うたことば歳時記

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 芹摘みの歌

2024-03-29 07:18:18 | うたことば歳時記
             芹 摘 み の 歌

 春の七草に数えられる芹は早くから食用となり、数少ない在来の野菜の一つです。独特の芳香は、セリ科の野菜である人参・セロリ・ウイキョウ・三つ葉・パセリなどにも共通しています。水辺にはそれこそ「競(せ)り」合うように生育し、我が家の周辺では、自生しているものをいくらでも摘めます。
 芹を詠んだ歌をいくつか上げてみましょう。
  ①根芹摘む春の沢田におり立ちて衣の裾(すそ)の濡(ぬ)れぬ日ぞなき(好忠集)
 芹は水際に生えているので、摘むときにはいつも衣が濡れるというのです。「根芹」は慣用的表現で、芹はその地下茎の節から真っ白くて細い根を伸ばすため、江戸時代の博物書である『本草綱目啓蒙』には、「白根草」の異称も見えます。実際、水の流れのあるようなところで芹を引くと、泥が洗われて白い根が大層美しいものです。西行もこの根の白いことに思うことがあったようで、次の②の歌を詠んでいます。
  ②足すすぐ沢の小芹の根を白みきよげに物を思はすもかな(夫木抄)
「きよみ」の「み」は「・・・・なので」という意味ですから、洗われるように白い根に、心が浄められると思ったのでしょう。確かに小川の流れの中で芹の白根を見ると、私でも同じ様に思ったものです。
 この「根(ね)」の音が泣くことを意味する「音(ね)」に通じ、摘むときに衣の裾や袖が濡れることから、古歌では恋の歌に仕立てられたりもします。
  ③いかにせむ御垣(みかき)が原につむ芹のねにのみ泣けど知る人もなき(千載集)
  ④何となく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて(山家集)
③の「ねに泣く」は「音に泣く」、つまり声にだして泣くことで、恋に泣いても私の心をわかってくれる人はいない、という意味です。③の「御垣が原」とは 宮中や貴人の邸宅内の草地のことなのですが、10世紀初期の法令集である『延喜式』の大膳式には、皇居に芹を専門に栽培する芹田があったと記されていますから、身分に関係なく好まれていたようです。
 この御垣が原には一寸した逸話があのます。る。『俊頼髄脳(としよりずいのう)』という歌論書などに見えているのですが、宮仕えの卑しい男が内裏の掃除をしていたとき、突風が御簾(みす)を巻き上げてしまった。そして皇后様が芹を召し上がっているところを見てしまい、すっかり魅せられてしまった。そして芹を献上したく、思い出しては御簾の近くに置いてはみるが、これといったこともない。それでついに焦がれる余りに病気になり、芹を摘んで供養して欲しいと言い遺(のこ)して死んでしまったというのです。そして「芹摘みし昔の人も我がごとや心に物はかなはざりけむ」という歌が添えられています。この逸話と歌はかなり流布されていたらしく、『枕草子』230段や『狭衣(さごろも)物語』四にもそれを踏まえた記述があります。そしてこの話によって、「御垣が原に芹を摘む」ことが、かなわぬ恋の思いを表すことになりました。③④はこの故事を踏まえて詠まれたものなのです。
 以上のような背景や「濡れる」「根と音」の相乗効果から、芹摘みにはかなわぬ恋のイメージが伴うことになりました。しかし現代ではそのような印象はありません。芹を摘むごとに切ない思いをするようでは、心の病になってしまいます。それより次の⑤の歌ように、芹の葉を摘みつつ歳(とし)の端(は)を積み(長生きすること)、⑥のように人に贈って長寿を寿ぎ、明るく理解したいものです。
  ⑤春ごとに沢辺に生ふる芹の葉を年とともにぞ我は摘みつる (好忠集)
  ⑥春日野の雪消(ゆきげ)の沢に袖垂れて君がためにと小芹をぞ摘む (堀河院百首)
 そこで私も一首詠み添えます。
  〇降り注ぐ光の岡辺 みどりなす芹生(せりふ)の清水に 春わきいづる
蛇足
 私は摘んだ芹をさっと茹でてから細かく刻み、しらす干しか削った鰹節と少しの醤油を白いご飯に混ぜて食べています。そのまま食べてもよいのですが、時期が遅くなった芹は筋っぽくなるので、細かく刻んだ方が食べやすく、香りも引き立ちますから。一度お試しあれ。

ツクツクホウシの鳴き声

2023-08-06 18:15:13 | うたことば歳時記
かなり前にツクツクホウシについて投稿したことがあったのですが、多少史料を追加したので、再度投稿します。

 8月も中旬になると、ツクツクホウシの鳴き声をよく聞くようになります。我が家の周辺では、蝉の仲間では鳴き始める時期が最も遅く、この蝉の声を聞くと「秋」の到来を実感させられるのです。

 ところでこの蝉の鳴き声を文字に表すとどうなるのでしょうか。注意して聞いていると、まず「ジー」と1回鳴いてから、「ツクツクホーシ ツクツクホウシ ツクツクホウシ」と十数回繰り返します。そして「オイヨース、オイヨース」と数回鳴き、また最後は「ジー」と鳴いて終わります。まるで起承転結でもあるかのように、その鳴き方は4部に分かれているのです。鳴き始めてから鳴き終わるまでの時間はそれほど長くはないので、子供の頃に鳴き声を頼りに探しても、探しているうちに鳴き止んでしまい、他の蝉より警戒心が強いこともあって、なかなか捕らえられませんでした。その頃は私はこの蝉を「オーシン」と呼んでいました。

 この蝉の鳴き声について、一つ疑問がありました。どうでもよいことなのですが、「ツクツクホウシ」か「クツクツホウシ」なのかということです。高齢者に聞いてみると、この二通りの聞き方があるからです。本当にどうでもよいことですね。私は平安時代の国語辞書である『倭名類聚鈔』という書物を好きでよく眺めているのですが、それには「蛁蟟 陶隱居本草注云 凋遼二音字亦虭蟧。久都々々保宇之。八月鳴者是」と記されていました。つまり「クツクツホウシ」と聞いているわけです。

 『蜻蛉日記』には、「さながら八月になりぬ。ついたちの日、・・・・くつくつぼうしいとかしがましきまでなくを聞くにも、我だにものはといはる」と記されていているのですが、「つくつくほうし」と記されていることもあり、あまり厳密に表記しているわけではなさそうです。

 鎌倉時代の字書である『字鏡抄』や室町時代の『温故知新書』には、「クツクツホウシ」と「ツクツクホウシ」の両方が記されているそうです。あいにく簡単には閲覧できない貴重な書物のため、私自身は直接見て確認してはいないのですが、そのことに触れている論文の論証の緻密さからすれば、間違いのない情報と思われます。

 江戸時代の新井白石が表した博物事典である『東雅』の卷20には、『倭名類聚鈔』を引用して「蛁蟟クツクツボウシ。八月鳴者也。・・・・クツクツボウシとは。今俗にツクツクボウシといふも。其鳴聲をかたとりていふなり。」と記されています。余談ですが、新井白石の博学には、本当に心底から驚かされます。正徳年間の幕政に関与する政治的手腕と見識を持つだけでなく、キリスト教の宣教師を尋問して得た知識をもとにしながら、キリスト教や世界地理の書物を著したり、有力武家の祖先を調べ上げたり、古事記や日本書紀について論評したり、歴史学に時代区分というそれまでにはなかった考え方を導入したり、そして本業である朱子学についても他の追随を許しません。日本史上の3人の博学な人物を上げるとすれば、私は迷うことなく新井白石を上げるでしょう。

 江戸時代の百科事典的随筆である『嬉遊笑覽』(十二禽蟲)には、「重ねていふ聲は、くつ〳〵も、つより言へばつく〳〵となる。つく〳〵ほうしも、ほうしより聞なすときは、ほうしつく〳〵となれり」と記されていて、その聞きなしは、ツクツクホウシ・クツクツホウシ・ホウシツクツクと、様々に聞いています。要するにそれ程こだわるわけではなさそうです。

 閑話休題、現在ではツクツクボウシと呼ぶことが一般的ですが、生き物の名前やその鳴き声には地方によって様々ですから、調べもしないで断定することはできません。要するにどう聞いたかであって、クツクツでもツクツクでも、両方平行して行われていたのでしょう。ただ次第にツクツクの方が優勢になったようです。

 さてツクツクホウシにしてもクツクツホウシにしても、鳴き声を仮名で書き取っただけで、それ自体に意味を持たせているわけではありません。「ホウシ」は「法師」であるでしょうが、「クツクツ」「ツクツク」に意味があったのかどうかは、私にはわかりません。ただツクツクホウシを詠んだ古歌の中には、その鳴き声を意味のある言葉に置き換えて理解する聞き成しが含まれているものがあります。

①蝉の羽のうすきこころといふなればうつくしやとぞまづはなかるる (元良親王集 11)
②我が宿の妻は寝よくや思ふらんうつくしよしといふ虫ぞなくなる (大弐高遠集 118)
③女郎花なまめき立てる姿をやうつくしよし蝉のなくらん (散木奇歌集 342)
①~③に共通しているのは、「うつくし」という言葉です。古語の「うつくし」は現在の「美しい」と少々ニュアンスが異なり、「可愛らしい」とか「愛らしい」といった意味です。①は、蝉の羽が透明であることを、蝉が自分で「うつくし」と言って鳴いているという意味でしょうか。②には、「屋の端つまに、つくつくぼふしの鳴くを聞きて」という詞書きが添えられています。自宅の屋根の端(妻)の部分、つまり軒端に蝉がとまって鳴いていたのでしょう。端が妻をかけています。我が家の妻は共寝に良いと思うのだろうか、「うつくし」と言って虫が鳴いているよ、という意味です。自分の妻の可愛らしいことをのろけているわけです。③には「人人まうできて歌詠みけるに蝉を詠める」という詞書きが添えられています。女郎花が美しく咲いているのを、可愛らしくてよいことだと蝉が鳴いている、というのです。女郎花はその名の如く、美しい女性に見立てて詠むのが常套でした。それに蝉が「うつくし」と鳴くことを結び付けたわけで、まあ戯れに詠んだ歌なのでしょう。①から③にはどこにもツクツクホウシであるとは詠まれていませんが、鳴き方からしてツクツクホウシ以外には思い当たりません。平安から鎌倉期にかけて、ツクツクホウシは「うつくし」とか「うつくしよし」と聞き成されていたことがわかります。

 また1775年に編纂された方言を集めた『物類称呼』の巻二には、「蛁蟟、つくつくばうし・・・・近江にてつくしこひしと云」と記されています。「つくしこひし」は「土筆恋し」ともとれるのですが、どうも「筑紫恋し」らしいのです。江戸時代の1787~1788年に俳人横井也有(やゆう)が著した俳文集『鶉衣』(うずらごろも)の「百虫譜」には、「つくつくはうしといふせみは、つくし恋しともいふ也。筑紫の人の旅に死して此物になりたりと、世の諺にいへりけり。こえは蜀魄の雲に叫ふにもおとるへからす。」と記されています。筑紫出身の人が旅先で、故郷が恋しいといって亡くなった。そしてその人の魂は蝉になり、「筑紫が恋しい」と言って鳴いている。その声は時鳥が空に鳴く声にも負けないほどである、というのです。ここには何か言い伝えがありそうですが、今となってはわかりません。その伝承は近江国に伝えられたのでしょう。

 1709年に本草学者貝原益軒が著した博物学書である『大和本草』巻14には、「蛁蟟 クツクツホウシ ・・・・ツクシヨシトナクト云うモノ也」と記されていますから、「ツクツク」を「筑紫」と聞き成すことは、江戸時代の初めからあったと見てよいと思われます。

 こうしてツクツクホウシの鳴き声について歴史的文献で遊んでみると、いろいろ面白いことがわかってきました。「うつくしよし」と聞くのは現代人には少々無理としても、北九州出身の人が故郷を離れて聞き、故郷を懐かしく思い起こすことはあってもよいのかなと思います。北九州出身の人が身近にいたら、是非拡散してください。




ツクツクホウシの鳴き声(改訂版)

2021-08-16 13:06:34 | うたことば歳時記
 8月も中旬になると、ツクツクホウシの鳴き声をよく聞くようになります。我が家の周辺では、蝉の仲間では鳴き始める時期が最も遅く、この蝉の声を聞くと「秋」の到来を実感させられるのです。

 ところでこの蝉の鳴き声を文字に表すとどうなるのでしょうか。注意して聞いていると、まず「ジー」と1回鳴いてから、「ツクツクホーシ ツクツクホウシ ツクツクホウシ」と十数回繰り返します。そして「オイヨース、オイヨース」と数回鳴き、また最後は「ジー」と鳴いて終わります。まるで起承転結でもあるかのように、その鳴き方は4部に分かれているのです。鳴き始めてから鳴き終わるまでの時間はそれほど長くはないので、子供の頃に鳴き声を頼りに探しても、探しているうちに鳴き止んでしまい、他の蝉より警戒心が強いこともあって、なかなか捕らえられませんでした。その頃子供達はこの蝉を「オーシン」と呼んでいました。

 この蝉の鳴き声について、一つ疑問がありました。どうでもよいことなのですが、「ツクツクホウシ」か「クツクツホウシ」なのかということです。高齢者に聞いてみると、この二通りの聞き方があるからです。私は平安時代の国語辞書である『倭名類聚鈔』という書物を好きでよく眺めているのですが、それには「蛁蟟 陶隱居本草注云 凋遼二音字亦虭蟧。久都々々保宇之。八月鳴者是」と記されていました。つまり「クツクツホウシ」と聞いているわけです。『蜻蛉日記』には、「さながら八月になりぬ。ついたちの日、・・・・くつくつぼうしいとかしがましきまでなくを聞くにも、我だにものはといはる」と記されていて、「くつくつぼうし」と呼ばれていたことがわかります。

 鎌倉時代の字書である『字鏡集』には、「クツクツホウシ」と「ツクツクホウシ」の両方が記されています。自分では原典を直接確認していませんが、室町時代の『温故知新書』には両方が記されているそうです。室町時代初期の『頓要集』という字書では、「つくつくほうし」であることを確認しました。江戸時代の新井白石が表した博物事典である『東雅』の卷20には、『倭名類聚鈔』を引用して「蛁蟟クツクツボウシ。八月鳴者也。・・・・クツクツボウシとは。今俗にツクツクボウシといふも。其鳴聲をかたとりていふなり。」と記されています。

 現在ではツクツクボウシと呼ぶことが一般的ですが、生き物の名前やその鳴き声には地方によって様々なことでしょう。まあ大まかに言えば、クツクツでもツクツクでも、両方平行して行われていたのでしょうが、次第にツクツクの方が優勢になったようです。

 さてツクツクホウシにしてもクツクツホウシにしても、鳴き声を仮名で書き取っただけで、それ自体に意味を持たせているわけではありません。「ホウシ」は「法師」であるでしょうが、「クツクツ」「ツクツク」は素直に鳴き声を写したものと考えてよいでしょう。「法師」には何かわけがありそうですが、今となってはわかりません。

 数は極めて少ないのですが、ツクツクホウシを詠んだ古歌の中には、その鳴き声を意味のある言葉に置き換えている歌があります。

①蝉の羽のうすきこころといふなればうつくしやとぞまづはなかるる (元良親王集 11)
②我が宿の妻は寝よくや思ふらんうつくしよしといふ虫ぞなくなる (大弐高遠集 118)
③女郎花なまめき立てる姿をやうつくしよし蝉のなくらん (散木奇歌集 342)

 ①~③に共通しているのは、「うつくし」という言葉です。古語の「うつくし」は現在の「美しい」と少々ニュアンスが異なり、「可愛らしい」とか「愛らしい」といった意味です。①は、蝉の羽が透明であることを、蝉が自分で「うつくし」と言って鳴いているという意味でしょうか。なお元良親王は陽成天皇の皇子ですから、10世紀の人です。②には、「屋の端つまに、つくつくぼふしの鳴くを聞きて」という詞書きが添えられています。自宅の屋根の端(妻)の部分、つまり軒端に蝉がとまって鳴いていたのでしょう。端が妻をかけています。我が家の妻は共寝に良いと思うのだろうか、「うつくし」と言って虫が鳴いているよ、という意味です。自分の妻の可愛らしいことをのろけているわけです。なお藤原大弐高遠は10世紀末から11世紀初頭の公卿です。③には「人人まうできて歌詠みけるに蝉を詠める」という詞書きが添えられています。女郎花が美しく咲いているのを、可愛らしくてよいことだと蝉が鳴いている、というのです。女郎花はその名の如く、美しい女性に見立てて詠むのが常套でした。それに蝉が「うつくし」と鳴くことを結び付けたわけで、まあ戯れに詠んだ歌なのでしょう。なお『散木奇歌集』
は11世紀後半から11世紀前半の貴族藤原俊頼の歌集です。①から③にはどこにもツクツクホウシであるとは詠まれていませんが、鳴き方からしてツクツクホウシ以外には思い当たりません。平安から鎌倉期にかけて、ツクツクホウシは「うつくし」とか「うつくしよし」と聞き成されていたことがわかります。

 また1775年に編纂された方言を集めた『物類称呼』の巻二には、「蛁蟟、つくつくばうし・・・・近江にてつくしこひしと云」と記されています。「つくしこひし」は「筑紫恋し」という意味で、江戸時代の1787~1788年に俳人横井也有(やゆう)が著した俳文集『鶉衣』の「百虫譜」には、「つくつくはうしといふせみは、つくし恋しともいふ也。筑紫の人の旅に死して此物になりたりと、世の諺にいへりけり。こえは蜀魄の雲に叫ふにもおとるへからす。」と記されています。筑紫出身の人が旅先で、故郷が恋しいといって亡くなった。そしてその人の魂は蝉になり、「筑紫が恋しい」と言って鳴いている。その声は時鳥が空に鳴く声にも負けないほどである、というのです。ここには何か言い伝えがありそうですが、今となってはわかりません。その伝承は近江国に伝えられたのでしょう。1709年に本草学者貝原益軒が著した博物学書である『大和本草』巻14には、「蛁蟟 クツクツホウシ ・・・・ツクシヨシトナクト云うモノ也」と記されていますから、「ツクツク」を「筑紫」と聞き成すことは、江戸時代の初めからあったと見てよいでしょう。

 「うつくしよし」と聞くのは現代人には少々無理としても、「筑紫恋し」ならその様に聞こえないこともない。北九州出身の人が故郷を離れて聞き、故郷を懐かしく思い起こすことがあれば、是非御紹介下さい。

 そこで私も一首詠んでみました。
○空蝉の なく声かなし みさきもり 筑紫に往(い)にし 人や恋しき
これは夫を防人(みさきもり)として送り出した妻の心を詠んだものです。このような詠み方は現代短歌ではけなされますが、古い和歌では、第三者に成り代わって詠むことは、批判されることはありませんでした。

蛍の忍ぶ恋

2021-07-02 14:40:56 | うたことば歳時記
蛍の忍ぶ恋

 タイトルだけ見ると「蛍の忍ぶ恋」なんて、変なテーマだと思われるでしょうね。もちろん虫が恋をするはずはありませんから、人の恋心を虫に喩えているだけのことです。

 蛍になぞらえた恋の古歌をいくつか上げてみましょう。
①夕されば蛍より異(け)に燃ゆれども光見ねばや人のつれなき(古今集 恋 562)
②音もせで思ひに燃ゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ(後拾遺 夏 216)
③なく声も聞こえぬもののかなしきは忍びに燃ゆる蛍なりけり(後拾遺 夏 73)
④声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ(源氏物語 蛍の巻)
⑤包めども隠れぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり(大和物語)
⑥明けたてば蝉のをりはへ鳴きくらし夜は蛍の燃えこそわたれ(古今集 恋 543)

 ①は少し解説が要るかもしれません。「夕方になると、私の恋の火が蛍よりは一層燃え立ちますが、蛍の火と異なって私の恋の火は見えないので、あの人は私につれないのでしょうか」という意味です。④⑤の「思ひ」の「ひ」は「火」を懸けていることはすぐに気が付かれたことでしょう。⑤は蛍を包んでも光が見えるというのですから、衣の袖などに蛍をそっと忍ばせてみた経験があるのかもしれません。私も子供の頃には、その様にして遊んだことがあります。 ⑥は、「夜が明けはじめると、蝉がずっと鳴き続ける様に、昼間は恋い慕って泣き続け、夜は夜で蛍が燃え続けているように、恋い焦がれる心で燃えています」という意味です。夜明けからなくというのですから、ヒグラシ蝉を思い浮かべているのでしょう。また夜明けから鳴くということには、夜通し恋しい人の訪れを待っていたのに来てくれなかったことへの悲しみがあるのでしょう。

 共通しているのは、蛍は「音もしない」とか、「なく声が聞こえない」ものと理解されています。また歌の中に「蝉」が詠まれていなくても、古人が恋の歌に蛍を詠む時には、必ず鳴かない蛍を鳴く蝉を対比させる理解が潜んでいるものです。②には「音」が詠まれていますが、現代人の知っているsoundとしての音ではなく、歌言葉では声を出して泣くことを「音(ね)に泣く」と慣用的に表現するように、「音」という言葉自体には、蝉のように「声を出して泣く」という意味が既に含まれています。また「泣く」と「鳴く」を懸けるのは古歌の常套です。現代短歌ならつまらぬ修辞法と切り捨てられるのでしょうが、自然描写の背後に心理描写をさり気なく隠しておくのも、古歌の常套的修辞法です。現代人にとって自然とは、それ以上でもそれ以下でもありませんが、古人にとっては心情を重ねることによって、奥ゆかしく心情を表現する媒体でもあるわけです。現代では、恋しい人に蛍をかごに入れてプレゼントしても、その心を理解してくれる人はまずいないでしょう。蛍を贈った意味はと問われても、蛍雪の功を連想して、もっと勉強しなさいと言われているのかもと思うかもしれません。私も若い頃に、妻への手紙の封筒に梅の花を忍ばせたことがありましたが、全く気づいてもらえませんでした。

 虫としての蛍には、光ることに最大の特徴があり、歌の中では「燃える」とか「身を焦がす」と詠まれます。身を焦がす程に思い焦がれつつも、絶対に声には出さないのですから、③の歌のように「忍んで燃える」ことが蛍の恋であるというわけです。王朝時代の恋愛事情では、夜に男が女をこっそり訪ねることが普通でしたから、なおさら夜に光る蛍に喩えられるわけです。「忍ぶ恋」など、現代の女性には理解されないことでしょうね。また夜に男が女を訪ねるという恋の風習がなくなっていますから、ますます忍ぶ恋などは理解できないのでしょう。

我が家の周囲では、ニイニイゼミが鳴き始めました。それこそ途切れること鳴く鳴き続けています。かつては蛍も見られたのですが、今はすっかり見られなくなってしまいました。

古歌の春雨

2019-03-05 21:17:57 | うたことば歳時記
 日本の四季にはさまざまな要素があり、表情がとても豊かです。雨はその要素の一つで、四季それぞれだけでなく、同じ季節の中でも時期により、降り方により、色々な名前が付けられています。それは日本人の季節に関する感性の豊かさを示すもので、素晴らしいことだと思います。

 ところがネット情報には「雨の名前だけでこんなにあります」とばかりに、辞書から片端から選んで並べてあるのです。私はこういう取り上げ方には、あまり興味がありません。確かにあるのかもしれませんが、日常生活からは乖離していて、使うことがないからです。私は辞書の編者ではありませんから、身近ではない特殊な言葉には、心が動きません。特に漢語の場合には知らなかったり、使うことがないものが多いものです。例えば「催花雨」は「春に花の咲くのを促すように降る雨」ということだそうですが、生活の臭いが全くありません。ただ単純に「雨の名前だけでもこんなにあるのだから、日本人の季節感は豊かである」と説かれることがありますが、「数が多けりゃいいっていうものではないでしょう」と思ってしまいます。

 最初から本題とは離れてしまって済みません。題は「古歌の春雨」でした。俳諧・俳句の世界では春の雨にも色々な名称があるかもしれませんが、古歌の世界には、一般的には「春雨」が多く、他にはないわけではないのですが、とても少ないのです。今でも普通に使われる「菜種梅雨」「糠雨」「小糠雨」「春時雨」「花時雨」「みどり雨」という歌言葉は、勅撰和歌集などには見当たりません。

 「なんだ、古代日本人は、春の雨の風情を感じ分けなかったのか」と言われそうですね。確かに「○○雨」という形の春の雨の名称は貧弱です。しかしそれは雨に対する感性が貧弱だったという事ではありません。
まずはともかく、春雨を詠んだ歌を、古い歌からいくつか拾ってみましょう。

 ①細く降る 三月(やよい)の雨や 糸ならむ 水に綾織る 広沢の池  (夫木抄 春雨 970)  
 ②唐衣 かづく袂(たもと)ぞ そほちぬる 見れども見えぬ 春のこま雨 (夫木抄 春雨 959)

 春の雨は、乾ききっていた冬枯れの野辺をしっとりと濡らし、春の気の温もりと雨の細かさと柔らかさが相俟って、独特の風情を醸し出すものです。①は、春雨を細い糸に、池の水面に織りなす雨の模様を糸の縁語の綾に見立てたもの。②の「そほつ」は「濡れる」という意味で、衣をわずかに湿らせるように降る春雨の特徴が、軽快なリズムに乗せて詠まれています。このような感覚は現代人にもよくわかりますね。「こま雨」は「細かい雨」のことなのでしょうが、古歌としては珍しい表現です。

 しかし次のような歌はどうでしょうか。現代人の知らなかった春雨理解です。
 ③わがせこが 衣春雨 降るごとに 野辺の緑ぞ 色まさりける  (古今集 春 25)
 ④春雨の 色は濃しとも 見えなくに 野辺の緑を いかで染むらむ (寛平御時后宮歌合 春 16)
 ⑤水の面に 綾織りみだる 春雨や 山の緑を なべて染むらん  (新古今 春 65)
 ⑥春雨の 降りそめしより 青柳の 糸のみどりぞ 色まさりける  (新古今 春 68)

 ③の「わがせこが衣はる」は、「春雨」に掛かる序詞ですが、ここでは意味を深く追求しないでおきましょう。要するに、春雨が降るごとに野辺の緑が濃くなるというのです。④も同じですが、それを春雨が染めているからと理解しているのです。⑤も同じことですが、水面に縦横に見える雨の糸を綾織りに見立て、縁語の「染める」という言葉を意図して選んでいます。こういう凝った詠み方は、現代人はしないでしょうね。⑥は野辺や山ではなく、枝垂れ柳の細い枝を糸に見立て、それが芽吹き始めていることを、春雨が染めていると理解しているわけです。「降りそめし」が「降り初めし」と「降り染めし」を掛けているのはすぐにわかるでしょう。雨毎に野辺の若草が伸びて緑が濃くなることは、現代人でもわかりますが、自分で布を染める経験がほとんどない現代人には、それを雨が染めたと理解することはないのでしょう。経験に基づく歌であって、これを理屈であると言って片付けてはなりません。

 次の歌になると、現代人には全く思いも付かない発想です。
 ⑦四方の山に 木の芽はるさめ 降りぬれば かぞいろはとや 花のたのまん  (千載集 春 31)

 「かぞいろは」とは「父母」のこと。「かそいろ」とか「かぞいろ」とも言いました。春雨は春の草花を
育む親、「雨の恵み」はまさに「天の恵み」なのです。春雨の優しさが一層強く印象づけられる歌ですね。 現代短歌では、このような擬人法はあまり歓迎されません。しかし自然の背後に神霊の存在を感じたり、自然が意思を持っているように感じていた古の人たちにとっては、擬人的理解は自然なことなのです。擬人法を否定するあまりに、自然に対する敬虔な心を失ってしまうとしたら、現代短歌にとってだけではなく、現代人にとっても悲しむべきことではないでしょうか。
 
 春雨が「かそいろ」であるとまでは言わなくとも、春雨が花をほころばせるという理解は普通にみられます。

 ⑧降りそむる 春雨よりぞ 色々の 花の錦も ほころびにけり (堀河院百首 春雨 175)

 花が咲くことを「ほころぶ」と表現することはいまでも普通にみられますが、花を錦という織物に見立てているので、縁語の「ほころぶ」という言葉が生きています。

 春雨に限ったことではありませんが、雨に濡れた花の風情も、なかなか美しいものです。
 ⑨春雨に にほへる色も 飽かなくに 香さへなつかし 山吹の花 (古今集 春 122)
 ⑩ぬるるさへ 嬉しかりけり 春雨に 色ます藤の しづくと思へば (金葉集 春 87)

 現代ではあぢさゐには雨が似合うという理解があり、雨に濡れた様子を意図して楽しむことはあるかもしれませんが、春雨の降る中に、わざわざ花見に外出することはあまりしません。しかし雨に濡れると、花の色が鮮やかに見えるように感じることがあります。 

 春には太平洋側に低気圧が次々に西から東に通過して行きますので、晴れの日が続きません。時には何日もしとしとと降り続くことがあります。そのような雨を菜種梅雨というのですが、もちろん当時は菜種油を絞ることなどありませんから、そのような言葉はありません。古歌の中では「春の長雨」として詠まれます。そこまで言えば、すぐに思い当たる歌がありますね。

 ⑪花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに  (古今集 春 113)

 言わずと知れた小野小町の歌です。春の長雨が花を移ろわせたのと同じように、春雨を見ていると、私の容姿が衰えてしまっていることをつくづくと思い知らされた、という意味ですね。ここには春雨が花を散らす雨であるという理解と、長雨は物思いをかき立てる雨という理解が見られます。同じような発想の歌は他にもいくつかありますから、そのような感覚は、共有されていたと言うことができるでしょう。

 いかがですか。確かに春の雨の呼称としては数は多くありませんが、古人が春雨について豊かな理解をしていたことはおわかりいただけたかと思います。あらためて春雨が野辺を緑に染めていると、野辺は春雨を自分を育ててくれる親と思っていると、春雨は綾を織る糸であると、春雨が花をほころばせ、また散らしていると、そんなことを思いながら、春雨に濡れてみませんか。