うたことば歳時記

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『吾妻鏡』『承久記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-01-22 06:36:42 | 私の授業
吾妻鏡・承久記


原文(吾妻鏡)
 承久三年五月大十九日壬寅(じんいん)・・・・二品(にほん)、家人等(けにんら)を簾下(れんか)に招き、秋田城介(あきたじようのすけ)景盛を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是(これ)最期の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志(こころざし)浅からんや。而(しか)るに今逆臣の讒(そしり)に依りて、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)・胤義(たねよし)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者(てへ)り。
 群参の士悉(ことごと)く命に応じ、且(か)つは涙に溺(おぼ)れ、返報を申すに委(くわし)からず。只命を軽んじて、恩に酬(むく)いんことを思ふ。寔(まこと)に是、忠臣国の危きに見るとは、此(これ)を謂(い)はん歟(か)。

原文(承久記)
 二位殿仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候はじ。一番には姫御前(ひめごぜ)に後(おく)れ参らせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後、又打ちつゞき左衛門督(さえもんのかみ)殿に後れ申し、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度の思は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫(ごんのだいぶ)打たれなば、五(いつ)の思に成ぬべし。女人五障(によにんごしよう)とは、是を申すべきやらん。
 殿原は都に召上げられて、内裏大番つとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮(しきがわ)布(し)き、三年(みとせ)が間、住む所を思ひ遣(や)り、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もうしとどめ)てまし〳〵し。去(さら)ば、殿原は京方に付き、鎌倉を責(せめ)給ふ、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩蒙(こうぶり)てまします殿原、弓矢の冥加(みようが)はまし〳〵なんや。かく申(もうす)尼などが深山(みやま)に遁世(とんせい)して、流さん涙をば、不便(ふびん)と思食(おぼしめ)すまじきか。殿原。尼は若(わかき)より物をきぶく申す者にて候ぞ。京方に付て鎌倉を責(せめ)ん共(とも)、鎌倉方に付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」とこそ、宣玉(のたま)ひけれ。

現代語訳(吾妻鏡)
 承久三年(1221)五月十九日、二位の尼(北条政子)は、家人達を御簾(みす)の下に招き寄せ、安達景盛の口を通して言われた。「皆の者、心を一つにして聞かれよ。これは最後の言葉である。故右近衛大将殿(源頼朝)が朝敵(平家)を征伐し、鎌倉幕府を草創して以来、官位といい、俸禄(報酬)といい、その御恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。御恩に報いようという志が浅いということがあろうか。しかるに今、逆臣の讒言により、道義に反する義時追討の綸旨(りんじ)(天子の命令)が下された。名を惜しむ者は、速やかに(院方に付いた)藤原秀康・三浦胤義(たねよし)らを討ち取り、三代将軍の遺領を守られよ。ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出よ」と。参集していた家人達は、皆その言葉に応(こた)え、かつ涙を流し、返事を申し上げようにも言葉にならない。ただ命をなげうってでも、御恩に報いようと思うのであった。まさに「忠臣は国の危機に出現する」とはこのことであるか。

現代語訳(承久記)
 二位の尼(北条政子)が仰せられるには、「皆の者、よく聞かれよ。この尼、若い頃よりこれ程までに辛い思いをした者はありませぬ。まず初めには姫御前(ひめごぜ)(長女大姫、「大姫」は長女という意味)に後れ(先立たれ)、次いで大将殿(夫頼朝)に後れ、その後続いて左衛門督(さえもんのかみ)殿(長男頼家)に後れ、また程なくして右大臣殿(次男実朝)に後れてしまった。四度の悲哀を過ぎ越してきたのだ。この度(たび)、権大納言(弟義時)が討たれれば、五度目の辛い思いをすることになるだろう。(法華経に説かれる)女人五障(女性の往生はなかなか難しいこと)とは、まさにこのことを言うのであろうか。
 そなた達は都に召し出されて、内裏警護の大番役を務め、雨の日も照る日も清涼殿の庭に露営し、三年もの間、故郷に思いを馳せ、妻子を恋しく思っておったのを、我が子の大臣殿(実朝)がとりなして、一つ一つ徐々に、免除されるようにして下さったのである。そうであれば、そなた達が京方に付いて鎌倉を攻め、大将殿(頼朝)、大臣殿(実朝)、御二人の御墓所を馬の蹄(ひづめ)に掛けるならば、御恩を被った者達よ、その武芸に神仏の御加護などあるはずもない。かく申すこの尼が、山奥に隠れ住んで流す涙を、不憫(ふびん)とは思わぬのか。皆の者よ、この尼は若い頃より物言いがきつい者ではあるが、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに仰せられよ。皆の者よ」と仰せられた。

解説
 『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書で、鎌倉時代末期の正安二年(1300)頃に成立しました。収められているのは、治承四年(1180)、以仁王の平氏追討の令旨が伊豆に届けられた時から、北条時宗が執権となる直前の文永三年(1266)に、第六代将軍の宗尊親王が京に送還されるまでに及んでいます。編纂の材料となったのは、幕府の公式記録のほか、幕府の実務を担当した家の記録、御家人から提出させた文書、公家の日記、寺社の記録など、玉石混淆で雑多であり、しかも北条氏の政権を正当化する意図により編纂されているため、史料としての利用には個々に吟味が必要です。しかしこれだけまとまっている鎌倉時代史の文献は他になく、鎌倉時代史研究の基本的文献であることに変わりはありません。
 『承久記』は、その名の如く承久の乱の経緯を叙述した軍記物語です。ただ異本が多く、最も早い時期の慈光寺本が、承久の乱後間もない延応二年(1240)頃までには成立したとされています。もちろん作者はわかりません。
 「尼将軍政子」の演説について、『吾妻鏡』と『承久記』の記述は、将軍の御恩の大きさを説いたということについては共通していますが、相違点もあります。『吾妻鏡』では政子は側近の安達景盛に語らせています。しかし『承久記』では、政子が直に語りかけています。しかも将軍の御恩を説くだけでなく、次々に肉親に先立たれた悲哀を赤裸々に訴えています。実際どちらが本当なのか興味の湧くところですが、決定的な証拠はなく、不明としか言いようがありません。ただ一般論としては、高貴な立場の人が大勢の人に直に語りかけることは、極めて稀であると言えます。しかし一方では気性の激しかった政子なら、感極まって直に訴えた可能性も捨てきれません。まあ事実はともかくとして、歴史ドラマにするならば、「これが最期の言葉である。将軍の御恩は山よりも高く、海よりも深い」という名台詞を政子に直に語らせ、御家人達の涙を絞らせるようにした方が絵になるでしょう。
 ここでは安達景盛が政子の側近として、重要な役を務めています。頼家が将軍の時のこと、景盛の愛妾に横恋慕した頼家が、渋る景盛を三河国に使節として派遣し、その留守中に側近に命じてその愛妾を拉致させ、帰任した景盛が頼家を恨んでいるとして、側近に景盛を誅殺させようとしたことがありました。その時は察知した政子が機転を利かせて景盛の館に駆けつけ、頼家に使者を派遣して、無実の景盛を誅殺するというのならば、「我先づその箭(や)に中(あた)るべし」と言上させて、寸前に回避しました(『吾妻鏡』正治元年八月)。景盛にとって、政子はまさに命の恩人であり、景盛は「今こそ報恩の時」とばかりに、政子の言葉を篤く語ったことでしょう。
 なお大番役の期間は、頼朝の頃は半年、後に三カ月となりました。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『承久記』と『吾妻鏡』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。






田中正造の天皇直訴状  高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-01-06 09:45:08 | 私の授業
田中正造の天皇直訴状


原文
 伏シテ惟(おもんみ)ルニ、政府当局ヲシテ能(よ)ク其責(そのせき)ヲ竭(つく)サシメ、以テ
陛下ノ赤子(せきし)ヲシテ日月ノ恩ニ光被(こうひ)セシムルノ途(みち)他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル、其(その)一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル、其二ナリ。激甚(げきじん)ノ毒土ヲ除去スル、其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル、其四ナリ。多数町村ノ頽廃(たいはい)(破戒)セルモノヲ恢復(かいふく)スル、其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ、毒水毒屑(どくせつ)ノ流出ヲ根絶スル、其六ナリ。如此(かくのごとく)ニシテ数十万生霊(せいれい)ノ死命ヲ(ヲ塗炭ニ)救ヒ、居住相続ノ基(もと)ヘヲ回復シ、其人口ノ減耗(げんこう)ヲ防遏(ぼうあつ)シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ、各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家(富強)ノ基礎タル無量ノ勢力、及ビ富財ノ損失ヲ断絶(予防)スルヲ得ベケンナリ。若(も)シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ、臣ハ恐ル、其禍(わざわい)ノ及ブ所、将(ま)サニ測ル可(べか)ラザルモノアランコトヲ。
 臣年六十一、而シテ老病日ニ迫ル。念(おも)フニ余命幾(いくば)クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ、敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞(ふえつ)ノ誅(ちゆう)ヲ冒(おか)シテ以テ聞ス。情(じよう)切(せつ)ニ事急ニシテ、涕泣(ていきゆう)言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察(きようさつ)ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任(た)フルナシ。

※下線部は田中正造がそれに続く( )内の原文を修正。ゴチック体は田中正造の加筆。( )内のゴチック体は田中正造が原文より削除。

現代語訳
 謹んで思いめぐらしますと、政府の担当局にその責務を十分に尽くさせ、それにより陛下の臣民を、その御恩沢に浴させるより他に、解決の途はございません。まず渡良瀬川の水源を清めることが第一策。河川を改修して自然の本の姿に戻すことが第二策。著しい害毒のある堆積物(毒土)を除去することが第三策。渡良瀬川沿岸の豊富な自然の物産を復活させることが第四策。多くの町や村を荒廃から復興させることが第五策。鉱毒を排出する銅山経営を中止し、有毒の排水や廃棄鉱石の流出を根絶することが第六策。以上の如くに行えば、数十万人の住民の命が救われ、世帯が続く基盤が回復され、人口減少を食い止め、同時に我が日本帝国憲法や法律を正しく実行して(人民の)権利を保全し、さらにまた将来国家の基礎となる測り知れない力や富が失なわれることを、断絶できることでございましょう。もしそのようにせず、いつまでも有毒水が恣(ほしいまま)に流れるままになるならば、臣、正造は、その災難が予測できない範囲にまで広がることを恐れるものでございます。 
 私は六十一歳となり、老いと病が切迫しております。思うに、余命はいくらもございません。ただお聞き届け下さることに微かな望みを抱くだけで、我が身の利害などは全く考えておりません。それゆえ重罪となることを承知の上で申し上げます。心は痛み、事態は切迫し、涙なくして語ることはできません。伏して庶幾(こいねが)いますことは、陛下が御憐れみを垂れて下さることでございます。(そうすれば)私は感極まり、号泣を耐えることはできないでありましょう。

解説
 田中正造(たなかしようぞう)の天皇直訴文は、もと衆議院議員の田中正造が、足尾鉱毒問題を明治天皇に直訴するため、名文家として知られた幸徳秋水(こうとくしゆうすい)に依頼して起草してもらった文書です。
 明治二三年(1890)に国会が開設されると、田中正造は立憲改進党に所属する衆議院議員となり、翌年の第二議会で、鉱毒問題について質問しています。因みに答弁した農商務相は陸奥宗光でした。また明治三三年(1900)にも、議会で質問をしています。その質問書の題は、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀に付質問」というものです。それに対する山県有朋首相の答弁書は、「質問の旨趣其要領を得ず、依て答弁せず。右及答弁候也」という素っ気ないものでした。質問全文を読んでみると、山県首相の言うように要領を得たものではなく、質問は単刀直入ではありません。しかし「亡国」という言葉に、正造の切羽詰まった心を見ることができます。
そして明治三四年(1901)十月には議員を辞職し、十二月十日に直訴を決行することになるのです。
 直訴当日の十一時過ぎ、正造は黒の紋服、黒の袴に足袋の正装で、国会議事堂を出た明治天皇の馬車を待ち構えます。そして通り過ぎようとする瞬間、「お願いでございます」と叫びながら、直訴状を掲げて馬車に駆け寄ろうとしました。しかし無情にも馬車は通り過ぎ、抜剣(槍説もある)した騎兵が遮ろうと飛び出します。その時正造は足がもつれて転んだのですが、近衛の騎兵も急に馬の向きを変えたため、馬諸共に倒れてしまいます。そこへ巡査が駆けつけ、捕縛されてしまいました。もし騎兵が落馬しなかったら、騎兵は正造を斬ることを躊躇しなかったでしょう。それが近衛兵の職務だからです。
 政府はこの「大事件」に困惑します。鉱毒問題は既に新聞などで報道され、田中正造の名前と共に国民には知れ渡っています。また直訴の動機は、それなりに国民の共感を喚(よ)ぶものでしたから、結局は狂人が馬車の前でよろめいたということにして不問に付し、即日釈放せざるを得ませんでした。
 ここに載せたのは直訴文の末尾で、一般的には直訴決行前日に書かれたかと説明されていました。しかし渡良瀬川研究会(令和四年に解散)代表幹事の布川了氏の詳細な調査により、実際の直訴状は前もって書かれていたことが判明しました。秋水自筆の年譜には、十一月十二日に直訴状を書いたと記されているそうです。しかし秋水の元妻である師岡千代子の回想録『風々雨々』には、直訴前日の十二月九日に正造が秋水宅を訪ね、妻が秋水に頼まれて高級和紙の奉書を買って来ると、正造が「ご苦労様」と言ったと記されています。つまり決行前日にも、秋水は直訴文を書いているわけですが、佐野市郷土博物館に残されている直訴状は、奉書ではなく、六枚の半紙に書かれ、三五カ所も推敲の跡があり、正造の実印が捺されて訂正されています。しかも日付は「十二月」であり、「九日」とは書かれていないのです。ですから正造が直訴に用いた直訴状は、十一月十二日に書いたもので、十二月九日に書いたものが別にあったことになります。
 これらの事実はどの様に説明されるのでしょうか。布川了氏の『田中正造と天皇直訴事件』によれば、正造が直訴時に殺され、直訴状も取り上げられてしまう可能性があり、秋水が新聞発表用に奉書の控えを持っていた。十一月十二日に書いた直訴状には「十二月」までしか書かれていないのは、その時点では議会開院式が何日か未定であったためである、ということです。
 正造が直訴状の訂正をした部分には、見過ごせない記述があります。それは「加毒ノ鉱業ヲ止メ、毒水毒屑(どくせつ)ノ流出ヲ根絶スル、其六ナリ」の文言です。「加毒ノ鉱業ヲ止メ」は正造の加筆で、秋水の原案には、足尾銅山の操業停止までは言及されず、鉱毒流出の根絶で止まっています。しかし正造はそれでは不十分と考えたのでしょう。操業停止にまで踏み込んでいます。ここには、操業を停止しなければ根本的解決にはならないという、田中正造の強い決意が表れているのです。
 実際、正造は死を覚悟していたことでしょう。幸か不幸か近衛兵が落馬し、直訴現場で殺されなかったのですが、大逆罪となれば、死刑以外の選択肢はないのですから。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この直訴文も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。