うたことば歳時記

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「ダビデの星」の誤解

2016-12-25 19:12:43 | その他
 イスラエル国旗は、星形の標章と二本の筋からなっています。その星形は日本で「六芒星」と呼ばれる星の形と輪郭が同じであるため、日本人はみな「星」であると思い込んでいます。英語では「ダビデの星」とも呼ばれているので、それも無理はありません。

 しかし本当は星ではなく、盾なのです。私は50年前、イスラエルに長い間住んでいたことがあり、今はもう忘れかけていますが、その頃は少しはイスラエルの国語であるヘブライ語を話せました。ですからその星のことについては、少々体験的に知っています。イスラエルではその星形のことを「マゲン・ダヴィッド」というのですが、「マゲン」とは盾を意味するのであって、決して星ではありません。「ダヴィッド」とは、紀元前1000年~ 前961年頃に在位した古代イスラエルの王で、聖書の「詩篇」の大部分は彼の詩歌であるとされ、日本語訳聖書では「ダビデ」と音訳されています。今日はたまたまクリスマスですが、救世主(メシア)は必ずダビデの子孫から生まれると信じられ、ユダヤ人は現在でも古代イスラエルの王の中で最も偉大な王と思っています。

 イスラエルの救急車には、赤十字の赤い十字架ではなく、赤いダビデの盾が描かれていて、「赤いダビデの盾」という意味の言葉が、ヘブライ語で書かれています。赤十字はキリスト教に基づいていますから、イスラエルでは受け入れられないのです。ちなみにイスラム教国の救急車には、赤い三日月が描かれ、日本語では「赤新月」と表現されています。

 ネット情報では、この星形が盾であることに気が付いているものもありましたが、ダビデの持っていた盾だと勘違いしているようです。この理解も正しくはありません。ダビデは幾度も殺されそうな危機を乗り越えるのですが、そのことを「詩篇」の中で、「神こそ・・・・寄り頼む者の盾である」(詩篇18篇30節)と神を賛美しています。「ダビデの盾」と言う時に、ユダヤ教徒は「神はダビデを守護した盾」であったと思うのです。「ダビデは星形の盾を持っていた」などとは思いませんし、まして「ダビデの星」などとは決して思いません。ユダヤ教徒にとって「盾」とは、「神の守護」の象徴にほかならないのです。日本では一般に「ダビデの星」と呼ばれ、そのように解説する国旗についての書物がたくさんあります。しかしそれは聖書に記されたダビデと盾の関係を知らないことによる誤解で、本来は「ダビデを守護した神の盾」なのです。

 ダビデの盾をダビデの星と誤解し、陰陽道などの呪術的なものに絡めて、何やら得体の知れない解釈が横行していることが残念でなりません。六芒星についての解釈ならばそれもいいかもしれませんが、しつこいようですがイスラエルの国旗の星型は六芒星ではありません。聖書の詩編でダビデが神の守護を盾に譬えていることや、ヘブライ語で「ダビデの盾」と呼んでいることを知らないから、このようなことになってしまうのでしょう。

オランダ国旗

2016-12-20 13:07:17 | 歴史
オランダ国旗   世界最初のトリコロール(三色旗)

 三色によって三等分構成される国旗は、フランス・イタリア・オランダ・ロシアなどがよく知られていますが、他にもたくさんあります。このような旗を一般にフランス語で「トリコロール」(tricolore)といい、オランダでもフランスでもイタリアでも、それぞれの国語で「三色旗」といえば、みなそれぞれの国旗を表します。中でも世界最初の三色旗となったのはオランダの国旗で、世界各国の国旗の意匠に大きな影響を与えました。

 オランダ国旗は上から水平に赤・白・青の三色に分割されています。赤は勇気を、白は信仰心を、青は祖国への忠誠心を表わすものとされています。

 この三色旗には、オランダ独立の歴史が隠されています。現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの3か国にあたる地域はもともと「ネーデルラント」と呼ばれ、15世紀にはハプスブルク家の領土となっていました。その後、ハプスブルク家は婚姻政策によりスペイン国王も兼務するのですが、侵略戦争ではなく、婚姻政策により領土を拡大するのは、ハプスブルク家の御家芸でした。その結果、ネーデルラントはスペインの支配下に置かれることになりました。

 スペイン支配下においてネーデルラントの総督に任命されたのが、もともとは南フランスのオランジュ地方の領主であったオラニエ・ナッサウ家のオラニエ公ウィレム(英語読みではウィリアム)でした。オランダ語の「オラニエ」「Oranje」は、英語では「オレンジ」「Orange」となります。彼はスペインの圧政に抵抗する市民と共にスペインに対して独立戦争を起こし、1581年にはスペイン王フェリペ2世の統治権を否定しました。これは事実上ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言したことになります。そしてこの頃から、北部の有力州であったホラント州によって、外国からは「オランダ」と呼ばれるようになりました

 彼は1584年にカトリック教徒によって暗殺されますが、ネーデルラントの人々はウィレムの子孫を後継者として独立戦争を戦い抜き、1648年のウエストファリア条約によってスペインからの独立が国際的にも承認されました。そしてこの独立戦争の頃から、オラニエ家を象徴するオレンジ色が、広く国民のシンボルカラーとして使われるようになったのです。

 オラニエ公ウィレムの後継者は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会によって代々総督職世襲を認められ、事実上君主のような存在となっていました。フランス革命やナポレオンの時代には、一時的に総督が追放されたこともあったのですが、1815年のウィーン会議によってオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として迎えられ、現在のオランダ国王家に至ることになるのです。

 三色旗はオレンジ公ウィレム1世の頃から使われていましたが、初めは赤ではなく、オラニエ家のシンボルカラーであるオレンジ色と、白と青でした。オレンジ色は、もちろんオラニエがオランダ語でオレンジを意味することに因っています。ただオレンジ色は褪色しやすく、海上での識別に適していないなどの問題点があり、赤に近い色も併用されていました。江戸時代の出島を描いた図画たくさん残されていますが、赤色のものが多いようです。そして1937年、ヴィルヘルミナ女王の勅令によって、赤・白・青の現在の国旗が制定されたのでした。

 しかし長年にわたりオレンジ色がナショナル・カラーであったことから、オランダのサッカーチームのユニフォームがオレンジ色であることからもわかるように、オランダではオレンジ色は現在でも特別な色として理解されています。

 オレンジ色を用いたかつてのオランダ国旗の意匠は、世界各地の旗に影響を及ぼしていて、アイルランドの国旗はそのよい例です。アイルランド国旗は縦に三分割され、棹に近い方から緑・白・オレンジ色に配色されています。緑色はアイルランドの伝統やケルト人・カトリックを象徴しています。オレンジ色は、名誉革命でイングランド王となったオレンジ公ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)が、亡命先のフランスからアイルランドに渡ったジェームズ2世を破ったことによって定着したプロテスタントを象徴しています。そして中央の白は、両者の融和と協調を象徴しているのです。

 ただこの配色と構成は、イタリア国旗と大変によく似ているため、トラブルになったことがありました。イタリア国旗は縦に三分割され、緑・白・赤の三色旗となっています。平成28年の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に先立ち、広島市で開催される外相会合のPR用ポスターとチラシのイタリア国旗が、本来は赤のはずの部分がオレンジ色に近かったため、アイルランド国旗と紛らわしくなってしまったのです。一般に日本人は国旗というものに神経質ではありませんが、これは外交問題に発展しかねません。広島市はあわててポスターとチラシを刷り直したということです。

 オランダ国旗はニューヨーク市旗にもその痕跡を残しています。そもそもニューヨークを含むハドソン川一帯は、オランダ東印度会社によって開発が進められ、ニューアムステルダムと命名されていました。アムステルダムはもちろんオランダの首都のことです。しかし第二次英蘭戦争(1666~67)の結果、ニューアムステルダムはイングランドに割譲され、イギリス国王チャールズ2世はこれを弟のヨーク公(後のジェームズ2世)に与えたたため、ニューヨークと改称されたのでした。現在のニューヨーク市旗は、青・白・オレンジ色に縦に三分割され、中央の白い部分に市章がデザインされたものです。


仏様の手話

2016-12-17 12:49:22 | その他
 唐突ですが、何年も前のことです。両陛下がある福祉施設をお訪ねになり、お帰りになるので車にお乗りになりました。その時、皇后様が見送る人達の方を御覧になりながら、笑顔で両手の拳を握り、脇を引き締めるように手前に引かれました。

 その時はそれが何を意味するかわからなかったのですが、なぜかその仕草が印象に残り、記憶していました。そして数年経った頃、勤務校で手話の授業があり、担当の先生にそのことを尋ねたところ、それは「がんばってね」ということを意味する手話だったことがわかりました。これは私の小さな体験ですが、手話というものが「口ほどにものを言う」ことを知ったのでした。

 このことがきっかけで手話の大切さを認識したのですが、ある時仏像を見ていて、いろいろな手のポーズがあることを再発見し、これは仏様が手話で拝む人に語りかけているのではないかと思うようになりました。そう思って改めて拝観すると、今まで見えなかったものが見え、聞こえなかったことが聞こえてくるように思い、仏像を見ることが楽しくなりました。もっともこういう私はキリスト教徒なのですが、厳かな気持ちで拝観する心に、宗教・宗派の違いは関係ありません。否、信心があるからこそ、そのような気持ちで接することが出来るのかもしれません。キリスト教徒なのに仏像が大好きなのは可笑しいですか?

 仏像の手指の仕草は、「印相」と呼ばれ、それぞれにみな意味があります。ですからせっかく拝観しても、その意味するところを理解しなければ、仏様が語っている声ならざる声を聞かないことになってしまいます。なんと勿体ないことでしょう。

 目の前にあるものは、金属や木や粘土や石によって人の姿に似せて造られた物体です。いずれ風化し、壊れ、消えてゆくものです。外国人が見れば偶像礼拝と見えるかもしれませんが、私たち日本人が仏像の前で手を合わせる時、物体としての像を超人的な存在として拝んでいるわけではありません。この肉体の目には見えない霊的実存としての仏様をありありと実感したいがため、物体としての像は作りますが、拝んでいるのはそこに象徴される霊的実存としての仏様なのです。石や木を拝んでいるわけではありません。ですから仏像の前に厳かな気持ちで立つ時、その仕草によって何が語られているのかを知ることはとても大切なことなのです。

 仏様の仕草でどのようなポーズが多いのかはわかりませんが、思い浮かぶままに書いてみましょう。

 阿弥陀様の仕草では、坐禅をしているかのような姿勢で、両掌の指先を腹の前で上下に重ね合わせ、親指と人差指で輪を作っていることがあります。このような仕草は阿弥陀の定印(じょういん)と呼ばれ、悟りに至っている至高の姿を表しています。よく知られているのは平等院鳳凰堂の阿弥陀像や、鎌倉の大仏があります。すると阿弥陀様が坐っているところが極楽浄土ということになるわけですね。

 さあ、この手話をどのように聞き取りましょうか。正解があるわけではありません。まあ人それぞれでよいとは思いますが、私は同じポーズをとって、静かに瞑想します。「お前は、極楽における悟りを死後の世界のことと思っているのか。そうではない。今まさにお前がいるその場所が極楽浄土である。心を清らかに保って、声ならざるわが声を聴け」。そんなふうに声をかけて下さっているるように感じました。

 阿弥陀様の仕草でよく見かけるものに、右掌を胸の高さで前方に向け、左掌を下におろして前の方に向けているものがあります。この右手の仕草は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれるもので、読んで字の如く、阿弥陀様が恐れを取り除いて平安を与えようとなさる姿です。決して何気なく手を上げているわけではありません。宗教的には、畏怖の対極は平安です。阿弥陀様は「恐るることなかれ。我、汝に平安を与えん」と、手話で語りかけるのです。ですから人生の大きな問題を抱えて悩み苦しんでいる人は、その仕草の阿弥陀様の前では、「阿弥陀様、どうぞ私の心の恐れを取り除き、極楽であなたの傍らにいるような平安の中に入れて下さい」と祈るのです。

 左掌を下して前に向ける仕草は、「与願印」(よがんいん)と呼ばれるもので、これも読んで字の如く、願いを与えようとして下さる姿です。願いを与える、つまり「汝、何を願うや」と語りかけている手話なのです。こういう場合の願いとは、あくまでも信仰的な事柄ですから、宝籤が当たりますようになどというような、個人の悦楽などは論外です。鉄の斧をなくしたのに、金の斧をなくしたと偽る心は、阿弥陀様には見抜かれてしまいます。

 施無畏印と与願印の組み合わせは、最もよく目にする仕草かもしれません。この両手の仕草を合わせて、「来迎印」と言うこともあります。来迎とは、念仏の行者を極楽浄土に迎えにやって来ることで、阿弥陀様を信じる人にとっては究極の歓びでしょう。

 この場合、親指と人差し指・中指・薬指のいずれかと輪を作っている場合がありますが、それは極楽浄土内のランク付けを意味しています。全部で9段階あるのですが、親指と薬指で輪を作る、最も下位の仕草だけは覚えておきましょう。阿弥陀様は、「往生を願うお前の罪業の深さには呆れないわけではないが、だからこそ救い上げたいものよ。極楽ではあるが、最下層でもよいか?」とおっしゃっているのかもしれません。

 そのような仕草の阿弥陀様の前では、罪業の深い私のような者でも、阿弥陀様の本願にすがって、最下位のランクでもよいですから、極楽浄土にお救い下さいと祈るほかはありません。

 珍しい仕草として、阿弥陀様が胸の前で両手の指でそれぞれに輪を作っている仕草があります。これは説法印(転法輪印)といいます。仏様が説法している姿を表しています。この仕草の像は大変珍しく、もし拝観することがあれば、貴重な体験だと思って下さい。

 このような仕草の阿弥陀様は、肉体の耳には聞こえませんが、阿弥陀様は何かをしきりに語っていらっしゃるのです。その声はこちらの心の雑念を払わなければ聞こえない声なのでしょう。煩悩の心、我執の心を捨て去り、「阿弥陀様、どうぞお聴かせ下さい。お従いいたします。」というような心で祈らなければ、声ならざる声は聞こえません。

 金剛界の大日如来は、忍者が呪文を唱える時に結ぶような仕草をしています。左手をこぶしに握り、人指し指だけを立て、それを右手で握るのですが、これを智拳印といいます。左手は衆生を、それを包む右手は仏を表すということですが、インドでは伝統的に左手は不浄であり、右手は清浄と考えられていたことと関係があるのでしょう。

 金剛界の大日如来は、宇宙の中心にある真理そのものを象徴する仏様で、仏の中の仏と言うことが出来るでしょう。そもそも「金剛」とはダイヤモンドのことで、大日如来の智慧である「金剛智」が、決して傷付いたり揺らぐことのない絶対的なものであることを意味しています。ですから、智拳印の仕草の大日様は、絶対的な智慧をもって、「全てを見通しているぞ」とおっしゃっているのでしょう。絶対的な智慧の前では、人間の小賢しい智慧など見透かされてしまいます。誤魔化しはききません。そういう意味では、偽りの心を持っている時には、畏ろしい仏様であります。しかし煩悩具足の人間を、そのままで仏の絶対的な智慧で包んで下さるのですから、煩悩即菩提とでも言いましょうか、即身成仏の密教的奥義を象徴しているのかもしれません。

 合掌している仕草の仏様もたくさんあります。特に菩薩様に多く見られますね。合掌する姿を前にすると、拝観する側も自ずと厳かな気持ちになり、こちらも思わず合掌してしまいます。以前はあまり感じなかったのですが、仏様の合掌する姿は、多くの言葉を物語っていることに気が付きました。

 本来ならば、拝む私達が合掌するのですが、拝まれる仏様の方がさきに合掌しているのです。拝んでいる者に拝まれているのです。立場が逆だとは思いませんか。仏様はなぜ煩悩だらけの私のような者に対して、合掌されるのでしょうか。ある時はっと気が付きました。私の魂の中には、仏性の種が密かに蔵されている。まだ芽生えずにいるので、私自身も気が付いていないのですが、それが芽生えて成長すれば、私のような者でも菩薩行をすることができるようになる。仏様は私の心の中の仏性に対して合掌して下さっているのだ、と。
 
 仏様の指の仕草には、まだまだ多くの種類と変化があります。とてもそれら全てについて、仏教徒でもない私が説明することは出来ません。しかし仏像は美術品として鑑賞するものではなく、信仰の対象として拝むものです。その時ただ拝むのではなく、仏様が声ならざる声で語って下さることを聴こうという心で拝むことが大切であるという趣旨は、お伝えできたのではないかと思います。

 なお、私のブログ「うたことば歳時記」には、既に「古寺巡礼の基礎知識(仏像編)」を公開してありますが、内容が重複している部分があることは御容赦下さい。また併せてそちらをも御覧下さい。仏像を拝観する際に、きっと役に立つと思います。

クリスマスの歴史的背景

2016-12-12 14:12:01 | 歴史
 12月になると、街は早くもクリスマス・モードになっています。夜に市中を歩けば、あちこちの家庭で屋外のイルミネーションが点滅しています。外国人がそれを見たら、日本はキリスト教国だったのかと勘違いすることでしょう。

 それだけクリスマス熱に浮かされていながら、日本人は「クリスマス」そのものについてはほとんど知りません。まあ信仰心もないので無理もないのですが・・・・。せいぜいイエス・キリストの誕生日という程度でしょうが、実はここから既に間違っています。

 そもそもクリスマスとは、「Christの mass(ミサ)」に由来する言葉で、キリストにささげられたミサ、すなわち、救世主であるキリストの誕生を祝ってささげられた礼拝という意味です。クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う祭であって、イエス・キリストの誕生日という意味は一切ありません。

 クリスマスは省略して「X'mas」と書かれることがありますが、これはギリシア語「Χριστος (Christos)」の頭文字である「Χ(カイ、キー)、またはそれと形が同じラテン文字「X(エックス)」を Christ の省略形として用いたものです。

 イエスの誕生日ではないと言っても、主役がイエス・キリストであることに変わりありません。それなら彼はいつ生まれたのでしょうか。聖書には「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった・・・」(マタイ2・1)と記述されています。これをひとつの根拠にすれば、ヘロデ王の統治期間は紀元前37年から紀元前4年で、紀元前4年にヘロデは死んでいますから、イエスが生まれたのは紀元前4年以前でなければなりません。

 西暦は、イエスの誕生を紀元とするキリスト教暦で、533年にローマの僧院長ディオニシウス・エクシグウスが始めたものとされていますが、実際には少なくとも4年はずれてしまっているのです。しかしそれを責めることは出来ないでしょう。ちなみに紀元後を表す「A. D.」はラテン語の「Anno Domini」(主の年)の省略です。私は授業では、イエス・キリストは日本で言えば弥生時代の人だったと話しています。

 『新約聖書』にはイエス・キリストが生まれた日付や時期については、一切記述されていません。それなら12月25日という日は、何を根拠にしているのでしょうか。降誕を祝う12月25日のミサは、遅くとも345年にはローマの西方教会で始まっていました。12月25日ということについては、ミトラ教の冬至の祭を転用したものと考えられています。

 ミトラ教とは、インド・イランの古代からの神話に共通する太陽神ミトラを主神とする宗教で、ヘレニズムの文化交流を通じてローマ帝国に伝えられ、紀元前1世紀から5世紀にかけて大きな勢力を持つ宗教となりました。しかしその実体については、不明な部分が多くよくわかっていません。

 ローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣がありました。太陽神の信仰ですから、太陽がエネルギーを回復し始める日である冬至が祝われるのは、実に当然のことでした。太陽神ミトラが冬至に「生まれかわる」と信じられていたのです。この習慣を、遅れてローマ帝国に広められたキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされているのです。

 キリストは聖書ではしばしば「義の太陽」と表現され、太陽はキリストのシンボルでもありましたから、ごく自然なことでした。偶然かどうかわかりませんが、唐代に長安に伝えられたキリスト教は、「景教」と呼ばれました。「景」とは「ひかり」という意味です。

 日本では25日はクリスマスで、前日の24日は「クリスマス・イヴ」と称する前夜祭と理解されています。しかしこれはとんでもない誤解です。ユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では、日没を一日の始まりとしています。

 その根拠は、聖書の冒頭に置かれている『創世記』の天地創造の神話における記述にあります。即ち、神が創造の業を終える一日ごとに、「夕あり、朝ありき」と書かれています。それによって一日は夕から始まる、つまり日没から始まることになっているのです。ですからクリスマスの一日は24日の日没から始まり、25日の日没に終わります。「イヴ」ということばは、夕を表すevenの語尾が省略されたもので、eveningもevenを語源としています。ですから24日の夜は前夜祭ではなく、クリスマスその日なのです。

 これから先は、世界史的な話が続きます。少々専門的な内容になりますが、イエスが生まれる前の歴史的背景についてお話ししましょう。

 アレクサンダー大王の死後、その帝国は、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの三つに分裂し、最終的にパレスチナの支配者となったのはセレウコス朝シリアでした。

 シリアはユダヤ教を禁止し、強圧的なヘレニズム化政策を取り、エルサレムの神殿にゼウス像を建立し、ユダヤ人にこれを礼拝することを強制しました。偶像礼拝を絶対にしないユダヤ人にそれを強制することは、日本人には想像を絶するほどの屈辱でありました。それでついにマタティアというユダヤ教の祭司が、シリア軍に対するゲリラ戦を組織して反乱を起こしたのです。紀元前166年のことです。そしてマタティアと息子達に率いられたユダヤ人たちはシリアを追い出し、400年ぶりに独立を勝ち取ったのでした。これをハスモン朝といい、約一世紀間ユダヤ国家は独立を維持しました。ただし紀元前63年、エルサレムがローマに占領され、一時的に独立を失ったことがありましたが、間もなく回復しています。
 
 その後、ハスモン朝は二派に分かれて争い、この二派がそれぞれ西のローマ帝国に援助を要請するに至ったため、大国ローマの介入を招くことになってしまいました。そしてハスモン朝の支配するユダヤ地方はある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となったのでした。

 その後、ハスモン朝の部将アンティパスがローマに取り入って実権を握り、ユダヤ地方
の統治を委任されました。そしてその死後、紆余曲折を経て息子のヘロデが後継者となり、
「ユダヤ王」の称号を認められていました。これがヘロデ王朝で、イエスが生まれた頃にユダヤ地方を支配していたのは、この王朝だったのです。

 紀元前4年、イエスが生まれた時に王であったヘロデが死にますが、その領地は息子たちにより分割統治されました。そしてユダヤ地方を相続統治したのはヘロデ・アケラオでした。しかしアケラオは失政を重ねたため、ユダヤはローマ総督による直轄支配となっていました。イエスが生きていた時代は、ユダヤ地方はこんな情勢下にありました。そして後にイエスは、このローマによって十字架に処刑されることになるのです。

 このような歴史的背景の中でイエス・キリストが出現するのですが、「イエス」が名で、キリストが姓というわけではありません。「キリスト」とはギリシア語で救世主を意味しており、旧約経書の言語であるヘブライ語では「メシア」といいます。実際の発音は「マシァッハ」と表記しておきましょう。日本語にはない子音があるので、正確には表記できません。

 「メシア」とはヘブライ語で油を注ぐことを意味する「マサッハ」という動詞から派生した言葉で、「油を注がれた者」を意味しています。古代イスラエルでは油は神の霊の象徴であり、祭司長は頭に油を注がれることによって聖職に就任し、王も注油によって即位しました。また「メシア」は聖書では一般に終末に待望される救済者とも理解され、日本語では「救世主」と訳されています。

 イスラエル民族の長い歴史の中では、民族的苦難に遭遇すると、イスラエル王国の繁栄の頂点であったダビデ王(在位は紀元 前1000~961年)の血を引く王の出現を期待する、民族の願望、つまりメシアを待望する風潮がしばしば現れました。紀元前63年、ローマのポンペイウスがエルサレムを占領し、約80年続いていたユダヤ人のハスモン朝の支配が終わると、ダビデ王の子孫からメシアが出現し、イスラエルの繁栄を回復するというメシア待望論が急速に台頭してきます。

 このダビデ王とは、イスラエル王国の第二代の王で、紀元前1000~961年ころに在位していました。彼は羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死した後、第二代の王位に就くと、要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となります。そして後にメシア待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになっていました。

 ですからイエスが生まれる頃には、ダビデ王の子孫から約束されたメシアがいつ出現するのかということが、ローマの支配に苦しむユダヤ人たちの共通する期待と祈りになっていたのです。そしそのような期待の中で、イエスが出現するわけです。
 
 マタイによる福音書は、旧約聖書の預言がイエスにおいて成就したという理解を根底に置いて記述されていて、福音書の中ではもっともユダヤ的・ヘブライ的な個性を持っています。ですから、その第一章では、アブラハムからダビデ王を経てイエスに至る系図を延々と記述しているのです。そういうわけで、新約聖書では、イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及されています。

 キリスト教は、このイエスこそ待ち焦がれたメシアと信じる宗教であり、ユダヤ教は、イエスを期待されたメシアとは認めず、なおメシアの出現を信じて待ち続ける宗教であるという見方も出来ることになります。

 私は一応キリスト教徒ですので、クリスマスは厳かなうちに静に迎えます。世間の「クリスマス狂騒」に迎合したくないという矜持があるからです。

イチョウ(銀杏・公孫樹)

2016-12-10 18:56:43 | 植物
 もう今年も残すところ少なくなりました。この時期の私のおやつは、秋のうちに集めておいた椎の実と銀杏です。まるで冬眠する栗鼠のようだと、よく笑われています。銀杏を食べながら、ふとイチョウのことを書いてみようと思いました。

 秋の季節感のある古歌を読んでいると、もみぢはたくさん詠まれていますが、イチョウの歌を見たことがありません。私の膨大な歌ことばのデータにも引っ掛かってきません。ということは、平安時代には日本には存在しなかったと推測できます。もしあれば、あれほど美しい黄葉を、風流な歌人たちが見過ごすはずがないと思うからです。

 一方、鶴岡八幡宮の階段の左に聳えていたイチョウは、先年、強風で倒れてはしまいましたが、実朝が暗殺された頃から植えられていたとされています。一般には「公暁の隠れいちょう」と呼ばれて、実朝を暗殺するために、公暁がその背後に隠れていたと説明されていますが、当時の文献にそのような記述は皆無です。もっとも蔭に隠れていたとしても、せいぜい樹齢数十年ですから、当時はもっと細かったはずです。まあそれはともかくとして、鎌倉時代にはイチョウは存在しています。ということは、鎌倉時代の初め頃、イチョウは宋から伝えられたと推測できるでしょう。

 鎌倉時代以降は日本でもイチョウが普通に見られるようになったはずですが、中世の和歌にも詠まれることはありませんでした。精密に探せばあるかもしれませんが、あっても例外的なものでしょう。イチョウが本格的に文芸に取り上げられるのは、江戸期の俳諧以降のことです。

 舶来の樹木であることは、野生のイチョウがないことでも推察できます。野生のイチョウを見たことはないでしょう。神社仏閣の境内や、街路樹にはいくらでも見られるのに、野生ではない。つまりイチョウという樹木は、常に人の歴史と共にあったのです。

 そもそもイチョウという植物は、植物分類学の上では被子植物が出現する前から存在していた裸子植物で、古生代には存在していました。そして中生代にはイギリス、ヨーロッパ、アメリカの各地域において繁茂していたことは、化石によって証明されています。ところが裸子植物は次第に被子植物に取って替わられ、ここ数百万年前の氷河時代にほとんどの地域で絶滅し、中国の一部にしか自生しなくなっていました。それは中国南部の浙江省天目山 あたりであろうということです。

 それが宋代に日本に伝えられ、江戸時代の17世紀末に来日したケンペルという出島商館のドイツ人によって、初めてヨーロッパに紹介されました。現在世界各地に「生きている化石」として珍重されていますが、もとを辿れば、出島からケンペルが持ち出した銀杏によるものがかなりあるのです。もっともヨーロッパにもたらされた時期については諸説があるようですが、オランダの東洋貿易の拠点であったバタビアを経由して、18世紀にオランダに伝えられたことは間違いなさそうです。もし植物学に詳しい外国人でしたら、各地のイチョウ並木の黄葉を見たら、感激することでしょうね。

 ケンペルはイチョウをその著書でGinkgoと紹介しました。本来ならば銀杏(ギンキョウ)の音訳であるGinkyoを Ginkgoと誤って表記したためで、これが後にそのままイチョウの学名になってしまいました。もう少しでIchyohが学名になるところでしたのに、惜しいことをしたものです。