うたことば歳時記

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風の香り(風薫る)

2016-04-26 21:14:53 | うたことば歳時記
 新緑の美しい時期になると、「風薫る」という言葉をよく耳にするようになります。なかなか美しい言葉なのですが、生徒にどんな匂いがするのと質問され、はたと困ってしまいました。そう言われれば確かに匂いなどしません。普段何気なく使っていて、考えたこともありませんでした。私の知っている古歌の中には、新緑の頃の爽やかな風を「薫る」と形容した例が思い浮かびません。『国歌大観』あたりで検索すればあるのでしょうが、少なくとも人口に膾炙するほどの古歌には、例はないと思います。

 ただし梅の花や花橘の香を運ぶ風を詠んだ歌ならたくさんありそうです。まずは梅と春風の歌から。
①花の香を風の便りにたぐへてぞ鶯さそふしるべには遣る  (古今集 春 13)
②吹く風を何いとひけん梅の花散りくる時ぞ香はまさりける (拾遺集 春 30)
③梅が香をたよりの風や吹きつらん春めづらしく君が来ませる(後拾遺 春 50)
④かをる香のたえせぬ春は梅の花吹きくる風やのどけかるらむ(千載集 春 18)
①は梅の香のする風が鶯を誘い出すというもの。②は、花に吹く風は花を散らすので嫌われるのですが、梅の花の場合は、風が吹くと花の香がいよいよよくわかるという趣向です。③は、梅の花の香に誘われて、人が訪ねてくるというもの。④は梅の香が長く続くのは、風が(花を散らすほどに強くはなく)長閑に吹いてくるからだろう、というわけです。

 次に橘と風を詠んだ歌を。
⑤五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらん    (後拾遺 夏 214)
⑥五月やみ花橘に吹く風はたが里までかにほひゆくらん   (詞花集 夏 69)
⑦浮き雲のいざよふ宵のむら雨におひ風しるくにほふ橘   (千載集 夏 173)
古には、橘、つまりみかん類の花が咲くのは旧暦五月と決まっていました。現在では新暦五月に咲いてしまいます。この時間差はともかくとして、鬱陶しい五月雨や五月闇の中で、ほのかに橘の香が風に運ばれてくると、爽やかな気分になるものです。⑤では、橘の香に昔を懐かしく思い起こすという趣向ですが、橘の香を嗅ぐと懐旧の心が湧いてくるという、当時の共通理解があったのです。⑥は説明も不要でしょう。⑦は、浮き雲が漂う村雨の中で、風が吹いたあとに橘の香が漂ってくるという歌です。

 花の香が好んで詠まれるのはこの梅と橘くらいのもので、これ以外で花の香を詠む歌は極めて稀でした。いずれも実際に嗅覚に訴える香を詠んでいて、風はそれを運ぶ物であり、風そのものが主役になることは大変少ないることが共通しています。あまりにもよく知られているので省きましたが、菅原道真の「東風吹かば・・・・春な忘れさそ」の歌でも風は脇役です。

 少々脱線しますが、菅原道真が詠んだ花の香の歌といえば、次のような歌があります
  ⑧さくら花主を忘れぬものならば吹き来む風にことづてはせよ  (後撰集 春 57)
これには次のような詞書きが添えられています。「家より遠き所にまかる時、前栽(せんざい)の桜の花に結ひつけ侍ける」。道真は大宰府に左遷される際にも梅と別れを惜しむ歌を詠んでいますが、余程に庭の花々を愛でていたのでしょう。花に二人称で呼びかけていますね。この歌には桜の花の香が詠まれてはいませんが、言葉にはしなくても、そのような心があったのでしょう。

 すると桜の花に香はないのではと言われそうです。多くの桜の品種の中には、香のあるものもあるそうですが、一般的には桜の花に香はありません。しかし桜の花の香を風が運ぶという、次のような歌も詠まれています。
  ⑨霞立つ春の山辺は遠けれど吹きくる風は花の香ぞする   (古今集 春 103)
  ⑩風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢   (新古今 春 112)
桜の花に香があったとしても、⑨のように遠山桜の花の香が遠くまで風で運ばれることはあり得ません。⑩では、風に運ばれる花の香は、「春の夜の夢」に伴う一種の夢幻的な雰囲気を演出する役目を持っているのであって、実際に香がするわけではなく、風に運ばれる桜の花の香はあくまでも観念的なものなのです。  

 以上のようなことから、風に運ばれる花の香を詠んだ歌は大変多いのですが、梅や橘など、実際に芳香のある花について詠まれるのであって、桜のように香のない花の場合は、観念的に詠まれていること、また香が主役であって、それを運ぶ風はあくまでも脇役であると考察しました。

 なおここには『万葉集』からの歌があげられていませんが、『万葉集』には花の香を詠んだ歌は極めて少なく、118首も梅の花が詠まれていても、香が詠まれているのはわずかに1首、橘は68首詠まれていますが、香が詠まれているのはわずかに数首しかありません。万葉時代の人々は、どうも花の香に関心が薄かったようです。

 それなら「風薫る」という、より直接的な表現をした歌を探してみましょう。
⑪風薫る木の下風は過ぎやらで花にぞ暮らすしがの山越え  (続拾遺集 春 68)
 ⑫風薫る雲に宿とふゆふはやま花こそ春の泊りなりけれ   (続後拾遺 春 98)
  ⑬風薫る花のあたりに来てみれば雲もまがはす三吉野の山  (新千載集 春 95)
  ⑭またも来む花に暮らせる古郷の木の間の月に風薫るなり  (続後拾遺 春 129)
  ⑮明け渡る霞のをちはほのかにて軒の桜に風薫るなり    (新拾遺集 春 87)
  ⑯明け方は池の蓮も開くれば玉のすだれに風薫るなり    (長秋詠藻) 藤原俊成
  ⑰風薫る軒の橘年りてしのぶの露を袖にかけつる      (秋篠月清集)藤原良経
鎌倉期から室町期のこれらの歌集には、以上のように「風薫る」という表現をする歌がけっこう見つかりましたが、⑪~⑮はいずれも春の歌で、薫るはずのない桜を詠んでいます。⑯⑰がようやく夏の歌ですが、蓮や橘の花の香を運ぶ風を詠んでいます。いずれも今日の新緑の季節に使われる「風薫る」とは情趣がことなりますが、それはともかくとして、「風薫る」という表現が定着しつつあることは、注目してよいと思います。

 このあたりまで書いてきて、とうとう二進も三進も行かなくなり、あとはもうネット情報を頼りにしてしまいました。「風薫る」とは漢語の「薫風」を和らげた表現だそうです。どうりで古い和歌にはあまり見つからないはずです。江戸時代の俳諧では、初夏の季語としてたくさん登場しますから、新緑の頃の爽やかな風という意味での「風薫る」は、言葉としては新しいものなのですね。本来なら本場の漢詩で「薫風」がどのように詠まれているか、中国語で「薫」にはどのようなニュアンスが含まれているかを検証しなければなりません。「卯の花のにおう垣根に」の「におう」が、花の香ではなく、色が美しく映えていることを意味しているように、中国語の「薫」には、香りがすること以外に別の意味があるのかもしれません。そのような考証は、素人の私にはとてもできないことです。どうぞお許しください。

 「風薫る」といえば、唱歌『若葉』に「あざやかなみどりよ ・・・・かおる かおる わかばがかおる」という歌詞がありました。私も小学校?で習った記憶があります。ここでは風が薫るを飛び越えて、若葉が薫っています。まあ新緑の風が薫るという意味なのでしょうが、こうしてとりとめもなく書いてきて、風の香りにもいろいろ変遷があるものだと、つくづく思っている次第です。こんな駄文に最後までお付き合いくださりありがとうございます。

            平成28年 4月 26日







薬玉

2016-04-24 16:01:54 | 年中行事・節気・暦
五月五日が近くなると、薬玉のことが思い浮かびます。薬玉に季節が関係あるのかと言われそうですが、薬玉を作るには季節の植物が欠かせないので、その時期にしか作れなかったのです。現在では薬玉というと、何かの記念行事で、半球を合わせて玉状にこしらえた物の中に五色の紐などを隠し置き、綱を引いてその玉を割ると、その紐が美しく垂れ下がって、式に彩りを添える小道具として用いられています。そこには、季節性は全くありません。しかし本来の薬玉は、その形状も目的も全く異なる物でした。

 辞書で検索すると、麝香・沈香・丁子などの香料を袋に入れ、五色の糸や造花で玉状に飾ったもので、五月五日の端午の節句に柱にかけた縁起物というように説明されています。そして「くす玉」は「薬玉」で、麝香などの高価な香料のことであると理解されています。しかし五月五日の節句に菖蒲や花橘や蓬などの植物で「玉」を作るという歌は『万葉集』にたくさん伝えられていて、庶民が手に入れることのできない高価な香料を材料にした薬玉のはずはありません。平安時代に高貴な人はそのような材料も使ったかもしれませんが、五月五日に飾られた本来の「玉」は、もっと素朴の物だったと思います。現代の薬玉と、平安時代に貴族の邸宅で飾られた薬玉と、万葉時代の薬玉は、言葉は同じでもかなり異なっているようです。

 『万葉集』のそのような「玉」を詠んだ歌をあげてみましょう。
①・・・・ほととぎす鳴く五月には菖蒲(あやめぐさ) 花橘(はなたちばな)を玉に貫き 蔓(かづら)に   せむと・・・・(万葉集 423)
②・・・・ほととぎす来鳴く五月のあやめぐさ 花橘に貫き交え 蔓にせよと包みて遣らむ(万葉集 4102)
③・・・・菖蒲(あやめぐさ) 花橘ををとめらが 玉貫くまでに・・・・(万葉集 4166)
④玉に貫く 楝(あふち)を家に植ゑたらば 山ほととぎす離(か)れず来むかも(万葉集 3910)
⑤・・・・ほととぎす来鳴く 五月のあやめ草 蓬かづらぎ さかみずき・・・・(万葉集 4116)
①~④には、花橘とあやめ草を玉に貫くこと、またそれらを蔓(かづら)にすることが詠まれていますが、花橘は柑橘類の花のこと、あやめ草は菖蒲湯に入れる菖蒲のこと。「玉に貫く」とは、本来は玉に糸を通して環に作ることで、玉の代わりに菖蒲や橘の花を使ったことを表しているのでしょう。蔓とは植物の葉や花を髪に挿したり頭に巻き付けて、長寿の呪いとする物のことです。⑤には玉に貫くことは詠まれていませんが、その内容からして、蓬も材料になったと考えられます。

 玉に貫く植物としてあやめ草・花橘・楝・蓬が詠まれていますが、いずれにも芳香があることが共通しています。これらの芳香のある植物が癖邪の呪力を持っているという理解は、日本古来のものではありません。
6世紀に成立した中国最初の歳時記である『荊楚歳時記』には、五月五日に艾(よもぎ)を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓ったり、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲んだり、楝の葉を頭に挿して蔓にしたりすることが記されています。

 すると薬玉という習俗は全て渡来したものかというと、そうでもなさそうです。素人の私が調べたので漏れはあるかもしれないのですが、「玉に貫く」という要素は、中国の文献には見当たらなく、これは日本古来のものらしいのです。もしかしてそのような文献があったら私の力不足ですのでお許し下さい。貴重な玉を糸で貫いて首飾りのようにしたものは埴輪などにも多くの例があり、呪力を持っていることを表すと考えられています。古代の首飾りは、単なる装飾品ではありません。癖邪の呪力を持つ植物を環状に連ね、それに五色の糸を垂らした程度の初期の薬玉があったのではないかと思っています。
 
 平安時代になっても、五月五日に薬玉を懸ける習俗は続いています。
⑥沼ごとに袖ぞ濡れぬる あやめ草心ににたるねをもとむとて  (新古今 恋 1042)
⑦あかなくに散りにし花のいろいろは残りにけりな君が袂に   (新古今 夏 222)
⑧あやめ草涙の玉に貫きかへて折りならぬねをなほぞ懸けつる  (千載集 哀 556)
⑦はに、「薬玉を女につかはすとて、男に代りて」という詞書きが添えられています。歌の意味は、あやめの根を引き抜こうとして、どの沼でも袖が濡れました。あなたを思う私の心に似た、深くて長いあやめの根を探して、ということなのですが、この場合は歌そのものよりも詞書きが重要です。恋しい人に、五月五日にあやめの根を材料にしてこしらえた薬玉を贈るという習俗があったことがわかります。

 ⑦にも五月五日、「薬玉つかはして侍ける人に」という詞書きが添えられています。意味は、まだ見飽きないうちに散ってしまった春の色とりどりの花が、あなたの袖の袂に残っていたなあ、ということです。これには少々説明が要りそうです。人から贈られた薬玉を肩から腰に下げているのですが、その薬玉は造花で飾られていたのでしょう。袂に下がる花いっぱいの薬玉を、袖に拾い集めた春の花に見立てているのです。この歌でも、人から贈られた薬玉を肩から脇の下あたりに懸けておく習俗があったことがわかります。またその薬玉は、おそらくは造花で飾られていたと思われるのです。 

 ⑧は詞書きによれば、藤原道長の娘姸子が亡くなったとき、その娘の乳母であった女官が、姸子の旧邸の御帳内に枯れたまま懸けられていた薬玉を見て詠んだ歌です。意味は、季節外れの薬玉が懸けられているのを見て、薬玉ならぬ涙の玉を貫いて声をあげて泣いてしまいました、というものです。「ね」は「音」と「根」を懸けていますから、あやめ草の根でこしらえた薬玉であったことがわかります。また五月五日に御帳内に薬玉を懸け、それが干涸らびても懸けたままにしておいたことがわかります。平安時代にはこの薬玉は、九月九日の重陽の節句に、茱萸(しゅゆ)袋と交換されるまで懸けられていました。このような宮中やそれに準ずる所に懸けられた薬玉には、麝香や丁子や沈香などの高価な香料が使われたのでしょうが、あやめ草を材料にするという本来の形は伝えられたようです。ただ花橘や楝などの生花は小さく傷みが早いので、造花に代えられたと思われます。長期間懸けっぱなしであったことがそれをうかがわせます。

 私の不十分な検証ではありますが、まず薬玉と言っても、万葉時代の薬玉と平安時代の薬玉は異なること。また芳香のある植物に癖邪の呪力があるとして、五月五日の呪物としたことは唐文化の影響ですが、玉に貫くということは日本古来の習俗ではないかと思っています。また平安時代には、小さな薬玉を人に贈る習俗があったということも確認しておきましょう。現在の薬玉は造花で飾られていることもあります。玉を割るということは新しい様式ですが、五色の糸やテープが下げられることは古い様式にもあり、以外に古来の様式が残されているものだと思いました。

 私は薬玉をわざわざ作りはしませんが、あやめ草(菖蒲)と蓬を風呂に入れたりすることはあります。ただは新暦の五月五日では泣く、旧暦でやっています。蓬はいくらでも道端に生えていますし、あやめ草も、散歩道の途中で摘むことができます。

 

薬玉

2016-04-24 16:01:54 | 年中行事・節気・暦
五月五日が近くなると、薬玉のことが思い浮かびます。薬玉に季節が関係あるのかと言われそうですが、薬玉を作るには季節の植物が欠かせないので、その時期にしか作れなかったのです。現在では薬玉というと、何かの記念行事で、半球を合わせて玉状にこしらえた物の中に五色の紐などを隠し置き、綱を引いてその玉を割ると、その紐が美しく垂れ下がって、式に彩りを添える小道具として用いられています。そこには、季節性は全くありません。しかし本来の薬玉は、その形状も目的も全く異なる物でした。

 辞書で検索すると、麝香・沈香・丁子などの香料を袋に入れ、五色の糸や造花で玉状に飾ったもので、五月五日の端午の節句に柱にかけた縁起物というように説明されています。そして「くす玉」は「薬玉」で、麝香などの高価な香料のことであると理解されています。しかし五月五日の節句に菖蒲や花橘や蓬などの植物で「玉」を作るという歌は『万葉集』にたくさん伝えられていて、庶民が手に入れることのできない高価な香料を材料にした薬玉のはずはありません。平安時代に高貴な人はそのような材料も使ったかもしれませんが、五月五日に飾られた本来の「玉」は、もっと素朴の物だったと思います。現代の薬玉と、平安時代に貴族の邸宅で飾られた薬玉と、万葉時代の薬玉は、言葉は同じでもかなり異なっているようです。

 『万葉集』のそのような「玉」を詠んだ歌をあげてみましょう。
①ほととぎす鳴く五月には菖蒲(あやめぐさ) 花橘を玉に貫き蔓(かづら)にせむと(万葉集 423)
②ほととぎす来鳴く五月のあやめぐさ花橘に貫き交え 蔓にせよと包みて遣らむ(万葉集 4102)
③菖蒲(あやめぐさ)花橘ををとめらが玉貫くまでに(万葉集 4166)
④玉に貫く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来むかも(万葉集 3910)
⑤ほととぎす来鳴く五月のあやめ草蓬(よもぎ)かづらぎさかみずき(万葉集 4116)
①~④には、花橘とあやめ草を玉に貫くこと、またそれらを蔓(かづら)にすることが詠まれていますが、花橘は柑橘類の花のこと、あやめ草は菖蒲湯に入れる菖蒲のこと。「玉に貫く」とは、本来は玉に糸を通して環に作ることで、玉の代わりに菖蒲や橘の花を使ったことを表しているのでしょう。蔓とは植物の葉や花を髪に挿したり頭に巻き付けて、長寿の呪いとする物のことです。⑤には玉に貫くことは詠まれていませんが、その内容からして、蓬も材料になったと考えられます。

 玉に貫く植物としてあやめ草・花橘・楝・蓬が詠まれていますが、いずれにも芳香があることが共通しています。これらの芳香のある植物が癖邪の呪力を持っているという理解は、日本古来のものではありません。
6世紀に成立した中国最初の歳時記である『荊楚歳時記』には、五月五日に艾(よもぎ)を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓ったり、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲んだり、楝の葉を頭に挿して蔓にしたりすることが記されています。

 すると薬玉という習俗は全て渡来したものかというと、そうでもなさそうです。素人の私が調べたので漏れはあるかもしれないのですが、「玉に貫く」という要素は、中国の文献には見当たらなく、これは日本古来のものらしいのです。もしかしてそのような文献があったら私の力不足ですのでお許し下さい。貴重な玉を糸で貫いて首飾りのようにしたものは埴輪などにも多くの例があり、呪力を持っていることを表すと考えられています。古代の首飾りは、単なる装飾品ではありません。癖邪の呪力を持つ植物を環状に連ね、それに五色の糸を垂らした程度の初期の薬玉があったのではないかと思っています。
 
 平安時代になっても、五月五日に薬玉を懸ける習俗は続いています。
⑥沼ごとに袖ぞ濡れぬる あやめ草心ににたるねをもとむとて(新古今 恋 1042)
⑦あかなくに散りにし花のいろいろは残りにけりな君が袂に(新古今 夏 222)
⑧あやめ草涙の玉に貫きかへて折りならぬねをなほぞ懸けつる(千載集 哀 556)
⑦はに、「薬玉を女につかはすとて、男に代りて」という詞書きが添えられています。歌の意味は、あやめの根を引き抜こうとして、どの沼でも袖が濡れました。あなたを思う私の心に似た、深くて長いあやめの根を探して、ということなのですが、この場合は歌そのものよりも詞書きが重要です。恋しい人に、五月五日にあやめの根を材料にしてこしらえた薬玉を贈るという習俗があったことがわかります。

 ⑦にも五月五日、「薬玉つかはして侍ける人に」という詞書きが添えられています。意味は、まだ見飽きないうちに散ってしまった春の色とりどりの花が、あなたの袖の袂に残っていたなあ、ということです。これには少々説明が要りそうです。人から贈られた薬玉を肩から腰に下げているのですが、その薬玉は造花で飾られていたのでしょう。袂に下がる花いっぱいの薬玉を、袖に拾い集めた春の花に見立てているのです。この歌でも、人から贈られた薬玉を肩から脇の下あたりに懸けておく習俗があったことがわかります。またその薬玉は、おそらくは造花で飾られていたと思われるのです。 

 ⑧は詞書きによれば、藤原道長の娘姸子が亡くなったとき、その娘の乳母であった女官が、姸子の旧邸の御帳内に枯れたまま懸けられていた薬玉を見て詠んだ歌です。意味は、季節外れの薬玉が懸けられているのを見て、薬玉ならぬ涙の玉を貫いて声をあげて泣いてしまいました、というものです。「ね」は「音」と「根」を懸けていますから、あやめ草の根でこしらえた薬玉であったことがわかります。また五月五日に御帳内に薬玉を懸け、それが干涸らびても懸けたままにしておいたことがわかります。平安時代にはこの薬玉は、九月九日の重陽の節句に、茱萸(しゅゆ)袋と交換されるまで懸けられていました。このような宮中やそれに準ずる所に懸けられた薬玉には、麝香や丁子や沈香などの高価な香料が使われたのでしょうが、あやめ草を材料にするという本来の形は伝えられたようです。ただ花橘や楝などの生花は小さく傷みが早いので、造花に代えられたと思われます。長期間懸けっぱなしであったことがそれをうかがわせます。

 私の不十分な検証ではありますが、まず薬玉と言っても、万葉時代の薬玉と平安時代の薬玉は異なること。また芳香のある植物に癖邪の呪力があるとして、五月五日の呪物としたことは唐文化の影響ですが、玉に貫くということは日本古来の習俗ではないかと思っています。また平安時代には、小さな薬玉を人に贈る習俗があったということも確認しておきましょう。現在の薬玉は造花で飾られていることもあります。玉を割るということは新しい様式ですが、五色の糸やテープが下げられることは古い様式にもあり、以外に古来の様式が残されているものだと思いました。

 私は薬玉をわざわざ作りはしませんが、あやめ草(菖蒲)と蓬を風呂に入れたりすることはあります。ただは新暦の五月五日ではなく、旧暦でやっています。蓬はいくらでも道端に生えていますし、あやめ草も、散歩道の途中で摘むことができます。

 

松の花

2016-04-23 10:24:30 | うたことば歳時記
松の花が咲く季節になりました。「松に花があるの?」と言われそうですが、松ぼっくりという立派な実があるのですから、花がないはずはありません。しかし「花が咲きます」と言いたいところですが、松の花には花びらがないので、「咲く」という表現が馴染まないかもしれません。中学校の生物の時間に、種子植物を被子植物と裸子植物の二つに分類し、裸子植物の代表として、松の花の観察をした記憶のある方もいることでしょう。私も習ったはずなのですが、何しろ半世紀以上も前のことですから、うろ覚えです。裸子植物は子房がなく、胚珠がむき出しになっているので、その名があるという程度しか覚えていません。裸子植物には子房がありませんから、果実の部分がなく、種子もむき出しのままになっています。裸子植物の代表としては、松の他に杉や銀杏や蘇鉄があるそうです。そうすると銀杏の臭い果肉の部分は子房ではなかったのでしょうか。てっきりそうだと思っていました。

 生物的な観察はともかくとして、この時期の松は新緑の若葉の色が美しく、十分に観賞に堪えるものです。松は一年中色を変えないところが愛でられるため、かえって注目しないのでしょうが、晩春から初夏にかけて、松の葉の緑色が、一際鮮やかになります。
①常盤なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり   (古今集 春 24)
②春深き色にもあるかな住の江の底も緑に味る浜松     (後撰集 春 111)
 ①はそのような常盤松の新緑に注目した歌なのですが、「ひとしほ」という言葉を選んでいるところに作者の意図がありそうです。現代では「ひとしお」という言葉は「一層」とか「一段と」というように、程度が増す意味で使われています。古語の「ひとしほ」も同じことなのですが、漢字で表記すると「一入」と書き、もともとは染め物を染め汁の中に一度浸すことを意味していました。浸すごとに色が濃くなるので、「一段と」という意味になるのです。「一入」と言う時、自分で織った布を自分で染めることが当たり前だった古人にとっては、①の歌の「ひとしほの色まさりけり」という表現は、実に実体験に裏打ちされたものだったのです。現代人はもう「ひとしお」という言葉に、そのような語感を感じ取ることはなくなってしまいましたね。松の新緑は染められて濃くなってゆくのかなと、一瞬は思って愛でてみて下さい。
 ①は、住の江(住吉の海辺)の松は、深くなってきた春に相応しく、住吉の海の底も緑色に見えるほどに、深い色に見えることだ、という意味です。春の深さと松の新緑の深さを掛け、水に映る松の新緑を詠んだものです。手の込んだ歌ではありますが、要するに晩春の松の新緑の美しさを詠んでいます。

 古には、松の花は百年に一度咲き、それを十回繰り返すと理解されていたため、松の花は「十返りの花」(とかえりのはな)とも呼ばれていました。それで100年×10回=1000年というわけで、松の樹齢は千年に及ぶものと理解されていたのです。
➂松の花十かへり咲ける君が代に何を争ふ鶴のよはひぞ    (新後撰集 賀 1571)
  ④おしなべて木の芽も春のあさみどり松にぞ千代の色はこもれる(新古今 賀 735)
➂は、百年ごとに十回咲くという松と、同じく「鶴は千年」と言われる鶴の長寿をもって、千代の長寿を寿ぐ歌です。④は、春の松の新緑に、千年の長寿を見て取るという趣向です。➂も④も賀の歌であるように、松によって長寿を寿いでいるのですが、裏を返せば、それだけ平均寿命が短かったということであり、だからこそ長寿を寿ぐ歌がしきりに詠まれたわけなのです。長寿が当たり前になっている現代では、松を長寿のシンボルとみる発想はあまりなくなってしまいましたね。何しろ王朝時代は、四十歳から長寿の祝いが始まり、四十歳を「初老」と呼んでいたのですから。

 「千代の松」「千代松」という言葉は時々耳にしますね。唱歌『荒城の月』にも「千代の松が枝」という言葉がありますが、松と千とが結びつく背景には、「松の花は百年に一回咲くことを十回繰り返す」という、「十返りの花」という理解があったのです。千代の松はよく知られた表現ですが、十返りの花という言葉はもう忘れられています。この新緑の時期、改めて松の花を観察・観賞してみてください。

 よく見れば毎年咲いているのに、古人は百年に一回しか咲かないと思っていたのか、などと言われそうなので、もう少し補っておきましょう。本来なら百年に一回しか咲かないはずの松の花が、毎年咲いている。それこそ目出度いことではありませんか。そのように古人は感じていたのです。 
 




春くれなゐの岩つつじ

2016-04-19 14:31:02 | うたことば歳時記
夏も近付く今日この頃、里山には野生の躑躅(つつじ)が咲くようになりました。一般的には「山つつじ」と呼ばれているようです。品種改良されたつつじと異なり、野生のつつじは淡い紅色で、たまに白い花もあります。『万葉集』には「丹つつじ」や「白つつじ」という表現がありますから、はじめから紅白2色があったようです。

 初めから脱線してしまいますが、「紅白のつつじ」と言えば、ホオジロの鳴き声を思い浮かべますね。動物の鳴く声を人の言葉に置き換えて聞き取ることを「聞きなし」と言うのですが、ウグイスの「法、法華経」は誰でも知っています。ホオジロの聞きなしでよく知られているのは、「一筆啓上つかまつり候」というもので、実際そのように聞こえます。もう一つよく知られているのが「源平つつじ白つつじ」「源平つつじ茶つつじ」というものです。ホオジロは我が家の周辺にもたくさんいて、そのつもりになって耳を澄ますのですが、一筆啓上の先入観があるためか、源平つつじには聞こえませんでした。

 つつじを詠んだ古歌は『万葉集』では10首詠まれていて、美しい女性の比喩として詠まれることがあります。王朝和歌になるとその数は大変少なくなりますが、色がわかるのはほとんどが赤系となっています。つつじの本来の色は紅色と理解されていたのでしょう。

 また慣用的に「岩つつじ」と詠まれることが多いのですが、『万葉集』にも1例ありますから、早くから定着していたようです。「岩つつじ」と聞けば、すぐに思い浮かぶのは、『平家物語』大原御幸の場面です。大原の寂光院に隠棲している建礼門院を、後白河法皇が突然に訪ねた際に、建礼門院は山に花を採りに行って留守にしていました。法皇が「人やある」と呼んでも誰もいません。そのうち年老いた尼が現れて、法皇と話をしているうちに、建礼門院が山から降りてきます。

 上の山より濃墨染の衣着たる尼二人、岩の懸道を伝ひつつ下り煩はせ給ひけり。法皇御覧あつて、「あれは何者ぞ」と仰せければ、老尼涙を押さへて申しけるは、「花篋肱に懸け岩躑躅うち添へて持たせ給ひたるは女院にて渡らせ給ひ候ふなり。爪木に蕨折り具して候ふは、鳥飼中納言維実の娘、五条大納言国綱の養子、先帝の御乳母大納言典侍局」と申すも敢へず泣きけり。
 法皇も哀れげに思し召して、御涙塞き敢へさせ給はず
 女院も、「世を厭ふ御習ひといひながら、今かかる有様を見え参らせんずらん恥づかしさよ。消えも失せばや」と思し召せどもかひぞなき。
 宵々毎の閼伽の水結ぶ袂も萎るるに暁起きの袖の上山路の露も滋しくて絞りやかねさせ給ひけん山へも帰らせ給はず御庵室へも入らせおはしまさず、あきれて立たせましましたる所に内侍の尼参りつつ花篋をば賜はりけり。

 『平家物語』の原文を載せましたが、難しい部分もあるので、現代語訳も添えておきましょう。

 さて、上の山から濃墨染の衣を着た尼が二人、険しい岩道伝いを難儀しながら下りてこようとされていました。後白河法皇がご覧になって「あれは何者だ」と仰せになると、老尼は涙をこらえて、「花籠を肘に掛け、岩つつじを 添え持っておられるのが建礼門院さまでございます。薪と蕨をお持ちなのが鳥飼中納言・藤原伊実殿の娘で五条大納言・藤原邦綱殿の養子、先の安徳天皇の乳母でもあった大納言典侍局…」と言うこともままならずお泣きになりました。
 法皇も哀れに思われて、涙をお止めになることができませんでした。
 建礼門院も「世捨て人の常とは言いながら、今このようなありさまをお見せする恥ずかしさ。消えてしまいたい!」と思われたのですが、どうしようもありません。
 毎夜の仏前に供える水で袂は萎れているのに、早朝起きて山路を行くので、袖はたくさんの露に濡れ、露と涙で絞りかね、いまさら山へも帰られず、庵へも入られず、途方に暮れて立っていたところ、内侍の尼が参り、花籠を受け取られました。

 頃は「卯月二十日」の頃ということですから、もう夏になっていましたが、山奥のこととて、季節の移り変わりが少しばかり遅かったのでしょう。まだ山にはつつじが咲いていたようです。ここでも「岩つつじ」
と慣用的に呼ばれていますね。庭に植えることが当たり前になっている現代では、ピンと来ないかもしれませんが、岩山に咲く野生のヤマツツジを見る機会があれば、それだけで一幅の見ものであると思って下さい。

ヤマツツジが咲くのは、晩春から初夏にかけてのことです。その色は夕紅の空の色を思わせたのでしょう。次のような歌が詠まれています。
○入日さす夕くれなゐの色映えて山下照らす岩つつじかな   (金葉集 春 80)
これには「晩に躑躅を見るといへることを詠める」という詞書きが添えられています。「晩に」とは言うものの、「入日さす」というのですから、夕暮れのことなのでしょう。晩春の夕暮れは、一日の終わりだけでなく、春の終わること、春の暮れることを連想させます。この歌にはどこにも「春を惜しむ」とは詠まれていませんが、当時の人の感覚ならば、春の暮れる頃の夕暮れは、特別な情趣を感じさせるものでした。そのような暮春の夕暮れだからこそ、夕紅色の岩つつじをしみじみと歌に詠む心が湧いてきたのでしょう。