うたことば歳時記

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正月にはなぜ鏡餅を供えるの?

2021-12-31 10:26:43 | 年中行事・節気・暦
正月にはなぜ鏡餅を供えるの? 
 そもそも餅はいつ頃からあったのでしょうか。文献上では、奈良時代の初期に編纂された『豊後国風土記』(ぶんごのくにふどき)という書物に、餅について次のような話が記されています。「昔、豊後国に住む裕福な人が、酒に酔った勢いで餅を的にして矢を射た。ところがその的は白鳥になって飛び去ってしまった。それより後、その家は次第に衰えて亡んでしまった」というのです。また『山城国風土記』にも同じ話が記されています。「秦伊侶具(はたのいろぐ)という裕福な人が餅を射たところ、餅は白鳥になって飛び去り、山の峰に舞い降りた。するとそこから稲が生えてきたので、そこに社を建てて稲荷(いなり)と名付けた」というのです。後の話は稲荷神社の起原に関わっていますが、どちらも、裕福な者がおごり高ぶって餅を射たところ、白鳥になって飛び去ってしまったという話です。的にしたというのですから円形であった可能性が高く、また粗末にしてはいけない神聖な物であったことがわかります。
 正月には鏡餅を供えますが、平安時代には「餅鏡」(もちいかがみ)と呼ばれる神聖な餅が供えられていました。餅鏡は鏡餅の原形と考えられます。昔の鏡は原則として円形でした。また鏡は弥生時代以来神聖なものと考えられ、古墳に副葬されたり、天皇の位を象徴する三種の神器に数えられたり、神社や神棚に祭られたりして、大切に扱われてきましたから、「餅鏡」「鏡餅」という名前は神聖な餅の名前として、実にふさわしいものなのです。
 『源氏物語』の「初音」(はつね)の巻には、光源氏の妻である紫の上の御殿の、元日の様子が記述されています。そこには供えられた餅鏡に向かって、人々は「(これからの千年も続くであろう栄が)今からもう見えるようです」と、祝福を先取りするようなめでたい言葉を述べています。このように長寿を願うために供えたり食べたりする物は「歯固」(はがため)と呼ばれ、鏡餅はその中心となるものでした。つまり正月の鏡餅(餅鏡)は、長寿を祈るために供えられたのです。歯固として供えられる物には、鏡餅の他に大根・瓜・芋(里芋)・雉の肉・押鮎(おしあゆ、塩漬けにした鮎)・譲葉などがありました。
 室町時代に一条兼良(いちじょうかねら)という博学の公卿が著した『世諺問答』(せいげんもんどう、1544年)という書物には、「鏡餅に面と向かう時には、『古今和歌集』に収められている『近江のや鏡の山を立てたればかねてぞ見ゆる君が千年(ちとせ)は』という、長寿を祝う歌を声に出して読む」と記されています。室町時代においても、鏡餅は長寿を祈願する供物だったのです。
 江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供向けの年中行事解説書にも、『世諺問答』と同じように、「鏡餅に座る時は、この歌(近江のや鏡の山を立てたれば・・・・)を三遍唱へて身を祝へば、その年仕合せよしと、昔より言ひ伝ふ」と記されていて、鏡餅が長寿を祈願する供物という理解が、江戸時代にも受け継がれていることがわかります。
民俗学的には鏡餅の起原について、年神(としがみ)の宿る依代(よりしろ)であるとか、年神への供物であったと説明されています。現在の伝統的年中行事解説書には、ほぼ例外なしにそのように説明されているのですが、確かな文献では、そのようなことは確認できません。ただ江戸時代には年神の神棚に鏡餅を供え、また松の内(門松が飾られている期間)が明けると、餅を神棚から下ろして鏡開きをして食べる風習がありましたから、鏡餅が年神の霊魂の象徴と理解されたことはあるでしょう。また古老がその様に語っていたということは十分にあり得ることです。しかしそれをそのまま平安時代にまで遡らせて、鏡餅の起源は年神の供物や依代であったとすることはできません。鏡餅は平安時代には出現しているのですから、まずは平安時代の文献史料によって裏付けられなければならないのです。


どうして年越し蕎麦を食べるの? (子供のための年中行事解説)

2021-12-29 12:53:38 | 年中行事・節気・暦
どうして年越し蕎麦を食べるの?
 江戸時代には毎月の晦日(みそか、月末の日)に蕎麦(そば)を食べる風習がありました。江戸随一の歓楽街であった吉原の風習を解説した『吉原大全』(1768年)という書物には、毎月月末に晦日蕎麦を食べると記されています。ですから当然大晦日にも蕎麦を食べるわけですが、これが年越蕎麦の起源かどうかは不明ですが、江戸時代の早い時期に、月末に蕎麦を食べる風習があったことを確認できます。
 江戸時代には毎月の晦日や大晦日だけでなく、年末の大掃除である煤払の時などにも、手伝いの人にふるまわれることがよくありました。『東都歳時記』には、年末の煤払いで掃除の合間に、手の空いた者から蕎麦らしき物を食べている様子が描かれています。蕎麦は一度に大量にゆでて、あとは器に盛り付けるだけですから、多くの手伝いの人に次々にふるまうには、手軽で調理の手間もかからず、実に便利な食事でした。
 江戸時代の記録の中から、大晦日の蕎麦に関する記述をいくつか拾い出してみましょう。江戸時代後期の天保から弘化の頃、桑名藩の下級武士であった渡部政通の日記『桑名日記』と、その養子で桑名藩領の柏崎へ赴任した渡部勝之助の日記『柏崎日記』には、年末に蕎麦を食べたという記事がしばしば記されています。ただし「年越蕎麦」という言葉は見当たりません。
 また「晦日そば残ったかけはのびるなり」(『誹風柳多留』32-28)という川柳があります。これはなかなか凝った作りになっていて、大晦日のかけ蕎麦を食べているところへ、年末というので借金取りが「売掛」の集金にやって来たのでしょう。何とか拝み倒して、売掛の支払期限を延ばしてもらったのはよいのですが、その間に食べ残していた「かけ」蕎麦も伸びてしまった、というのです。
 江戸時代末期に活躍した川路聖謨(かわじとしあきら)という幕臣は、天保年間に佐渡奉行となるのですが、江戸を出てから翌年にまた江戸に帰るまでの間、『島根のすさみ』という日記を書き残しました。その中には十二月の大晦日に山葵(わさび)と海苔(のり)を薬味として蕎麦を食べたという記事があります。当時から山葵と海苔を薬味としていたことがわかって、なかなか興味深いものです。
 『東京年中行事』(1911年)には、「この動揺と騒々しさの夕に於ける蕎麦屋の繁昌することよ。・・・・年越蕎麦は今も猶盛に祝はれつつあるのである。」と記され、蕎麦好きの多い東京では、江戸時代よりも盛んになっている様子を見て取ることができます。
 正月七日は七草の節句の日ですが、「七日正月」と呼ばれることがありました。それで前日の六日は「六日年越」と呼ばれることになるのですが、『東京風俗志』(巻七、1899年)には、蕎麦を食べる家があることが記されています。これは年越蕎麦と同じ発想でしょう。
 なぜ年越蕎麦を食べるのかということについては、「細く長く」とか、切れやすいので「厄を断ち切る」とか、色々な説があります。しかしどれも確かな根拠がなく、どこまで本当なのかわかりません。例によって「・・・・と言われています」というだけです。『長崎歳時記』(1757年)には、翌年の運が強くなるので食べると記されています。このような蕎麦は「運蕎麦」とか「運気蕎麦」と呼ばれました。前掲の『桑名日記』の天保十一年の大晦日にも、「うんのそば五つたべてくる」という記述があり、現代の理由付けとはかなり異なっています。出所の異なる複数の文献史料に「運蕎麦」が記されていますから、信用できると思います。江戸時代の個人の日記類を丹念に探せばもっと見つかることでしょう。
 あるアンケート調査によれば、現代では6割以上の人が食べるということです。最近では年が明けると、「年明けうどん」を食べるという風習が宣伝されるようになりました。もちろんこれには歴史的根拠は皆無で、うどんの製造・販売に関わる人達が、年越しそばにまねて、売り上げを伸ばそうという狙いで始めたことです。既に節分の恵方巻きが風習として定着しているように、いずれ年明けうどんも定着するかもしれません。しかしその背景には、関係する業者の不純な動機が見えて、年中行事の研究者としては複雑な思いです。


門松はいつ飾り、いつ取り除けばいいの?(子供のための年中行事解説)  

2021-12-28 07:57:59 | 年中行事・節気・暦

門松はいつ飾り、いつ取り除けばいいの?
 門松を飾る日について、一般には十二月二十九日は「二重苦」に通じるとか、大晦日に飾るのは「一夜松」と称して、飾ってはいけない日と説かれています。しかし古くはそのような風習はありませんでした。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』という記録や、江戸時代前期の『日本歳時記』(1688年)という書物には、年末最後の晦日の三十日に飾るとされています。ちなみに旧暦では三十一日はありません。江戸の歳時記である『東都歳時記』(1838年)や『東都遊覧年中行事』(1851年)には二十八日か二十九日、江戸幕府の年中行事記録である『武家年中行事』(1830~1840年頃)には江戸城の門松は二十九日、明治時代末期の『東京年中行事』(1911)には、「二十日にもなれば、もう気の早い家にては門松を立て飾る」と記されています。要するに門松を立てる日については、それぞれの地域によって風習があったでしょうが、基本的にはいつ立てようと全く自由だったのです。門松を立ててはいけない日というのは、おそらく近年に誰かが説き始めたことが、もっともらしく広まったのでしょう。
 取り除く日については、地域によって一応の期日が決まっていました。それは正月飾りを持ち寄って燃やす、「左義長」(さぎちょう)とか「とんど焼き」と呼ばれる行事が各地で行われていたのですが、その前日には取り外さなければなりません。江戸時代末期の『守貞謾稿』という書物には、「江戸では昔は十六日に取り外すことになっていたが、寛文二年(1662年)からは、幕府の命令により七日に取り除くようになった。京都や大坂では十六日にこれを取り除く」と記されています。『東京風俗志』(1899~1902年)には六日、『東京年中行事』(1911年)には十四日となっています。左義長は小正月の十五日に行われることが多いため、全体としてはその前日の十四日が多いようです。
 現在の歴史的年中行事については、「・・・・しては縁起が悪い」とか「不吉である」と、様々な禁止事項が説かれています。しかしそれらの中には、明治時代以後、さも古くからの風習であるかのように誰かが説き始めたものがたくさんあります。ですからその様なことは気にする必要はありません。そういうことをもっともらしく解説している人は、江戸時代や明治時代の文献など、読んだことがないのでしょう

コラム「大晦日は12月30日だった」
 現在の暦では、大晦日は12月31日です。しかし旧暦には、31日という日付は存在しません。満月から次の満月までは、約29.5日あります。旧暦では月の満ち欠けを基準にして一カ月の期間とするのですが、実際の生活では、一カ月が29.5日という半端な数というわけにいきません。そのため29日と30日の月を交互に配置して、平均すると一カ月が29.5日になるようにしているのです。そのため、12月は30日が事実上の大晦日だったのです。

なぜ門松を立てるの? (子供のための年中行事解説)

2021-12-27 08:56:44 | 年中行事・節気・暦
なぜ門松を立てるの?
 門松は、新年を迎える家の門のそばに立てられる、松竹の正月飾りです。その立て方や大きさには地域によって特徴があり、全国みな同じというわけではありません。しかし松であることは共通していて、そこに重要な意味があります。
 それなら松はどのような木と考えられていたのでしょう。『万葉集』には「千代松樹」という言葉があり、松は樹齢(木の寿命)の長い木と考えられていました。また冬でも枯れずに青々と繁るため、めでたいことを表すシンボルとされて来ました。ですから長寿を祝う正月のシンボルとして、実にふさわしいものです。そして唱歌の「荒城の月」には「千代の松が枝」という言葉があるように、松が長寿であるという理解は、現在まで続いているのです。
 現在は、「今年はねずみ(子)年」などというように、十二支を年に当てはめていますが、本来は月や日にも当てはめられていました。平安時代には一月最初の「子(ね)」の日に、野原に出て若草を摘んだり、まだ背丈の低い若松を根ごと持ち帰って植え、松のように長生きできることを願うという行事がありました。これは「子(ね)の日」「子の日の遊び」「小松引き」と呼ばれ、そのことを詠んだ和歌がたくさん残されています。現在でも関西地方の門松は「根引の松」と呼よばれ、門松として根が付いたままの小松が飾られています。正月の門松は、この「子の日の小松」が変化したものなのです。『堀河院百首歌』(1104年頃)という和歌集には「門松」を詠んだ歌があります。「門松を営み立つるそのほどに春明け方に夜やなりぬらん」という歌なのですが、これによって遅くとも11世紀末には、門松を立てる風習が始まっていたことを確認できます。
 長寿を祈願するための門松の風習は、その後も長く受け継がれます。平安時代末期の流行歌の歌詞集である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう、1180年頃)という書物には、「新年、春来れば門に松こそ立てりけれ、松は祝ひのものなれば、君が命ぞ長からん」という歌があります。「新年に門に立てる松の樹齢が長いように、あなたの寿命が長くなりますように」という意味ですから、門松が長寿を祈願するためのものであったことがわかるでしょう。
 門松には竹が添えられることがあります。竹が松に劣らず長寿であるという理解は、平安時代には始まっていました。「色変へぬ松と竹との末の世をいづれ久しと君のみぞ見む」(『拾遺和歌集』)という和歌があるのですが、「松と竹のどちらが樹齢が長いか、あなたがそれを見届けることでしょう」という意味です。ただしこれが門松かどうかは、この歌ではわかりません。そして室町時代後期の『世諺問答』(せいげんもんどう)という書物には、門松の起原を問う質問に対して、「その門の前に松竹を立はべり、松は千歳を契り、竹は万代をかぎる草木なれば、年のはじめの祝事に立てはべるべし」という答が記されています。これは「松は千年の長寿を、竹は万年の長寿を約束するから、新年の祝いとして立てる」という意味ですから、門松に竹が添えられるようになったのは、遅くとも室町時代までは遡ることができます。
 このような理解は、江戸時代になっても続いています。子供のための節供解説書である『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく、1833年)には、「正月門松立つる事は、松は千歳、竹は万代を契るものゆゑ(え)に、門に立てて千代よろづを祝ふなり」と記されていて、室町時代の『世諺問答』に記されていたのと同じように理解されていました。
 一般に門松を立てる意味について、「年神を迎えるための依代(よりしろ)」であると説明されることがあります。「依代」とは、祭りの時に神の霊魂が宿るもののことで、年神は門松を目当てにやって来るというわけです。しかし平安時代から江戸時代に至るまで、門松は長寿を祈願したり祝ったりするために立てられたことは、数多くの文献で確認できますが、年神の依代が門松の起原であるということを、証明する古い文献は何一つ存在すらしないのです。ただし本来の意味を知らずに、江戸時代以後にそのように理解する風習がある地域で行われていたり、そのように古老が語っていたことはあるかもしれません。

正月はなぜめでたいの? (子供のための年中行事解説)

2021-12-25 18:57:37 | 年中行事・節気・暦
正月はなぜめでたいの?
 一月一日 、新しい年が明けると、みな「おめでとう」と互いに挨拶をします。しかし正月になることは、どうしてそれ程にめでたいのでしょうか。もちろん新しい年を迎えて、気分が新たになるということもあるでしょうが、それだけではありませんでした。なぜめでたいのかは、新年を迎えるめでたさを詠んだ古い和歌などによく現れています。それを読んでみると、同じ正月のめでたさでも1000年以上もの時間差があり、現代人の知らない「めでたさ」があったことがわかります。
 新年の歌に限らないのですが、昔の人が何をめでたいと感じていたかは、多くの和歌集に収められた祝賀の歌にはっきりと現れています。そこにはある一つの特徴があります。それは長寿(長生き)を祈願したり、長寿を祝う歌がとても多いことです。長生きすることはとてもおめでたいことなのですが、それは見方を変えれば、難しいことであったことをも表しているのです。
 それなら、何歳になったら長寿と言えるでしょうか。試しに国語辞典で「初老」(老年になるとされる年ごろ)と検索してみて下さい。「四十歳のこと」となっているでしょう。長生きをすることがいかに難しいことであったかがよくわかります。平均寿命が30代の平安時代には、40歳で最初の長寿の祝を行い、以後は10年ごとに祝うのが普通でした。このように10年ごとに祝う長寿の祝いを「算賀」というのですが、平安時代の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られた和歌集)の賀の歌(祝いの歌)の巻には、そのような歌がたくさん並んでいます。国歌「君が代」のもととなっている「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(『古今和歌集』賀歌343)という歌は、そのような長寿を祈願する歌の一つなのです。
 太平洋戦争が始まった昭和十六年(1941年)に作られた『船頭さん』という童謡があるのですが、歌詞には「ことし六十のおじいさん」となっています。現在は60歳で定年退職することが多いのですが、60歳の人に「おじいさん」と呼びかけたら、きっと気分を悪くすることでしょう。一般的には65歳から高齢者と呼んでいますが、それでもまだまだ働ける年齢です。現代日本人の平均寿命は、男はほぼ81歳、女は87歳にもなっていて、「老」についての考え方が全く異なっているのです。
 昔の人の平均寿命がいかに短いものであったか、いくつか数字を上げてみましょう。平安時代の歴代の天皇では42歳、鎌倉幕府の実権を握っていた歴代の執権では47歳、江戸時代の歴代の将軍では51歳という結果になりました。案外長いと思うかもしれませんが、記録には残りにくい庶民なら、栄養状態や生活環境が劣りますから、もっと短くなるでしょう。また幼児のうちに死んでしまう数が成人する数よりはるかに多いことを考えれば、それらを含めた平均寿命はさらに低くなります。私が計算したわけではありませんが、室町時代までは平均寿命は30代、江戸時代から昭和の戦前でも40代、戦後の昭和22年でようやく52歳だったそうです。
 長生きすることが難しかった時代には、長寿をめでたいと感じることは自然なことでした。それなら長寿を願うことと正月が、なぜ結び付くのでしょうか。それは昔の年齢の数え方によっています。明治時代の中頃までは、子が生まれるとその日から1歳と数え、次の正月元日を迎えると1歳年齢が増えるものとされていました。この様な年齢の数え方を数え年と言います。ですから正月は年齢が一歳増えて長寿を実感できるめでたい日でした。すると大晦日に生まれた子は翌日に2歳。元日に生まれた子は、翌年の正月元日にようやく2歳になるのですが、それでよかったのです。
 数え年による年齢の数え方は、明治三十五年(1902年)から民法の附属法として施行された、「年齢計算ニ関スル法律」により、誕生日に一歳増える満年齢に改められたのですが、なかなか定着しなかったため、昭和二十五年(1950年)に「年齢のとなえ方に関する法律」があらためて施行され、その徹底が図られました。ちなみに韓国では、現在でも数え年によって年齢を数えています。
 このように正月がめでたいものと考えられたのは、寿命が一年延びたことを実感できるからだったのですが、後にはさらに別の理由が付け加えられました。正月には「年神」(としがみ、歳神・歳徳神)と呼ばれる神が各家々にやって来て、豊作と幸せをももたらしてくれるという民間信仰が生まれたのです。つまり正月には年神がやって来て、一年間の長生きと豊作や福を約束してくれるのですから、これ程めでたいことはなかったのです。
 「年神」には様々な要素が含まれています。「とし」という言葉は奈良時代以前からある古い言葉なのですが、もともとは稲の実りを意味していましたから、年神は穀物の神であり、農耕を掌る「田の神」でした。また祖先の霊であり、陰陽道では「歳徳神」(としとくじん)とも呼ばれるもので、何か特定の固有名詞を持つ神ではありません。信仰する人の立場や職業などによって様々な理解があり、漠然と「年神」と呼ばれてきたのです。ただしこのような民間信仰が広く共有されるようになった時期については、庶民生活の古い記録が少なく、残念ながらはっきりしたことはわかりません。しかし各地に残された民間信仰や風習は、江戸時代にそのような理解があったことを示しています。しかしそれより前まで遡れるかどうかは確証がありません。正月を祝うということは、初めは長寿の祈願から始まり、庶民生活が比較的安定し、農民にとって米の年貢が大きな意味を持つ江戸時代に至って、豊作や福をもたらす年神信仰の要素が付け加えられていったと見るべきでしょう。