吾妻鏡・承久記
原文(吾妻鏡)
承久三年五月大十九日壬寅(じんいん)・・・・二品(にほん)、家人等(けにんら)を簾下(れんか)に招き、秋田城介(あきたじようのすけ)景盛を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是(これ)最期の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志(こころざし)浅からんや。而(しか)るに今逆臣の讒(そしり)に依りて、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)・胤義(たねよし)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者(てへ)り。
群参の士悉(ことごと)く命に応じ、且(か)つは涙に溺(おぼ)れ、返報を申すに委(くわし)からず。只命を軽んじて、恩に酬(むく)いんことを思ふ。寔(まこと)に是、忠臣国の危きに見るとは、此(これ)を謂(い)はん歟(か)。
原文(承久記)
二位殿仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候はじ。一番には姫御前(ひめごぜ)に後(おく)れ参らせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後、又打ちつゞき左衛門督(さえもんのかみ)殿に後れ申し、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度の思は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫(ごんのだいぶ)打たれなば、五(いつ)の思に成ぬべし。女人五障(によにんごしよう)とは、是を申すべきやらん。
殿原は都に召上げられて、内裏大番つとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮(しきがわ)布(し)き、三年(みとせ)が間、住む所を思ひ遣(や)り、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もうしとどめ)てまし〳〵し。去(さら)ば、殿原は京方に付き、鎌倉を責(せめ)給ふ、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩蒙(こうぶり)てまします殿原、弓矢の冥加(みようが)はまし〳〵なんや。かく申(もうす)尼などが深山(みやま)に遁世(とんせい)して、流さん涙をば、不便(ふびん)と思食(おぼしめ)すまじきか。殿原。尼は若(わかき)より物をきぶく申す者にて候ぞ。京方に付て鎌倉を責(せめ)ん共(とも)、鎌倉方に付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」とこそ、宣玉(のたま)ひけれ。
現代語訳(吾妻鏡)
承久三年(1221)五月十九日、二位の尼(北条政子)は、家人達を御簾(みす)の下に招き寄せ、安達景盛の口を通して言われた。「皆の者、心を一つにして聞かれよ。これは最後の言葉である。故右近衛大将殿(源頼朝)が朝敵(平家)を征伐し、鎌倉幕府を草創して以来、官位といい、俸禄(報酬)といい、その御恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。御恩に報いようという志が浅いということがあろうか。しかるに今、逆臣の讒言により、道義に反する義時追討の綸旨(りんじ)(天子の命令)が下された。名を惜しむ者は、速やかに(院方に付いた)藤原秀康・三浦胤義(たねよし)らを討ち取り、三代将軍の遺領を守られよ。ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出よ」と。参集していた家人達は、皆その言葉に応(こた)え、かつ涙を流し、返事を申し上げようにも言葉にならない。ただ命をなげうってでも、御恩に報いようと思うのであった。まさに「忠臣は国の危機に出現する」とはこのことであるか。
現代語訳(承久記)
二位の尼(北条政子)が仰せられるには、「皆の者、よく聞かれよ。この尼、若い頃よりこれ程までに辛い思いをした者はありませぬ。まず初めには姫御前(ひめごぜ)(長女大姫、「大姫」は長女という意味)に後れ(先立たれ)、次いで大将殿(夫頼朝)に後れ、その後続いて左衛門督(さえもんのかみ)殿(長男頼家)に後れ、また程なくして右大臣殿(次男実朝)に後れてしまった。四度の悲哀を過ぎ越してきたのだ。この度(たび)、権大納言(弟義時)が討たれれば、五度目の辛い思いをすることになるだろう。(法華経に説かれる)女人五障(女性の往生はなかなか難しいこと)とは、まさにこのことを言うのであろうか。
そなた達は都に召し出されて、内裏警護の大番役を務め、雨の日も照る日も清涼殿の庭に露営し、三年もの間、故郷に思いを馳せ、妻子を恋しく思っておったのを、我が子の大臣殿(実朝)がとりなして、一つ一つ徐々に、免除されるようにして下さったのである。そうであれば、そなた達が京方に付いて鎌倉を攻め、大将殿(頼朝)、大臣殿(実朝)、御二人の御墓所を馬の蹄(ひづめ)に掛けるならば、御恩を被った者達よ、その武芸に神仏の御加護などあるはずもない。かく申すこの尼が、山奥に隠れ住んで流す涙を、不憫(ふびん)とは思わぬのか。皆の者よ、この尼は若い頃より物言いがきつい者ではあるが、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに仰せられよ。皆の者よ」と仰せられた。
解説
『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書で、鎌倉時代末期の正安二年(1300)頃に成立しました。収められているのは、治承四年(1180)、以仁王の平氏追討の令旨が伊豆に届けられた時から、北条時宗が執権となる直前の文永三年(1266)に、第六代将軍の宗尊親王が京に送還されるまでに及んでいます。編纂の材料となったのは、幕府の公式記録のほか、幕府の実務を担当した家の記録、御家人から提出させた文書、公家の日記、寺社の記録など、玉石混淆で雑多であり、しかも北条氏の政権を正当化する意図により編纂されているため、史料としての利用には個々に吟味が必要です。しかしこれだけまとまっている鎌倉時代史の文献は他になく、鎌倉時代史研究の基本的文献であることに変わりはありません。
『承久記』は、その名の如く承久の乱の経緯を叙述した軍記物語です。ただ異本が多く、最も早い時期の慈光寺本が、承久の乱後間もない延応二年(1240)頃までには成立したとされています。もちろん作者はわかりません。
「尼将軍政子」の演説について、『吾妻鏡』と『承久記』の記述は、将軍の御恩の大きさを説いたということについては共通していますが、相違点もあります。『吾妻鏡』では政子は側近の安達景盛に語らせています。しかし『承久記』では、政子が直に語りかけています。しかも将軍の御恩を説くだけでなく、次々に肉親に先立たれた悲哀を赤裸々に訴えています。実際どちらが本当なのか興味の湧くところですが、決定的な証拠はなく、不明としか言いようがありません。ただ一般論としては、高貴な立場の人が大勢の人に直に語りかけることは、極めて稀であると言えます。しかし一方では気性の激しかった政子なら、感極まって直に訴えた可能性も捨てきれません。まあ事実はともかくとして、歴史ドラマにするならば、「これが最期の言葉である。将軍の御恩は山よりも高く、海よりも深い」という名台詞を政子に直に語らせ、御家人達の涙を絞らせるようにした方が絵になるでしょう。
ここでは安達景盛が政子の側近として、重要な役を務めています。頼家が将軍の時のこと、景盛の愛妾に横恋慕した頼家が、渋る景盛を三河国に使節として派遣し、その留守中に側近に命じてその愛妾を拉致させ、帰任した景盛が頼家を恨んでいるとして、側近に景盛を誅殺させようとしたことがありました。その時は察知した政子が機転を利かせて景盛の館に駆けつけ、頼家に使者を派遣して、無実の景盛を誅殺するというのならば、「我先づその箭(や)に中(あた)るべし」と言上させて、寸前に回避しました(『吾妻鏡』正治元年八月)。景盛にとって、政子はまさに命の恩人であり、景盛は「今こそ報恩の時」とばかりに、政子の言葉を篤く語ったことでしょう。
なお大番役の期間は、頼朝の頃は半年、後に三カ月となりました。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『承久記』と『吾妻鏡』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文(吾妻鏡)
承久三年五月大十九日壬寅(じんいん)・・・・二品(にほん)、家人等(けにんら)を簾下(れんか)に招き、秋田城介(あきたじようのすけ)景盛を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是(これ)最期の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志(こころざし)浅からんや。而(しか)るに今逆臣の讒(そしり)に依りて、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)・胤義(たねよし)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者(てへ)り。
群参の士悉(ことごと)く命に応じ、且(か)つは涙に溺(おぼ)れ、返報を申すに委(くわし)からず。只命を軽んじて、恩に酬(むく)いんことを思ふ。寔(まこと)に是、忠臣国の危きに見るとは、此(これ)を謂(い)はん歟(か)。
原文(承久記)
二位殿仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候はじ。一番には姫御前(ひめごぜ)に後(おく)れ参らせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後、又打ちつゞき左衛門督(さえもんのかみ)殿に後れ申し、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度の思は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫(ごんのだいぶ)打たれなば、五(いつ)の思に成ぬべし。女人五障(によにんごしよう)とは、是を申すべきやらん。
殿原は都に召上げられて、内裏大番つとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮(しきがわ)布(し)き、三年(みとせ)が間、住む所を思ひ遣(や)り、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もうしとどめ)てまし〳〵し。去(さら)ば、殿原は京方に付き、鎌倉を責(せめ)給ふ、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩蒙(こうぶり)てまします殿原、弓矢の冥加(みようが)はまし〳〵なんや。かく申(もうす)尼などが深山(みやま)に遁世(とんせい)して、流さん涙をば、不便(ふびん)と思食(おぼしめ)すまじきか。殿原。尼は若(わかき)より物をきぶく申す者にて候ぞ。京方に付て鎌倉を責(せめ)ん共(とも)、鎌倉方に付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」とこそ、宣玉(のたま)ひけれ。
現代語訳(吾妻鏡)
承久三年(1221)五月十九日、二位の尼(北条政子)は、家人達を御簾(みす)の下に招き寄せ、安達景盛の口を通して言われた。「皆の者、心を一つにして聞かれよ。これは最後の言葉である。故右近衛大将殿(源頼朝)が朝敵(平家)を征伐し、鎌倉幕府を草創して以来、官位といい、俸禄(報酬)といい、その御恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。御恩に報いようという志が浅いということがあろうか。しかるに今、逆臣の讒言により、道義に反する義時追討の綸旨(りんじ)(天子の命令)が下された。名を惜しむ者は、速やかに(院方に付いた)藤原秀康・三浦胤義(たねよし)らを討ち取り、三代将軍の遺領を守られよ。ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出よ」と。参集していた家人達は、皆その言葉に応(こた)え、かつ涙を流し、返事を申し上げようにも言葉にならない。ただ命をなげうってでも、御恩に報いようと思うのであった。まさに「忠臣は国の危機に出現する」とはこのことであるか。
現代語訳(承久記)
二位の尼(北条政子)が仰せられるには、「皆の者、よく聞かれよ。この尼、若い頃よりこれ程までに辛い思いをした者はありませぬ。まず初めには姫御前(ひめごぜ)(長女大姫、「大姫」は長女という意味)に後れ(先立たれ)、次いで大将殿(夫頼朝)に後れ、その後続いて左衛門督(さえもんのかみ)殿(長男頼家)に後れ、また程なくして右大臣殿(次男実朝)に後れてしまった。四度の悲哀を過ぎ越してきたのだ。この度(たび)、権大納言(弟義時)が討たれれば、五度目の辛い思いをすることになるだろう。(法華経に説かれる)女人五障(女性の往生はなかなか難しいこと)とは、まさにこのことを言うのであろうか。
そなた達は都に召し出されて、内裏警護の大番役を務め、雨の日も照る日も清涼殿の庭に露営し、三年もの間、故郷に思いを馳せ、妻子を恋しく思っておったのを、我が子の大臣殿(実朝)がとりなして、一つ一つ徐々に、免除されるようにして下さったのである。そうであれば、そなた達が京方に付いて鎌倉を攻め、大将殿(頼朝)、大臣殿(実朝)、御二人の御墓所を馬の蹄(ひづめ)に掛けるならば、御恩を被った者達よ、その武芸に神仏の御加護などあるはずもない。かく申すこの尼が、山奥に隠れ住んで流す涙を、不憫(ふびん)とは思わぬのか。皆の者よ、この尼は若い頃より物言いがきつい者ではあるが、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに仰せられよ。皆の者よ」と仰せられた。
解説
『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書で、鎌倉時代末期の正安二年(1300)頃に成立しました。収められているのは、治承四年(1180)、以仁王の平氏追討の令旨が伊豆に届けられた時から、北条時宗が執権となる直前の文永三年(1266)に、第六代将軍の宗尊親王が京に送還されるまでに及んでいます。編纂の材料となったのは、幕府の公式記録のほか、幕府の実務を担当した家の記録、御家人から提出させた文書、公家の日記、寺社の記録など、玉石混淆で雑多であり、しかも北条氏の政権を正当化する意図により編纂されているため、史料としての利用には個々に吟味が必要です。しかしこれだけまとまっている鎌倉時代史の文献は他になく、鎌倉時代史研究の基本的文献であることに変わりはありません。
『承久記』は、その名の如く承久の乱の経緯を叙述した軍記物語です。ただ異本が多く、最も早い時期の慈光寺本が、承久の乱後間もない延応二年(1240)頃までには成立したとされています。もちろん作者はわかりません。
「尼将軍政子」の演説について、『吾妻鏡』と『承久記』の記述は、将軍の御恩の大きさを説いたということについては共通していますが、相違点もあります。『吾妻鏡』では政子は側近の安達景盛に語らせています。しかし『承久記』では、政子が直に語りかけています。しかも将軍の御恩を説くだけでなく、次々に肉親に先立たれた悲哀を赤裸々に訴えています。実際どちらが本当なのか興味の湧くところですが、決定的な証拠はなく、不明としか言いようがありません。ただ一般論としては、高貴な立場の人が大勢の人に直に語りかけることは、極めて稀であると言えます。しかし一方では気性の激しかった政子なら、感極まって直に訴えた可能性も捨てきれません。まあ事実はともかくとして、歴史ドラマにするならば、「これが最期の言葉である。将軍の御恩は山よりも高く、海よりも深い」という名台詞を政子に直に語らせ、御家人達の涙を絞らせるようにした方が絵になるでしょう。
ここでは安達景盛が政子の側近として、重要な役を務めています。頼家が将軍の時のこと、景盛の愛妾に横恋慕した頼家が、渋る景盛を三河国に使節として派遣し、その留守中に側近に命じてその愛妾を拉致させ、帰任した景盛が頼家を恨んでいるとして、側近に景盛を誅殺させようとしたことがありました。その時は察知した政子が機転を利かせて景盛の館に駆けつけ、頼家に使者を派遣して、無実の景盛を誅殺するというのならば、「我先づその箭(や)に中(あた)るべし」と言上させて、寸前に回避しました(『吾妻鏡』正治元年八月)。景盛にとって、政子はまさに命の恩人であり、景盛は「今こそ報恩の時」とばかりに、政子の言葉を篤く語ったことでしょう。
なお大番役の期間は、頼朝の頃は半年、後に三カ月となりました。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『承久記』と『吾妻鏡』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。