うたことば歳時記

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福寿草

2019-12-29 12:17:35 | 植物
 あと3日で元日となります。そこでふと思い付いたのか福寿草のことでした。それは江戸時代には「元日草」とも呼ばれていたからです。正月も近くなってくると、南天・松竹梅・藪柑子や福寿草をぎっしりと詰めて植えた鉢が縁起物として店頭に並びます。これは江戸時代以来のもので、幕末の江戸風俗を記録した『江戸府内絵本風俗往来』には、「植木屋の店をつらねたる梅南天福寿草の鉢造り」と記述されています。1709年の『大和本草』にも「福寿草、元日草トモ云、春初ヨリ黄花ヲ開ク、盆ニウヘテ賞ス」と記されています。小林一茶に「帳箱の上に咲きけり福寿草」という句がありますが、文机か何かの上に鉢が置かれているのでしょう。正月を寿ぐ花として小鉢に植え、室内に置いて楽しんでいたようです。

 このように正月の花と理解されたのは、その名前によるものでしょう。1851年の『俳諧歳時記栞草』には「福寿草を器にうゑて人の家に贈るは、その名の宜しければなり。よって新年の観(みもの)とす」と記されています。

 元日に咲くといっても旧暦のことですから、新暦の元日には咲きません。咲いている物が売られているとしたら、促成栽培によって開花させているのでしょう。晴れた日には花弁が開き、曇ったり雨が降ると咲きません。形はまるでパラボラアンテナのようです。花はお日様が大好きなのですが、福寿草を見ていると、特にそう思います。。
 
 私の住む埼玉県では、桑畑の桑の木の間に植えておき、年末に出荷していたものでした。今は桑畑そのものがなくなってしまい、全く見かけません。

 日本に自生していたのですから、誰かが詠んでいてもよさそうなものなのですが、古い和歌には全く見当たりません。江戸時代の初期に誰かがめでたい名前で呼んだために、注目されるようになったのかもしれません。

 そこで私が一首詠みました。
福寿草 日の温もりを 蓄へて 莟芽ほどに 春の膨らむ

出鱈目な冬至の風習

2019-12-19 19:15:35 | 年中行事・節気・暦
もうすぐ冬至ですが、ネット上には冬至の風習について出鱈目な解説が溢れています。よくもまあ根拠もなくいい加減な説を垂れ流すことよと、あきれ果てています。まずはそれらの説を拾ってみましょう。

1、「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめる
 この説はかなり普及してして、ほとんどの年中行事の解説書に紹介されています。曰く「冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれています。にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん……など「ん」のつくものを運盛り といい、縁起をかついでいたのです。運盛りは縁起かつぎだけでなく、栄養をつけて寒い冬を乗りきるための知恵でもあり、土用の丑の日に「う」のつくものを食べて夏を乗りきるのに似ています。また、「いろはにほへと」が「ん」で終わることから、「ん」には一陽来復の願いが込められているのです。」というのです。

 それならその根拠を知りたいのですが、例外なしに「・・・・と言われています」というだけで、何の根拠もありません。私は長年江戸時代の歳時記や年中行事の研究をしていますが、このような記述を見たことがありません。ただ年越し蕎麦のことを「うん蕎麦」と称して、翌年の運気がよくなることを期待して食べる風習があったことは、文献上で確認できます。しかし江戸時代には冬至に「ん」の字の付く物を食べる風習はありませんでした。また夏の土用丑に「う」の字の付く物を食べる風習があったように解説されていますが、江戸時代にはそのような風習はありません。あったと言うなら、見せてほしいものです。「いろは」が「ん」で終わるからというにいたっては、よくまあ出鱈目なことを思い付きで解説することよと、腹立たしくなってきます。いずれも何一つ根拠はありません。膨大な川柳を片端から調べても、片鱗さえ見つかりません。

 ただこの日に南瓜を食べる風習は、明治時代の中期の文献に確認できます。『東京風俗志』(1899年)には牛蒡・大根・蒟蒻・赤小豆を入れた味噌汁を「お事汁」と称して食べる風習がかつてあったが、ほとんど廃れてしまったと記されています。また南瓜を食べると中風を防ぐとも記されています。しかし南瓜には「かぼちゃ」とルビがふられていて、「なんきん」とは読んでいません。また『東京年中行事』(1911年)にも南瓜を食べると夏の患いをしないと記されていますが、「とうなす」とルビがふられています。「ん」にこだわるならば、明治時代の文献になぜ「かぼちゃ」や「とうなす」とルビがふられているのですか。

 南瓜を「なんきん」と読んで「ん」の字に結び付けるようになったのは、おそらく最近のことでしょう。誰かが初めに最もらしく言い始めたものが、根拠もなく広められたものなのです。少なくとも明治時代まではそのような風習はありません。もしあるというなら、根拠を示して下さい。

2、運盛りの食物のに「ん」が2つつけば「運」も倍増すると考え、それらを7種を「冬至の七種」と呼ぶ
 このような説は最近になって登場したと思われます。冬至の七草は「南瓜・蓮根・人参・銀杏・金柑・寒天・饂飩」のことで、いずれも語尾が「ん」で終わります。ここまで来ると、滑稽を通り越して、哀れを催します。「ん」の字の付く物で運気を回復することに尾鰭が付いただけのことです。こんなことを公表して恥ずかしくないのですか。よくもまあ出鱈目なことを公表できるものですね。

3、南瓜を食べる理由
 「かぼちゃは南瓜と書きますが、冬至は陰が極まり再び陽にかえる日なので、陰(北)から陽(南)へ向かうことを意味しており、冬至に最もふさわしい食べものになりました」というのです。まあよくも思い付いたものです。根拠はこれを書いていることの単なる思い付きでしょう。かぼちゃはビタミンAやカロチンが豊富なので、風邪や中風(脳血管疾患)予防に効果的であり、長期保存が効くことから、冬に栄養をとるための賢人の知恵という解説もよく見ますが、後で取って付けた理屈に過ぎません。

4、蒟蒻は砂おろし
 冬至に蒟蒻を食べるのは、体内にたまった砂を出すためで、大晦日や節分、大掃除のあとなどに食べていたことの名残りであるというのです。蒟蒻の砂おろしについては、ひょっとしたら古い文献史料があるかもしれませんが、私自身でまだ確認できていません。しかし少なくとも江戸時代の歳時記には記述が見つかりません。

5、柚子湯に入ると風邪をひかずに冬を越せる
 一般には、柚子が「融通」に、冬至が「湯治」に音が通じることから、冬至の日にゆず湯に入ると説明されています。また、「もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。端午の節句の菖蒲湯も同様です。」という解説もあります。さらに「また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。」という解説もありました。よくもまあ思い付くことです。繰り返しになりますが、根拠があるなら見せてほしいものです。反論を期待しているので敢えて激しい言葉を選びますが、「出鱈目」と言われて口惜しかったら、根拠を示して下さい。確かな根拠があるなら、潔く降参します。そうでないなら、出鱈目な説を垂れ流しにすることは直ちに止めてほしいものです。

 柚子湯の古い文献史料は『東都歳時記』(1838年)にあり、「今日銭湯風呂屋にて柚湯を焚く」と記されています。またそれよりやや後の『守貞謾稿』にも、「冬至には柚子を輪切りにしてこれを入る。・・・・ゆづ湯と号す」と記されています。個人の日記の類を丹念に探せば、もっと古い記録があるかもしれません。柚子が選ばれているのは、蓬や菖蒲のように芳香のあるものには邪気を除く呪力があると理解されていたからでしょう。

 江戸時代の詳細な歳時記である『日次紀事』(1676年)、『華実年浪草』(1738年)、『俳諧歳時記』(1803年)や本草書には、柚子湯に関する記述はまったくありません。これらの歳時記は、よもや書き漏らすことなどあり得ないくらいに詳細な記述で満たされています。そういうわけで、柚子湯の風習は江戸後期の天保の頃に始まったものではないかと考えられます。もちろん湯治や融通との語呂合わせなど、一言も触れられていません。

聖歌「ああベツレヘムよ」

2019-12-11 16:12:45 | その他
クリスマスが近付くにつれて、クリスマスの聖歌を耳にする機会が増えてきています。信仰心など皆無であるのに、クリスマスに浮かれている日本人の姿を見るに付け、クリスチャンのはしくれである私は、切ない気持ちになるのです。プレゼントとケーキとイヴのデートとクリスマスツリーを除いたら、日本のクリスマスに一体何が残るのでしょう。日本人はつくづく宗教心がないものだと、哀しくなってきます。私でさえ神社や寺院を訪れる際には、心の底から敬意を表していますのに・・・・・。

 さて今回は「ああ ベツレヘムよ」という聖歌を、じっくりと味わってみましょう。まずは歌詞を御紹介します。ただ仮名が多いと意味を理解しにくいので、なるべく漢字に直してみました。ただし歌詞は教会や宗派により微妙な差異がありますから、その点は御了解下さい。

1.ああベツレヘムよ  などか独(ひと)り  星のみ匂ひて  深く眠る 
 知らずや今宵  暗き空に  永遠(とこしえ)の光  照り渡ると

2.人皆眠りて 知らぬ間にぞ  主なるキリストは 生まれましぬ
  朝(あした)の星よ 歌ひまつれ 「神には御栄光(みさかえ)  地に平和」と

3.主の御言葉こそ 奇(くす)しけれや  静に恵の  露は降る
 罪のこの世よに かかる恵  天(あめ)より来べしと 誰かは知る

4.ああベツレヘムの 聖(きよ)き御子よ  今しも我等に 降り給へ
 心を浄(きよ)め 宮となして  永遠(とわ)に棲(す)み給へ  主よ我が主よ

 歌の主題は、イエスの生まれた町であるベツレヘムで、その夜の聖なる静寂が、星や天子の歌声によって、厳かに詠まれています。ベツレヘムという言葉は、ヘブライ語では beit lehem という表記に近く、強いて日本語的に発音すれば、ベイト・レヘム といったところでしょう。日本語にない子音があるので、正確に表記することはできません。ベイトとはパンのこと、レヘムは家を意味しています。私はイスラエルに住んでいたとき、しばしば遊びに行ったことがありますが、標高800mくらいのなだらかな丘に広がる鄙びた町です。もっともそれも40年前の話しですから、今はもっと賑やかになっているかもしれません。

 ベツレヘムで救世主が生まれたということは、たまたまそうなったわけではありません。旧約聖書には、救世主、つまりヘブライ語ではメシアはベツレヘムで生まれると、はっきりと預言されていました。旧約聖書の「ミカ書」5章2節には、次の様に記されています。「しかしベツレヘム・エフタラよ、あなたはユダヤの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者が、あなたのうちからわたしのために出る」と。

 ベツレヘムから救世主が生まれるということは、少しく聖書を学んでいる人にとっては、よく知られていました。新約聖書のマタイ伝2章には、ユダヤの 王ヘロデが、祭司長や律法学者を集めて、メシア(救世主)がどこに生まれることになっているかと問いただしたところ、彼等は前掲のミカ書を引用して、ベツレヘムに生まれると答えています。

 それならベツレヘムという町は、どのような町と理解されていたのでしょうか。新約聖書のルカ伝2章には、次の様に記されています。ローマ皇帝が人口調査をせよと勅命を出したため、人々は本籍地に行き登録をすることになった。イエスの父ヨセフと妊娠中のマリアも、住んでいたナザレから本籍地のベツレヘムに上って行った。ベツレヘムは「ダビデの町」と呼ばれていて、かつてダビデ王が建てた町の一つであった。(ヨセフはダビデの末裔の一人であったため、そのダビデの町に本籍があったのであろう。)こうしてベツレヘムに滞在しているとき、イエスが生まれたのである、というのです。

 聖書にはメシアはダビデ王の子孫から出現すると言うことがしばしば預言されていて、当時のユダヤ人なら誰もがそれを知っていました。しかしヨセフはまさか自分の家系にメシアが出現するとは思ってもみなかったでしょう。聖書には、メシアはダビデの家系から、そしてダビデの町から出現すると預言されていたのですから、ベツレヘムはまさに聖書の預言が成就する舞台でした。たまたまベツレヘムだったのではないのです。

 ですからベツレヘムで救い主が生まれたことを歌うということは、神が預言者のミカを通して語っていた預言が、今こそ成就した、今こそ実現したという喜びの表現です。ここのところが最も肝腎なことてすのに、ほとんどの人はこの預言の成就について関心を持っていません。メシアが生まれるという希望は、ユダヤの人達の悲願でした。この歌は、聖夜のベツレヘム賛歌ではなく、神の預言がベツレヘムに成就したことの賛歌なのです。

 それでは1番から味わってみましょう。ベツレヘムは当時は小さな町だったようです。ミカ書でも「小さい者」と形容されています。1番の歌詞の「などか独り」という詩句は、丘の上のぽつんとした町を表しているようです。「などか」は「なぜ・・・・なのだろうか」という意味で、ここでは「どうして独りだけ星の冴え渡る夜に、何も知らずに眠っているのだろうか」という意味でしょう。空にはメシアの誕生を示す星が輝いているが、人々は聖書の預言が今まさに成就したことなど何も知らずに、眠りこけている。ベツレヘムよ、ベツレヘムの人々よ、あなたはまた知らないでしょうね。この世の暗闇において、今まさに命の光が輝き始めたことを、ベツレヘムについての神の預言が、今夜成就したことを、という意味です。「暗き空」は夜空のことですが、「暗い夜」が「暗い世」を懸けることは日本では古歌以来の常套です。真の宗教は御利益宗教のように商売繁盛のような現世利益を求めるのではなく、心の闇夜を照らす光を求めるもの。これは何もキリスト教に限りません。

. 次は2番です。人々が眠りこけている夜、メシアは生まれました。それを知らされたのは、ほんの一握りの人だけでした。マタイ伝には、はるか東方から不思議な星に導かれて占星術師達がベツレヘムに来たことが記されています。またルカ伝には、野宿をしながら羊を飼っていた羊飼が天使から告げられたこと、そしておびただしい天使の軍勢が現れ、「神には栄光があるように、地上では平和があるように」と記されています。メシアの誕生を知らされた人は、たったこれだけでした。

 「朝(あした)の星」が何であるかはよくはわかりません。訳詞者には何か思うところがあったのでしょう。「あした」という言葉には、朝と明日という意味がありますが、「明日の星」ではタイミングがずれてしまいますから、明けの明星のような星と理解すればよいのかもしれません。或いはメシアそのものを象徴しているとも理解できます。「神には御栄光(みさかえ)、地に平和」は天の軍勢の歌った賛歌です。

 「平和」という言葉はなかなか難しい問題を含んでいます。日本語で「平和」と言えば、戦争がなく社会や政治が安定している状態を指すものと理解されてしまいます。しかしあくまでも宗教的・信仰的な「平和」であつて、政治的な概念ではありません。ヘブライ語では「シャローム」という言葉で、本来は神の賜物として心が充足している状態を意味する言葉です。現在でも信心深いイスラエル人の間では、人に逢うときや別れるときの言葉として、日常的に使われています。それを強いて日本語に訳せば、「今日は」と「さようなら」になってしまうのですが、「神の平安があなたの内にありますように」という訳が一番近いように思います。とにかく日本人が普通に理解している「戦争と平和」の「平和」とは全く異なる意味なのです。ですから「地に平和」という意味は、「地上には神の恩寵としての平安が豊かにありますように」と理解すべきものです。私が聖書を翻訳するとしたら、「平和」ではなく「平安」と訳したいですね。

 3番の「主」とはヘブライ語では「アドナイ」という言葉で、「神」と同義に使われています。ですから「主の御言葉」は「神の御言葉」という意味です。それが具体的にどの言葉を指すかは特定できませんが、ここでは預言者ミカを通して語られたベツレヘムに関する御言葉と理解するのが自然でしょう。

 「奇し」とは「神秘的」であることを意味しています。「けれや」は、過去の詠嘆を表す助動詞「けり」が、係助詞「こそ」を受けて係り結びの法則により「けれ」となり、さらに詠嘆を表す間投助詞「や」が続いたものです。難しい文法などこの際どうでもよいのですが、「神の言葉は何と神秘的なことか」と、今それに改めて気付いた感動を表しています。「けり」という助動詞は、今まで気付かなかったのに、ある時はっと気付いたというニュアンスを含む言葉なのです。

 「露」は聖書の中では、雨のように天から降るものという理解されていて、そのような記述がいくつもあります。雨の多い日本では露が天からの恵みということは実感が湧きませんが、乾燥気候のイスラエル地方では、天の恵みと理解されていましたから、露は天から降るものなのです。

 「罪」という言葉は、宗教においては最も難しい言葉の一つでしょう。聖書における「罪」という言葉の原義は、「的はずれ」という意味なのですが、人は神に似たものとして造られたのに、あるべき道から外れてしまっている状態を指しています。犯罪を犯すこともその一面ではありますが、あくまでも信仰上のことですから、犯罪を指しているわけではありません。神に期待された生き方をしていないことを意味していると理解してよいでしょう。

 ですから3番は、「(ミカを通して語られた)神の御言葉は何と不思議なことだろうか。神の道に背いているこの時代、静寂の夜に天の恵の露が降って来るとは、いったい誰が知っているだろうか。いやまだ誰も知らないに違いない」という意味になるでしょうか。

 4番はそれ程難しくありません。「聖き御子」は、もちろんメシアとして生まれたイエスのことでしょう。私の心に迎えるには穢れが多いのですが、それを聖なるものとして聖別し、この私の心の中にいつまでも宿って下さいという、祈りを表しています。

 この聖歌は、全体として、ベツレヘムにメシアが生まれるという聖書の預言が成就したことを歌っています。ベツレヘムは「小さな者」と呼ばれて誰も目にかけない存在でしたが、神はその「小さな者」を用いて、預言を成就して下さったのでした。


表現の自由以前のこと

2019-12-08 18:41:12 | その他
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」が10月14日に閉会しました。9月の文化庁の補助金不交付決定で騒ぎになり、今も連日関連する情報がネット上に次々に挙げられています。私のような名もない一市民が議論に参戦することなどできそうもありませんが、私なりの感想を述べてみたいと思います。

 私が一番気になったのは、昭和天皇の肖像を燃やすという、大浦さんの作品でした。これが芸術に値するか否かという議論はここではしません。

 先日、ローマ法王が訪日しました。私自身はキリスト教徒ですから、もう少し信仰的なお話を聞きたかったという不満は少々あります。まあそれはそれとして、もしローマ法王の肖像を燃やすという作品が、公的な美術展で公開されたとしたらどのようなことになるか、そんなことをふと思ったのです。世界の多くの人から敬愛されるローマ法王の肖像を燃やして、「これが芸術です」と開き直ることができますか。大浦さん、いかがですか。もし多くの人がそのような行為に抗議をしたら、それは表現の自由を蹂躙するものだと、あなたは声を大にして世界に発信できますか。やれるものならやってごらんなさい。

 このことは法律や権利の問題には馴染みません。そのような視点からは、表現の自由があってよいのかもしれません。しかし多くの人が敬愛する対象を、そのように侮蔑し貶める行為を、人が大切に愛しているもの土足で踏みにじることを、あなたは平然とできるのですか。そうです。やれるものならやってみればよろしい。そして表現の自由を主張したらよろしい。それであなたの良心が傷つくことなく、平然としていられるなら、憲法上は全く問題にならないとしても、一体その行為を熱烈に支持する人がどれ程いるでしょうか。あなたの行為によって苦しめられ、がっかりする人がどれ程多いことか、あなたは全くわかっていない。あなたは人の悲しみの涙の海に、「表現の自由」と大書した帆を張った舟を浮かべ、一人悦に入っているだけではありませんか。

 天皇も多くの人に敬愛されている存在です。先日の即位式のパレードを見れば、普通の人達が熱烈に敬愛していることがわかるはずです。決して特殊な政治思想を持っている人だけが、そのように思っているわけではありません。私はキリスト教徒ですが、一市民として、天皇陛下を敬愛しています。このように多くの人に敬愛されている天皇の肖像を燃やす行為が、どれ程多くの人の心を傷つけているか、考えたことはないのですか。権利としては表現の自由があることは十分に尊重しましょう。しかしそれ以前に、人が大切にしていることをそのような形で踏みにじらないでほしいのです。

 大浦さん。あなたはコーランの上にムハンマドの肖像を描き、それを燃やす作品を公開し、世界に向かって表現の自由を主張できますか。間違いなくあなたは○○されますよ。もちろんあなたにそれを実行する勇気はないでしょう。やれるものならやってごらんなさい。あなたは表現の自由を主張しているのではなく、ただ天皇に象徴される政治的思想が嫌いなだけでしょ。もちろんする必要はありません。怖いからではありません。人の心を土足で踏みつけることは、権利や法律以前のこととして、やってはいけないことだからです。

 ムハンマドとローマ法王と昭和天皇は、多くの人に敬愛されているという点から見れば、みな同じではないですか。もちろん昭和天皇は信仰の対象ではありません。しかし大切にしているものを辱められるとき、それに対する怒りと悲しみは、それ程大きなものであるということを知ってもらいたいのです。