うたことば歳時記

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『学問のすゝめ』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-04-23 15:58:47 | 私の授業
学問のすゝめ


原文
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といへり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働(はたらき)を以て、天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして、各(おのおの)安楽に此世(このよ)を渡らしめ給ふの趣意なり。
 されども今、広く此(この)人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、冨めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其(その)有様雲と坭(どろ)(泥)との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚(はなは)だ明(あきらか)なり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし。智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由(より)て出来るものなり。
 又世の中にむづかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。其(その)むづかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人と云ふ。都(すべ)て心を用ひ、心配する仕事はむづかしくして、手足を用る力役(りきえき)はやすし。故に医者、学者、政府の役人、又は大なる商売をする町人、夥多(あまた)の奉公人を召使ふ大百姓などは、身分重くして貴き者と云ふべし。
 身分重くして貴ければ、自(おのず)から其家も冨で、下々の者より見れば及ぶべからざるやうなれども、其本を尋れば、唯(ただ)其人に学問の力あるとなきとに由て、其相違も出来たるのみにて、天より定(さだめ)たる約束にあらず。諺(ことわざ)に云く、「天は冨貴(ふうき)を人に与(あた)へずして、これを其人の働(はたらき)に与るものなり」と。されば前にも云へる通り、人は生れながらにして貴賤貧冨の別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、冨人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり。

現代語訳
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。そうであるならば、天から人が生ずるには、全ての人は皆平等であり、生まれながらにして貴人と賤民、身分の上下の差別はなく、また万物の霊長としての身心の働きにより、この世界にある全ての物を活用し、衣食住に必要なものを満たし、互いに人の妨げとなることをせず、それぞれが安心して、この世を自由自在に過ごしていけるはずである。
 しかし今、この人間社会を広く見渡すと、賢人もいれば愚人もいる。貧人もいれば富人もいる。貴人(地位・身分の高い人)もいれば下人もいる。このように人の有様に雲泥の差があるように見えるのは、いったいどういうことなのだろうか。そのわけは実に明白である。『実語教』という書物に、「人は学ばなければ知恵がない。知恵がないのは愚人である」と書かれている。つまり賢人と愚人との違いは、学ぶか学ばないかにより生じるものなのである。
 また世の中には困難な仕事もあれば、簡単な仕事もある。その困難な仕事をする人を身分の高い人といい、簡単な仕事をする人を身分の低い人という。総じて頭を使い心を配る仕事(頭脳労働)は困難であり、手足を使う力仕事(肉体労働)は簡単である。それ故、医者・学者・政府の役人、また大きな商売をする商人、多くの使用人をかかえる大農民などは、身分が高く貴い人と言えるだろう。
 身分が高く貴いので、自ずからその家は豊かになり、下々の者から見れば、遠く及ばないようであるが、その大本をよくよく見れば、ただ学問の力があるかないかにより、そうした違いが生ずるだけで、天が生まれつきに定めた約束(運命)ではない。
 諺にも言うではないか。「天は富貴(財産や地位)を人に与えるのではなく、その人の働きに与えるものである」と。そうであるから、前にも述べたように、人には生まれながらにして貴賤・貧富の差別があるわけではない。ただよくよく学問に励み、物事をよく知る人は、貴人となり、富人となり、無学な人は貧人となり、下人となるのである。

解説
 『学問のすゝめ(がくもんのすすめ)』は、啓蒙思想家・ジャーナリスト・教育者として活躍した、福沢諭吉(1835~1901)が著した啓蒙思想書で、明治五年(1872)二月の初編から明治九年(1876)の第十七編まで書き継がれました。初編は約二十万部発行され、総計すれば約三百万部とされています。初編が発行された明治五(1872)年の日本の総人口は、約三四八〇万人でしたから、人口比率で計算すれば、現代ならば一千万部のベストセラーということになります。
 ここに載せたのは初編の冒頭部で、万人の平等を説いていると誤解されることがあります。しかしよくよく読んでみると、本来は平等のはずであるのに、現実にはそうではないのは、学問の有無によるから、学問をせよというのであって、主題は「平等」ではなく、「学問のすすめ」そのものなのです。
 それならどのような学問がよいというのでしょうか。諭吉は「人間普通日用に近き実学」、つまり日常的に役立つ実用的な学問を奨励しています。具体的には、手紙文・算盤(そろばん)から始まり、地理・究理(物理)・歴史・経済・修身(倫理・哲学)などを上げています。そして人は実学を学んでそれぞれの職分を尽くすならば、「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり」と説いています。福沢諭吉はこれを「独立自尊」と表現しました。これは他に依存せず、尊厳をもって自立することを意味しています。人は互いに助け合って生きてはいますが、自立心がなければ、他にとっては荷物になってしまいます。いつも誰かの援助を期待するばかりでは、その国も企業も組織も家庭も立ち行かなくなります。もちろん助けが必要な人を助けるのは当然ですが、独立自尊の気概のない所に、人にも家庭にも国家にも、真の自由はありません。
 また肉体労働者には学問がないので身分が軽く、頭脳労働者には学問があるので身分が重い説いているため、人を職業で差別していると非難されることがあります。しかし当時は、学制発布前で、自主的に高等教育を受けた人は極めて少なく、近代国家を支える人材として相応のポストに就いてもらわなければ、近代化が促進されないという社会状況がありました。ですから教育の機会均等が保証され、基本的人権が自明のことである、現代の物差しで評価するのは酷に過ぎます。
 また諭吉の説いていることは、「機会」は平等であるが、学問の有無により、「結果」は不平等になり得る、と理解されることがあります。しかしまだ「国民皆学」を宣言した「学制」が発布されるより半年前で、教育の機会均等など全く実現されていません。第二編では「人は同等なること」と題して、「権理通義」においては、人はみな「一厘一毛の軽重あることなし」と説いているように、諭吉の説く「平等」は、あくまでも「権利」としての平等なのです。アメリカ独立宣言(1776年)には、「全ての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主により、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と記され、その影響を受けたフランス人権宣言(1789年)第一条には、「人は自由及び権利において平等なものとして生まれ」と記されているように、どちらも「生まれながらの権利の平等」を宣言しています。同じ視点から見るならば、諭吉の説くことは、当時の世界の平等思想と同じです。
 そもそも旧弊を打破し、人に先駆けて新しい主張をするには、過激なくらいのエネルギーが必要でした。また「身分重くして貴き者」という表現は、「社会的責任の大きい立場」と理解すれば、現代でも受け容れられるでしょう。


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スミレつれづれ

2023-04-15 18:40:31 | 植物
可憐に咲く春を代表する野草といえば、何を思い付くでしょうか。もちろん人それぞれでよいのですが、スミレは多くの人に選ばれることでしょう。スミレの仲間は世界に約五百種、日本には約五十種もあるそうです。日当たりの良い所を好む種類も、木蔭を好む種類もあり、春の散策には必ず見かけるあいらしい野草です。しかしどれ程美しく可愛らしいからといって、掘り取って庭の花壇の中心に植えようとは思いません。スミレがいつの間にか自然に庭に花咲いたのなら、それはそれで嬉しいのですが、やはり本来は、野辺で見る花だと思います。我が家の庭にもいつの間にか咲いていました。植えた覚えはないのに咲いているのは、種が運ばれて来たのでしょう。たぶん蟻の仕業だと思います。
 スミレの学名はViolaといいます。いわゆる三色すみれは学名がViola tricolorで、そのままずばり「三色すみれ」。英語ではvioletといい、日本ではそれは鮮やかな青紫色の名前でもあります。因みに紫色は英語ではpurpleといい、区別されています。violetは女性の名前にもよく見かけますが、日本でも「すみれ」は女性の名前として珍しくはありません。『古今六帖』には、「春来れば田居にまづ咲くつぼすみれ見れども飽かぬ君にもあるかな」という歌があり、可愛い女性の比喩として詠まれています。
 「すみれ」という言葉の語源は、花の形が番匠が線を引くのに用いる墨入れの形に似ていることから、「すみいれ」が訛って「すみれ」となったと説明されているようです。またよく摘まれたことから、「つみれ」が訛って「すみれ」となったという説もあるそうですが、『万葉集』でははっきりと「すみれ」と読ませていますから、やはり「墨入れ」説の方がよいと思うのですが・・・・。そう言われて花の形をよくよく観察すると、花の後ろの部分が壷状になっています。よく見かける種類に「ツボスミレ」「タチツボスミレ」があるのですが、『万葉集』に「都保須美礼」と詠まれ、『枕草子』の「草の花は」の段にも「つぼすみれ」と記されています。そして後には「壷すみれ」と表記されることもありますから、古くからその様な理解があったようです。また花茎を二本採り、花の部分を絡めて左右に引き合い、片方の花が取れるかどうかで勝負を争うすみれ相撲をして遊ぶため、「相撲取草」と呼ばれることがありました。もっともオオバコの花茎でも同様に遊ぶため、オオバコも相撲取草と呼ばれることがあります。もし花を見かけることがあれば、墨壺に似ているとして名前の由来となった花の形を、よくよく観察してみて下さい。 
 古には、すみれは荒れ地に咲くという理解があったようです。12世紀初頭の『堀河院御時百首和歌』には、「昔見し妹が垣根は荒れにけり茅花まじりの菫のみして」という歌があり、『新古今和歌集』にも「いそのかみふりにし人をたづぬれば荒れたる宿に菫摘みけり」という能因法師の歌があります。ほぼ同時期の慈円に、「故郷は庭もまがきも荒れゆけど心とどまるつぼすみれかな」(拾玉集)という歌があります。荒れ果てた所を意味する「浅茅生」(あさじう)という言葉があるのですが、すみれは浅茅(あさじ)や茅花(つばな)と共に詠まれることも多く、また承久の乱で佐渡に流された順徳天皇の歌論書である『八雲御抄』には、「菫菜 つぼ、又たゞすみれ、野又あれたる所に摘む也」と記されているように、すみれには荒れ地に咲く花という印象が付いて回るのです。花壇に咲くスミレは、それはそれで可憐なものですが、荒れた所や古い住宅の跡などに咲いているのを見かけたら、それはスミレを鑑賞する格好の場面なのです。

 

『蜻蛉日記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-04-10 07:18:57 | 私の授業
蜻蛉日記


原文
 さて、九月(ながつき)ばかりになりて、出(い)でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりに開けてみれば、人のもとに遣(や)らむとしける文(ふみ)あり。あさましさに、見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
  疑はしほかに渡せるふみ見ればこゝやとだえにならむと  すらむ
など思ふほどに、むべなう、十月(かんなづき)つごもり方(がた)に、三夜(みよ)しきりて見えぬ時あり。つれなうて、「しばし試みるほどに」など気色(けしき)あり。
 これより、夕さりつ方(かた)、「内裏(うち)の方(かた)ふたがりけり」とて出づるに、心得(こころえ)で、人をつけて見すれば、「町の小路(こうじ)なるそこ〳〵になむ、止まり給ひぬる」とて来たり。さればよと、いみじう心憂(う)しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二日三日(ふつかみか)ばかりありて、暁方(あかつきがた)に門(かど)をたゝく時あり。
 さなめりと思ふに、憂(う)くて開けさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
  嘆きつゝひとり寝(ぬ)る夜のあくる間はいかに久しきものと  かは知る
と、例よりはひき繕(つくろ)ひて書きて、移ろひたる菊に挿(さ)したり。返り言、「あくるまでも試みむとしつれど、頓(とみ)なる召使の来合(きあ)ひたりつればなむ。いと理(ことわり)なりつるは。
  げにやげに冬の夜ならぬ真木(まき)の戸もおそくあくるはわび  しかりけり
さても、いとあやしかりつるほどに、事なしびたり。しばしは忍びたるさまに、「内裏(うち)に」など言ひつゝぞあるべきを、いとゞしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや。

現代語訳
 そうして九月頃になり、(夫の兼家が私の家から)出て行ってしまったあとに、文箱(ふばこ)があるので何気なく開けてみたところ、よその女に遣ろうとしている手紙がありました。驚きあきれて、せめて私が見てしまったということだけでも(兼家に)わからせようと思い、書きつけます。「疑わしいことです。よその女に届ける手紙を見ると、ここへ(あなたが訪れること)は、途絶えてしまうのでしょうか」、などと思ううちに、案の定、十月の末頃、三晩続けて姿を見せないことがありました。(それにもかかわらず)素知らぬ顔で、「しばらく(あなたの気持ちを)試しているうちに(三日もたってしまった)」などと、思わせぶりな(言い訳をする)のです。
 ここ(私の家)から、夕方ごろ、「(宮中に用があるのに)宮中の方角が禁忌で塞(ふさ)がっていて(直接には行けない)」と言って(兼家が方違(かたたがえ)に)出かけるので、不審に思い、人を遣(や)って見届けさせたところ、「町の小路にあるどこそこに、(車を)お停めになりました」と、帰って来て言うのです。思った通りだと、大層嘆かわしいと思いましたが、言いようも分からないでいるうちに、二、三日ほどして、夜明け方に門をたたくことがありました。
 そのようだ(兼家が来たようだ)と思うにつけても、切なくて開けさせないでおいたところ、例の家(町小路の女の家)と思われるところに行ってしまいました。早朝、そのままにはしてはおけないと思い、「嘆きながら一人で寝る夜は、明けるまでの間がどれ程長いものか、おわかりにはならないでしょう」と、いつもよりは改まって書き、色変わりした菊に挿して持たせてやりました。
 返事には、「夜が明けて、門が開くまで待ってみようとしたが、急用の召使が来合わせたので(戻ってしまった)。(あなたのお怒りも)実にもっともであるが。まことにまことに、冬の夜はなかなか明けないが、冬の夜ならぬ真木の戸が遅く開くのは、つらいことだ」とありました。
 それにしても、あきれ果てる程に、(兼家は)素知らぬふりをしています。せめてしばらくの間は人目を避けるようにして、「宮中に(用があるので)」などと言いわけをするのが普通ですのに、ますますやりきれなく思うのは、この上ないことであります。

解説
 『蜻蛉日記』(かげろうにつき)は、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)(道長の父)の妻(936?~995)の日記文芸で、彼女は一般には「道綱母」と呼ばれています。書名は、上巻末尾に「猶ものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」と記されていることによるのですが、この「かげろふ」は一般には虫の「蜻蛉(かげろう)」とされています。しかし『後撰和歌集』(1191番歌)には「かげろふ(陽炎)のあるかなきか」と詠まれていて、共に儚いものですから、兼ねていると理解したほうがよいでしょう。
 兼家は摂政・関白・太政大臣となる程の貴公子であり、片や国司を歴任した藤原倫寧(ともやす)の娘ですから、家柄は釣り合いません。しかし室町時代初期の系図集である『尊卑分脈(そんぴぶんみやく)』には、「本朝第一美人三人内也」と記されていますから、色好みの兼家が、その美貌に惚れ込んだのでしょう。結婚したのは天暦八年(954)で、兼家二六歳、道綱母十九歳の頃であり、翌年に道綱が生まれます。しかし兼家にはすでに、正妻がいましたし、兼家と関係のあった女性は十人程いましたから、兼家の色好みは事実でしょう。
 夫婦関係は、初めは順調だったようです。兼家は毎晩のように通って来ました。なぜなら十月末に三日も通ってこないことがあったと記されているからです。たまに来るなら、三日間来なくても何も不自然ではありません。それより三日間来なかったことには、特別な意味がありました。男が女の許に忍んで三日連続して通い、三日目に三日夜餅(みかよのもち)を食べると結婚が成立したとする風習があったからです。ですから三日来なかったことに、嫉妬しているわけです。このように『蜻蛉日記』には、夫の愛情の回復を願う妻の複雑な心情が軸となり、後半からは息子の道綱の成長に心を砕く母の姿も加わり展開してゆきます。
 「嘆きつゝひとり寝(ぬ)る夜のあくる間は・・・・」の歌は、百人一首に収められてよく知られています。それに「移ろひたる菊」を添えたのですが、 この場合の「移ろう」とは、色変わりを意味しています。当時の菊はわずかに黄菊の存在は認められるものの、ほとんど白菊であり、霜が降りる頃の菊は白色から赤紫色に変色します。それは衰え行く姿なのですが、それはそれで美しい物として賞美する歌もあります。旧暦十月末のことですから、白菊は赤く色変わりしていたはずです。
 「移ろひたる菊」の寓意は、一般的には兼家の心変わりを責めていると説かれ、定説となっています。しかし王朝和歌では色が表に出るということは、心に秘めた恋心が表に現れることを意味していました。『伊勢物語』第十八段には、「菊の花のうつろへるを折りて男のもとへやる」女が、菊の花を「くれなゐ(紅)にほふ」と詠んでいます。ですからこの場合も、夫の心変わり(移り気)を嘆きつつも、なお恋慕の心を色に表していると理解した方がよいと思うのですが。
 兼家が町小路の女の家に行くために、内裏の方角が塞(ふさ)がっていることを口実とした場面があります。これは方違(かたたがえ)という陰陽道の風習で、ある目的地へゆく際、その方角がたまたま禁忌の方角とされた場合、前日に別の場所に行って一晩泊まり、翌日改めて禁忌でない方角により目的地に行くわけです。「内裏」を口実に持ち出されれば、誰もが引っ込まざるを得ませんから、それを理由にしたのでしょうが、後をつけられて、浮気が発覚したというわけです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『蜻蛉日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『十訓抄』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-04-01 10:16:44 | 私の授業
十訓抄


原文
 昔、元正天皇の御時(おんとき)、美濃国に貧しく賤しき男ありけるが、老たる父を持ちたり。此(こ)の男、山の草木を取りて、其(そ)の直(あたい)を得て、父を養ひけり。此の父、朝夕あながちに酒を愛(め)で欲しがる。これによって男、生瓢(なりひさご)といふ物を腰に付けて、酒を沽(う)る家に行きて、常に是(これ)を乞ひて父を養ふ。
 ある時、山に入りて薪を取らんとするに、苔深き石に滑りて、うつぶしに転(まろ)びたりけるに、酒の香しければ、思はずにあやしくて、その辺(あたり)を見るに、石の中より水の流れ出づる事あり。其の色、酒に似たり。汲みて舐(な)むるに、めでたき酒なり。嬉しく覚えて、その後、日々に是を汲みて、飽(あ)くまで父を養ふ。
 時に帝(みかど)、此の事を聞こし召して、霊亀三年九月に、その所へ行幸(みゆき)ありて御覧じけり。是則(すなわ)ち至孝の故に、天神地祇(てんじんちぎ)あはれみて、其の徳を顕(あらわ)すと感ぜさせ給ひて、後に美濃守(みののかみ)になされにけり。其の酒の出づる所をば養老の滝とぞ申す。且(かつ)は之(これ)によりて、同じ十一月に、年号を養老とぞ改められける。

現代語訳
 昔、元正天皇の御代に、美濃国に貧しく賤しい男がいて、年老いた父をもっていた。この男は山の草木を採っては(町で)売り、老父の世話をしていた。その父は並外れて酒を好み、朝に夕に飲みたがる。それで男は、成り瓢(ひさご)(瓢箪(ひようたん))という物を腰に提(さ)げて酒屋に行き、常に酒を買い求めては父に飲ませていた。
 ある時、山に分け入って薪を採ろうとしたところ、苔むした石に足を滑らせ、うつ伏せに転んでしまった。ところが酒の臭いがするので、不思議に思ってその辺りを見回すと、岩の間から水が溢れ出ている。その色は酒の色に似ているので、汲んで舐(な)めてみたところ、素晴らしい酒ではないか。それで大層喜び、それからは毎日これを汲んでは、父が満足するまで飲ませて孝養した。
 その頃、帝はこのことをお聞きになり、霊亀三年(717)の九月、そこをお訪ねになり、御覧になられた。そして孝養を尽くしていることに天地の神が感応したことを、孝の徳を顕すものと天皇が感心され、その男を美濃の国司に任命された。そしてその酒の溢れ出る所を、「養老の滝」と名付けられた。またこれにより同年十一月に、年号を(霊亀から)養老へと改元されたということである。

解説
 『十訓抄(じつきんしよう)』は、鎌倉時代中期の建長四年(1252)に成立した教訓的説話集で、二八〇余の説話から成っています。著者は六波羅探題の北条長時に仕えた湯浅宗業(むねなり)らしいという説が有力です。序文には、「善き方(かた)をばこれを勧め、悪(あ)しき筋をばこれを誡(いまし)めつゝ、いまだ此の道を学び知らざらん少年のたぐひをして、心をつくる便(たより)となさしめんがために、試みに十段の篇を分ちて十訓抄と名づく」と記されていますから、年少者のための教訓とすることを目的として、編纂されたことがわかります。
 その「十段」とは、①「人に恵を施すべき事」、②「驕慢(きようまん)を離るべきこと」、③「人倫を侮るべからざる事」、④「人の上の多言等を誡(いまし)むべき事」、⑤「朋友を撰ぶべき事」、⑥「忠信廉直(れんちよく)を存ずべき事」、⑦「思慮を専らにすべき事」、⑧「諸事に堪忍すべき事」、⑨「怨望(えんぼう)を(妬み怨むこと)停(とど)むべき事」、⑩「才能芸業を庶幾(しよき)(こいねがう)すべき事」から成っています。
 ここに載せたのは、「忠信廉直(れんちよく)を存ずべき事」の「養老孝子の事」という話なのですが、確かな典拠があります。『続日本紀』の霊亀三年(717)十一月十七日には、元正天皇の詔が次のように記されています。
 「朕、今年九月を以て美濃国不破の行宮(かりみや)に到る。留連(りゆうれん)すること数日。因(より)て多耆(たぎ)郡多度(たど)山の美泉を覧(み)て、自(みずか)ら手面(おもて)を盥(あら)ひしに、皮膚滑(ぬめ)らかなるが如し。亦、痛き処を洗ひしに、除き愈(い)えずといふこと無し。朕の躬(み)に在りては、甚(はなは)だその験(しるし)有りき。また就(つ)て之を飲み浴する者は、或(ある)は白髪黒に反(かえ)り、或は頽髪(たいはつ)(くずれた髪)更(さら)に生(お)ひ、或は闇(おぼつかな)き目明らかなるが如し。自余(そのほか)の痼疾(こしつ)(病気)、咸(ことごと)く皆平愈(へいゆ)(平癒)せり。昔聞く、『後漢の光武(光武帝)の時、醴泉(れいせん)出でたり。之を飲みし者は痼疾皆愈えたり』と。符端書(ふずいしよ)(瑞祥について記した書物)に曰はく、『醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。蓋(けだ)し(思うに)水の精也』と。寔(まこと)に惟(おもんみ)るに、美泉は即ち大瑞に合(かな)へり。朕、庸虚(ようきよ)(愚かなこと)と雖も、何ぞ天の貺(たまもの)に違(たが)はん。天下に大赦し、霊亀三年を改めて養老元年とすべし」。
 そして改元だけではなく、全国の八十歳以上の老人には位一階を授け、八十~百歳以上の老人には、年齢に応じて絁(あしぎぬ)・綿(真綿)・布・粟などを与え、身寄りのない者や病人や自活できない者を救済するようにと、まさに「養老」の実践が命じられています。
 また『万葉集』には、「古従(いにしえゆ)(古来)人の言ひける老人(おいひと)の変若(お)つ(若返る)といふ水ぞ名に負ふ(その名に相応しい)瀧の瀬」(1034)という歌があり、「養老の滝」の故事はよく知られていました。岐阜県には現在も多度山がありますが、もちろん元正天皇ゆかりの湧水を特定することはできません。
 このような不思議な自然現象は、天が徳政に感応して地上に出現させた瑞祥と信じられ、唐の玄宗皇帝の勅命により編纂された『大唐六典(りくてん)』には、各種の瑞祥が大・上・中・下瑞の四段階に分けられていて、十世紀の初期の法令集である『延喜式』の治部省式には、ほぼ丸写しに載せられています。それによれば、「醴泉(れいせん)」は最上位の「大瑞」に分類されています。
 『十訓抄』では醴泉が酒になっていますが、日付は正確に写されていますから、編纂の過程で、編者が教訓的な親孝行の話に改作したのでしょう。なお岐阜県の多度山のある町は、「養老町」が町名となっています。また「養老乃瀧」という名前の居酒屋があることはよく知られています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『十訓抄』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。