閑吟集
原文
①人は嘘(うそ)にて暮(くら)す世に なんぞよ燕子(えんし)が実相(じつそう)を談じ顔(がお)なる
②散らであれかし桜花 散れかし口と花心
③柳の陰に御待ちあれ 人問はゞなう 楊枝木(ようじぎ)切るとおしあ れ
④何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ たゞ狂へ
⑤逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し
寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか
⑥忍ぶ身の 心に隙(ひま)はなけれども なほ知るものは涙かな なほ知るものは涙かな
⑦忍ばゞ目で締(し)めよ 言葉なかけそ 徒名(あだな)の立つに
⑧むらあやでこもひよこたま
⑨爰(ここ)はどこ 石原嵩(いしわらとうげ)の坂の下 足痛やなう 駄賃(だちん)馬に乗た やなう
現代語訳
①人は皆 嘘にまみれて暮らす世に 梁(はり)の燕(つばめ)は悟りすまし て
②散るを惜しむは桜花 散るを待つのは浮かれ花
③柳の陰で待っててね 誰を待つのと問われたら 楊子にす る枝切ってると ねえ そういうことにしておいて
④真面目くさって何になる 所詮は儚い夢なのさ 開き直っ て狂うだけ
⑤来る夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ) 広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする
⑥忍ぶ恋する我が心 隙(すき)など見せぬと思うたが 涙は隙を見 透かして 思わず知らず漏れてくる
⑦忍ぶ恋なら眼(まなこ)で殺せ 言葉かければ浮き名立つ
⑧あの人は 来ないだろうよ この夜も
⑨ここは何処(どこ) 石原峠の坂の下 私あんよが痛いのよ お馬 に乗せてよ ねえあなた
解説
『閑吟集(かんぎんしゆう)』は、室町時代の末期に成立した歌謡集で、仮名の序文により、永正十五年(1518)の成立であることを確認できます。編者について漢文の序文では、「一狂客」と自虐的に自称し、仮名の序文では、富士山の近くに住む「桑門(そうもん)(世捨て人・僧侶)」と記されていますが、誰だかわかりません。歌の数は三一一篇なのですが、序文には、中国漢代の『詩経』に収められた詩の、総数に倣ったためと記されています。書名については、琴や尺八を友として、過ぎ越した年月を振り返ると、懐旧の心が催されるので、様々な歌謡を思い出すままに、「閑居の座右に記(しる)し置く。是を吟じ移り行(ゆく)うち、・・・・閑吟集と銘す」と記されています。「閑吟」とは、「心静かに詩歌を吟じる」ことを意味しています。
歌謡の種類については、全体の四分の三を占めるのが室町時代に流行(はや)った小歌で、恋の恨みや愁いなど、享楽的で刹那的な短い歌が多いことが特徴です。同じ歌謡集である平安時代末期の『梁塵秘抄』には、仏教や神祇信仰の歌が多く、平安・鎌倉文化に比較して、相対的に宗教性が弱くなりつつある、室町文化の特徴を表しています。小歌の他には、大和や近江の猿楽能の謡(うたい)に起原を持つもの、同様に狂言や田楽能の謡を切り取ったものが六十篇ほど、漢詩から採った吟詩句もあり、多様な歌謡集となっています。
①は、小面憎(こづらにく)く見えると、戯れに燕に当たっている場面です。「世」は「世間」という意味ですが、「男女の仲」という意味もあり、その様に理解すれば、「嘘」は恋の駆け引きを意味することになります。「嘘」と「実相」(仮の姿の奥にある真実の姿)は対になっていて、「梁の燕、実相を談ず」という言葉は、禅僧の語録にはしばしば見られますから、五山文学の影響でしょう。
②は、好きな相手の誠意のない言葉と浮(うわ)ついた心(花心)を、直ぐに散る桜の花と比較して嘆く場面で、全体が対句になっています。
③は、男と女が柳の木の下で逢うと約束し、待っているのを怪しまれた時の言い訳を、女が男に教えている場面です。
④は、人生を儚いものと諦観(ていかん)し、それならば狂ったように享楽的に生きるに如(し)かずと、開き直っている場面です。
⑤は、男が夜に忍んで通って来ない不満を、もの言わぬ枕を相手にはらそうとしている場面です。
⑥は、忍ぶ恋心を人に知られまいとして、心に隙はないつもりであったのに、不覚にも涙が流れて、知られてしまった場面です。「なほ知るものは涙かな」は、『古今和歌集』の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまづ知るものは涙なりけり」、『新古今和歌集』の「忍ぶるに心の隙はなけれどもなほ洩るものは涙なりけり」などの歌を踏まえています。
⑦は、色っぽい視線で、相手を恋の虜(とりこ)にせよという意味。「徒名(あだな)」は「色事の噂」、「な・・・・そ」は強い禁止を表します。
⑧は、恋人が来てくれることを願う一種の呪文で、逆さに読むと意味が通じます。
⑨は、徒歩で険しい峠道を越える夫婦の会話で、説明は不要でしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『閑吟集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
①人は嘘(うそ)にて暮(くら)す世に なんぞよ燕子(えんし)が実相(じつそう)を談じ顔(がお)なる
②散らであれかし桜花 散れかし口と花心
③柳の陰に御待ちあれ 人問はゞなう 楊枝木(ようじぎ)切るとおしあ れ
④何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ たゞ狂へ
⑤逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し
寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか
⑥忍ぶ身の 心に隙(ひま)はなけれども なほ知るものは涙かな なほ知るものは涙かな
⑦忍ばゞ目で締(し)めよ 言葉なかけそ 徒名(あだな)の立つに
⑧むらあやでこもひよこたま
⑨爰(ここ)はどこ 石原嵩(いしわらとうげ)の坂の下 足痛やなう 駄賃(だちん)馬に乗た やなう
現代語訳
①人は皆 嘘にまみれて暮らす世に 梁(はり)の燕(つばめ)は悟りすまし て
②散るを惜しむは桜花 散るを待つのは浮かれ花
③柳の陰で待っててね 誰を待つのと問われたら 楊子にす る枝切ってると ねえ そういうことにしておいて
④真面目くさって何になる 所詮は儚い夢なのさ 開き直っ て狂うだけ
⑤来る夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ) 広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする
⑥忍ぶ恋する我が心 隙(すき)など見せぬと思うたが 涙は隙を見 透かして 思わず知らず漏れてくる
⑦忍ぶ恋なら眼(まなこ)で殺せ 言葉かければ浮き名立つ
⑧あの人は 来ないだろうよ この夜も
⑨ここは何処(どこ) 石原峠の坂の下 私あんよが痛いのよ お馬 に乗せてよ ねえあなた
解説
『閑吟集(かんぎんしゆう)』は、室町時代の末期に成立した歌謡集で、仮名の序文により、永正十五年(1518)の成立であることを確認できます。編者について漢文の序文では、「一狂客」と自虐的に自称し、仮名の序文では、富士山の近くに住む「桑門(そうもん)(世捨て人・僧侶)」と記されていますが、誰だかわかりません。歌の数は三一一篇なのですが、序文には、中国漢代の『詩経』に収められた詩の、総数に倣ったためと記されています。書名については、琴や尺八を友として、過ぎ越した年月を振り返ると、懐旧の心が催されるので、様々な歌謡を思い出すままに、「閑居の座右に記(しる)し置く。是を吟じ移り行(ゆく)うち、・・・・閑吟集と銘す」と記されています。「閑吟」とは、「心静かに詩歌を吟じる」ことを意味しています。
歌謡の種類については、全体の四分の三を占めるのが室町時代に流行(はや)った小歌で、恋の恨みや愁いなど、享楽的で刹那的な短い歌が多いことが特徴です。同じ歌謡集である平安時代末期の『梁塵秘抄』には、仏教や神祇信仰の歌が多く、平安・鎌倉文化に比較して、相対的に宗教性が弱くなりつつある、室町文化の特徴を表しています。小歌の他には、大和や近江の猿楽能の謡(うたい)に起原を持つもの、同様に狂言や田楽能の謡を切り取ったものが六十篇ほど、漢詩から採った吟詩句もあり、多様な歌謡集となっています。
①は、小面憎(こづらにく)く見えると、戯れに燕に当たっている場面です。「世」は「世間」という意味ですが、「男女の仲」という意味もあり、その様に理解すれば、「嘘」は恋の駆け引きを意味することになります。「嘘」と「実相」(仮の姿の奥にある真実の姿)は対になっていて、「梁の燕、実相を談ず」という言葉は、禅僧の語録にはしばしば見られますから、五山文学の影響でしょう。
②は、好きな相手の誠意のない言葉と浮(うわ)ついた心(花心)を、直ぐに散る桜の花と比較して嘆く場面で、全体が対句になっています。
③は、男と女が柳の木の下で逢うと約束し、待っているのを怪しまれた時の言い訳を、女が男に教えている場面です。
④は、人生を儚いものと諦観(ていかん)し、それならば狂ったように享楽的に生きるに如(し)かずと、開き直っている場面です。
⑤は、男が夜に忍んで通って来ない不満を、もの言わぬ枕を相手にはらそうとしている場面です。
⑥は、忍ぶ恋心を人に知られまいとして、心に隙はないつもりであったのに、不覚にも涙が流れて、知られてしまった場面です。「なほ知るものは涙かな」は、『古今和歌集』の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまづ知るものは涙なりけり」、『新古今和歌集』の「忍ぶるに心の隙はなけれどもなほ洩るものは涙なりけり」などの歌を踏まえています。
⑦は、色っぽい視線で、相手を恋の虜(とりこ)にせよという意味。「徒名(あだな)」は「色事の噂」、「な・・・・そ」は強い禁止を表します。
⑧は、恋人が来てくれることを願う一種の呪文で、逆さに読むと意味が通じます。
⑨は、徒歩で険しい峠道を越える夫婦の会話で、説明は不要でしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『閑吟集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。