うたことば歳時記

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古寺巡礼の基礎知識(仏像編)

2015-10-18 21:09:18 | その他
以下の話は、私が主宰する市民講座で講話したものを土台に、少し加筆して整えたもので、話し言葉であるのは、もともとが市民講座での講話のためです。古寺の巡礼や参拝に出かける前にお読みになると、きっとお役に立てることと思います。

古寺巡礼と言えば、読書好きの方なら和辻哲郎著『古寺巡礼』を思い起こすことでしょう。これは彼が28歳くらいのとき、大正7年、大和の古寺を巡って仏像を拝観したときの記録です。行間から抑えきれない感動がはみ出すようで、非常に印象深い本でした。古今東西の博学な知識を駆使した仏像評論は、読み応えがあり、今も仏像を見る人の必ず読まなければならない古典的名著となっています。しかし私は少々この本に不満があります。「巡礼」という書名に惹かれて手にしたのですが、仏像を美術品として見ていて、信仰的視点が欠落しているのです。当時の人ももちろん美しい物とは思ったでしょうが、それ以前に礼拝の対象であったのです。美しいのは結果であって、目的ではなかったはず。「ああ、和辻哲郎は高名な倫理学者ではあるが、信仰ということを知らない」と、生意気にも思ってしまったことでした。私が以下のお話しをするに当たり常に意識したのは、信仰の対象としての仏像です。

 お釈迦様が亡くなった、つまり仏滅は紀元前483年頃ということになっていますが、まずは大雑把に紀元前500年頃とおさえておきましょう。仏滅後約500年は、仏像は作られませんでした。その間、お釈迦様を偲ぶよすがとなった物は、仏舎利を安置した仏塔(ストゥーパ)・菩提樹・仏足石などで、仏像が出現するのは紀元後1世紀のことです。

 古寺を巡礼する楽しみの一つは、この仏像に出会うことですよね。博物館で特別展示されることもありますが、やはり寺の宗教的雰囲気の中で拝観したいものです。なぜなら、仏像は美術品ではなく、礼拝の対象として産み出されたものだからです。そして同じ拝観するにも、事前に見るべきポイントを勉強してから拝観すると、それまで見えていなかったことが見えてくるものです。その辺りのことをこれから少々お話ししましょう。そういう私自身はキリスト教徒なのですが、信仰的視点はかえってしっかり理解しているつもりです。最近、「見仏」という視点から仏像について述べた本があるとか。読んだことはありませんが、「見物」をかけたギャグなのでしょうか。「仏は見る物ではなく拝む物だ」という批判を受けることを承知で「見仏」と称しているのでしょう。私は「見仏」の視点には賛同はしません。

 一口に「ほとけ」と言いますが、一般には大きく分けて如来・菩薩・明王・天の4種に分けられます。ランク付けというわけではないのですが、上下関係と言うよりは、役割の違いと理解した方がよいでしょう。

 それではまずは如来からお話しします。如来とは、「修行を完成した者」「完全なる人格者」というような意味で、サンスクリット語を音写すると「仏陀」、それをさらに省略して「仏」と書き表されます。ですから、「仏教」とは、「修行を完成させて悟りに至った者の教え」とでも言いましょうか。それから一寸脱線しますが、「修行」と「修業」の「ぎょう」の漢字は区別しましょう。宗教的なしゅぎょうは「修行」、技術的なしゅぎょうは「修業」です。悟りに至った如来には、超人間性を示す身体的特徴がたくさんあります。それは「三十二相」「八十種好」(はちじゅっしゅごう)と呼ばれるもので、経典によって少し相異がありますが、仏像を作るときには、これらの身体的特徴を採り入れて作ることが約束事になっています。仏師は適当に個人の感覚で作っているわけではありません。

 ですから、仏像を拝観する際は、これらの身体的特徴を確認してみましょう。三十二相の中でもわかりやすいものをいくつか上げてみましょう。まずは1番目の足下安平。つまり土踏まずがなく、扁平足であるというのです。仏像の足の裏を見られることがあれば、ふっくらふくよかな足をしていることに注目して下さい。3番目には長指相。つまり指が長い。5番目は金色相。つまり肌が金色に輝いているというのです。日本人は金メッキの剥げてしまった渋い色の仏像を見慣れてしまいましたが、本来の仏像は金色でした。東南アジアの仏教国の仏像が、金色に輝いているのを、写真や映像で御覧になったことはあるでしょう。現代の日本人は少々抵抗を感じるでしょうが、東大寺の大仏も本来は金ぴかだったのです。31番目は頂髻相(ちょうけいそう)で、頭頂部が隆起していることです。これは如来像ではすぐにわかる特徴ですから、改めて注意してみましょう。32番目は白毫相(びゃくごうそう)で、眉間にまるで盛り上がったほくろのように右巻きの白い毛があり、光明を放っているということです。これも一目でわかる特徴ですね。八十種好でよく知られているのは、耳が垂れ下がっていて耳たぶに孔が空いているとか、「三胴」と称して喉に3本の皺があるとか、眉が長く、鼻の孔が見えないなどがあります。身に着けている物は簡素な法衣だけで、装飾品は一切着けていません。悟りに達した者には、装飾品は不要なのですただし大日如来だけは例外ですが、それはまた大日如来の時にお話ししましょう。

 それではまずは最初の如来として、薬師如来から。「薬師」とは医者のことでしょう。衆生の病気を癒し、悟りへ導くことを請願して如来になった仏で、如来にしては珍しく現世利益的です。天武天皇が皇后(後の持統天皇)の平癒を祈願して薬師寺建立を発願し、聖武天皇の眼病平癒のために新薬師寺が建立されたように、日本では早くから信仰されてきました。薬師如来像の姿は、右手の掌を指を上にして外がに向け、左手の掌には丸い薬壷(やっこ)を載せているのが一般的です。有名な薬師寺の薬師如来像には薬壷は見当たりませんが、神護寺や元興寺の薬師如来は薬壷を持っています。この右手のポーズを「施無畏印」と言います。仏像は様々な手指の仕草をしていますが、これは「印相」(いんぞう)と呼ばれ、諸仏の功徳や悟りを表現しているのです。この印相を読み取ると、仏像の理解が深まりますので、基本的なものは是非覚えて下さい。まずは薬師如来の右手の印相、つまり右手を上げて掌を前に向けた施無畏印ですが、読んで字の如く、衆生の恐れを取り除くことを表しています。「畏れるな」「安心せよ」と励ましているのです。像そのものは物体に過ぎませんが、像の背後においでになる薬師如来が、声ならざる声で、「畏れるな」と声をかけて下さっているのです。新約聖書にも同じような場面がたくさんありますね。イエスはしばしば弟子たちに姿を現し、「畏れるな、平安あれ」と励ましています。宗教の如何に関わらず、「畏れ」は「信頼」の対極にあるものと言えましょう。

 薬師如来がおいでになるのは、東方浄瑠璃浄土という世界です。阿弥陀如来の西方極楽浄土の対極に当たりますので、極楽浄土が未来世の浄土なら、過去世の浄土と理解されることもあります。京都の浄瑠璃寺には、池を挟んで西には阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂、東には薬師如来を祀る三重塔が建っていて、東方浄瑠璃浄土と西方極楽浄土の関係をよく表しています。彼岸の中日の日没時にこの三重の塔の位置に立って西の方を眺めると、阿弥陀堂の真ん中の位置に夕日が沈みます。つまり薬師如来と阿弥陀如来が東西正反対に位置しているのです。

 薬師如来の脇侍となるのは、日光菩薩と月光菩薩で、三体揃うと薬師三尊と呼ばれます。脇侍は主尊の仏を補佐する役目を持っていますから、薬師如来が医者ならば、日光菩薩は昼間の看護師、月光菩薩は夜の看護師といったところでしょうか。眷属となって従うのは十二神将で、子から始まり亥に至る12の方角と12の時間を掌っていますから、いつでもどんな所へでも願いに応じて駆けつけてくれるということなのでしょう。薬師三尊像は奈良の薬師寺が、十二神将は新薬師寺のものがよく知られています。

 次は釈迦如来です。釈迦族の王子であるゴータマ・シッダールタ、通称シャカは、29歳で妻子を棄てて出家し、6年間の苦行の末に悟りに至った、歴史上に人として実在した如来です。釈迦如来像には、誕生したときの姿を表した誕生仏、苦行中に悪魔の誘惑を退けた降魔仏、瞑想をしている禅定仏、教えを説いている説法仏、臨終の涅槃仏など様々な姿があり、これといって定形がありません。禅宗や法華宗の寺では本尊となることが多いのですが、像としての数はそれ程多いわけではありません。それに対して東南アジアの上座部仏教では、仏像と言えば釈迦如来像ばかりです。日本で釈迦如来像と言えば、すぐに思い浮かぶのが、法隆寺金堂の釈迦三尊像と、飛鳥寺の釈迦如来像の飛鳥時代の彫刻です。その他には平安時代初期の室生寺釈迦如来像もよく知られています。

 これらの像の印相は、右手が掌を前に押し出すように立てている前述の施無畏印。左手は左膝の上辺りに掌を上に向けて自然に下げている印相で、これを与願印と言います。与願印は読んで字の如く、願いを与える、つまり願いを起こさせそれを聴こうとしているポーズです。施無畏印とセットになって最も一般的な印相ですので、しっかりと覚えておきましょう。まずは施無畏印を示して畏れを取り除き、さらに与願印によって「お前の欲するところは何か?」と問いかけているのです。

 釈迦如来像が脇侍を伴う場合は、多くの場合は普賢菩薩と文殊菩薩です。ともに智慧の仏とされる菩薩ですが、なぜそうなるのかは、私の理解力では及びませんでした。また十大弟子や八部衆を眷属とすることがあります。

 さて次はいよいよ阿弥陀如来です。如来の中では最も馴染みが深いのではないでしょうか。「阿弥陀」はサンスクリット語の音訳で、これでは意味がわかりません。意訳すると「無量寿仏」「無量光仏」という意味だそうです。「無量」とはあまりにも多すぎて数えられないことですから、「計り知れない」とか「無限大の」といったところでしょうか。そうすれば「無量寿」とは「永遠の命」、「無量光」も「永遠の光」というわけですから、まるで新約聖書のイエス様の言葉のようですね。キリスト教徒の私としては、妙に親近感を持ってしまいました。人は限りがあるが故に永遠なるものを求めるもの。また人にとって最も恐ろしい物は暗闇であるが故に、光を礼賛するものです。

 阿弥陀仏は48の願をかけ、修行して遂に如来となった。そして西方極楽浄土の主尊となっておられます。その18番目の願は「念仏をすれば、必ず往生させる」というもので、阿弥陀如来にとっては最も重要な願でありました。このことから最も得意な芸を「十八番」と言うようになったということです。一寸脱線してしまいましたね。では脱線ついでにもう一つ。阿弥陀籤というものがありますが、この籤が阿弥陀如来像の頭部から放射状に延びる光背の線に似ていることに因っています。今の阿弥陀籤は平行線ですが、古くは放射状であったらしい。光背の線の数は48本ということになっていますが、それは阿弥陀如来の誓願の数を表しています。

 西方極楽浄土はこれから往生する浄土ですから、古来、人々は何とかして極楽に往生したいものと、阿弥陀如来の名を称え、つまり念仏をしつつ往生のイメージトレーニングをしました。そのために欠かせないものが阿弥陀如来像であり、また阿弥陀如来が臨終の者を迎えに来る場面を描いた来迎図でした。藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は、極楽往生に自信が持てなかったのか、財力にまかせて地上に作ってしまったミニ極楽です。当時、「極楽が訝しかったら、宇治の御寺を敬え」と言われた程のものでした。竣工したのは末法元年とされた1052年の翌年であるところに、頼通のはやる心を見て取ることが出来ます。もし平等院鳳凰堂に行くならば、現世から極楽の阿弥陀如来を仰ぐような心で、まずははるか池越しに眺めて下さい。その後で堂内に入り、極楽に往生したような心で、目の前で仰ぐように拝観しましょう。

 その際、どのような印相をしているか、注意してみて下さい。与願印でも施無畏印でもありませんね。坐禅をしているかのような姿勢で、両掌を上に向けて腹の前で上下に重ね合わせ、親指と人差指で輪を作っています。このような印相を阿弥陀の定印と言い、悟りに至っている上求菩提の姿を表しています。鎌倉の大仏も同じ姿勢ですね。与謝野晶子は「鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」という歌を詠んでいます。素人目にも出来の悪い歌ですが、与謝野晶子は勘違いして釈迦如来と思い込んでいます。しかし印相から見て明らかに阿弥陀如来なのです。

 阿弥陀如来の印相に、他には説法印(転法輪印)という印があります。両手を胸の高さまで上げ、親指と、人差指・中指・薬指のいずれかと輪を作っています。これは仏が説法している姿を表しています。この印相の像は大変珍しく、もし拝観することがあれば、貴重な体験だと思って下さい。説法印の阿弥陀如来は声ならざる声で真理を語っておられるのですから、心の耳でそれを聞き取るようなつもりで礼拝したらよいのです。「阿弥陀様、どうぞお聴かせ下さい。お従いいたします。」というような心でしょうか。

阿弥陀如来の印相に、もう一つ来迎印があります。右手が施無畏印、左手が与願印という組み合わせを言うのですが、必ず親指と、人差指・中指・薬指のいずれかと輪を作っています。「来迎」とはまさに臨終の念仏者を極楽に迎えるため、阿弥陀如来が諸菩薩を連れて迎えに来ることで、来迎する阿弥陀如来は、来迎印を結ぶことが普通です。もちろんそうでない場合もありますが。極楽往生を切望する人は、この来迎印の阿弥陀如来像を仰ぎながら、自分の往生のイメージトレーニングをするわけです。ですから来迎印の阿弥陀如来像では、座像より立像の方が多い。瞑想している阿弥陀様より、今にも天下って下さる阿弥陀様の方が有り難いわけですから、自然と立像になる。そして立像には来迎印しかありません。つまり像の姿は、像を作り、また拝む人の心を反映している。極楽往生を願う切実さが、阿弥陀様を立たせてしまうのというわけです。

 一寸脱線しますが、藤の花がたくさん咲いている遠景を、阿弥陀の来迎に見立てた和歌が、王朝時代にはたくさん詠まれました。それは阿弥陀如来が来迎するときには、紫色の瑞雲がたなびくと信じられていたからです。もしそのような場面を見る機会があれは、来迎のことを思い浮かべて下さい。また来迎という言葉で、私は大失敗したことがあります。義母がデイサービスに通っていた頃、迎えの車が来ているのになかなか外に出てこなかったので、しびれを切らして「お祖母ちゃん、早くしなさい。お迎えが来ているよ」と行ったのですが、「お迎えが来る」ということは臨終になるという意味にもとれますので、後で大目玉をくったことがありました。そういえば「お祖母ちゃん、長生きですね」と誉められ、「なかなか極楽からお迎えが来なくてねえ」と話していたことを思い出しました。本人が使うのはよいとしても、他人が使ってはいけない表現なのです。私にとっては笑い話なのですが、本人にとっては笑い話では済まなかったようです。

 閑話休題。

 極楽浄土はみな一つ同じ世界かと思いきや、実は9段階に分かれています。『観無量寿経』によれば、信仰の程度により、上品上生(じょうぼんじょうしょう)・上品中生(じょうぼんちゅうしょう)・上品下生(じょうぼんげしょう)・中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)・中品中生・中品下生・下品上生(げぼんじょうしょう)・下品中生・下品下生の9段階に別れているということです。「品」と「生」にそれぞれ上中下がありますので、9の組み合わせが出来ることになります。同じ極楽なのに、なぜこのような差があるのでしょうか。学が浅いため、私にはわかりかねますが、誰でも念仏を称えれば極楽に往生できるとはいうものの、称えさえすればよいのかと、慢心する者も出ることでしょう。そのようなことをさせないためにも、往生にも9段階が設けられたのではないでしょうか。このような思想を「九品往生」(くほんおうじょう)と呼びます。阿弥陀如来の印相は、親指と、人差指・中指・薬指のいずれかと輪を作っていますが、どの指とどの位置で組み合わせるかによって、この「九品」を区別して表現しています。まず親指と人差指で輪を作るのが上品、中指と輪を作るのが中品、薬指と輪を作るのが下品です。坐禅の時のような印相である阿弥陀の定印が上生、説法印が中生、来迎印か゜下生ということです。これらの三つの「品」に三つの「生」を組み合わせると、九つの印相が出来ます。例えば、上品中生ならば、親指と人差指で輪を作り、胸の前で説法印のポーズになります。中品上生なら、親指と中指で輪を作り、坐禅のように腹の前で掌を重ねます。下品下生なら、親指と薬指で輪を作り、来迎印のポーズをとります。初めは面倒くさいでしょうが、慣れればすぐにわかりますので、練習してみて下さい。さっき受講者の方から面白いご指摘をいただきました。印相は手話のようだというのです。なるほどそうですね。

 九品の印相のうち、一番下の下品下生の印相をしている阿弥陀如来を見ることがあれば、それは大変よい見物です。なぜ一番下の印相なのでしょうか。極楽に往生するならば、一番上の上品上生が良さそうなのに。実は下品下生であることに大きないみがあるのです。つまり身の程を知っている生身の者は、とてもとても上品とはおこがましくて願うことが出来ません。せめて最下層でもよいから、極楽に往生したいという切実な願いが、そのような仏像を作らせたのです。さっきも指摘しましたが、仏像のポーズには、それを作りまた拝んだ人達の信仰が隠されている。それを読み取ることが大切なのです。

 次の大日如来は、どこか掴み所のない如来です。それもそのはず、存在するありとあらゆる物を包容する無限の宇宙の真理そのものを仏格化した、仏の中の仏なのですから。そのため、如来であるのに宝冠をかぶり装飾を身に着け、王者の風格を漂わせています。真言密教の主尊とされ、真言宗の寺にはよく祀られています。大日如来は金剛界と胎蔵界のいずれかの姿で表されるのですが、この金剛界と胎蔵界というのがなかなか難しい。「金剛」とはダイヤモンドのことですが、仏の絶対的な智慧の象徴と理解しましょう。「胎蔵」とは母の胎に包み込まれていることで、仏の絶対的な慈悲を象徴しています。大日如来が二人いるというのではなく、大日如来の二つの性格を別々に表現しているわけです。金剛界の大日如来は、智拳印という独特の印相を結んでいます。左手の人差指を伸ばし、中指・薬指・小指は親指を握ります。右手は左手人差指を握り、右親指の先と左人差指の先を接します。いわゆる忍者が返信するときに結ぶ印相ですね。独特の印相ですから、金剛界の大日如来はすぐにわかります。この像の前では、下手な隠しごとは出来ません。何しろ金剛石の如き絶対の智慧の仏なのですから、すべてはお見通しです。偉大なる宇宙的存在の前では、人の存在など浜辺の砂の一粒・宇宙の星くずの一つにも満たない微細な存在に過ぎないのですから。胎蔵界の大日如来は、坐禅をするときの印相、つまり法界定印相結んでいます。この印相は他の如来にも見られますが、原則として宝冠や装飾品があるので区別できるでしょう。

 さていよいよ最も馴染み深い菩薩についてお話しします。菩薩とは、衆生を救済しつつも、御自身は如来となるべく修行を続けている仏です。完成された如来よりも、我々と共に歩んで下さる存在であり、かえって身近に感じられるかもしれません。如来様というと近寄りがたい崇高な存在ですが、菩薩様なら無理なお願いもしてよいかと思ってしまいそうですね。菩薩像のお姿は、出家前の釈迦の姿、つまりインドの貴族の姿を模していますから、その高貴な身分に相応しく髪を結い上げ、多くの装飾品を身に着けています。ただし地蔵菩薩だけは例外ですが。菩薩は種類が多く、観音菩薩・勢至菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩・日光菩薩・月光菩薩・地蔵菩薩・虚空蔵菩薩・弥勒菩薩などがあります。

 まず最初は一番馴染みがありそうな観音菩薩からいきましょうか。観世音菩薩とか観自在菩薩とも言われますが、これは漢訳した人の翻訳の仕方の違いであって、あまり気にすることはありません。世の衆生の音声に観じて苦悩から救済して下さる仏とされています。この観音にもまず聖観音を基本として、十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音・不空羂索観音などの変化観音があります。そしてあまねく衆生を救済するために、相手に応じて33の姿に変身すると説かれています。とにかく観音様には33という数が縁のある数とおさえておきましょう。西国札所巡礼は33カ所、坂東札所も33カ所。江戸の庶民に人気のあった秩父札所は、本来ならこれも33カ所のはずですが、百観音にするために34カ所と、一カ所多くなっています。京都の三十三間堂は柱間が33あることからの呼称ですが、これも33ですね。

 観音菩薩にも独自の浄土があります。インドのはるか南の海上にある八角形の補陀落浄土とされていますが、サンスクリット語で「ポタラカ」を音訳したものです。チベットのラサにあるポタラ宮殿はこの観音信仰による呼称です。日本では熊野が観音信仰の霊場とされていました。崖の上や見晴らしのよいところに観音堂が建てられることが多いのですが、観音の浄土が南の海の上にあると信じられていたことに因っています。清水寺はそのよい例ですね。平地でそのような立地がないところでは建てようもないのですが、崖の上の見晴らしのよい観音堂があれば、はるか沖合に観音浄土を臨むような心でお参りしてみて下さい。

 十一面観音や千手観音の姿をみた外国人が、日本人は何と奇異なものを崇拝するのかと驚いていました。確かに言われてみれば奇異な姿です。しかし日本人はそうは感じません。顔がいくつもあるということは、どのような方向も見逃すことがないことを表しています。十一面観音の後頭部には、真後ろを向いた頭もあるのです。手がたくさんあるのは、どんな手段を使ってでも済度することを表しています。つまりどんな方向でも見逃すことなく、どんな手段を使ってでも救って欲しいという拝む側の願いが、そのような像の姿を出現させるのです。像の姿に信仰を読み取ることが、仏像を深く理解するこつですね。

 阿弥陀如来の話でも触れましたが、阿弥陀如来が来迎するときに、往生せんとする人を載せる蓮台を捧げ持っているのか観音菩薩です。観音霊場を巡礼するひとは今も少なくありません。我が家の前の道は「祈りの道」と呼ばれ、坂東札所の巡礼者がしばしば歩いています。皆さんが観音様をお参りするときには、この蓮台に載せて下さいとお祈りしたらよいと思います。

 次に馴染み深いのは地蔵菩薩でしょうか。釈迦入滅以来、56億7000年後に弥勒菩薩が如来となって下生するまで、地上には仏が存在しない無仏の時代が続いています。その間にこの地上において衆生を救済しようと留まっている菩薩とされています。菩薩は普通は装飾品を身に着けていますが、地蔵菩薩は一切の装飾品を着けず、如来のような衣をまとっています。手に持っているものは必ずしも一定してはいませんが、多くの場合、如意宝珠と錫杖を持っています。与願印の印相をしていることもあります。如意宝珠は意のままに願うものを出現させる不思議な玉で、聖書の言葉を引用すれば、「汝の願いの如くに汝になれ」という心の表れでしょう。錫杖を持っていることは、東奔西走し、どこにでも出向くということを表しています。

 全ての生き物は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の世界に生まれ変わりを繰り返すという六道輪廻の思想に基づき、六道の中のどの道に行ってもそこに地蔵菩薩がいて救済して下さるというので、墓地の入り口にはよく六体の地蔵菩薩、六地蔵が並んでいるのを御覧になったことがあるでしょう。人とは得手勝手なもので、地獄に生まれ変わっても当然のようなことをしておきながら、地獄まで救いに来て欲しいと、お地蔵様にお願いしているのです。先日、鎌倉の歴史散歩に行ったときも、市内に六地蔵という地名がありましたね。お地蔵様は浄土ではなく現世に留まり、人の苦しみを代わって背負って下さるというので、全国各地に身代わり地蔵の信仰や民話があるのも、他の仏にはあまり見られない特徴です。それだけ身近な存在なのでしょう。

 地蔵菩薩像には、よくよだれかけが掛けられていることがありますが、これは地蔵菩薩が特に子供の救済者と信じられたことに因っています。幼くして死んでしまった子は、親を悲しませ、親孝行という功徳も積んでいないため、何とか功徳を積もうとして、三途の川の賽の河原で石を積んでいると、鬼が来てこれを崩してしまうという話を聞いたことがあるでしょう。「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」と言いながら、なぜ石を積み上げているのでしょうか。それは塔、卒塔婆を立てているのです。五輪塔を思い起こしていただいたらよくわかると思います。塔を立てることは、功徳を積むことなのです。鬼に邪魔されながらも苦労して石を積んでいる子供達を守ってやり、成仏へ導いて下さるのがお地蔵様であると信じられているのです。交通事故で幼子が亡くなった場所に、地蔵の像が立てられるのは、みなこのような信仰に拠っています。

 
 次は弥勒菩薩です。釈迦入滅後56億年余は、この地上には地蔵菩薩のみが留まっていることはお話ししましたね。この56億7000年後に、この世界に下生し、衆生を救済すると約束されているのが弥勒菩薩です。いわば仏教におけるメシアのような存在ですね。56億年も待っていられないというわけで、先取りして弥勒如来という名前で像になっていることもあります。これはこれで意味があります。早く救済されたいという切実な信仰が、そのような像を出現させるわけで、何度も指摘しましたように、仏像には拝む人の信仰が投影されているということのよい例です。それを読み取ることこそ、仏像は如何の面白さでしょう。仏像を拝観するのには、信仰的視点を欠落させてはなりません。

 弥勒菩薩像というと、広隆寺や中宮寺の半跏思惟像を思い起こすことでしょう。「跏」とは足を組むことですから、「半跏」は片足を組んでいることを意味しています。「思惟」とはひたすら考えに耽っていることです。弥勒菩薩がおいでになるのは、と率天という浄土です。そこで56億7000万年後にどのようにして衆生を救済しようかと、ひたすら考えている姿を表したものと理解してよいでしょう。もっとも半跏思惟でない姿の弥勒菩薩像もあります。

 空海は臨終に際して、将来、弥勒菩薩が下生するとき、自分もお供をすると弟子たちに言い遺したと伝えられています。ですから高野山では空海はまだ亡くなってはいないのです。その約束の日が来るまで、ひたすら待っている。ですから高野山では、生身の人に備えるように、食事や水を供えています。寒いときには、保温ポットにお湯を入れるほどの気の遣いようです。

 菩薩には他にも勢至菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩などがよく名前を耳にします。ただ単独で祀られることは観音菩薩程多くはありません。勢至菩薩は智慧の仏で、何が真理であるかを見極める霊力を持っているとされています。頭の上に水瓶を載せた姿で表されることが多いのですが、この瓶の中には、智慧の水が入っているとされています。見逃してしまいそうなので、よく目をこらして御覧下さい。法然は「智慧第一の法然坊」と言われ、幼名は「勢至丸」と称されたと伝えられ、勢至菩薩の化身とさえ言われました。その法然が「南無阿弥陀仏」の六字名号のみを取り出し、あとは一切棄ててしまったところに、その智慧の奥深さがあるのでしょう。凡人の及ぶところではなさそうです。浄土宗の本山は京都の知恩院ですが、その一番高い位置に勢至堂があります。ここは法然が住み、また入寂した故地です。浄土宗の信仰をもっていらっしゃる方は、宗祖法然の像を重ねながら、参拝するとよいと思います。また阿弥陀三尊像では、観音菩薩と対になって、阿弥陀如来の左右に控えています。蓮台を持っているのが観音菩薩、合掌している方が勢至菩薩です。法然上人が阿弥陀様のお供をしてお迎えに北下さったと理解するのもよいでしょう。

 普賢菩薩は「全てにわたり賢い菩薩」という意味で、勢至菩薩と共に智慧の仏でもあります。文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として三尊で祀られることもありますが、単独では、白像に載せられた蓮華座に合掌する姿で結跏趺坐する姿で表されることもあります。女性の成仏を説く法華経に登場し、特に女性の信仰を集めていますので、女性の方はそのつもりで御参拝下さい。

 文殊菩薩は「三人寄れば文殊の智慧」という諺があるように、これも智慧の仏様です。ただ繰り返しになりますが、仏教的な「智慧」とは、何が真実であるかを見極める力を意味する言葉であって、いわゆる「智恵」ではありません。もちろん智慧の中には智恵も含まれるでしょうから、智恵を授かることを祈願してもよいでしょうが、本来は、智恵と智慧とは同じものではありません。像に表されるときは、獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、智慧の象徴である剣と青蓮華を持つ姿となっています。また三尊の場合は、普賢菩薩と共に釈迦如来像の脇侍として祀られることもあります。

 菩薩の次には明王のお話しをしましょう。明王とは、大日如来の命により、仏教に帰依しない衆生を力尽くでも帰依させようとする役割を持った仏です。大日如来の命を受けてということでもわかりますように、密教で重視されました。ですから真言宗や天台宗の寺にその像が多く祀られています。「明」とは真言の呪文のことですから、この点からも密教系の仏であることがわかります。種類はそれ程多くはありません。最もよく知られているのは不動明王でしょう。愛染明王も比較的知られています。他には降三世明王・軍荼利明王・孔雀明王などがあります。明王の役割の特性により、一般に恐ろしげな憤怒の相で武器を持つことが多いのも明王の特徴です。ただし孔雀明王だけは慈悲深い姿で表されます。明王は真言の王たる仏ですから、参拝する場合も、その仏専用の真言・呪文を学んで称えたらよいのでしょうが、あいにく私にはわかりません。御住職や先達に聞いてみて下さい。その真言がどのような意味を持っているのか興味のあるところですが、言葉で解説できてしまえばそれはたちまちに真言ではなくなってしまうもの。私はそのように理解しています。

 明王で馴染み深いのは、何と言っても不動明王でしょう。大日如来の脇侍となってり、あるいは大日如来の化身そのものと言われたりして、密教の典型的な仏とされています。そのため、真言宗を中心として、天台宗・日蓮宗・禅宗、あるいは修験道で幅広く信仰されています。またヴァラモン教ののシヴァ神の化身ともみなされます。右手に煩悩を断ち切る剣、左手に衆生をすくい上げる羂索を握りしめ、背には炎を背負い、憤怒の形相で岩の上に座る姿で表されるのが一般的です。しかしお下げ髪がなぜか愛嬌があり、犬歯が上下反対に伸びています。28日が縁日で、不動尊が本尊の寺では、毎月28日に特別な行事が行われることが多いようです。断ち切れない煩悩に悩んでいる人にとっては、優しそうな菩薩様より、まずはお不動様にお願いして、力尽くででも煩悩を断ち切って頂く方が近道かもしれませんね。

 次によく見る機会が多いのは、愛染明王でしょう。一般に愛欲という煩悩は悟りに至る過程では妨げになるのですが、かえってその力を転換して悟りに至らせるという功徳をもった仏です。「愛」という文字を冠している割には、一面三目六臂に獅子頭を被る恐ろしげな姿で表されます。愛染が藍染に通じるということで、藍染め業者やアパレル関係の人が信仰するのですが、愛欲を肯定的に理解するため、水商売関係者の信仰も集めています。もっともうるさいことを言えば、「藍」い「あゐ」と仮名で書きますから、「愛」の「あい」とは本来は同音ではありません。しかし現代人には区別できないので、無理もないことでしょう。

 最後に残ったのが天なのですが、一般には「天部」と呼んでいます。主にインドの古代民族宗教であるヴァラモン教などの、本来は仏教には含まれなかった神々が仏教に採り入れられ、護法神となったものが中心となっています。種類が多く、日本でも馴染み深い神々がいます。梵天・帝釈天・吉祥天・弁財天・大黒天・韋駄天・四天王・毘沙門天(多聞天)・聖天・鬼子母神・竜王・夜叉・金剛力士・八部衆・十二神将などがいますが、他にもまだいるはずです。

 まずは梵天から。原型はバラモン教のブラフマー神でした。宇宙・万物の根本原理とされるブラフマン、漢字では「梵」という観念を人格化した神で、創造を掌る神とされています。現代のインドのヒンドゥー教では、万物を維持するヴィシュヌ神や破壊を掌るシヴァ神と共に3大神とされていますが、あまり人気はありません。他の神々と比べて、あまりにも観念的すぎるからでしょうか。ただ仏教の中では、悟りに至った釈尊に対して、それを衆生に説法するように勧めたのが梵天であるとされています。一般に四面四臂(顔が4つ、腕が4本)で、鵞鳥のような水鳥の上に据えられた蓮華に座る姿で表されます。ただし一面二臂の像もあります。一般には密教系の梵天像は、ヴィシュヌ神のように四面四臂の形を取ることが多いようです。また帝釈天と対になって、祀られることもあります。

 その帝釈天ですが、この神も原型はバラモン教の神インドラです。雷や戦いの神でしたが、仏教に採り入れられてからは、梵天と並ぶ柔和な守護神となりました。そのため密教系の帝釈天像では、鎧を身に着けている場合もあります。

 歓喜天は聖天とも称され、バラモン教のガネーシャ神を原型としています。象の頭を持つ独特の姿で、単身か、同じ姿の男女二天が抱擁している形で表され、秘仏として一般に公開されることは多くはありません。秘仏とされているのは、それはあまりにも直接的な性的な表現を憚ったからでしょう。現在のヒンドゥー教ではシヴァ神の子であり、現世利益の商業神とされているため、インドの商店にはよく飾られています。我が家の近くの印度料理店にも祀られお賽銭が山盛りになっていて、その人気の程がうかがわれます。その影響もあって、日本でも夫婦和合・縁結び・子授け・商売繁盛などの現世利益をもたらす仏として信仰されています。歓喜天が祀られている所では、二股大根や巾着が描かれていることがあります。二股大根は明らかに性的なシンボルであり、巾着は冨を表しているのでしょう。個人的にはあまり現世利益が表に出ると、本来の宗教的雰囲気が薄められるのではないかと、少し気に掛かるのですが・・・・。
 
 四天王は「四」ということでもわかるように、四方に配される守護神ですので、武人の姿で表現されます。東が持国天、南が増長天、西は広目天、北が多聞天と言いますが、多聞天は単独の場合は毘沙門天と言うこともあります。毘沙門天は舎利を収めた宝塔を持つ姿で表されることもあります。法華系の法華曼荼羅には四隅に配されていることもあり、法華系の寺で特に大切にされています。法華曼荼羅を礼拝する機会があるなら、是非確認してみて下さい。また平安京の北の守りである鞍馬寺には、毘沙門天が祀られています。上杉謙信が毘沙門天を信仰し、「毘」の文字を大書した旗を使っていたことはよく知られていますね。毘沙門天は四天王の中でも最強の軍の神と信じられていたからでしょう。

 大黒天はサンスクリット語で「マハーカーラ」と言いますが、「偉大なる黒」という意味なので、「大黒」と漢訳されました。本来はバラモン教のシヴァ神の化身とされた恐ろしげな神なのですが、仏教に採り入れられて日本に伝えられ、「大国」と同じ発音と言うことから、大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合して、室町時代には福をもたらす神として信仰されるようになりました。サンタクロースのように大きな袋を担ぎ、米俵の上に立つ姿で表されることが一般的です。大黒天のお使いは鼠ですね。それは神話の中に、大国主命が素盞鳴尊(すさのおのみこと)焼き殺されそうになったとき、鼠の巣穴にかくまわれて難を逃れたという話があるためです。俵の上に乗っているのも、この鼠との縁で乗っているという説もあります。また日蓮が手紙の中で大黒天を祀るようにと書いたことがあるため、法華系の寺で祀られることがあります。

韋駄天と言うと、走るのが速いことを言いますね。この韋駄天ももとはヴァラモン教の神で、釈尊が入滅したとき、鬼神が舎利を盗んだのを追いかけて取り返したとされています。そこで走るのが速い神ということになり、「韋駄天走り」という言葉が生まれました。陸上競技をしている人は、お参りしてもいいかもしれませんね。また足の速いのを活かして、釈尊のために駆け回って食べ物を集めてくる役目を果たしていたと信じられ、そこから「御馳走」という言葉も生まれました。食べ物を集めてくるということから、寺の台所である庫裏に祀られていることがあります。庫裏のある大きな寺では、庫裏が拝観受付場所になっていることが多いので、聞いてみるとよいと思います。

 さて天部の最後に弁財天、略して弁天のお話をしましょう。元々はヴァラモン教の川の神であるサラスヴァティーで、ブラフマー(梵天)の妃とされています。サラスヴァティーは必ずヴィーナと呼ばれる弦楽器を演奏する姿に表されるため、音楽の神とも見なされました。また「弁財天」「弁才天」とも表記されるため、日本では「才」や「財」を掌る神として信仰されました。水・財・弁天と三つ揃うと、何かピンと来るものがありますね。そう、鎌倉の銭洗い弁天です。豊かに湧き出る清らかな水でお金を洗うとさらに増えるというので、一万円札を洗っている人さえいました。そこまでやるかと、私などはついて行けないと思いました。現世利益もここまで来ると、少々えげつない感じがします。まあそれはともかく、弁財天は水に縁があることを確認しておきましょう。上野不忍池の弁天、江ノ島弁天、琵琶湖竹生島の弁天などはみなよい例です。その他各地の寺社の池の畔に、弁天が祀られていることがありますので、注意してみて下さい。音楽や才能の神ということですから、参拝する人はそのつもりでお参りして下さい。お金を倍増して下さいなどという願いは、本来の宗教的信仰からはかけ離れてしまいます。

 さてさて長々とお話ししてきましたが、漏れているものも少なくありません。しかしとりあえずこのあたりで一旦話を閉めたいと思います。如何だったでしょうか。一つでも二つでも新しい発見があり、新鮮な気持ちで仏様とお出会いすることが出来ますよう、心より念じております。

 




古寺巡礼の基礎知識(建物編)

2015-10-01 10:42:15 | その他
 以下の話は、私が主宰する市民講座で講話したものを土台に、少し加筆して整えたものです。古寺の巡礼や参拝に出かける前にお読みいただくと、きっとお役に立てることと思います。

 お互いに年齢を重ね、極楽往生が近くなってきますと、若い頃には抹香臭くてあまり興味がなかった古寺の参拝に、心癒されることが多くなってくるものです。そこで今日は、古寺を参拝するに当たり、事前に知っておいた方が役に立つことを、お話ししましょう。知らずに行って後で見逃したと思っても、遠いところではまた行くことが難しいものです。観光案内に書いてあるこはあくまでも「観光」という視点から書かれていますが、「参拝」と言うからには、信仰的視点もなければなりません。そういう点で、今日のテーマは「参拝」という視点を重視してお話しをいたします。

 まずは「寺」とはどのような目的をもったものなのでしょうか。歴史的には、古代の寺院のように国家の安寧を祈るという目的もあったでしょうが、本質的には、信仰・礼拝の対象である仏を祀り、信者が礼拝をするための施設です。また仏弟子である僧侶が研鑽と修行に励む施設でもあります。在家の信者・出家者それぞれに仏と縁を持つための場所であります。一般に寺には堂宇・仏像・庭園・自然環境などの要素がありますが、それらが渾然一体となって仏の真理を象徴的に表しています。ですから博物館などで仏像などの特別展示を見ることは、普段は秘仏でめったに公開されないものを見られる、目の前で見られるという良い点もありますから、それはそれでよいのですが、像の背景となるものを切り捨ててしまっていますから、いくら礼拝してみてもどこか空虚なものが残ります。やはりその場で、その霊気の中で拝観することに意味があると思います。高校で40年間も日本史の授業をしてきましたが、教科書では仏像は美術品になってしまうことがあります。もちろん美しいとは思いますが、それ以前に信仰の対象として見なければ、本質的には理解したことになりません。

 大きな寺院を「伽藍」と呼ぶことがあります。伽藍とは「僧伽藍摩」(サンガーラーマ)という言葉の省略で、本来は僧侶が集まり修行する聖域を意味していまが、後に寺の堂宇の総称となりました。堂宇が完備された寺を「七堂伽藍」と呼ぶことがあります。この場合の「七」は実際の数ではなく、寺に必須の堂宇を満たしている意味でしょう。しかし「七」という数にこだわり、七堂の種類が決められています。これは宗派や時代によって異なりますから、無理して覚えることはないでしょう。一般には、門・回廊・金堂(本堂)・塔・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・僧坊などがあげられます。「七堂」の「堂」とは神仏を祀る大きな建物のことで、そこから転じて寺以外の大きく立派な建物を指すことがあります。公会堂とか講堂などがそれに当たります。町の大衆食堂という場合の「食堂」も、もとはと言えば僧侶達が食事をする食堂から転じた言葉です。また「伽藍堂」という言葉がありますが、一般には、広いのに中に何もない様子を意味しています。寺の堂宇はそれこそ堂々としたたたずまいをしていますが、日常的には人気(ひとけ)があまりありません。それでこのような言葉ができたのでしょう。

 それではまず寺の堂宇についてお話しましょう。最初は「塔」についてです。をそもそも塔はサンスクリット語で「ストゥーパ」と呼ばれ、漢訳された仏典では「卒塔婆」と音写されました。それを省略すれば、「塔婆」、さらに「塔」となります。日本では卒塔婆と言うと墓石の周囲に立てられる板塔婆のことを意味しますが、本来は仏塔のことなのです。英語ではタワーということですが、寺の塔、つまり仏塔とは見上げるような高い建物とは限りません。仏陀が亡くなって荼毘に付され、遺骨、つまり仏舎利は八つの部族に分配されました。それを安置したのがストゥーパで、お椀を伏せたような、巨大な土饅頭のようなものでした。そして墳上に日除けの傘を幾重にも重ねたようなものでした。活ける人としての仏陀を失った弟子たちの嘆きは如何ばかりだったでしょう。目に見える仏陀が居なくなった以上は、仏陀を慕う心は、そのまま自然に仏舎利を尊ぶ心に繋がります。骨そのものを崇拝するわけではありませんが、仏舎利を通して仏陀の説いた真理に少しでも近づきたかったのでしょう。それを表面的に見れば、仏舎利が信仰の対象のように見えます。誤解のないように敢えて繰り返しますが、骨はあくまでもよすがであって、尊いのは仏の真理です。こうして仏舎利を安置したストゥーパ、つまり卒塔婆・塔婆・塔が初期の仏教の礼拝の中心とはなったのです。
 仏滅の約200年後、仏教に帰依したインドのアショーカ王は、仏舎利を発掘して細かく分け、周辺諸国も含めて8万余の寺に再分配したと言われます。もちろんその中のいくつかは日本にももたらされたことでしょう。鑑真も日本に持ってきたことになっています。しかしそうなると一粒一粒はまさに米粒程の大きさになってしまったに違いありません。白いご飯を「銀舎利」という言いますが、おそらくそれに近い状態だったと思われます。とにかくここでは、本来は仏舎利を祀る塔が、寺の中心であったことを確認しておきましょう。

 ここで一寸脱線します。日本の仏塔には、多重塔(三・五・七・十三)、多宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑など、多くの種類があります。それらを一つ一つ解説する時間がありませんので、ここでは五輪塔について少しお話ししておきましょう。五輪塔は、下から立方体、球体、三角形、半月形、宝珠形の形の異なる石を積み上げた石塔で、日本独特の形です。高さは小さい物なら数十㎝、大きくても2mくらいのものですから、塔をタワーと理解してしまうと、とても塔とは思えません。平安末期頃から供養塔や供養墓として出現しますので、鎌倉に行くとたくさん見られます。「五輪」というのは密教では宇宙の構成要素である「五大」、つまり地水火風空を表すとされていて、五輪塔の下の方からそれぞれの石に相当させ、地輪・水輪・火輪・風輪・空輪と称します。この五輪塔を真横から見たシルエットには、独特の凹凸ができますが、これを木の板の上部にに刻んだものがよく墓石の周囲に立てられる板塔婆です。卒塔婆とも言いますよね。これが出現するのは鎌倉初期で、五輪塔の出現と近い時期です。彼岸や盆や故人の命日などには今でも板塔婆を新しく立てますが、あれは本来ならば五輪塔を立てて故人を供養していることになるのです。これまで板塔婆の刻みなど目にも留まらなかったことでしょうが、今度は注意深くご覧下さい。

 閑話休題。日本最初の寺と言われている飛鳥寺は、蘇我馬子が建てたものです。もちろん堂宇は現存しませんが、発掘により堂宇の配置、つまり伽藍配置が明らかになっています。それによれば、塔を中心にあり、それを塔の左右と背後を囲むようにして、仏像を祀った三つの「金堂」と呼ばれる堂が建てられています。金堂については後でお話しするとして、仏教が日本に伝来した頃は、まだ塔が寺の中心であったことがわかります。それが聖徳太子が発願した四天王寺になると、塔はまだ寺の中心にありますが、塔の左右にあった金堂がなくなり、金堂は塔の後ろに一つだけになってしまいます。つまり門・塔・金堂が直線上に配置されています。そして法隆寺になりますと、塔と金堂が左右に並び、どちらが優位にあるか曖昧になりました。もちろん法隆寺も聖徳太子が建立したのですが、西暦670年に火事で焼けてしまいました。現在の堂宇はそれからほど近い時期の再建ですので、四天王寺の伽藍配置よりは時期的に遅れるわけです。そして薬師寺になりますと、金堂を中心にして、東塔と西塔が一対となって金堂の前方左右に位置し、ここで完全に塔と金堂の重要性が逆転してしまいました。このあたりのことは大学入試問題でもしばしば出題されることなのですが、私達にはそこまで知らなくとも問題はありません。要するに、初めは塔が金堂より優位であったものが、次第に逆転し、ついには金堂が寺の中心となってしまった、ということを確認しておきましょう。

 金堂の話が出たところで、今度は金堂についてお話ししましょう。金堂とは本尊となる仏像などを祀る主要な堂宇で、主に奈良仏教や真言宗で用いられる呼称です。延暦寺では「根本中堂」と呼ばれ、禅宗では「仏殿」、浄土系や法華系の寺では「本堂」と呼ばれたりします。「金堂」という呼称は、堂内を金色に装飾したからとか、本尊が金色だからということに因ると言われています。如来の像を作る際には、仏の三十二相といって、仏の持つ32の優れた身体的特徴をすべて採り入れて作る約束事があります。その14番目に「身金色」というのがあって、肌が金色をしていることになっているのです。東大寺の大仏は今では黒光りしていますが、かつては金ぴかでした。日本人は枯淡の美しさを知っていますので、金が剥げてしまった仏像でも、それはそれで美しいと感じるのでしょうが、東南アジアのタイやミャンマーの人が見たら、きっと違和感を持つことでしょうね。金堂にはその寺の最も大切な仏像が祀られるのが普通ですから、金堂を拝観することがあるなら、像を拝観することによって仏と結縁するつもりでお参りして下さい。東大寺の金堂を見たことがありますか? さて、そんなものがあったかなと思っているのではありませんか。金堂は本尊仏を祀っているお堂ですから、大仏殿のことです。説明書には「金堂」と書いていなくても、あれが金堂なのです。それなら塔はどうなっているかと言うと、回廊の外側に東西の塔の跡が少し盛り上がって残っています。誰も見ることはないのでしょうが、鹿の糞にまみれて、古代の瓦のかけらが落ちていました。私にはとてつもなく貴重な物に見えたのですが。まあそれはともかく、大仏殿が金堂であることを再確認すれば、舎利を祀ったはずの塔の意味が薄れてしまったことがよくわかります。
禅宗では仏殿と言うことはお話ししましたね。一般的には修行僧がみな参集するわけではありませんから、それ程大きな建物ではありません。修行僧でも、日常的には仏殿に入ることはあまりありません。禅宗では普通は釈迦如来像が本尊として祀られます。浄土系の寺の金堂に相当するのは阿弥陀堂ですが、これについては改めて別にお話ししましょう。

 次は講堂についてお話ししましょう。講堂とは僧侶が経典の講義や説教を聴くための堂宇で、英語にすればレクチャー・ホールてなところでしょうか。通常は金堂の背後に建てられます。お師匠様の講義を聴くために一山の僧侶が参集するため、建物の規模が大きくなるのが普通で、その代わりにあまり装飾的ではありません。講堂として特に知られているのは、唐招提寺の講堂です。何しろ平城宮の東朝集殿を移築した物で、平城宮の現存唯一のけんちくぶつなのですから。
 禅宗寺院では特に「法堂」(はっとう)と呼ばれます。禅宗の修行では師匠からの相伝が重視されました。そのため師匠との禅問答に不可欠の法堂は、ある意味では仏殿以上に大切な堂宇でありました。法堂の床は土間になっています。「土間」といっても土ではなく、正方形の平らな瓦を四半敷き(石敷きの縁に対して目地が45度になるように斜めに敷き詰める)となっています。そして仏壇の前には一対の論議台が置かれ、衆僧は周囲の床机に座って聴聞しました。法堂の中までは入れなくとも、隙間から覗けるでしょうから、往時の修行僧の様子を想像して下さい。法堂の天井は、平に板を張った鏡天井になっています。そこにはしばしば竜が描かれます。竜は仏法護持の神獣であり、雲や雨を呼ぶとされることから火事除けの呪いという意味もあったのでしょう。

 さて次は阿弥陀堂についてお話しします。阿弥陀堂とは、西方極楽浄土の主尊である阿弥陀如来像を祀る堂宇です。拝む人は西を向きますから、堂宇は東を向くことになります。阿弥陀堂ではまずこの方角を確認して下さい。方向磁石がなくとも、昼間なら時計があれば確認できます。時計の短針を太陽の方角に向け、短針と12時の方角の作る角度の二等分線が常に南を指しています。デジタル時計ならば、アナログ時計を想定しながらやってみて下さい。およその方角はこれで十分確認できます。京都駅前の烏丸通りを北に進むと、左手に東本願寺が通りに面して位置していますね。北に行く通りに面しているということは、お堂は東に向いているということです。平等院鳳凰堂も阿弥陀堂ですから、このやり方で確認してみましょう。一寸脱線しますが、拝むときに西を向くというので、西向きの墓地よりも東向きの墓地の方が値段が高いことがありますが、それももとはと言えば、極楽が西の彼方にあるとされたことに因ります。
 阿弥陀堂の中心には阿弥陀如来像が安置され、その周囲を念仏を称えながら巡り歩く常行三昧という行が行われることがありました。この行は、最澄の弟子の円仁が延暦寺に常行三昧堂を建てたことに始まるとされ、今でも延暦寺で行われています。「三昧」とは一つのことに集中して心を乱さないことですが、何と90日間も念仏を称えながら休むことなく昼夜歩き続けると言います。実際には身体が持ちませんから休みますが、それも足腰を伸ばせない狭いところで、一日2時間の仮眠だけが許されるということです。本尊の周囲には手すりがあり、疲れたときにはこれを頼りに歩くそうです。もし阿弥陀堂の本尊の周囲を一巡りできるようなことがあれば、それこそ貴重な体験ですから、念仏しながら暫く巡ってみて下さい。手すりが残っていれば、それも貴重な見物なのです。常行三昧の行を行うため、阿弥陀如来像の周囲には通路が設けられました。そのため、堂自体は平面が正方形で、方一間の母屋(もや)に像を安置し、周囲に1間の庇を設けるため、方三間の建物になることが多いものです。母屋を3間とすれば、方五間となります。そのため屋根も必然的に宝形造となります。方三間であることは形に過ぎませんが、そこに信仰が隠れていることを察することができます。

 次は開山堂について。これは一山一寺を創開した初代住職や宗祖を祀る堂宇のことです。開山とよく似たものに開基というものがありますが、こちらは資金を出して援助した人のことですから、混同しないようにしましょう。禅宗では「開山堂」、浄土宗・浄土真宗では「開山堂」のほかに「御影堂」(みえいどう・ごえいどう)、日蓮宗では「祖師堂」、真言宗では「大師堂」「御影堂」とも称します。多くの場合、開山や宗祖の像が安置されています。浄土系の大寺院では、開山堂と本堂である阿弥陀堂が回廊で連結される両堂型式になることがあり、しかも開山堂(多くの場合「御影堂」)の方が大きな建築となっています。阿弥陀様より宗祖様の方が偉くなってしまったのでしょうか。宗祖がこのような様子を見たら、違うのではと言いそうに思うのですが・・・・・。

 かわったところで、庫裏についてお話ししましょう。庫裏とは僧侶の居住する堂宇で、実際には台所や寺務所となっていることもあります。切妻造の妻入で、三角形の大きな破風を備え、壁面の白壁と柱や梁の構造が印象的です。大寺院では拝観の入り口になっていることが多いものです。もともとは台所でもあったため、竈の跡や煙突が残っていることがあります。わけを言えば、見せてくれることもあるでしょう。また台所を兼ねることから、「厨」と書いて「くりや」と読み、台所を表すこともあったり、飲食店の名前になったりしています。また浄土真宗の寺では、僧侶の妻を「お庫裏様」と呼ぶことがあります。庫裏には韋駄天が祀られていることがあります。韋駄天とはヒンドゥー教のシヴァ神の子で、本来は「スカンダ」という軍神でした。それが仏教に採り入れられ、韋駄天となりました。鬼神が仏舎利を奪って逃げたとき、これを追いかけて取り戻したとつたえられることから、よく走る神・盗難除けの神ともされ、「韋駄天走り」という言葉が派生しました。またよく走り回って食料を集めてくるとされたことから、台所の守護神とされているわけです。

次は方丈について。「方丈」というとすぐに『方丈記』を思い起こしますね。もとは一丈四方、つまり3m四方の部屋ですが、住職の居室の機能をもった部屋のことです。曹洞宗では住職のことを意味することもあります。公的な応接室としての機能もあるため、方丈の前庭は、立派な庭園になっていることが多いものです。竜安寺石庭や大徳寺大仙院石庭、天竜寺大方丈石庭などはよく知られていますね。ついでですが、大仙院は大徳寺の塔頭の一つです。塔頭とは、本来は祖師や高僧の没後、弟子がその遺徳を慕って建てた墓塔や小庵のことですが、桃山時代以降、各地の大名が自身の帰依する僧の隠居所として寄進した小院を指すようになりました。実際には大寺院で修行する僧の居住する、大寺院敷地内の末寺のような存在です。僧の住居でもあるため、方丈と同様に、見るべき文化財が多く伝えられています。

 さて建物の話の最後に、寺門のお話しをしましょう。寺の門は一般に「山門」と呼ばれますが、この場合「山」は「寺」と同義語ですから、寺の門そのものを表します。一口に寺の門といっても、色々な種類があります。よく知られいてるのは仁王門で、「二王門」とも書きます。寺の守護神である一対の仁王像がが、仏敵の侵入を阻止するような憤怒の姿で立っていますが、仁王は「金剛力士」とも呼ばれます。向かって右側が口を開いている阿形、左側が閉じている吽形ですね。両方揃って「阿吽の呼吸」の「阿吽」となっています。両脇に仁王像が立つため、柱間が三間で中央部に一間の通路がある三間一戸、重層入母屋造形をとるのが一般的です。仁王門によく似ているものに二天門があります。四天王のうちの二天像を安置したもので、法華宗の寺によく見られます。
 「山門」とよく混同されますが、「三門」も信仰的に注目したい門です。禅宗の大寺院によく見られる門で、「三解脱門」を省略して「三門」と呼びます。禅宗では迷いから解放されるためには、物事にとらわれない「空・無相・無願」の三つの道を通らなければならないと説くそうです。その三つの道を象徴する三つの通路をもった門が三門です。三門は柱間が五つで通路が三つの五間三戸が一般的で、通路があっても扉がないのが一般的です。また三門の左右に続く塀もありません。扉も塀もない三門は、警備のための門ではなく、仏門に入りたい衆生を一切拒まないという、仏の慈悲の心を象徴的に表しているのです。知らなければ何も感じずに通過してしまう門ですが、仏門に入るのだという気持ちになって潜ってみたいものです。