うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

金鍔とどら焼

2020-02-23 08:57:55 | 歴史
 和菓子の金鍔を食べていて、ふと「鍔なのになぜ四角なのか」と疑問に思いました。いつも幕末に記述された『守貞謾稿』を読んでいて、江戸時代以来の菓子であることは知っていましたから、「つば」が「鍔」であることはわかっていました。鍔ならば円か楕円でよさそうなのにと思ったわけです。

 『誹風柳多留』の112編に「さすが武士の子金鍔を喰ひたがり」という川柳がありますから、「つば」が「鍔」であることは間違いありません。

 その『守貞謾稿』には「麦粉に餡を入れて焼くなり」と記されていますから、現代の金鍔とほぼ同じでしょう。

 ネット情報で検索すると、大坂が発祥地で、「銀鍔」と呼ばれていたが、江戸に伝えられて「金鍔」と江戸っ子好みに呼ばれるようになったと記されていました。確かに大坂は銀貨が流通し、江戸は金貨が流通していましたから、なる程と思わせる説明です。

 しかし幕末期の『波華百事談』(日本随筆大成 第三期 第二巻)という大坂の地誌や風俗などを叙述した
という書物には、「金鍔といふもの・・・・小豆の粒の交じりたる餡を、木の円く穴をほりし物に詰めてぬき、それに小麦粉を水にてときし物をつけて、裏表をやき鍋におきて焼しものにて、横より見れば固詰あん見ゆる物なり」と記されています。

 これからわかることは、円形であり、ある程度の厚さがあり、餡は粒餡であり、大坂でも金鍔と呼ばれていたことです。

 また江戸後期の『嬉遊笑覧』という百科事典的随筆には、「鍋にて焼たるその形をもて銀鍔とも言ふと有り。今のどら焼は又金鍔やきともいふ。これ麩の焼と銀鍔と取まぜ作りたるものなり。どらとは形金鼓に似たる故、鉦と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小さくなりて金鍔と呼ぶなり」と記されています。

 これからわかることは、金鍔も銀鍔も同時に行われていますが、どうも銀鍔という呼称の方が古そうです。そしてどら焼は銅鑼や鉦の形に似ていることによる呼称で、かつては大きかった物が小さくなり、金鍔と呼ばれていたこと。どら焼は銀鍔と麩の焼(小麦粉をこねて薄く伸ばし、餡を入れて焼いた菓子)の折衷であることがわかります。要するにどら焼も金鍔もよく似ていたものらしいのです。

 以上のことを総合すると、大坂の金鍔は、型抜きした円い粒餡の固まりに水溶き小麦粉を付けて焼いていますから、現代の金鍔に似ています。『嬉遊笑覧』は江戸の考証学者の著書ですから、江戸の風俗が記されているとすれば、江戸では銀鍔と呼ばれていますが、どら焼風に変化した物は金鍔と呼ばれていたことになります。

 書いていて自分でもわけがわからなくなってきましたが、大坂で銀鍔と呼ばれたものが江戸に伝えられて金鍔になったという流布説は事実ではなさそうです。

 広い日本の何処かには。きっと円い金鍔があることでしょう。もしあれば、それが原形に近い物と言うことができそうです。

食物事典の類の編者や著者は、確かな根拠に基づいて書いていないことは明かです。それを確かめもせずに摘まみ食いするネット情報はますます信用できません。


節分で豆を食べるという風習の起原

2020-02-02 17:37:45 | 年中行事・節気・暦
 節分では年の数より一つ多く豆を食べる風習があります。江戸時代には行われていましたから、年の数はもちろん数え年の数であって、満年齢ではありません。

 ところでなぜ年の数に応じて豆を食べるのか、この風習の起原はどこにあるのでしょうか。それはどうも厄落としに関係がありそうなのです。室町時代には、節分に年の数だけ銭を包んで「乞食」に与える風習がありました。連歌師宗長の大永六年(1526)の『宗長日記』には、「京には役(厄)おとしとて、年の数銭をつつみて、乞食の夜行におとしてとらする事をおもひやりて、かぞふれば 我八十の 雑事銭(ぞうじせん) 役とていかが おとしやるべき」と記されているのです。八十歳の流浪の連歌師には、銭八十枚は大きな負担であったようで、どうやって厄を落としたらよいのだろうかと嘆いているわけです。

 江戸時代前期の『日本歳時記』には、節分の夜に「乞食」が「厄払ひ厄払ひ」と称して家々を巡り歩くので、翌年が厄年に当たる人は銭を与える風習があったことが記されています。「国会図書館デジタルコレクション『日本歳時記』」と検索し、その巻七の15コマ目の左ページに載っていますからご確認下さい。また『閭里歳時記』という上野国の歳時記にも、厄年に当たる人は年の数だけの豆に「鳥目」(銭)を添えて貧人に与える風習が記されています。

 節分には貧人に銭を恵むことにより厄落としをするという風習が、室町時代から江戸時代まで続いていたことを確認できます。そして室町時代には年の数だけの銭であったものが、江戸時代には年の数だけの豆に銭を添えるというように、少し変化していることも確認できます。

 以上のことから、節分に豆を食べるという風習は、室町時代以来の厄落としの風習に起原があったのではと考えられます。