正月にはなぜ鏡餅を供えるの?
そもそも餅はいつ頃からあったのでしょうか。文献上では、奈良時代の初期に編纂された『豊後国風土記』(ぶんごのくにふどき)という書物に、餅について次のような話が記されています。「昔、豊後国に住む裕福な人が、酒に酔った勢いで餅を的にして矢を射た。ところがその的は白鳥になって飛び去ってしまった。それより後、その家は次第に衰えて亡んでしまった」というのです。また『山城国風土記』にも同じ話が記されています。「秦伊侶具(はたのいろぐ)という裕福な人が餅を射たところ、餅は白鳥になって飛び去り、山の峰に舞い降りた。するとそこから稲が生えてきたので、そこに社を建てて稲荷(いなり)と名付けた」というのです。後の話は稲荷神社の起原に関わっていますが、どちらも、裕福な者がおごり高ぶって餅を射たところ、白鳥になって飛び去ってしまったという話です。的にしたというのですから円形であった可能性が高く、また粗末にしてはいけない神聖な物であったことがわかります。
正月には鏡餅を供えますが、平安時代には「餅鏡」(もちいかがみ)と呼ばれる神聖な餅が供えられていました。餅鏡は鏡餅の原形と考えられます。昔の鏡は原則として円形でした。また鏡は弥生時代以来神聖なものと考えられ、古墳に副葬されたり、天皇の位を象徴する三種の神器に数えられたり、神社や神棚に祭られたりして、大切に扱われてきましたから、「餅鏡」「鏡餅」という名前は神聖な餅の名前として、実にふさわしいものなのです。
『源氏物語』の「初音」(はつね)の巻には、光源氏の妻である紫の上の御殿の、元日の様子が記述されています。そこには供えられた餅鏡に向かって、人々は「(これからの千年も続くであろう栄が)今からもう見えるようです」と、祝福を先取りするようなめでたい言葉を述べています。このように長寿を願うために供えたり食べたりする物は「歯固」(はがため)と呼ばれ、鏡餅はその中心となるものでした。つまり正月の鏡餅(餅鏡)は、長寿を祈るために供えられたのです。歯固として供えられる物には、鏡餅の他に大根・瓜・芋(里芋)・雉の肉・押鮎(おしあゆ、塩漬けにした鮎)・譲葉などがありました。
室町時代に一条兼良(いちじょうかねら)という博学の公卿が著した『世諺問答』(せいげんもんどう、1544年)という書物には、「鏡餅に面と向かう時には、『古今和歌集』に収められている『近江のや鏡の山を立てたればかねてぞ見ゆる君が千年(ちとせ)は』という、長寿を祝う歌を声に出して読む」と記されています。室町時代においても、鏡餅は長寿を祈願する供物だったのです。
江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供向けの年中行事解説書にも、『世諺問答』と同じように、「鏡餅に座る時は、この歌(近江のや鏡の山を立てたれば・・・・)を三遍唱へて身を祝へば、その年仕合せよしと、昔より言ひ伝ふ」と記されていて、鏡餅が長寿を祈願する供物という理解が、江戸時代にも受け継がれていることがわかります。
民俗学的には鏡餅の起原について、年神(としがみ)の宿る依代(よりしろ)であるとか、年神への供物であったと説明されています。現在の伝統的年中行事解説書には、ほぼ例外なしにそのように説明されているのですが、確かな文献では、そのようなことは確認できません。ただ江戸時代には年神の神棚に鏡餅を供え、また松の内(門松が飾られている期間)が明けると、餅を神棚から下ろして鏡開きをして食べる風習がありましたから、鏡餅が年神の霊魂の象徴と理解されたことはあるでしょう。また古老がその様に語っていたということは十分にあり得ることです。しかしそれをそのまま平安時代にまで遡らせて、鏡餅の起源は年神の供物や依代であったとすることはできません。鏡餅は平安時代には出現しているのですから、まずは平安時代の文献史料によって裏付けられなければならないのです。
そもそも餅はいつ頃からあったのでしょうか。文献上では、奈良時代の初期に編纂された『豊後国風土記』(ぶんごのくにふどき)という書物に、餅について次のような話が記されています。「昔、豊後国に住む裕福な人が、酒に酔った勢いで餅を的にして矢を射た。ところがその的は白鳥になって飛び去ってしまった。それより後、その家は次第に衰えて亡んでしまった」というのです。また『山城国風土記』にも同じ話が記されています。「秦伊侶具(はたのいろぐ)という裕福な人が餅を射たところ、餅は白鳥になって飛び去り、山の峰に舞い降りた。するとそこから稲が生えてきたので、そこに社を建てて稲荷(いなり)と名付けた」というのです。後の話は稲荷神社の起原に関わっていますが、どちらも、裕福な者がおごり高ぶって餅を射たところ、白鳥になって飛び去ってしまったという話です。的にしたというのですから円形であった可能性が高く、また粗末にしてはいけない神聖な物であったことがわかります。
正月には鏡餅を供えますが、平安時代には「餅鏡」(もちいかがみ)と呼ばれる神聖な餅が供えられていました。餅鏡は鏡餅の原形と考えられます。昔の鏡は原則として円形でした。また鏡は弥生時代以来神聖なものと考えられ、古墳に副葬されたり、天皇の位を象徴する三種の神器に数えられたり、神社や神棚に祭られたりして、大切に扱われてきましたから、「餅鏡」「鏡餅」という名前は神聖な餅の名前として、実にふさわしいものなのです。
『源氏物語』の「初音」(はつね)の巻には、光源氏の妻である紫の上の御殿の、元日の様子が記述されています。そこには供えられた餅鏡に向かって、人々は「(これからの千年も続くであろう栄が)今からもう見えるようです」と、祝福を先取りするようなめでたい言葉を述べています。このように長寿を願うために供えたり食べたりする物は「歯固」(はがため)と呼ばれ、鏡餅はその中心となるものでした。つまり正月の鏡餅(餅鏡)は、長寿を祈るために供えられたのです。歯固として供えられる物には、鏡餅の他に大根・瓜・芋(里芋)・雉の肉・押鮎(おしあゆ、塩漬けにした鮎)・譲葉などがありました。
室町時代に一条兼良(いちじょうかねら)という博学の公卿が著した『世諺問答』(せいげんもんどう、1544年)という書物には、「鏡餅に面と向かう時には、『古今和歌集』に収められている『近江のや鏡の山を立てたればかねてぞ見ゆる君が千年(ちとせ)は』という、長寿を祝う歌を声に出して読む」と記されています。室町時代においても、鏡餅は長寿を祈願する供物だったのです。
江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供向けの年中行事解説書にも、『世諺問答』と同じように、「鏡餅に座る時は、この歌(近江のや鏡の山を立てたれば・・・・)を三遍唱へて身を祝へば、その年仕合せよしと、昔より言ひ伝ふ」と記されていて、鏡餅が長寿を祈願する供物という理解が、江戸時代にも受け継がれていることがわかります。
民俗学的には鏡餅の起原について、年神(としがみ)の宿る依代(よりしろ)であるとか、年神への供物であったと説明されています。現在の伝統的年中行事解説書には、ほぼ例外なしにそのように説明されているのですが、確かな文献では、そのようなことは確認できません。ただ江戸時代には年神の神棚に鏡餅を供え、また松の内(門松が飾られている期間)が明けると、餅を神棚から下ろして鏡開きをして食べる風習がありましたから、鏡餅が年神の霊魂の象徴と理解されたことはあるでしょう。また古老がその様に語っていたということは十分にあり得ることです。しかしそれをそのまま平安時代にまで遡らせて、鏡餅の起源は年神の供物や依代であったとすることはできません。鏡餅は平安時代には出現しているのですから、まずは平安時代の文献史料によって裏付けられなければならないのです。