くそうです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『五重塔』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『鑑真和上東征伝』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-04-16 20:50:43 | 私の授業
鑑真和和上東征伝


原文
 是の歳(とし)、唐の天宝元載(がんさい)冬十月、日本の天平十四年、歳次(さいじ)は壬午(じんご)也。時に大和尚(だいわじよう)、揚州(ようしゆう)の大明寺に在りて、衆の為に律を講ず。栄叡(ようえい)・普照(ふしよう)、大明寺に至り、大和尚(だいわじよう)の足下(あしもと)に頂礼(ちようらい)し、具(つぶ)さに本意(ほい)を述べて曰く、「仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖(いえど)も、伝法の人無し。日本国に昔、聖徳太子有りて曰く、『二百年の後、聖教日本に興(おこ)らん』と。今此の運に鍾(あた)る。願はくは大和尚、東遊して化(け)を興(おこ)したまへ」と。
 大和尚答へて曰く、「昔聞く。南岳の慧思(えし)禅師、遷化(せんげ)の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆して衆生(しゆじよう)を済度(さいど)すと。又聞く、日本国の長屋王、仏法を崇敬して千の袈裟(けさ)を造り、此の国の大徳・衆僧に棄施(きせ)す。其の袈裟の縁上に四句を繍著(しゆうちやく)して曰く、『山川(さんせん)域(いき)を異(こと)にすれども、風月は天を同うす、諸(もろもろ)の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん』と。此を以て思量するに、誠に是(これ)仏法興隆有縁(うえん)の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請(えんせい)に応(こた)へて、日本国に向ひて、法を伝ふる者有らんや」と。
 時に衆黙然(もくねん)として一(ひとり)も対(こた)ふる者無し。良(やや)久くして、僧祥彦(しようげん)有り。進みて曰く、「彼の国太(はなは)だ遠くして性(生)命存し難し。滄海(そうかい)淼漫(びようまん)として、百に一つも至ること無し。人身は得難(えがた)く、中国には生れ難(がた)し。進修未だ備はらず。道果未だ剋(きざ)まず。是故に、衆僧緘黙(かんもく)して対(こた)ふること無きのみ」と。大和尚曰く、「是法事の為なり。何ぞ身命(しんめい)を惜まん。諸人去(ゆ)かずんば、我即ち去(ゆ)くのみ」と。祥彦曰く、「大和尚若し去(ゆ)かば、彦(げん)も亦随(したが)ひて去かむ」と。・・・・
 宝字七年癸卯(きぼう)の春、弟子の僧忍基(にんき)、夢に講堂の棟梁(とうりよう)、摧折(さいせつ)するを見る。窹(さめ)て驚懼(きようく)す。大和尚遷化(せんげ)せんと欲するの相(そう)也と。仍(より)て諸(もろもろ)の弟子を率(い)て、大和尚の影を摸(うつ)す。是の歳五月六日、結跏趺坐(けつかふざ)し、西に面して化(け)す。春秋七十七。

現代語訳
 年は唐の天宝元年冬十月、日本の天平十四年(742)、干支は壬午(みずのえうま)のことであった。時に鑑真は揚州の大明寺で、多くの僧のために律を講義していた。栄叡(ようえい)と普照(ふしよう)は大明寺を訪れ、鑑真の足下にひれ伏し、(唐まで来た)本来の目的を細かく申し述べて言った。「仏法は東へと伝わり、日本に至りました。しかし仏の教えを説いた法(のり)(戒律)はあっても、それを説き伝える師がいません。日本には昔、聖徳太子という人がいて、『二百年の後、聖なる仏の教が日本で盛んになるであろう』と言われました。今こそその時に当たります。どうか大和尚、日本へお渡りになり、我等を教化して下さいますよう」と。
 すると鑑真が答えて言った。「昔、南岳の慧思(えし)禅師は亡くなられた後、日本の王子(聖徳太子)に生まれ変わり、仏法を盛んにして人々を救済されたと聞いている。また日本の長屋王は仏法を崇敬して千枚の袈裟(けさ)を作り、この国の多くの僧に贈られた。その袈裟の縁(ふち)には、『山川は遠く離れているが、同じ天の下の風が吹き、同じ月を見ている。これを多くの仏弟子に贈り、共に良い仏縁を結びたい』という句が刺繍(ししゆう)されていたという。これらのことを考えると、実に日本は仏法興隆に縁のある国である。今、法を同じくする者達(弟子達)の中で、誰かこの遠国の要請に応じ、日本に行き法(戒律)を伝える者はいるだろうか」と。
 その時、弟子達は皆押し黙ったまま、誰一人答える者がいない。ややしばらくして、僧祥彦(しようげん)が進み出て言った。「その国は大層遠く、生命の危険があります。海は果てしなく、百に一つもたどり着けません。人の身は掛け替えがなく、ましてこの中国に生まれることは難しいことでございます。私達はまだ修行途上であり、その成果をまだ得ておりません。そのため誰もが押し黙ったまま、お答えできないのでございます」と。すると鑑真が言った。「これは仏法の為である。なぜ身命を惜しむのか。お前達が行かないなら、私が行くだけのことである」と。すると祥彦が「大和尚が行かれるなら、祥彦もお供致します」と言った。・・・・
 天平宝字七年(763)癸卯(みずのとう)の春、弟子の僧忍基(にんき)が夢に唐招提寺講堂の棟(むね)や梁(はり)が折れる夢を見た。そして夢から覚めて、これは鑑真が遷化(せんげ)(僧が亡くなること)しようとしている徴(しるし)であるとして、驚き懼(おそ)れた。それで多くの弟子を引き連れて、鑑真の姿を像に写しとった。そしてその年(天平宝字七年、763)の五月六日、西を向いて結跏趺坐(けつかふざ)(坐禅の姿勢)したままの姿で亡くなった。享年(きようねん)は七七歳である。

解説
 『鑑真和上東征伝(がんじんわじようとうせいでん)』(唐大和上東征伝)は、宝亀十年(779)、文人官僚の淡海三船(おうみのみふね)(722~785)が、鑑真(688~763)渡来の経緯を叙述した記録です。共に来日した弟子の思託(したく)が、鑑真が亡くなった直後に伝記を著していたのですが、難解であったため、思託の依頼で淡海三船が日本人向けに書いたダイジェスト版なのです。なお「和上(わじよう)」(和尚)は僧侶への敬称、「征」はこの場合は「旅立つ」という意味です。
 当時、僧となるには国家の承認が必要なのですが、僧侶は非課税とされたため、課役(かえき)から逃れるために、勝手に僧を自称する私度僧(しどそう)が横行していました。また正式に僧と認められたとしても、その教育は不十分なものでした。唐では僧を志す者は、十人以上の高僧の前で、「戒」と「律」の遵守を誓う、「授戒」を行わなければなりませんでした。「戒」とは、悟りに至るため心に誓う自発的な生活規範の事、「律」とは、悟りに導くための他律的な教団の集団生活規範のことです。聖武天皇はそのような正式な授戒制度を日本にも採り入れて、僧侶の質を向上さるため、その指導者(伝戒師)を招こうとしたわけです。伝戒師となれるのは、仏法に通じ、徳のある僧でなければなりません。そのような高僧を前にして仏に誓うからこそ、その誓いは確かなものとなり、信仰は純化されるわけです。
 伝戒の師となれる高僧を日本に招聘(しようへい)する使命を帯び、天平五年(733)に栄叡(ようえい)と普照(ふしよう)という若い僧が唐に渡りました。ここに載せたのは、入唐十年後の天平十四年(742)、栄叡と普照が鑑真に渡日を懇願し、鑑真がそれを決意した場面です。その後、鑑真は弟子による妨害や遭難のために五回も失敗し、天平勝宝五年(753)、六六歳の時に六回目の試みでようやく日本に渡ることができました。それは日本に渡航する決意をしてから、十二年目のことでした。ただし栄叡はその間に病死し、帰国はできませんでした。
 渡日を決意させた要因は、栄叡と普照の熱意だったでしょうが、その他に、中国の天台宗の開祖の一人である慧思(えし)に、転生(生まれかわり)の伝承があったことも影響しています。聖徳太子に転生したとという記述は中国にはありませんが、聖徳太子の慧思(えし)転生説が、渡来した鑑真の弟子たちにより信じられていました。慧思の没年(577年)と聖徳太子の生年(574年)が近接し、慧思に転生願望があったことが背景となり、渡来した鑑真の弟子たちが聖徳太子の事績を知るに及び、そのような説が日本で形成された可能性があります。
 また渡日を決意させたもう一つの要因は、長屋王(天武天皇の孫)が唐の僧侶に贈った千枚の袈裟(けさ)でした。その袈裟に刺繍(ししゆう)されていた詩句が、鑑真の心を揺り動かしたのです。そしてその詩句は、この現代にも良い働きをしてくれました。令和二年二月、新型コロナウィルスの流行で中国のマスクが品薄になったとき、日本青少年育成協会という団体が、マスク約二万枚と体温計を中国に送る箱に、「山川異域 風月同天」という袈裟の刺繍の一句を書いたところ、中国で大きな反響を呼んだということです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『鑑真和上東征伝』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。








『曽根崎心中』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-04-14 08:00:41 | 私の授業
曾根崎心中


原文
 此(こ)の世の名残り、夜もなごり、死にゝ行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づゝに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生(こんじよう)の、鐘(かね)の響(ひびき)の聞きをさめ、寂滅為楽(じやくめついらく)とひゞくなり。鐘(かね)ばかりかは草も木も、空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の音(水の面(おも))、北斗(ほくと)は冴(さ)えて影映る、星の妹背(いもせ)の天の河。梅田の橋を鵲(かささぎ)の、橋と契りていつまでも、我とそなたは女夫星(めおとぼし)、必ず添ふと縋(すが)り寄り、二人が中に降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。・・・・
 いつはさもあれ此(こ)の夜半(よわ)は、せめてしばしは長からで、心も夏の夜のならひ、命を追はゆる鶏(とり)の声。明けなば憂(う)しや天神の、森で死なんと手を引いて、梅田堤(づつみ)の小夜烏(さよがらす)、明日は我が身を餌食(えじき)ぞや。「誠に今年はこな様も、二十五歳の厄(やく)の年、私(わし)も十九の厄年とて、思ひ合うたる厄(やく)祟(たた)り、縁の深さの徴(しるし)かや。神や仏にかけおきし、現世(げんぜ)の願(がん)を今こゝで、未来へ回向(えこう)し後の世も、なほしも一つ蓮(はちす)ぞや」と、爪繰(つまぐ)る数珠(じゆず)の百八に、涙の玉の数添ひて、尽きせぬあはれ尽きる道、心も空に影暗く、風しん〳〵たる曾根崎(そねざき)の、森にぞ辿(たど)り着きにける。

現代語訳
 この世の名残の夜を惜しみ、死にに行く身は(古来、墓所とされていた)化野(あだしの)の、道に降りしく初霜か、踏まれるそばから消えてゆく。はかない夢の中で見る、そのまた夢の哀れさよ。あら数えれば暁を、告げる七つの鐘のうち、最早六つは鳴り終わり、残る一つが聞き納め。寂滅為楽(迷いの多いこの世界から離れたら、心安らかな悟りの嬉しい境地に至ることができる)と響きくる。鐘だけでなく草も木も、空も名残と見上げれば、雲は無心に流れゆき、水面に北斗の影映る。妹背の星の逢うという、天の川原になぞらえて、梅田の橋を鵲(かささぎ)の、橋に見立てて門渡(とわた)れば、我とそなたは夫婦(めおと)星、添い遂げようとすがり寄り、誓う二人の涙雨、川の水(み)かさも増すだろう。・・・・
 いつもは夜明けが待たれるが、せめて今夜は長かれと、思えど短い夏の夜、急(せ)き立てるように鶏(にわとり)の、夜明けを告げる声がする。夜が明けたら天神の、森で死のうと手を引けば、梅田堤の小夜烏(さよがらす)、明日は我らが餌食(えじき)とか。「今年あなたは二十五の、私も十九の厄年で、想い合わせた厄祟り、縁の深さの徴(しるし)かも。神や仏に願掛けた、夫婦(めおと)の誓いを今ここで、弥陀の来世に廻(まわ)し向け、あの世で同じ蓮池の、花の台(うてな)に上ろう」と、爪繰(つまぐ)る数珠の百八の、数に涙の玉添えて、尽きない哀れに尽きる道、心も暗く上の空、風染み渡る曾根崎の、天神森にたどり着く。

解説
 『曾根崎心中(そねざきしんじゆう)』は、浄瑠璃(じようるり)の脚本作家である近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(1653~1724)の代表作です。人形浄瑠璃や歌舞伎には、その内容により、庶民を主人公として日常の事件などに取材した世話物(せわもの)と、武士や貴族を主人公として歴史的な事件に取材した時代物とがあるのですが、『曾根崎心中』はその世話物を確立する第一作となりました。 
 『曾根崎心中』が大評判になったのは、上演一月前に実際に曾根崎の露天神(後にお初天神)で起きた心中事件に取材し、話の筋もほぼ事件そのままだったからです。また義利と人情の相克は、江戸時代の庶民に共通する関心事でしたから、これも空前の大当たりの背景となりました。そのため、それに刺激された心中事件が続発し、将軍徳川吉宗は享保七年(1722)に心中を扱う芸能や出版物を禁止し、翌年には心中の処罰を規定した法度を制定しています。
 『曽根崎心中』の粗筋は次の如くです。主人公は醤油(しようゆ)屋の手代の徳兵衛で、働きぶりを認められ、店主である叔父の娘と結婚させる話が持ち上がりました。遊女のお初と恋仲の徳兵衛はそれを断るのですが、徳兵衛には無断で結婚話が進められ、叔父は徳兵衛の継母に結納金を渡してしまいます。徳兵衛が固辞すると、怒った叔父は徳兵衛を勘当(かんどう)し、買った服の代金を七日以内に返せと要求します。徳兵衛は何とか結納金を取り返したのですが、友人の九平次に懇願され、三日という約束で貸してしまいます。しかし後に九平次は借りた覚えはないとしらを切り、公衆の面前で徳兵衛が店の金を使い込んだと言いふらし、殴り合いが始まります。思い詰めた徳兵衛は、死んで身の潔白を証明しようと、こっそりお初に会いにきたのですが、折しも九平次が客としてお初のところにやって来ました。縁の下に隠れた徳兵衛は、自分に対する悪口を聞きながら、いよいよ覚悟を決めます。そして本気で死ぬ覚悟があるのか、お初が独り言と思わせて縁の下の徳兵衛に足で尋ねると、徳兵衛もお初の足首を手に取って、自分の喉を撫で、本気であることを伝えます。ちょうどお初にも身請け話があったのですが、遊女は自分の意志で勝手に結婚できません。それであの世で夫婦になるしかないと、お初も覚悟を決めたわけです。こうして二人は七つの鐘が鳴る午前四時頃、天神の森へ行き、脇差で自殺してしまいます。
 ここに載せたのは、七五調のリズムが聞いていて耳に心地よく、「曾根崎心中の道行(みちゆき)」と称して、名文で知られています。浄瑠璃(じようるり)は耳でも楽しむ文芸でしたから、どのように聞こえるかはとても重要な問題でした。ですから江戸庶民のつもりになって、一度は誰かに読んでもらって聞いてみて下さい。
 徳川吉宗の事績を記録した『明君享保録』には、「心中」と書いて「忠」と読めるのは「不届きの詞(ことば)なり」として、「以来相対(あいたい)死(じに)と申し唱ふべし」と、町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)に命じたと記されています。また「不義(私通)にて相対死いたし候者」は、「畜生同然」であるから人間扱いをせずに、「丸裸にして」「野外に捨て」させることとし、弔いを禁止します。片方が存命の場合、事実上は死にきれずに生き残るのは男なのですが、「下手人」(殺人犯)として死罪。女が存命の場合は「三日晒(さらし)」の上で非人とする。双方が存命の場合は、「三日晒(さらし)」の上で非人とする。主人と下女が心中して主人が存命の場合は、非人とすると定められました。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『曽根崎心中』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





私の授業 筍の掛け算

2020-04-12 13:52:07 | 私の授業
 以下のお話は、近所の小学校でボランティアとして行っているミニ授業の様子です。今は高校の教諭を定年で引退し、非常勤講師をしています。近年はアクティブラーニングがもてはやされて、授業者が主導権を握り、知識を注入するようなスタイルは悪い授業の典型のように評価されています。最近ではアクティブラーニングという代わりに「主体的、対話的で深い学び」という言い方に変わっていますが、一斉講義式授業を遅れた授業と評価していることに変わりありません。

 しかし私は授業者が主導権をもって授業を引っ張って行く一斉講義式を、遅れた授業とは思えません。誤解されることを恐れずに極言すれば、一斉講義式を遅れた授業と非難する人は、生徒が授業に興味を持てるような授業をする修業と工夫が足らないのではと思ってしまうのです。授業者が主導権を持っていても、十分に授業の成果が上げられることを、このミニ授業で表してみたいと思っています。

 「  」内は生徒や担任の先生の言葉です。今回の対象は小学5年生です。

 お早うございます。久しぶりですね。みんな元気にしてる? 「はーい」。いいねえ、「今日は何持って来たの?」何だと思う? 今日は筍持って来たんだよ。「筍で何するの?」何しようかなあ。筍が大きくなると何になるかな? 「竹になるよ」そうだねえ。筍は竹の子供だから、大きく成ったら竹になるんだね。それじゃあこの筍はどのくらい大きく成るのかなあ。何メートルくらいになると思う? 「わかんないよ」 はい、先生はどう思いますか? 「5メートルかなあ」。みんなはどう思う? 予想してごらん。

 子供達は勝手に適当な数を言い合います。

伸びてみないとわからないと思うかもしれないけど、工夫すればどのくらい大きく成るかわかるんだよ。答は後にして、それじゃあ筍を縦に半分に切ってみましょう。さあ、中はどうなってるかなあ。梯子みたいに段々になってるでしょ。どうして段々があるのかなあ。「段のところが節になって、伸びてくるんだよ」。そうだね、よく観察してたね。「だってうちに竹藪があるもん」。いいなあ、今度筍掘りに行こうかなあ。

 さあ、この段々がいくつあるか数えてみよう。ほら数えてごらん。「全部で15くらいかな。上の方はもっとあるかもしれないけど」。さあここまでできたら、この筍がどのくらい背が伸びるか、どうやったらわかるだろう。「わかんないよ」。いやいやあきらめないで。ちょっと工夫するとわかるんだよ。

 そこで筍のそばに生えていた竹を切ったものを取り出します。長さは2節分くらいあります。

 さあ、これがヒントだよ。「あっ、わかった。節と節の 間を測って、掛け算すればいいんだ」。みんなどう思うかなあ、今の意見は。「それでいいんだよ」。はい、正解でーす。よく気が付いたね。えらいえらい。するとどうなるのかな。この竹の節と節の間を物差しで測ると、誰かやってみてよ。「32センチあります」。そうか。ありがとう。それならどういう計算をすればいいかな。「15掛ける32」。そうだね。じゃあやってみようか。そのまま掛けてもできるけど、今日はこうやって考えてみよう。32センチの節が10と5と別々に掛けて足せば簡単だよ。さあ、黒板にみんな一人一人書いてごらん。

 15×32をできないわけではないのですが、学力の低い子がいるので、15を10と5に分けて計算させます

 できたかな。すごいねえ。全員できてるじゃん。答は480センチ。つまり何メートルと何センチ? 「4メートル80センチです」。はい、よくできましたね。どうだった? 筍をみてこれが大きく成ったらどれくらいになるか、ちょっと工夫したらわかったじゃない。何でもね、ちょっと考えてすぐに諦めないで、ああでもない、こうでもないって考えると、キラッてひらめくことがあるんだよ。わかったかな。「おもしろかったよ」。そりゃよかった。今日のお話はこれでおしまいにしましょう。