節分の鬼に限らないが、現代の鬼は角を生やし虎の皮の褌(ふんどし)をはいている。これについて、伝統的年中行事の解説書には、邪鬼・邪気が侵入する鬼門の方角(北東)は干支で表せば「丑寅」(うしとら)であるため、牛の角を生やし虎の皮をはいていると説明されている。しかしこの説は話としては面白いが、史料的根拠は何一つ確認できない。そもそも十一世紀初頭の『政治要略』に描かれた追儺の鬼には角はなく、色の濃い布製の褌を着けている。これは「国会図書館デジタルコレクション『政治要略』」と検索し、その三巻の80・81コマ目に載っているから、確認してほしい。。平安時代末期から鎌倉時代初期に地獄を描いた『地獄草紙』という絵巻物類には、馬の頭をした赤肌で赤い褌をはいたた獄卒と、牛の頭をした青肌で豹(ひよう)柄の褌をはいた獄卒が画かれているが、虎皮の褌は見当たらない。平安時代末期に編纂された歌謡集である『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』巻二に、女が男を呪った「我をたのめて来ぬ男、角三つ生ひたる鬼になれ、さて人に疎(うと)まれよ」という歌がある。「私をその気にさせておいて、私のところに通って来ない男よ。角の三つ生えた鬼になってしまえ。そうして人から嫌われるがいい」いう意味なのであるが、鬼に角があることは平安時代以来であることが確認できる。ほぼ同時期の『今昔物語集』に記述される鬼にも、角があることが確認できる。
時代は下って江戸時代末期の宮崎成身という旗本が著した『視聴草(みききぐさ)』という随筆に、「地獄倹約」という享保年間の滑稽な風刺が収められている。内容は地獄の鬼に対する倹約令なのであるが、享保の改革の倹約令を皮肉っているのであろう。それには次のように記されている。「鬼共(おにども)豹と虎の皮の下帯(ふんどし)は 茨木童子(いばらきどうじ)・石熊童子(酒呑童子(しゆてんどうじ)の家来衆)の外(ほか)一切無用たるべし。下々の鬼共蜜々(密々、ひそかに)に法外の義これ有るにおいては屹度(きつと)可責(かしやく)すべし。ただし狸狐等の皮は苦るしからざる事(さしつかえない)」。鬼にも等級があり、上位の鬼は虎と豹の皮の褌(ふんどし)を履いているわけである。鬼やその同類と見なされた者が毛皮の褌を身に着けることも、平安時代以来のことである。しかし丑寅説が正しいとするならば、豹・狸・狐柄も同時に確認できるということ、『地獄草紙』の牛頭の獄卒が豹柄の褌であること、また馬頭の獄卒がいることの説明ができない。江戸時代には、鬼は虎や豹などの毛皮の褌をしていたと理解されていたのは事実であるから、明治時代以後に節分の鬼の扮装として参考にされたというのが実際のところであろう。
鬼の必携品である金棒については、『享保世話』の巻之一(『近世風俗見聞(けんもん)集』第二所収)には、「閻魔王より地獄への触」と題して、「向後(今後は)万事倹約を相守り、只今まで鬼共虎の皮のふんどし致し候へども、以後は相止め、今よりは木綿にて虎の皮染にざっと染め用ひ申すべく候。且また鉄の棒も樫(かし)を用ひ申すべ候」と記されている(国会図書館デジタルコレクション『近世風俗見聞集』二巻170コマ目左ページ下段)。鬼が金棒や戈を持つ姿は、『地獄草紙』にも描かれているから江戸時代以後のことではないが、突起が並ぶ独特の金棒は、江戸時代以前にはないと思う。「思う」というのは、江戸時代に出版された『往生要集』などの地獄絵に描かれている可能性もあるが、まだ確認し切れていないからである。『風俗画報』第六五号(1894)に載せられた地獄の裁判の図は、『東都歳時記』に載せられた図を描きなおしたものであるが、本細先太で突起が並ぶ金棒を持つ鬼が描かれている。ところが原図の金棒には突起がない。つまり「鬼の金棒には突起がある」という理解は、明治時代に作られたものである可能性がある。ただしこの鬼も虎皮の褌を履いていない。節分の鬼の丑寅説は、現代になって創作されたのであろう。
時代は下って江戸時代末期の宮崎成身という旗本が著した『視聴草(みききぐさ)』という随筆に、「地獄倹約」という享保年間の滑稽な風刺が収められている。内容は地獄の鬼に対する倹約令なのであるが、享保の改革の倹約令を皮肉っているのであろう。それには次のように記されている。「鬼共(おにども)豹と虎の皮の下帯(ふんどし)は 茨木童子(いばらきどうじ)・石熊童子(酒呑童子(しゆてんどうじ)の家来衆)の外(ほか)一切無用たるべし。下々の鬼共蜜々(密々、ひそかに)に法外の義これ有るにおいては屹度(きつと)可責(かしやく)すべし。ただし狸狐等の皮は苦るしからざる事(さしつかえない)」。鬼にも等級があり、上位の鬼は虎と豹の皮の褌(ふんどし)を履いているわけである。鬼やその同類と見なされた者が毛皮の褌を身に着けることも、平安時代以来のことである。しかし丑寅説が正しいとするならば、豹・狸・狐柄も同時に確認できるということ、『地獄草紙』の牛頭の獄卒が豹柄の褌であること、また馬頭の獄卒がいることの説明ができない。江戸時代には、鬼は虎や豹などの毛皮の褌をしていたと理解されていたのは事実であるから、明治時代以後に節分の鬼の扮装として参考にされたというのが実際のところであろう。
鬼の必携品である金棒については、『享保世話』の巻之一(『近世風俗見聞(けんもん)集』第二所収)には、「閻魔王より地獄への触」と題して、「向後(今後は)万事倹約を相守り、只今まで鬼共虎の皮のふんどし致し候へども、以後は相止め、今よりは木綿にて虎の皮染にざっと染め用ひ申すべく候。且また鉄の棒も樫(かし)を用ひ申すべ候」と記されている(国会図書館デジタルコレクション『近世風俗見聞集』二巻170コマ目左ページ下段)。鬼が金棒や戈を持つ姿は、『地獄草紙』にも描かれているから江戸時代以後のことではないが、突起が並ぶ独特の金棒は、江戸時代以前にはないと思う。「思う」というのは、江戸時代に出版された『往生要集』などの地獄絵に描かれている可能性もあるが、まだ確認し切れていないからである。『風俗画報』第六五号(1894)に載せられた地獄の裁判の図は、『東都歳時記』に載せられた図を描きなおしたものであるが、本細先太で突起が並ぶ金棒を持つ鬼が描かれている。ところが原図の金棒には突起がない。つまり「鬼の金棒には突起がある」という理解は、明治時代に作られたものである可能性がある。ただしこの鬼も虎皮の褌を履いていない。節分の鬼の丑寅説は、現代になって創作されたのであろう。