うたことば歳時記

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『閑吟集』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-09-19 05:57:33 | 私の授業
閑吟集


原文
①人は嘘(うそ)にて暮(くら)す世に なんぞよ燕子(えんし)が実相(じつそう)を談じ顔(がお)なる

②散らであれかし桜花 散れかし口と花心

③柳の陰に御待ちあれ 人問はゞなう 楊枝木(ようじぎ)切るとおしあ れ

④何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ たゞ狂へ

⑤逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し
 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか

⑥忍ぶ身の 心に隙(ひま)はなけれども なほ知るものは涙かな  なほ知るものは涙かな

⑦忍ばゞ目で締(し)めよ 言葉なかけそ 徒名(あだな)の立つに

⑧むらあやでこもひよこたま 

⑨爰(ここ)はどこ 石原嵩(いしわらとうげ)の坂の下 足痛やなう 駄賃(だちん)馬に乗た やなう  

現代語訳
①人は皆 嘘にまみれて暮らす世に 梁(はり)の燕(つばめ)は悟りすまし て

②散るを惜しむは桜花 散るを待つのは浮かれ花

③柳の陰で待っててね 誰を待つのと問われたら 楊子にす る枝切ってると ねえ そういうことにしておいて

④真面目くさって何になる 所詮は儚い夢なのさ 開き直っ て狂うだけ 

⑤来る夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ) 広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする

⑥忍ぶ恋する我が心 隙(すき)など見せぬと思うたが 涙は隙を見 透かして 思わず知らず漏れてくる    

⑦忍ぶ恋なら眼(まなこ)で殺せ 言葉かければ浮き名立つ

⑧あの人は 来ないだろうよ この夜も

⑨ここは何処(どこ) 石原峠の坂の下 私あんよが痛いのよ お馬 に乗せてよ ねえあなた

解説
 『閑吟集(かんぎんしゆう)』は、室町時代の末期に成立した歌謡集で、仮名の序文により、永正十五年(1518)の成立であることを確認できます。編者について漢文の序文では、「一狂客」と自虐的に自称し、仮名の序文では、富士山の近くに住む「桑門(そうもん)(世捨て人・僧侶)」と記されていますが、誰だかわかりません。歌の数は三一一篇なのですが、序文には、中国漢代の『詩経』に収められた詩の、総数に倣ったためと記されています。書名については、琴や尺八を友として、過ぎ越した年月を振り返ると、懐旧の心が催されるので、様々な歌謡を思い出すままに、「閑居の座右に記(しる)し置く。是を吟じ移り行(ゆく)うち、・・・・閑吟集と銘す」と記されています。「閑吟」とは、「心静かに詩歌を吟じる」ことを意味しています。
 歌謡の種類については、全体の四分の三を占めるのが室町時代に流行(はや)った小歌で、恋の恨みや愁いなど、享楽的で刹那的な短い歌が多いことが特徴です。同じ歌謡集である平安時代末期の『梁塵秘抄』には、仏教や神祇信仰の歌が多く、平安・鎌倉文化に比較して、相対的に宗教性が弱くなりつつある、室町文化の特徴を表しています。小歌の他には、大和や近江の猿楽能の謡(うたい)に起原を持つもの、同様に狂言や田楽能の謡を切り取ったものが六十篇ほど、漢詩から採った吟詩句もあり、多様な歌謡集となっています。
 ①は、小面憎(こづらにく)く見えると、戯れに燕に当たっている場面です。「世」は「世間」という意味ですが、「男女の仲」という意味もあり、その様に理解すれば、「嘘」は恋の駆け引きを意味することになります。「嘘」と「実相」(仮の姿の奥にある真実の姿)は対になっていて、「梁の燕、実相を談ず」という言葉は、禅僧の語録にはしばしば見られますから、五山文学の影響でしょう。
 ②は、好きな相手の誠意のない言葉と浮(うわ)ついた心(花心)を、直ぐに散る桜の花と比較して嘆く場面で、全体が対句になっています。
 ③は、男と女が柳の木の下で逢うと約束し、待っているのを怪しまれた時の言い訳を、女が男に教えている場面です。
 ④は、人生を儚いものと諦観(ていかん)し、それならば狂ったように享楽的に生きるに如(し)かずと、開き直っている場面です。
 ⑤は、男が夜に忍んで通って来ない不満を、もの言わぬ枕を相手にはらそうとしている場面です。
 ⑥は、忍ぶ恋心を人に知られまいとして、心に隙はないつもりであったのに、不覚にも涙が流れて、知られてしまった場面です。「なほ知るものは涙かな」は、『古今和歌集』の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまづ知るものは涙なりけり」、『新古今和歌集』の「忍ぶるに心の隙はなけれどもなほ洩るものは涙なりけり」などの歌を踏まえています。
 ⑦は、色っぽい視線で、相手を恋の虜(とりこ)にせよという意味。「徒名(あだな)」は「色事の噂」、「な・・・・そ」は強い禁止を表します。
 ⑧は、恋人が来てくれることを願う一種の呪文で、逆さに読むと意味が通じます。
 ⑨は、徒歩で険しい峠道を越える夫婦の会話で、説明は不要でしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『閑吟集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。



『太平記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-09-09 08:10:01 | 私の授業
太平記


原文
 此の城、東西は谷深く切れて、人の上(のぼ)るべき様(よう)もなし。南北は金剛山に続きて、而(しか)も峰峙(そばだ)ちたり。されども高さ二町計(ばかり)にて、廻(まわり)一里に足らぬ小城なれば、何程の事か有るべきと、寄手是(これ)を見侮って、初め一両日の程は向陣(むかいじん)をも取らず、攻仕度(せめじたく)をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺(あたり)まで、かづき連れてぞ上(のぼ)ったりける。城中の者共少しも騒がず静まり返って、高櫓(たかやぐら)の上より大石を投げ懸け投げ懸け、楯の板を微塵(みじん)に打ち砕いて、漂(ただよ)ふ処を差(さし)つめ差つめ射ける間、四方の坂よりころび落ち、落ち重なって手を負ひ、死を致す者、一日が中(うち)に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門尉(ざえもんのじよう)、軍奉行(いくさぶぎよう)にてありければ、手負(ておい)死人の実検をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人、夜昼三日が間、筆をも置かず記(しる)せり。・・・・
 長崎四郎左衛門尉、此の有様を見て、「此の城を力攻(ちからぜめ)にする事は、人の討たるゝ計(ばかり)にて、其の功成り難し。唯(ただ)取り巻いて食攻(じきぜめ)にせよ」と下知して、軍(いくさ)を止(や)められけば、徒然(とぜん)に皆堪(た)へ兼ねて、花下(はなのもと)の連歌師共(ども)を呼び下し、一万句の連歌をぞ始めたりける。・・・・
 少し程経(へ)て後、正成、「いでさらば、又寄手を謀(たばか)りて、居眠(いねむり)さまさん」とて、芥(あくた)を以て人長(ひとだけ)に人形を二三十作って、甲冑(かつちゆう)を着せ、兵仗(ひようじよう)を持たせて、夜中に城の麓(ふもと)に立て置き、前に畳楯(じようだて)をつき並べ、其の後(うしろ)にすぐりたる兵(つわもの)五百人を交(まじ)へて、夜のほの〴〵と明ける霞(かすみ)の下より、同時に鬨(とき)をどっと作る。
 四方の寄手鬨(とき)の声を聞いて、「すはや、城の中より打ち出(いで)たるは。是こそ敵の運の尽くる処の死狂(しにぐるい)よ」とて、我先にとぞ攻め合はせける。城の兵かねて巧みたる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様にして、大勢相近づけて、人形計(ばかり)を木隠(こがく)れに残し置いて、兵(つわもの)は皆次第 〳〵に城の上へ引き上(あが)る。寄手、人形を実(まこと)の兵(つわもの)ぞと心得て、是を討たんと相集まる。正成、所存の如く、敵を謀(たばか)り寄せて、大石を四五十、一度にばっと発(はな)す。一所に集まりたる敵三百余人、矢庭(やにわ)に討ち殺され、半死半生の者五百余人に及べり。
 軍(いくさ)はてゝ是を見れば、哀(あわれ)大剛(だいごう)の者かなと覚えて、一足も引かざりつる兵、皆人にはあらで、藁(わら)にて作れる人形なり。是を討たんと相集まって、石に打たれ矢に当たって死せるも高名(こうみよう)ならず。又是を危(あや)ぶみて進(すすみ)得ざりつるも、臆病(おくびよう)の程顕(あらわ)れて言ふ甲斐無し。唯兎(と)にも角(かく)にも、万人の物笑とぞ成りにける。

現代語訳
 この城(千早城)は、東西が深い谷に隔てられ、人が登る術(すべ)もない。南北は金剛山に連なり、しかも峰は一際高く聳(そび)えている。とは言っても(谷底からの)高さは約二町(二百m余)で、周囲は一里もない小城なので、「何程のことがあろう」と、寄せ手の軍勢はこれを甘く見て、初めの一日二日は正面の陣を構えることもなく、攻める準備も十分にせず、先を争って、城門の辺りまで楯をかざし連ねて登って行った。城中の兵は少しも騒がず、静まりかえっていたが、高い櫓(やぐら)の上から大石を次々に投げ落とし、楯の板を木端微塵(こつぱみじん)に打ち砕き、浮き足だったところを次々に弓矢で射たので、寄せ手はあちこちの坂から転げ落ち、落ち重なって負傷したり死ぬ者が、一日だけで五六千人に及んだ。長崎四郎左衛門尉は(戦を指揮する)軍奉行(いくさぶぎよう)なので、負傷者や死者を確認して数えたところ、十二人の記録係が昼夜三日がかりで、筆を休める暇もなく書き続けた。・・・
 長崎四郎左衛門尉はこの様子を見て、「この城を力尽くで攻めても、人が討たれるだけで、事は成りそうもない。ただ遠巻きにして兵粮攻めにせよ」と命じ、戦を一旦止めた。そのため寄せ手は暇を持て余し、連歌師達を京から呼び寄せ、一万句の連歌の会を始めた。・・・・
 程なくして楠正成は、「それならば寄せ手を手玉にとって、居眠りから醒(さ)ましてやろう」と、藁(わら)で等身大の人形を二、三十拵(こしら)え、甲冑を着せ武具を持たせて、夜のうちに城の麓(ふもと)に立て置き、その前には楯を立て並べ、その背後に腕よりの兵を五百人も控えさせ、夜がしらじらと明ける霧隠れに、同時に鬨(とき)の声をどっと上げさせた。
 あちこちの寄せ手はその声を聞き、「そら、城中から討って出て来たぞ。これこそ敵の運が尽きる前の死にもの狂いよ」と、我先に応戦しようとした。城兵はかねてからの計画どおり、少し矢戦をするように見せかけ、大勢を引き付けておいてから、人形だけを木蔭に残し置いたまま、次々に城に引き上げてしまった。寄手は人形を本物の兵(つわもの)と思い込み、これを討ってやろうと集まって来た。正成は狙い通りに敵を欺き引き寄せておいてから、大石を四、五十も一度にどっと投げ落とした。そのため一カ所に集まっていた敵兵三百余人が、たちまちに討ち殺され、半死半生の者も五百余人に及んだ。
 戦闘が一段落してよくよく見れば、ああ何という荒武者かと感服する程、一歩も退かなかった兵は、何と皆人ではなく藁でできた人形ではないか。これを討とうと寄せ集まり、石や矢に当たって死んだのは不名誉なことであり、かと言って藁人形に怖気(おじけ)づいて進むことができなかった者も、臆病なことが露見して話にならない。どちらにしても多くの人の笑いものになったのである。

解説
 『太平記(たいへいき)』は、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318)から、貞治六・正平二二年 (1367)までの、戦乱などを叙述した軍記物語です。著者については、『洞院公定(とういんきんさだ)日記』という公家の日記には、「小島法師」であると記されています。また他に僧玄恵(げんえ)であるという説もあり、確定できません。約五十年に及ぶ期間が叙述されていますから、いずれにせよ著者は一人ではなく、改訂増補されつつ、最終的には義満が将軍となって間もなくの頃には成立したと考えられています。
 足利一族の今川了俊(りようしゆん)が、『太平記』の事実誤認を指摘して著した『難太平記(なんたいへいき)』には、「此記は十が八九はつくり事にや。・・・・大かたはちがふべからず。人々の高名などの偽りおほかるべし」と書かれています。了俊は武功を評価されていないことが不満なのですが、大筋は違わないと認めています。
 ここに載せたのは、巻七の「千剣破(ちはやの)城軍事(しろいくさのこと)」の部分です。周囲を谷に囲まれた千早城は、最も高い地点で標高が六七三mもあるそうです。「廻(まわり)一里」は誇張でしょう。現地を歩いてみると、計測起点にもよりますが、「高さ二町計(ばかり)」という記述は誇張とも思えませんでした。千早城では軍勢を広く展開できる場所は限られていますから、数万人の大軍でも、大部分は下の方から眺めるだけしかできません。
 結局千早城の戦は、元弘三年(1333・正慶二)二月から五月のはじめまで約百日間続きました。その前後に後醍醐天皇は隠岐を脱出、伯耆の名和長年、播磨の赤松則村、肥後の菊池武時が挙兵。五月七日には足利高氏(尊氏)が京の六波羅探題を滅ぼし、五月二二日には新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすなど、各地で討幕挙兵が続きました。千早城に幕府軍を引き付けている前後に討幕挙兵が相次いだことを見れば、結果的には戦略的意義は、戦術以上のものがありました。
 『太平記』は湊川の戦いで討ち死にした楠正成について、「智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成程の者は未だあらず」と記して、賛辞を惜しみません。また足利尊氏の立場で叙述された『梅松論』でさえも、「誠、賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべきとて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり」と賞賛しています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『太平記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。