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花見の三要素「群桜・群集・飲食」

2023-03-23 13:00:33 | 年中行事・節気・暦
まだ彼岸の最中というのに、東京の桜は満開になってしまいました。入学式までは待ってくれそうもありません。そこでお花見について、三回に分けていろいろ思い付くままに書き散らしてみようと思います。

花見の三要素
 先日、白幡洋三郎著『花見と桜』というPHP新書を読みました。そこでは花見の三要素として、「群桜・飲食・群集」の三つを上げて、花見の定義としていました。そして海外では花を観賞することはあっても、これらの三要素はそろわないので、所謂花見は「日本独特の行事」であるとしています。海外の情報を持ち合わせていないので、「そういうものなのか」と、興味深く読んだことです。私がイスラエルに留学中、桜の代わりに桃の一種であるアーモンドの花が咲くと、その木陰で弁当を食べながら花見を楽しんだことはありますが、確かに他には誰もいませんでした。
 しかし古歌を学ぶことが趣味の私としては、花見は、「群桜」と「群集」でなければいけないのか、一本の桜でも、集う人が少なくても、立派に「花見」でよいのではないかと思いました。それによって花見の起原が全く異なってくるからです。そもそも花を愛でて飲食することは、『万葉集』に見られ、唐文化摂取の窓口である大宰府で、官僚達が観梅の宴を楽しんでいる歌がいくつもあります。桜ではありませんが、これも立派な花見ではありませんか。古代中国では、花見の宴は早くから行われていたのではと思います。すぐに思い付くのは、紀元三世紀に三国時代を終わらせて中国を統一した晋朝の時代、河南省の黄河沿いにあった孟県に、潘岳(はんがく)が県令となって赴任し、至る所に桃や李を植えて、花の名所として知られていたことです。花見の宴とは書かれていませんが、それがあったと考えるのが自然でしょう。もっと本気になっって探せばあるとは思いますが、漢籍は得意でないので、今すぐには思い付きません。
 それに倣ったのが唐に憧れた嵯峨天皇で、山城国乙訓郡の大山崎に桃・李・梨・柳を植え、しばしば行幸して花見の宴をしていたことが、『日本後紀』『続日本後紀』などの歴史書や、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などの勅撰漢詩集に、数え切れない程記録されています。まだ桜が中心ではありませんが、これも立派に花見になっています。そして同じく嵯峨天皇の弘仁三年(812)二月十二日には、神泉苑で観桜の宴が催され、『日本後紀』という歴史書には、「花宴の節、これに始まるか」と記されています。「二月」が時期的に早いのではとも思いますが、弘仁二年には閏十二月がありますから、「二月」でも事実上三月のようなものですから、不自然ではありません。また五世紀の華中の歳時記を記録した『荊楚歳時記』には、三月三日の上巳の節供に、人々が「桃花水の下」で禊(みそぎ)をして曲水の宴を催すことが記されています。これが桃の節供の起原になるわけですが、これも立派に花見です。また『古今和歌集』以下の和歌集には、桜の花を愛でる歌が夥しく記されています。和歌では「群桜」か「群集」であるかは判断しかねますが、明らかに複数の人がわざわざ桜を見るために出かけたとわかる歌がいくつもあります。当然そこには「飲食」もあったことでしょう。要するに「群桜」「群集」がなくても、「観桜の宴」は、木の数や人数に関係なく、「花見」と理解してよいと思います。ただ「群桜」「群集」「飲食」の三要素が、日本人の花見の大きな特徴であることは、間違いありません。




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