うたことば歳時記

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右上位の根拠(出鱈目な流布説)

2016-11-24 13:33:00 | 歴史
ネットで右上位について検索していて気が付いたのですが、その根拠にまで触れた情報が全くありません。国際基準になっているとか、欧米の様式であるとまで言いながら、なぜ右上位なのか説明がないのです。それでその根拠について少々お話しましょう。

 欧米では右上位とされ、それが「プロトコール」と称して国際的儀礼慣習となっています。それはオリンピックの表彰式で、二位と三位の並び方にも反映されています。その根拠として、ヨーロッパには騎士道精神があり、左手に楯を持って女性を守りながら、右手で剣を握り戦ったためなどと説明されることがあるのですが、これはとんでもない出鱈目なのです。ネット情報も全てそのように説明していますし、結婚式のたびに日本中の式場がそのように説明するものですから、そういう理解が流布しています。しかし歴史的根拠は全くありません。左手で女性を庇いながら右手で戦ったので、男が右で女が左というならまだわからなくもありませんが、それを右上位の根拠というならば、愛する女性より剣の方が上位ということになってしまうではありませんか。外務省では外国の要人をもてなす機会が多く、国際儀礼については敏感なはずです。しかし外務省はそのような説明をしてはいません。もちろん右上位の根拠についても説明はしていませんが・・・・。

 右上位が国際基準になっているといっても、国際的取り決めがあるわけではありません。欧米で一般化しているというのですから、その根拠にはキリスト教があることくらいは見当がつきます。しかしキリスト教的価値観は、聖書に基づいているのですから、さらに遡ってユダヤ教にたどり着きます。

 私がイスラエルでヘブライ語を学んでいる時、こんな歌を覚えました。ここではメロディーは表しようがありませんが、歌詞は旧約聖書、ユダヤ人にとっては旧約聖書というものは存在せず、ただの聖書なのですが、詩篇118篇15「エホバの右手は勇ましき動作(はたらき)をなしたまふ」そのままで、片仮名で音だけを表せば、「ヤミン ハシェム オサー ハイール」となります。イスラエルでは聖書の一節をそのまま歌詞に採った歌が、普通にたくさん歌われていて、歌謡祭でも宗教的音楽が当たり前のように歌われるのです。たったこれだけの歌詞ですが、それを繰り返し繰り返し、熱狂的な雰囲気の中で踊るようにして歌い続けます。歌謡曲の歌詞が聖書の言葉そのままというのは、さすがイスラエルならではのことでした。

 「神の右手」はヘブライ語では「ヤミン、ハシェム」と言います。「ヤミン」は右、「ハ」は定冠詞、「シェム」は直接的には名前という意味ですが、神の名を妄りに唱えないという戒めにより、神という代わりに「御名」という表現をするのです。日本でも詔勅を読む際には「御名御璽」と読んだのと近い発想でしょう。ですからユダヤ教で「右手」と言えば、神の力強い働きを意味しています。

 話はとびますが、米国独立宣言起草者の一人に、ベンジャミン・フランクリンという人がいます。100ドル紙幣の肖像にもなっていますね。「ベンジャミン」とはヘブライ語では「ベン・ヤミン」で、日本語の聖書では族長ヤコブの子「ベニヤミン」と音訳されています。「ヤミン」は右、あるいは右手のこと。「ベン」は息子という意味ですから、「ベン・ヤミン」「ベンジャミン」は「神の力ある右手の子」という意味なのです。そう言えば、ベンジャミンという観葉植物がありますが、なぜそう呼ばれているのかは知りません。

 右が神の力ある働きの象徴であることは、聖書の中には他にも多くの例があります。

 また「右」は威厳や栄光を意味することもありました。古代イスラエルの王宮は、神殿の右に位置していました。ですから神の右に座すということは、神に次ぐ人間界最高の権威の座を意味したのです。同じく詩篇110篇1節の「エホバわが主のためにのたまふ。我なんぢの仇をなんぢの足台とするまでは、わが右に座すべし」という言葉は、その様な背景で理解されます。そしてこの聖句は新約聖書にもしばしば引用され、神はイエスを救い主として、その右に座らせるものとされたのでした。(参照 使徒行伝5-31)

 聖書におけるこのような「右」の理解により、キリスト教国では右優位の習慣が成立し、それが国際的基準と見做されるようになりました。ですから、英語で右を表すrightという言葉は、正しいという意味をも兼ねることになったのです。神の働きは常に正義だからです。日本のネット情報には、英語でrightが正しいという意味があるからという所までは触れられていますが、なぜrightが正しいという意味を兼ねるのか迄には触れられていません。聖書まで遡らなければ、なぜ右上位なのかは説明できないのです。

寒月和歌抄 冬の歌

2016-11-21 15:42:46 | 短歌
  時雨
○小夜中に時雨は里を巡るらしふるもみぢ葉に音をのこして
○柞(ははそ)葉に時雨降るらし文(ふみ)閉ぢて灯も消して聞く冬の訪れ
時雨は冬が来たことを知らせる時の雨。夜には、葉を打つ微かな雨音も聞こえる。

  残(のこ)んの菊
○暮れてゆく年の名残の白菊の知らずや霜に傲(おご)る心を
○移ろへど霜の籬(まがき)にながらへて年暮るるまで傲り咲かなむ
○霜月になほ咲き残れ白菊の花より後の花しなければ
○年の内はあだには折らじ白菊の霜枯れてなほ香のしるければ
冬枯れの庭に寂しく残る菊(伴侶に死別した配偶者の比喩)は、艱難にも傲(おご)り(ものともせず)、ひとり毅然として咲く。古来、菊はその年の最後の花と理解されていた。「花し」の「し」は強調。

  夫に後れたる人を励まして
○露に泣き霜に傲(おご)りてうつろへど籬(まがき)の菊の香ぞあらたなる
露や霜にあたって赤紫に色づき、若い頃の美しさはない。しかし表面の美しさである色は衰えても、心の美しさである香はますます香る。晩年にこそその気品は香るもの。

  冬よ来い
○来るなら来い光太郎の冬よ来い私が餌食になるかもしれぬが
高村光太郎の詩を読みて。

  月夜の森
○虫の音も木枯らしもみな呑み込みて月夜の底に森横たはる
すべての波長の光を吸収するものは、真黒く見えるように。

  柞
○木枯らしに柞(ははそ)の森は散り果てぬ命の種を土に託して
古来、柞(いわゆる団栗の木)は「母」の象徴であった。母の命を継いだ団栗は母なる大地に   落ち、やがてすくすくと育ってゆく。

  本(もと)柏
○代々絶えず葉守(はもり)の神のましまして嵐にさやぐ音もかしこし
柏には葉守の神が宿り、冬になって枯れても落葉しない。風が吹くと葉擦れの音が聞こえる。「本柏」とはそのような柏の葉のこと。

  夜半の雪
○寝覚めしていささ叢竹(むらたけ)さらさらに降り積む雪を思ひこそやれ
夜、笹に降る雪はかすかに「ささ」と聞こえる。「いささ叢竹(むらたけ)」は竹の小さな茂みのこと。

  雪中友を待つ
○君来(く)やとうづもれて待つ山里に垂(しづ)りの雪の音のみぞ聞く
友を待ちくたびれていると、雪がどさっと落ちる。「垂(しづ)りの雪」は、重さに耐えかねて木の枝から落ちる雪のこと。

  友を励まして
○人目にはさもこそあらめ枯るるともかくろへばみて下に萌ゆらむ
表面は枯れ果てても、下には春のきざしが隠れているもの。「さもこそ」は「いかにもそうであろう」の意。

  暫く消息不明の教へ子を案じて
○冴えかへり霜おく夜は笹の葉のささめくほどの声を聞かなむ
私が仲人をしたのに、離婚した教え子の消息が知れず。「冴え・・・・・笹の葉の」は「ささ」を導く序詞でもある。

  福島原発事故による放射能汚染の風評被害を受けたる狭山茶の花を
○いはれなき騒ぎに耐へて狭山茶の汚れなき花咲きてこぼるる
葉陰にひっそりと健気に咲いている。

  冬の星座
○己(おの)がじし空に宿りて冴えざえと夜を領(うしは)く星の神々
夜空はギリシャの神々の統べ治める世界。「己がじし」は「それぞれに」の意。

  霜降る夜
○奥深き星の森より降る霜の音なき音の冴ゆる小夜中
歌舞伎では、しんしんと雪の降る様子を、腹に響く太鼓の音で表す。ならば霜の降る音とはどのような音なのか。「星の森」という表現は柿本人麻呂の造語「星の林」にならったもの。

  寒月
○散りはてて梢さびしきわが庭にしばしは宿れ冬の夜の月
木影越しの月は、まるで影絵の世界。

  冬の月影
○寝覚めして隙より漏るる枕辺の霜に驚く有明の月
○むばたまの月はむべこそ凍るらし寝覚めの床に霜と降りしく
枕辺の月影を霜に譬えることを「月並み」と言う人は、ただその美しさを知らないだけ。

  春間近
○福寿草陽(ひ)の温もりを蓄へて蕾芽(つぼみめ)ほどに春は膨らむ
草木は人よりよく春を知っていて、春への期待が芽を膨らませる。
   


川越歴史散歩(2)

2016-11-15 18:49:44 | 歴史
川越歴史散歩(1)の続きです。またそちらを御覧になっていない場合は、まずは(1)をお読み下さい。

 さて、本丸御殿を出て、右斜め前方には三芳野神社があります。この神社はここに河越城ができる前から鎮座していたのですが、太田道真・道灌父子の河越城築城により、城内に取り込まれてしまいました。三芳野という社名は、川越の地が『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」に当たるという江戸初期か らの説に拠るのですが、川越以外の異説もあって、定かではありません。ただそのような説があったことを示す文献史料はあります。

 現存する社殿は、寛永元年(1624年)に川越藩主酒井忠勝が3代将軍徳川家光の命を受けて造営したもので、明暦2年(1656年)には、4代将軍徳川家綱の命を受けた川越城主松平信綱により大改造が行われ、この時、江戸城二の丸の東照宮本殿を移築し当本殿とし、寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態となりました。江戸城二の丸の東照宮の拝殿は、後に現在の川越氷川神社境内に移されて現存することは、氷川神社のところでお話ししましたね。

 先日見学した時はたまたま工事中で全容が見られなかったのですが、ここで「権現造」というものを確認しておきましょう。権現造の特徴は、拝殿と本殿の間に幣殿を設けて両者を繋げていることです。漢字の「工」の字のようになっているわけですね。「権現」とは東照大権現、つまり家康を祀った日光東照宮の様式に代表されるからです。

 三芳野神社は、童謡『とおりゃんせ』に歌われる天神社に当たると言われています。境内には発祥の地であることを刻んだ大きな石碑がありますし、どの観光ガイドを見てもその様に書かれています。しかし残念なことに、そのことを示すいう史料は何一つありません。「・・・・と伝えられている」というだけであって、伝承があったという史料すら皆無なのです。

 それならなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは歌詞の内容に符合する神社探しが行われ、川越城内の三芳野神社ならうまく説明できるということに拠っているのです。おそらく最初は誰かがその説をとなえ、それが数代を経て「伝えられている」ということになってしまい、既成事実化したものなのでしょう。しかし考えてみれば、いくら七つのお祝いにといっても、庶民がいくつもの郭と門を潜り抜けて、本丸まで入れてもらえるはずがありません。中には年に一度の大祭には、庶民も入ることができたなどと、いかにも見てきたような説明をしている本もあります。そのようなものが流布すれば、みな信用してしまうでしょうが、しつこいようですが、歴史学研究上は全く根拠がないのです。このことは市立博物館の学芸員の方も認めています。もし根拠となる文献でもあれば、「・・・・という書物によれば」と、大手を振って説明されるのでしょうが、「・・・・と伝えられている」以上のことは絶対に書けないのです。

 「・・・・発祥の地」「・・・・・ゆかりの地」というものには、眉唾物が多いものです。特に歌の場合に顕著です。作詞者や作曲者が住んでいたところ、生まれたところ、長期間逗留したところには、こここそこの歌の発祥地であるとして、記念碑が立てられ、既成事実化してしまうのです。観光の目玉になれば、それだけ潤うのですから、気持ちはわからなくもないのですが・・・・。

 さて、三芳野神社の参道を南に進み、通りに出たところを右折します。しばらく行くと、右手に大きな木の茂った高さ10mくらいの大きな古墳のようなものがあります。これはかつての川越城の富士見櫓の遺構です。富士見櫓は本丸の南西の隅に位置していましたから、本丸の広がりをおよそ把握することができます。石段が頂上まで続いていますから、滑らないように気をつけて登ってみましょう。上る前に、上り口のあたりが低くなっていますね。これが本丸を取り囲んでいた堀の跡です。

 大木が茂っているので、頂上に上っても眺望は木々の間からわずかに見えるだけです。しかしかつては木がなかったはずで、城下も富士山もよく見えたのでしょう。川越城には天守閣がありませんでしたから、その代用の役目を持っていたのです。山頂のすぐ北には、浅間神社が祀られています。富士山信仰の神社ですね。富士見櫓という呼称によるものでしょう。そこから北側の谷底を覗いてください。かつての堀があったことがよくわかるでしょう。谷の向こう側にあるのは、映画「ウォーターボーイズ」発祥の地としてよく知られた県立川越高校です。頂上付近には、巨大な榧(かや)の木が茂っていました。食べられる実も落ちています。樅(もみ)の木のような葉をしているのですぐにわかるでしょう。将棋盤に加工されることでよく知られています。また古くはこの木の枝で蚊遣りとしていぶしたので、「かや」という名前になったという説があります。めったに見られない珍しい木だったので、ついでに脱線しました。

 さて富士見櫓を降りたら、そのまま来た道を西に直進してください。すぐに川越第一小学校の正門がありますから、一寸中に入り、すぐ右を御覧ください。そこに南大手門があったことを示す石碑があります。

 そうしたらまた道に戻り、100m進むと、道は直角に右に曲がります。そして数十m進んで、丁字路を左折してください。そして100mと少し南に歩くと、中央公民館があります。その丁字路を右折します。100m進むと、「永島家住宅」と呼ばれる武家屋敷跡があります。これは埼玉県内に残る武家屋敷の唯一の遺構で、川越では藩命で武家屋敷の生垣はカラタチと決められており、今もそのカラタチの生垣が残っているのです。中は普段は公開していないのですが、確か月に一回、第三土曜日でしたか、公開しているはずです。正確にはネットで確認してください。すこし戻るようにして、右手に塀を見ながら南に歩くと、東門の隙間からお庭を見ることができます。そしてそのまま進み、突き当ったら右折してください。この辺りは狭い道がかぎ型に屈折していて、クランクのようになっています。まるで教習所のコースのようです。このような地割は「七曲り」と言われ、城下町特有のものです。直線道路では見通しがきき、鉄砲を撃ちかけられてしまいますが、屈折していれば、敵の侵入を一時的にも遅らせることができるのです。現代ではかえって不便なことなのですがね。

 七曲がりの道を適当に西に進み、市役所に至る大通りに出ます。それを市役所の方に向かって歩くと、すぐ右側に煉瓦造りの川越基督教会があります。この教会は、明治22年(1889)、現在の元町に会堂が建てられたのですが、4年後の明治26年(1893)、川越大火により焼失してしまいました。そして大正10年(1921)、現在地の松江町に再建されたものです。設計は立教大学を新築したウイリアム・ウイルソンという建築家だそうです。蔦が絡まって、なかなかいい雰囲気を醸し出していますね。教会堂は昭和54年(1979)に日本建築学会の「近代の主要名建築」の一つに選ばれ、さらに平成13年(2001)には国の「登録有形文化財」に指定されているのですが、あくまでも宗教的施設であり、聖日には礼拝が行われているのですから、節度を守って拝観して下さい。当事者にしてみれば、文化財ではないのです。もし運良く中を見せていただけることがあれば、特に拝観料の規定はないのですが、感謝として、それ相当の志を差し上げるくらいのことはしたいものです。

 さて道をそのまま真っ直ぐに市役所方面に進みます。すると100mくらいで、道が屈折していて、見通しがきかないところがあります。これも七曲がりと同じ目的で作られた城下町特有の道です。鉄炮を撃ちかける気分で進んでみて下さい。屈折させた目的がよくわかることでしょう。

 そのまま進むと市役所が見えてきます。市役所前の信号の少し手前に、左折できる小路がありますから、一寸だけ左折して下さい。すぐに右側にオレンジとピンクの中間の色をした「太陽軒」というレストランがあります。いかにも名前に相応しい明るい色に塗られていますね。昭和4年(1929)の建築で、国の登録文化財に指定されているのです。現在はレトロな雰囲気ですが、当時はハイカラだったのでしょう。もちろん現在も営業中です。中の雰囲気もなかなか落ち着いていて、味も雰囲気も楽しめます。

 そのすぐ先には、「川越スカラ座」という映画館があります。124席しかない小さなホールですが、これも立派に営業中です。廃業の危機もあったそうですが、隠れたファンに支えられて、息を吹き返しています。年配の方には懐かしい作りをしています。映画は大正期から昭和戦前期にかけては、娯楽の王様でした。うっかりして現在の建物が昭和何年に建てられたのか忘れてしまいましたが、太陽軒とともに、昭和初期のよき時代の雰囲気を感じて下さい。

 さて道をもとに戻り、市役所前交差点の太田道灌の銅像のまえに立ってみましょう。そして先程見た中ノ門堀の方、つまり東の方を眺めてください。この銅像のあたりが、川越城の西大手門の位置なのです。つまり川越城の西の端に立っているのです。川越城を構築したのは道灌とその父でしたから、像を建てる位置としては、最適な場所というわけです。

 太田道灌はどんな格好をしていますか。何を持ち、何を被っていますか。弓とともに山吹の花を持っているのを確認してみましょう。太田道灌と山吹の故事は、あまりにも有名ですから、今更私が説明する程のことはないでしょうが、誤解されていることもあります。

 その逸話は、戦国武将の逸話を集めた湯浅常山の『常山紀談』という書物の巻一に、「太田持資歌道に志す事」として記されています。もっとも書いてあるから史実であるとは限りませんが、そのように伝えられていたことは事実でしょう。ネット情報では、決まって、娘が「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」という『後拾遺和歌集』の歌によって山吹の枝を差し出したと説明されています。しかし『後拾遺和歌集』の1154に載せられている歌は「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」であって、「なきぞかなしき」ではありません。(この場合の「あやし」とは現代の「怪しい」「妖しい」とは意味がことなり、「理解に苦しむ」とか「道理に外れる」というような意味)。『常山紀談』には「なきぞかなしき」となっています。もし『後拾遺和歌集』を出典として「なきぞかなしき」と解説しているとすれば、その文を載せた人は、原典を確認せずに、ネット情報を安易に切り貼りしているのでしょう。

 『後拾遺和歌集』の1154には、次のような前書きが添えられています。「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける」。

 歌の作者である中務卿兼明親王が小倉の家に住んでいた頃、雨の降る日に来客があったのでしょう。帰りがけ蓑を借りたいと言われたので、山吹の枝を折って持たせました。その人はその意味が理解できずに帰って行きましたが、何日か経って、山吹の意味がわからなかったと言って寄越したので、その返事に歌を届けました、という意味です。ですから山吹の枝を差し出したのは例の娘のとっさの機転ではありません。しかし教養を期待できないはずの田舎娘が、その歌を知っていたこと、またそれを思い出して真似とはいえ咄嗟に同じ行動をしたことは、賞賛に値すると思います。田舎と言って馬鹿にするわけではありませんが、手書きの書物しかない頃に、東国の田舎の娘が『後拾遺和歌集』を諳んじていたということは、驚くべきことなのです。
 
 太田道灌が被っているのは綾藺笠(あやいがさ)です。中央が天狗の鼻のようになっていますが、そこに髻 (もとどり) を入れて固定しました。中世の武士が狩猟や旅行や流鏑馬をするときには必ず被っていたものです。下半身の前面は、行縢(むかばき)という鹿皮の覆いのような物で覆われています。これも綾藺笠とセットで、欠かすことのできない野外行動用の衣装の一つでした。道灌の出で立ちは、狩猟か弓の訓練に出かけた時のものといえます。

 道灌像の位置から交差点の斜向かいの門に、緑青色の3階建ての「百丈」という蕎麦店があります。木造ですが銅板葺きで、なかなかよい雰囲気を醸し出しています。店舗の前面は軒がない垂直な壁面で、看板を兼ねたような壁面があたかもキャンバスのように見えるため、建築史では「看板建築」と呼ばれているものです。このような建築は、関東大震災後から昭和初期にかけて、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店により建築されました。狭い敷地を有効に活用するためには、軒がない方がよいでしょうし、当時は法律で防火のために、木造建築の外壁をモルタル・金属板・タイルなどの不燃性材で覆うことが義務づけられていたのです。この「百丈」も昭和5年(1930)の建築とのことです。

 このような看板建築は、これから見て歩く蔵造通りやそれと並行する大正浪漫夢通り(かつての旧銀座通り)にたくさん見られますから、注意してみて下さい。

 次は市役所を背にして、西に進みます。200mも歩けば「札の辻」という交差点があります。ここは西大手門に近く、当時から人通りの多い商業地区でしたから、高札場が設けられていました。そのため「札の辻」と呼ばれているわけです。

 札の辻の交差点を左折すると、すぐに大沢家住宅という蔵造りの店があります。この大沢家は川越の蔵造り建築の中では最も古く、寛政4年(1792)に建てられています。川越では明治26年(1893)に町の大半が焼失する大火があったのですが、それにも焼けずに残ったので、以後、川越の商人たちが再建する店舗の見本となりました。川越の蔵造り建築の中では、あまり威圧感がなく穏やかなのですが、店主のお話によれば、江戸時代には藩主に遠慮して派手な建築が出来なかったということでした。またもともとは白壁だったのですが、空襲に備えて黒く塗られたということです。白壁の蔵は観光地で見ることがありますが、黒壁は迫力があって個性的ですね。

 ここで川越名物の蔵造り建築の見どころを確認しておきましょう。普通「蔵」というと、保管庫のイメージですが、ここでは店舗になっていることに大きな特徴があります。屋根の最上部の棟は、分厚く漆喰が塗られ、両端には圧倒的に大きい鬼瓦が配されています。窓は表側に開く重厚な観音開扉で、扉と壁側の枠は、閉じたときの密閉性を高めるために、階段状に細工されています。万一火災が迫ってきたら、扉を閉め、扉の隙間に粘土を塗り付けて密封します。こうすれば蔵の中まで熱が入り込むことはなく、外は焦げても類焼しないようになっているのです。観音扉の下で、屋根の上に細長い箱状の台が設けられていることがありますが、これは「目塗台」で、火災の時に扉の目地に粘土を塗り籠めるために設けられたものです。

 一階部分の特に分厚い壁になっている部分を「腰巻」といいます。ここは塗り壁ではなく、土を枠に薄く入れては上からたたくことを繰り返してできた、まさに叩き上げになっています。どこかの店で、その厚さが見られることがあるでしょう。薄い壁が立っているのではなく、重量感と立体感のある接地面積の広い壁が置かれているのです。接地面積が広いですから、それだけ地震にも強く、耐震性・耐水性・耐火性が高くなっているわけです。また屋根が大変に重たいため、これくらいの接地面積がないと、支えきれないのでしょう。

 壁面には鉤形に折れた太い折釘突き出ています。なかには半球形の漆喰が盛り上がっているものもあります。これらの折釘は、補修作業の梯子を固定したり、後で付属設備を取り付けるためのものです。土壁には後で釘を打ち付けることができないので、建物本体に最初から固定しておくわけです。

 蔵造りについてさらに詳しく知りたい方は、途中に蔵造り資料館がありますので見学してください。

 大沢家住宅から二筋目を左折しましょう。角に豆腐屋さんがあります。なかなか美味しいので、お勧めします。左折すると目の前に川越のシンボルとなっている時の鐘があります。これは寛永年間(1624~44)に川越藩主酒井忠勝の命により建てられたもので、現在の鐘楼は川越大火翌年の明治27年に建てられた4代目のものですから、火の見櫓でもあったのに江戸時代に何回か燃えてしまったのでしょうか。高さは約16mですから、東大寺の大仏と同じ高さです。現在では午前6時、正午、午後3時、午後6時に、自動的に鳴らされています。最近補強・復元工事が行われ、銅板などが新しくなりました。

 時の鐘の奥には薬師神社があります。普通は「薬師」と言えば寺ですが、ここでは神社となっています。明治維新までは神仏混淆で寺と神社の区別は曖昧だったのですが、神仏分離令によって神社ということになったのでしょう。現在は氷川神社が管理しています。面白いのは「め」の字を左右対称に書いた絵馬がたくさん掛けられていることです。目の病気に御利益があるとされているからでしょう。ここでは神仏分離について体感できる場所なのです。

 大手門前の札の辻から南の一帯が商人地で、現在も蔵造の商家が並んでいますが、蔵造り通りに並行してその西側に寺がいくつも並んでいることに気づかれたことでしょう。蔵造り通りから西に入る小路の突き当りに、堂宇がいくつも見えますね。これは地図を見た方がよくわかるかもしれません。川越城を取り囲むように武家地と町人地が配置され、それらを取り囲むように寺社地が囲んでいます。有事の際には、これらの寺社地は外郭としての役割を期待されたのです。そのことを地図で確認してみましょう。

 しばらく歩くと、左手に埼玉りそな銀行川越支店がそびえています。これは埼玉県下で最初の銀行で、明治11年(1878)に第八十五国立銀行として設立されました。埼玉県下唯一の国立銀行です。「国立」とは言うものの、国家の費用で建てられた官営の銀行ではなく、「国立」は「国法に基づく」という意味です。よくガイドブックに間違って説明されていることがあります。当時の国立銀行は独自に国立銀行券、つまり紙幣を発行できましたから、第八十五国立銀行券が発行されていたわけです。それらは金兌換を前提としたものですから、当然のことながら資金を提供できる豪商が何人かいなくては開業できません。それが浦和や大宮でなく川越であったというところに、川越が埼玉県の経済の中心であったことが反映されているのです。

 最初の建物は川越大火で焼失し、現在の建物は大正7年(1918)に再建されました。設計したのは保岡勝也という建築家で、彼は東京丸の内のレンガ造りの「一丁倫敦(ロンドン)」というオフィス街の設計者として知られています。建築様式はルネサンス様式のリバイバルであるネオ・ルネサンス様式で、アーチや直線を活かし、中央に入り口があり、その左右に翼廊が取つく左右対称の姿に特徴があります。また外壁の装飾が少ないことも特徴ですが、ゼブラ模様の付け柱がなかなか洒落ていますね。

 銀行から少し進み右手を見て下さい。ギリシア風の柱のある、3階建ての立派な洋館が見えます。これは同じく保岡勝也が設計したデパートでした。ここはもともとは呉服商の山吉(やまきち)が大正12年(1923)に3階建ての木造洋館を建て、百貨店としたことに始まります。洋館が建てられたのは昭和11年(1936)のことです。昭和26年(1951)に山吉は百貨店を廃業し、代わりに飯能に拠点を持つ丸木百貨店が入りました。これが後に丸広デパートに発展します。つまりこの建物は、丸広デパートの最初の姿なのです。

 現在は創建者の子孫に当たる方が、歯科医院を開業しています。イオニア式の柱、唐草模様のレリーフ、ステンドグラスがなかなか美しいのですが、私は個人的趣味で、右のステンドグラスの下の石灰岩に、古生代のウミユリや珊瑚の化石がたくさん含まれている方に感激しました。

 さてさらに進んで次の信号を左折しましょう。すると目の前に堂々としたギリシア風建築が見えます。現在は川越商工会議所の事務所となっているのですが、もともとは昭和2年(1927)に建てられた武州銀行川越支店でした。玄関の上には円形装飾であるメダリオンが掲げられ、太い柱はドリス式です。柱は花崗岩に見えますが、粗い砂を混ぜたコンクリート造りで、表面を水で洗っているために天然石に見えます。なかなか凝ったつくりですね。ちょうど道の角に位置しているのですが、そのことを活かしたフォルムになっているのは、さすがに設計者の目の付け所が違うと思いました。営業していたら、ことわって内部を覗いて下さい。アカンサスの柱頭の立派な柱が立ち上がっていて、天井が高く、内部も堂々としています。しかし室内にこんな柱が何本もあったら、使い勝手はよくないかもしれません。まあそれはともかくとして、信用を得るためには、銀行は見た目も立派でなければならなかったということがよくわかります。入り口の右に立つ赤い旧式のポストが、この建物の場合はよく似合っています。

 ここから南に延びる道は、「大正浪漫夢通り」と呼ばれています。かつてはあまり観光客も来ないアーケード街だったのですが、看板建築が多いことから、それを活かして、大正浪漫のレトロな雰囲気を感じられる商店街に生まれ変わりました。ですからここでは大正期から昭和初期の看板建築を探して楽しんで下さい。店の名前が右から左に横書きになっている店もあり、時代を感じさせます。

 次は大正浪漫夢通りを約200m歩きます。そして二筋目の交差点を左折して下さい。間もなく左側に、旧川越織物市場が見えます。現在は将来の復原に備えてまだ月に1回しか一般公開されてはいませんが、柵越しに見ることができます。観光的にはまだ見栄えがしませんが、ここは織物の生産・集散地として繁栄した川越の歴史を物語る重要な史跡なのです。開設されたのは明治43年(1910)で、大正8年(1919)には閉鎖されてしまい、その後住宅として利用されていました。しかし老朽化のため取り壊しも時間の問題だったのですが、貴重な文化財を保存しようという市民運動が功を奏し、川越市が買い上げ、現在は川越市の有形文化財に指定されています。前方左の建物には、栄養食配給所の表記も残っています。これは織物工場主たちが従業員のために食事を提供するために建てられたものです。いずれ整備されて、新たな観光スポットとなることでしょう。

 川越の織物といいますと、川越唐桟(とうざん)という縞模様の木綿織物がよく知られています。細い糸で織られているため、綿織物なのに手触りは絹のようなのです。江戸時代の日本では、極細の綿糸を生産できませんでした。しかし開港により微細な綿糸が輸入されたため、そのような高級綿織物の生産が可能になったのです。現在はどこで生産しているのか知りませんが、蔵造り通りの中程にある「呉服かんだ」で扱っています。高価な物なのですが、端布も売っています。日本史の先生なら、こんな端布一枚から、幕末から明治初期の貿易を熱く語ることが出来るでしょう。買うか買わないかは別として、その美しさと感触を是非体験してみて下さい。

 さて私の川越歴史散歩も、そろそろ終わりに近づきました。180度向きを替えて、中央通り(蔵造り通り)に戻りましょう。目の前に蓮馨寺(れんけいじ)という大きな寺があります。『新編武蔵風土記稿』によれば、北条氏康の家臣河越城主大道寺政繁が、母蓮馨のために平方村(現在の上尾市平方)に甥の感誉を開山として蓮馨寺を創建しましたが、天文18年(1549年)、大道寺政繁は甥の感誉を河越に招き、その寺を河越に移して同じく浄土宗の蓮馨寺と称したことに始まるとされています。
 
 浄土宗の信仰が篤かった徳川家康は、蓮馨寺を「関東十八檀林(18寺ある僧侶の大学)」の一寺とし、葵紋を掲げることを許しました。ですからまずその御紋を探してみましょう。明治26年の川越大火で、蓮馨寺は山門や諸堂を失ってしまいますが、手水舎と鐘楼だけが被災を免れました。この鐘は、元禄8年(1695)に作られたもの。手水舎には鶴亀・牡丹唐獅子・唐子遊など美事な彫刻が施されています。また水鉢の龍頭は、川越出身の彫刻家で東京学芸大学名誉教授橋本次郎の作ということです。

 蓮馨寺の向かいにある川越熊野神社は、もともとは蓮馨寺の境内だったのですが、明治の神仏分離により分離独立しました。道を隔ててはいますが、本来は一帯だったのです。ここにも神仏混淆の歴史が見られます。

 私の御案内する川越歴史散歩は、一応ここで終了します。9時に氷川神社を出発して、12時半までかかりました。参加して下さった皆さんは、みな歴史好きなのでこの内容で満足して下さいましたが、観光的視点がなかったので、午後はそれぞれにお買い物やお食事も適宜楽しんで下さったことと思います。

 読者の皆様、ここまでお付き合い下さりありがとうございました。一般の観光ガイドには載っていないこともきっとあったでしょうから、少しはお役に立てたと思います。

 なお川越城の縄張りと現在の地図を重ねた地図については、川越市立博物館が編集した『川越城』という冊子に良い図が掲載されています。川越市立博物館で閲覧は出来ますが、一般人へのコピーサービスはありません。埼玉各地の図書館に送付されたはずですから、お近くの図書館で検索してみて下さい。禁帯出ですが、その場でコピーすることは出来るはずです。事前に用意して行くと、川越城について実感をもって見学できることでしょう。 

川越歴史散歩(1)

2016-11-13 17:23:45 | 歴史
 以下のお話しは、平成28年11月12日に行った、私の主催する市民講座の「川越歴史散歩」の様子です。川越の史跡を網羅的に話しているわけではないので、歴史散歩の一つのモデルコースとしてお読み下さい。またあくまでも歴史散歩であって、観光的視点はそれ程ありません。その点もご了解下さい。しかしそのため、一般の観光ガイドには載っていないこともたくさんありますから、歴史好きの人には面白いかもしれません。

 川越の史跡と言えば、川越城が最も重要でしょう。ところが鉄道の駅からは遠いので、駅からバスに乗って、一気に最も遠いところまで行ってしまい、駅の方に歩きながら戻るコースをお勧めします。JR・東武川越駅東口川越マイン前の⑦番バス乗り場で、川越運動公園行きに乗り、宮下町(川越氷川神社前)で下車しましょう。宮下町にとまるバスは、上尾西口行きや埼玉医大行きなど他にもありますから、都合のよい便に乗って下さい。乗車時間は道路の混み具合にもよりますが、20分くらいでしょう。車で来られる場合はこの限りではありませんが、本丸御殿付近の駐車場を利用するのが一番お勧めです。

 宮下町で降りると、目の前が川越氷川神社です。埼玉県や東京都では、氷川神社はあちこちにあってよく知られていますが、それ以外の地域にはあまりありません。さいたま市大宮の氷川神社を中心として、元荒川と多摩川に挟まれた地域に、250社を越える氷川神社があります。

 ヒカワというのは、出雲の斐伊川(古くは「簸川」)に由来し、同じく出雲系の神である、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神としています。これはしっかりおさえておきましょう。日本人は何かにつけて神社にお参りします。そこで私はふざけて、何という神様にお祈りしたのですかと尋ねると、皆一様に首をひねってしまうのです。お願いした相手の名前もわからずに、お祈りしています。外国人が見たら、さぞかし奇妙なことでしょうね。この際、主祭神の名前くらいしっかりと覚えて下さい。

 『国造本紀』という書物によれば、成務天皇の時に、出雲臣の祖である兄多毛比命(えたもひのみこと)を、无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)としたとされています。成務天皇は応神天皇の2代前の天皇で、実在するとすれば、4世紀末のことです。要するに出雲と密接な関係を持つ豪族が武蔵国に勢力を持っていたことになり、その勢力範囲に出雲系の神として素盞鳴尊を主祭神とする氷川神社が分布しているわけです。

 氷川神社の朱塗りの鳥居を潜る前に、氷川会館の玄関近く、立派なオリーブの木が育っています。小豆島にはいくらでもあるでしょうが、このあたりでは見かけないほど立派な樹勢を保っています。私事ですが、長年イスラエルに住んでいたので、ついつい懐かしくて気になってしまいました。でも見るだけの価値はあると思いますよ。

 朱塗りの大鳥居は、高さ15mあり、木製の鳥居としては、国内最大級というのですが、本当に最大であるかは、未確認です。鳥居そのものは平成2年に建てられていますので新しいのですが、上に掲げられた額は、勝海舟の筆になるそうです。確証はありませんが、神職はそうおっしゃっていました。

 境内に入ったら、社紋がどこかにありますから、確認してみましょう。私が行った時は提灯に付いていたのですが、いつもあるとは限らないので、神職にお伺いする方がはやいでしょう。社紋は雲菱といい、雲を菱形にデザインしたものです。なぜ「雲」なのでしょう。素盞鳴尊が詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」という有名な歌があるのですが、何回説明されても、意味はわかったようなわからないような、ちんぷんかんぷんな歌です。『古今和歌集』の序文によれば、これが日本最初の和歌ということになっているのです。もうおわかりですね。この歌を根拠として、「雲」がシンボルとなっているわけです。

 本殿は川越藩主の松平斉典が寄進し、嘉永3年(1850)に建立されました。全面に精巧な彫刻が施されているのですが、普段は見られません。しかし本殿の背後に回ると隙間から見えますから、覗いてみて下さい。

 本殿の脇にある八坂神社の社殿も見逃せません。寛永14年(1637)に江戸城二の丸に東照宮として建てられたもので、後に明暦2年(1856)に川越城内の三芳野(みよしの)神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)に川越城廃城により現在地に移されたものです。寛永期といえば、将軍家光の頃。東照宮は徳川家康を祀っていますから、家光は祖父家康を祀った東照宮にしばしば、参詣していました。家光は鷹狩りを口実としてしばしば、一月に数回も川越城に逗留していますから、そのような関係で江戸城の東照宮が川越城に移築されたのでしょう。この八坂神社も塀越しに覗けます。少し色が褪せてはいますが、かつては原色に塗られ、絢爛としたものだった片鱗が残っています。

 毎年10月第3日曜に行われる川越氷川祭は、老中首座であった松平信綱が川越藩主となり、慶安元年(1648年)に神輿・獅子頭・太鼓などを寄進したことに始まります。一般には川越祭として知られていますが、本来はこの氷川神社の祭礼なのです。なお川越祭については、蔵造りの通りに川越祭会館がありますから、詳しくはそちらを見学して下さい。

 さて本殿の裏に回り、道を少し下ると、新河岸川の橋があります。ここで新河岸川の歴史をしっかりと確認しておきましょう。新河岸川は現在は狭山市内で入間川から取水し、川越市内の北部を迂回して、荒川と並行して流れ、北区で荒川に合流して隅田川となる、全長26㎞の一級河川です。

 江戸時代に舟運が行われた頃は、川越の東方にある伊佐沼を水源とし、現在の和光市の新倉で荒川と合流し、千住・浅草を経て江戸に至っていました。この川を舟運に利用することを思いついたのは、藩主松平信綱でした。ただそのためには舟が行き交えるだけの水量と川幅が必要です。そこで安定した水量を確保するため、新河岸川の下流部の水路を、九十九曲と呼ばれる程に蛇行させ、水が一気に流れないで淀むようにしたのです。しかし一旦洪水となれば、氾濫を起こしたことでしょうね。この改修により、舟が川越まで遡って来ることが出来るようになりました。しかしさすがに川越城までは無理で、川越城から少し下流の、現在の東武東上線の新河岸駅あたりに河岸を設け、そこから川越の物資を江戸まで運べるようになりました。

 江戸まで輸送された物は、年貢米を中心として、川越周辺の武蔵野台地で生産された農作物、茶、薩摩芋、木材、絹織物、酒などがでした。埼玉県の地誌に詳しい方なら、薩摩芋や茶を生産していた三富新田は御存知でしょう。江戸から川越に運ばれた物は、水油、砂糖などの菓子の原材料、小間物、鮮魚などでした。

 川越より上には遡れませんから、川越周辺の町村では、川越までは何とか陸送で諸物資を運んできます。そしてあとは舟で江戸間で運ぶわけです。こうして川越を集散地とする商圏は、飯能・所沢・青梅・秩父・東 松山まで広がり、川越が経済の中心として発展する要因となったわけです。蔵造りには莫大な費用がかかりますが、それを可能にした要因の一つが、この新河岸川の水運だったのです。

 舟は長さ6間、幅2間程で、「川越夜舟」と呼ばれた客舟の場合は、夕方に新河岸を出ると、翌朝には千住大橋に着きました。旅人は眠っている間に江戸まで行けるのですから、こんな便利なことはありません。御蔭で川越街道の旅行者が減り、裁判沙汰になったこともあるそうです。特急便なら江戸からその日のうちに川越に着きますから、季節によっては鮮魚も運ぶことが出来たわけです。ちなみに舟運が終了したのは昭和6年のこと。東武東上線に対抗することは不可能だったわけです。

 氷川神社の裏辺りまでは舟は来なかったわけですが、一応ここで新河岸川を確認しておきましょうね。川には大きな真鯉がゆったりと泳いでいます。ドッグフードなどを橋の上から投げてやると、よく食べてくれます。小さな子が一緒ならば、楽しんでくれますよ。

 さて氷川神社の道を挟んで南側の駐車場を左に見ながら、真っ直ぐ道を南に進みます。300mも進むと、大通りに出ます。この周辺には、中学校・小学校・高等学校・博物館・美術館・野球場・市役所などの公共施設がたくさんあります。そのことの歴史的意味を考えてみて下さい。実はこの辺りは郭町といって、かつての川越城内に当たります。ですから明治維新となって川越城が廃城となると、一帯には広大な非私有地が広がっていたわけです。そこにこれらの公共施設が作られたわけで、住宅地であったところに新たに土地を買収して作ることなどできっこありません。ですから、川越城の範囲を想像するには、西は市役所まで、北は氷川神社南の駐車場まで、東は市立博物館や野球場まで、南は川越第一小学校までと、大雑把ですが把握することができます。

 さて郭町の交差点まで話を戻しましょう。この大通りは市役所通りなのですが、横断歩道を渡ってから右折して下さい。そして役100mのところに、中ノ門堀跡があります。ここには市役所前にあった西大手門から本丸方向への敵の侵入を防ぐため、急勾配の斜面をもった堀が発掘され、当時の様子がわかるように復原されています。深さは7m、幅18m、西大手門側の勾配は30度ですが、本丸御殿側は60度もあります。これではよじ登ることは不可能でしょう。ここから大通りを真っ直ぐ西の市役所方面を見て下さい。道の右側遠方に白い市役所が見えるでしょう。そこが西大手門のあったところですから、だいたいの広さをここで実感して下さい。

 さてここで川越城(河越城)について、ざっとお復習いしておきましょう。

 15世紀の武蔵国では、関東管領の扇谷上杉氏と古河公方の足利氏との抗争が激化して混乱していました。上杉持朝は足利氏の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗するため、家臣の太田道真、太田道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じ、また江戸城も築城させ、古河公方への防衛線を構築していました。岩槻城も太田道灌が築いたと言われていましたが、最近の学説では認められていません。

 川越城は武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、周囲の低地からは比高5~6mの平地ながらも自然の要害になっています。城の北には赤間川(現新河岸川)が天然の堀となっていて、城の南は湿地帯でした。

 16世紀の戦国時代、武蔵国に勢力を広げようとする北条氏綱(早雲の子)が、武蔵国を支配する上杉氏をその居城である河越城に攻め、大永4年(1524)から数回にわたる河越城争奪戦を展開しました。5度目の天文15年(1546)の戦いでは、北条氏康軍と上杉憲政(山内上杉)・上杉朝定(扇谷上杉)・足利晴氏(最後の古河公方)の3者連合軍が武蔵国の河越城付近で戦い、北条軍が勝利しました。この戦いは頼山陽がその著書である『日本外史』で日本三大夜戦の一つに数えたため、世に「河越夜戦」として知られていました。実際には夜戦ばかりではないのですが。この結果、扇谷上杉家は滅亡し、関東管領の山内上杉家も急速に勢力を失い、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ることになるのです。そして北条氏は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになりました。そして天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、北条氏の勢力下にあった川越城は前田利家に攻められて落城してしまいました。

 さて豊臣秀吉の命により徳川家康が江戸に移ると、川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、川越藩の基礎が成立します。酒井家は徳川家譜代の重臣で、家康が川越を重視していたことがわかります。

 3代将軍徳川家光の寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は、川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えました。すでに川越城の広がりについてはお話ししましたが、幕末に至る川越城の基本的縄張りは、この時に作られたものです。面積を数字で示されてもピンと来ないでしょうが、東京ドーム7つ分と言えば、およそ見当がつくことでしょう。

 川越城本丸御殿は、将軍徳川家光が川越周辺で鷹狩をした際に立寄る「御成御殿」でしたから、藩主は日常的には二の丸に居住していました。しかし家光没後、将軍が川越城に来ることがなくなったため、本丸は御殿が解体されて空き地になっていたということです。そして弘化3年(1846)、藩主の居所である二の丸御殿が火災によって焼失したため、嘉永元年(1848)、空き地であった本丸跡に新たな本丸御殿が建てられました。その一部分が、野球場のすぐ側に本丸御殿として現存しています。本丸御殿が現存するのは、川越城の他には高知城のみということですから、大変貴重な文化財というわけです。

 そういうわけで早速、郭町の交差点から本丸御殿の方に歩いて行きましょう。大通りを中ノ門堀に背を向けて、東の方向に250m進んで下さい。左手に市立博物館がありますから、見学してもよいでしょうが、急ぐ方にはお勧めしません。右手には駐車場がありますから、そこを右折して下さい。すると間もなく本丸御殿が見えてきます。

 入場料はわずか100円です。玄関の大きな唐破風屋根や、八寸角の太い柱が、偉容を今に伝えています。唐破風屋根の最頂部の葵の御紋章や、玄関の両脇の櫛形塀も確認しておきましょう。

 玄関を潜ると、36畳の大広間があります。ここは城内の会議室のようなもので、応接間として利用されることもあったでしょう。正面に熊の毛の槍鞘が飾られています。槍の鞘は大名ごとにみな形状が異なりましたから、大名行列がやって来ると、その形だけでどの藩の藩主の行列かがすぐにわかるようになっていました。大名の名前・役職・石高・家紋・槍鞘の形などを漏れなく網羅した『武鑑』という書物が一般に販売されていて、それと見比べれば一目瞭然で誰だかわかったのです。『武鑑』は、いわば大名の紳士録のようなものですね。家紋の研究には必須の史料で、神田の古本市でもまだ容易に入手できます。

 大広間と左に続く使者の間の間の欄間の細工が美事です。これは麻の葉という日本の伝統的文様の一つで、年配の方なら、おしめや乳幼児の産着のデザインとして記憶にある方もいらっしゃるでしょう。麻は真っ直ぐにすくすくと生長することから、子供の衣料品のデザインとしても好まれたものです。

 そこで180度回って、チケット売り場の右に、川越城の縄張りの図が置かれています。これがなかなか良い図なのです。コピーして売って欲しいくらいです。その中で先程見たばかりの中ノ門堀の位置を確認しましょう。そして市役所の位置にある西大手門も確認します。大手門から直進してくる敵を、中ノ門堀で防御するという狙いがよく理解できることでしょう。

 各部屋には名前が付けられていますが、これは余り気にせずに進みます。その際、廊下の板に気を配ってみて下さい。大広間の前辺りは欅の板ですが、途中から木目の美しい針葉樹の板に変わります。これは欅の方が格が上で、公的な場所には欅を、私的な場所には松や栂などが意図して用いられたとされています。それも面白いのですが、ほとんど節のない板が使われています。全くないわけではありませんが、針葉樹の板で、これだけ木目の通った板を用意するのは、相当に贅沢なことなのです。見過ごしてしまいそうですが、こんなこともわかってみると面白いと思います。

 別棟の家老詰所は、明治維新後に福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられていたものを、昭和63年に復元移築したものです。ここでは等身大の家老の人形が、何やら図面を前に話し合っています。川越藩主は老中を兼ねることもあり、そうでなくとも幕府では重要な地位にありましたから、藩主は江戸藩邸にいることが多いものでした。そのため、実際の藩政は、国家老たちの合議によって進められるのが普通でした。そういう意味では、この部屋は川越藩の中枢部であったというわけです。

 家老たちの前に広げられた図面は、品川沖に築かれた御台場の図です。川越藩には三浦半島に飛び地の領地があり、三崎や観音崎に海防陣屋を設けて、海岸防備の役目に当たっていました。有名なモリソン号事件でアメリカの商船を砲撃して撃退したのは、この川越藩だったのです。嘉永6年(1853)に黒船が来ると、川越藩は品川沖の第一台場を築くのですが、家老たちはそのことを話し合っているのでしょう。残念ながらこの第一台場は現存していません。現存しているのは、第三・六台場のみです。余談ですが、ペリー来航をきっかけとして、日本の歴史は大きく変わります。ということで、1853という数は暗記しておきましょう。「いやでござんすペリーさん」の語呂合わせで覚えて下さい。

 そんなわけで、川越藩は早くから海外の情勢に関心が高く、横浜で貿易が始まると、三浦に飛び地があった地の利も手伝って、積極的に生糸の貿易を奨励します。川越藩には前橋にも領地があったため、生糸の確保にも有利でした。もちろん実際の商売は川越の商人たちがやるのですが、川越藩の立地条件が、横浜における生糸貿易に活かされたわけです。それによって莫大な利益を得た川越の商人により、このあと見学に行く蔵造りの店舗が出来ることになるのです。このように話が色々なところにつながって行くことが面白いと思います。あとで蔵造りの町並みを見学する時に思い出して下さい。ただお土産を買って終わりでは、もったいと思います。

 まだまだ続くのですが、一旦ここで休憩します。続きはまた書きますが、何日か時間を下さい。 

時雨の山めぐり

2016-11-12 15:26:08 | うたことば歳時記
立冬となって四日目の夜から翌朝にかけて、冷たい雨が降っています。一般に初冬の冷たい雨を時雨(しぐれ)と言いますが、一般に時雨は「しぐる」「過ぐる」からくる言葉と理解されていますから、さっと降ってすぐに止んでしまうのが、本来の時雨です。いわゆる「にわか雨」「通り雨」ですから、昨夜来の雨は厳密には時雨とは言えないのでしょう。

 日本海側で比較的規模の小さい雨雲が次々に発生し、それが山を越えて来る時に、山のこちら側の斜面に一時的に雨を降らせます。雨雲は速く移動してしまうため、雲間から日光が漏れることもあるほどです。降っている時間は短く、降っている範囲も狭いものです。そのため、雨が降った場所にいる人にとっては、パラパラッと降る一時的な通り雨と感じることになり、時雨が移動しているように見えます。また小雨のように弱くはなく、かといって土砂降りでもなく、屋根や木の葉を打つ音が聞こえる程度のやや強い降り方をします。古歌には時雨が板屋根を打つ音を詠んだものが大変に多いのも、その降り方に因るものでしょう。

 話は少々脱線しますが、和菓子に「○○時雨」 という名前が付けられたものがあります。ほっくりと表面に割れ目があって内側が見えていたり、表面がそぼろ状になっていることが特徴です。これはパラパラッと一時的に降り、降るかと思えば雲間から日が射す時雨の独特の降り方を、日本人の繊細な感性でとらえたものです。もし茶席でそのような菓子に出会ったら、その表面の風情やかすかに覗く内側の色の変化を楽しんで召し上がって下さい。

 閑話休題。このように、平安京を囲む山々を雲が越えてきて、山麓や京の町に降らせる雨が本来の時雨なのでしょうが、似たような地形があれば、日本中どこで降ってもおかしくはありません。まあそれでも見わたす限りの平野が続く関東平野では、山越えの雨雲が降らせる一時的な雨というわけにもいきませんから、そのような場所では、「時雨」は初冬に短時間に降る冷たい雨と、広義に理解してよいのでしょう。

 時雨の降る範囲が狭く、移動しているように見えることを、古人はよく観察していて、次のような歌を詠んでいます。

 山に百寺拝み侍りけるに、時雨のしければよめる
①もろともに山めぐりする時雨かなふるにかひなき身とはしらずや(詞花集 149)

 添えられた詞書きによれば、作者の藤原道雅は、何か発願することがあり、比叡山とその周辺一帯の寺を巡拝していたのでしょう。「百寺」というのですから、余程何かの理由があり、時間もかかったはずです。そして山道を歩いている時に、突然に時雨が降ってきました。しかし長続きせず、時雨は他所に移っていったのでしょう。
 
 意味は、叡山の堂宇を巡っている私と一緒に、時雨も巡っていることだ。時雨よ。降るかいがないという「峡」(かひ・かい)ではないが、生きる甲斐のないこの身だということがわからないのだろうか、ということです。「ふる」は「経る」と「降る」を掛けていますね。父の伊周が道長と対立して左遷されたため、出世の望みが絶たれたのですが、生きる甲斐がないと思ったのは、その辺りのことを指しているのでしょう。

 時雨が山めぐりをすることを詠んだ歌をもう二つ御紹介します。

②木の葉散るとばかり聞きてやみなまし漏らで時雨の山めぐりせば (千載集 405)
③晴れやらぬ去年の時雨のうへにまたかきくらさるる山めぐりかな (山家集 788)

 ②の意味は、時雨が屋根から雨漏りすることなく、山めぐりをするように他所へ行ってしまったならば、時雨の音を木の葉が散る音と聞いてすませてしまったことでしょう、ということです。雨漏りがしたので、木の葉が落ちる音ではなく、時雨の音とわかったというのですが、時雨は山めぐりをするものという共通理解があったことがわかります。

 ③は、昨年に片親に後れ、今年またもう一方の親を亡くして悲しんでいる人に贈った歌に対する返歌です。意味は、去年に親を亡くして、時雨のように泣いたばかりですのに、それがまだ乾かないうちに今年もまた親を亡くして、時雨の涙にかきくれ、供養のために山めぐりをします。あたかも時雨が山めぐりをするように、ということです。親が亡くなったのが、ちょうど時雨の時期だったのでしょう。時雨は山をめぐるものという共通理解があったからこそこのような歌が詠まれたわけで、そのことがわかっていないと、理解するのが難しい歌です。

 それならこの「山」とは具体的にどこの山なのでしょうか。当時京の都で「山」と言えば、特に断らなくとも比叡山延暦寺を指していました。延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれたものです。比叡山に籠って『往生要集』を著した恵心僧都は「山の聖」と呼ばれました。比叡山の山中にはあちらこちらに堂宇があり、それらを巡って参拝することが行われていたのでしょう。もう少し範囲を広げて、比叡山を中心とした東山一帯の諸寺と理解することも可能でしょう。何か発願した人は、それらの諸堂宇を巡ることがあったのでしょう。①の詞書には「百寺」に詣でると記されていますから、三十三観音霊場の札所巡礼のように、100の寺を巡礼する習慣があったようです。時雨が狭い範囲で雨を降らせながら移動してゆくことを、このような山めぐりに譬えたわけです。

 現在、京都で「山めぐり」と言えば、伏見稲荷の山頂まで、一周4㎞の道を歩くことと理解されています。伏見稲荷の山に登って参拝する話は『枕草子』158段「うらやましげなるもの」に面白く記されていて、その頃から行われていたことはわかります。ただそれを「山めぐり」と称したかどうかは、また別の問題です。現在の私には、称していたとも、称していなかったとも、確実な史料を持ち合わせていません。私の勘にすぎませんが、当時は「山めぐり」とは称していなかったのではと思います。それは、当時「山」と言えば比叡山を指すことは共通理解であり、伏見稲荷を「山」と称した例は、私の知る限りでは見たことがないからです。もし私の見落としだったら、是非とも教えてください。

 もし紅葉の時期に東山あたりで時雨に濡れるようなことがあれば、時雨も山を巡拝しているのだと思って、暫く濡れるのも悪くはないのでしょう。