うたことば歳時記

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鬼の角と虎皮の褌

2018-07-21 15:24:49 | その他
  節分の鬼に限らないが、現代の鬼は角を生やし虎の皮の褌(ふんどし)をはいている。これについて、伝統的年中行事の解説書には、邪鬼・邪気が侵入する鬼門の方角(北東)は干支で表せば「丑寅」(うしとら)であるため、牛の角を生やし虎の皮をはいていると説明されている。しかしこの説は話としては面白いが、史料的根拠は何一つ確認できない。そもそも十一世紀初頭の『政治要略』に描かれた追儺の鬼には角はなく、色の濃い布製の褌を着けている。これは「国会図書館デジタルコレクション『政治要略』」と検索し、その三巻の80・81コマ目に載っているから、確認してほしい。。平安時代末期から鎌倉時代初期に地獄を描いた『地獄草紙』という絵巻物類には、馬の頭をした赤肌で赤い褌をはいたた獄卒と、牛の頭をした青肌で豹(ひよう)柄の褌をはいた獄卒が画かれているが、虎皮の褌は見当たらない。平安時代末期に編纂された歌謡集である『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』巻二に、女が男を呪った「我をたのめて来ぬ男、角三つ生ひたる鬼になれ、さて人に疎(うと)まれよ」という歌がある。「私をその気にさせておいて、私のところに通って来ない男よ。角の三つ生えた鬼になってしまえ。そうして人から嫌われるがいい」いう意味なのであるが、鬼に角があることは平安時代以来であることが確認できる。ほぼ同時期の『今昔物語集』に記述される鬼にも、角があることが確認できる。

 時代は下って江戸時代末期の宮崎成身という旗本が著した『視聴草(みききぐさ)』という随筆に、「地獄倹約」という享保年間の滑稽な風刺が収められている。内容は地獄の鬼に対する倹約令なのであるが、享保の改革の倹約令を皮肉っているのであろう。それには次のように記されている。「鬼共(おにども)豹と虎の皮の下帯(ふんどし)は 茨木童子(いばらきどうじ)・石熊童子(酒呑童子(しゆてんどうじ)の家来衆)の外(ほか)一切無用たるべし。下々の鬼共蜜々(密々、ひそかに)に法外の義これ有るにおいては屹度(きつと)可責(かしやく)すべし。ただし狸狐等の皮は苦るしからざる事(さしつかえない)」。鬼にも等級があり、上位の鬼は虎と豹の皮の褌(ふんどし)を履いているわけである。鬼やその同類と見なされた者が毛皮の褌を身に着けることも、平安時代以来のことである。しかし丑寅説が正しいとするならば、豹・狸・狐柄も同時に確認できるということ、『地獄草紙』の牛頭の獄卒が豹柄の褌であること、また馬頭の獄卒がいることの説明ができない。江戸時代には、鬼は虎や豹などの毛皮の褌をしていたと理解されていたのは事実であるから、明治時代以後に節分の鬼の扮装として参考にされたというのが実際のところであろう。

 鬼の必携品である金棒については、『享保世話』の巻之一(『近世風俗見聞(けんもん)集』第二所収)には、「閻魔王より地獄への触」と題して、「向後(今後は)万事倹約を相守り、只今まで鬼共虎の皮のふんどし致し候へども、以後は相止め、今よりは木綿にて虎の皮染にざっと染め用ひ申すべく候。且また鉄の棒も樫(かし)を用ひ申すべ候」と記されている(国会図書館デジタルコレクション『近世風俗見聞集』二巻170コマ目左ページ下段)。鬼が金棒や戈を持つ姿は、『地獄草紙』にも描かれているから江戸時代以後のことではないが、突起が並ぶ独特の金棒は、江戸時代以前にはないと思う。「思う」というのは、江戸時代に出版された『往生要集』などの地獄絵に描かれている可能性もあるが、まだ確認し切れていないからである。『風俗画報』第六五号(1894)に載せられた地獄の裁判の図は、『東都歳時記』に載せられた図を描きなおしたものであるが、本細先太で突起が並ぶ金棒を持つ鬼が描かれている。ところが原図の金棒には突起がない。つまり「鬼の金棒には突起がある」という理解は、明治時代に作られたものである可能性がある。ただしこの鬼も虎皮の褌を履いていない。節分の鬼の丑寅説は、現代になって創作されたのであろう。


 

自衛隊と赤飯

2018-07-18 09:40:39 | その他
 今回の西日本の集中豪雨でも、自衛隊が出動して活躍をしています。しかし連日の猛暑の中、長袖の分厚い制服で作業をしたり、水のまだ残っている場所で革の靴がびしょ濡れのまま作業するため、さすがの自衛隊員も熱中症や皮膚炎のために治療を受ける隊員が続出しているそうです。ほんとうに御苦労様です。うっかり休憩でもしていると、マスコミに写真に撮られ、作業もしないで休んでいると書かれかねません。記者が熱中症になることはなく、テレビ局のスタジオはクーラーが効いているでしょう。自分は何の苦労もしないで、自衛隊と言うだけで悪い印象を与えようという悪意に満ちた報道には、本当に腹立たしく思います。

 不覚にも知らなかったのですが、東北大震災の時、自衛隊が赤飯の缶詰を食べていて、こんな時に赤飯を食うなとかなり批判されたため、それ以後は提供されなくなったそうです。自衛隊の食料は、空からの投下にも耐えられ、御飯とおかずが一度に摂取でき、腹持ちがよく、高カロリーでなければなりません。そういう点で赤飯の缶詰は打ってつけなのに、それにけちを付けるなど、何とも情けない話です。

 この話は赤飯はめでたい時に食べる物という理解を前提としていますが、実は歴史的にはそうではなかったのです。祝い事では一般に赤飯を食べることが多いのですが、その他にも紅白幕や紅白饅頭、紅白の水引など、紅白の配色が好まれます。そのため赤はめでたい色だから、めでたい時には赤飯を食べると理解されています。しかし「赤」という色は本来は祝意を表すのではなく、邪気を払う色と理解されていました。

 古代中国の6世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』には、正月十五日と冬至に小豆粥を食べ、神に供えたり疫病を祓(はら)ったりすることが記されているのですが、この書物は遅くとも奈良時代初期には日本に伝えられ、日本の伝統的年中行事に大きな影響を与えました。その風習はそのまま日本でも採り入れられ、特に正月十五日に小豆粥を食べたり粥でその年を占う風習が、現在でも続いている地方があります。その影響で、節供には赤飯を食べる風習が定着します。奇数の月と日が重なる節供はめでたい日ではありますが、陰と陽が逆転する不安定な日でもあり、邪気が入り込まないように、邪気を払う日でもあったからです。

 平安時代末期から鎌倉時代初期の『方丈記』の著者として知られる鴨長明の『四季物語』という書物には、「赤は陽の色を表しているので、小豆の粥を下さるということである。冬至の後も残る陰の力を、陽の色である赤いものの威力によって消し去るという意味であろう」と記されているように、赤はめでたい色というよりは、本来は魔除けの色だったのです。

史料『四季物語』「あかきは陽のいろをからせ給ふ御事にて、あづきの御粥たまはらせ給ふとぞ。冬の陰の余気を陽徳にて消させ給ふ御心なるべし」

 『嬉遊笑覽(きゆうしようらん)』(1830年)という江戸時代の書物には、『萩原随筆』という書物を引用して、「凶事(不吉な出来事)に赤飯を用る事、民間の習慣なり」と記されています(巻十上 飲食)。赤という色に祝意があるという理解では、葬儀などに赤飯を振る舞えば、不謹慎であると言われかねません。しかし赤色は本来はめでたい色というよりは、魔除けの色でしたから、凶事の時こそ邪気を祓うために赤飯を食べる風習があったのです。

 現代では赤飯は祝意を表すものという理解が共有されています。凶事にも敢えて赤飯を食べることがあったといっても、余程江戸時代の風俗を研究している人でないと知らないでしょうから、いまさら本来は凶事にも食べていたと言いたいわけではありません。敢えて凶事でもよいのだと異議をとなえることが私の主たる狙いではありません。しかし歴史の研究をしている者として、自衛隊の皆様の援護射撃をしたいと思ったまでです。併せて本当は凶事にも食べていたことを知ってもらいたいという、わずかな色気もないわけではありませんが・・・・。

 まあどんなことをしてもけちを付ける、心の狭い輩はいることでしょう。自衛隊の皆さんが正々堂々と赤飯の缶詰を食べられる日が来ることを心より願っております。誰がやるにせよ、復旧作業は肉体の疲労が避けられません。まして自衛隊の復旧作業ならなおさらのことです。十分にエネルギーを補給していただいて、御活躍くださるよう願っています。隊員の食べ物までけちを付けると言うことは、ガソリン補給しないで自動車に走れというのと同じなのです。

トマトが赤くなると医者が青くなる

2018-07-16 20:38:03 | その他
ネット情報を何となく見ていて、またまたいい加減な記事をみつけましたので訂正しておきましょう。「トマトが赤くなると医者が青くなる」と言う諺は、イタリアの諺であるとか、ヨーロッパの諺であると記されていました。とまとなら確かにイタリアが似合いそうです。ヨーロッパの諺「a tomato a day keeps the doctor away 」1日1個のトマトは医者を遠ざける、を意訳したものという解説もありました。「トマトを食べると病気になりにくい」という意味はよくわかります。

 実はこれには立派に日本の文献の出典があり、イタリアの諺でもなく、意訳でもありません。幕末の風俗を記録した「江戸府内絵本風俗往来」という書物の中編巻之五 の「医家の冬夜」に、「橙や蜜柑の実の黄色を呈する頃に至れば、医師の顔色青くなるといふは江戸時代の悪口なり」と記されています。要するに柑橘類を食べると病気になりにくいというわけです。この江戸時代の諺を一寸ひねって、蜜柑をトマトにしただけなのですが、何時誰が言い始めたことかは不明です。

 この書物はネットで閲覧できますから、すぐに確認できるのですが、ただし出版されたのは明治38年のことです。それでも江戸末期の様子を記録したものですから、江戸時代の文献史料と考えてよいでしょう。

 全くもって、ネット情報とはつくづくいい加減なものだと思います。十分に御注意下さい。