うたことば歳時記

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啓蟄

2016-02-29 21:39:44 | 年中行事・節気・暦
 啓蟄は雨水の次の節気で、3月6日頃に当たります。「啓」は開くことを意味しています。(手紙の冒頭の「拝啓」の「啓」は「申し上げる」という意味)「蟄」は「虫が土に籠もる」という意味ですから、寒い冬に土の中で縮こまっていた虫が、陽気に誘われて這い出てくるという意味です。しかし二十四節気のことでいつも思うのですが、そんなことは生物や地域によってまちまちであり、杓子定規に決めつけること自体に無理があります。またネット上ではみな判で押したように、どこかから借りてきて貼り付けたような同じ解説ばかり。生活感や実感のないものが氾濫しています。そのこともいつも疑問に思っています。日本では「虫」と言えば昆虫の類の虫を思い浮かべますが、「虫」は本来は蛇の象形文字であり、中国では蛇などのは虫類も含んでいます。土の中から這い出してくるというなら、むしろ蛇や蛙などの方が啓蟄の実感がありますね。そもそも多くの虫は卵や蛹で冬を越し、土の中で成虫が冬越しする種類はむしろ少ないのではないでしょうか。虫に詳しい人なら、そんなことはないと言うかもしれませんが、普通の生活をしていると、成虫のまま土の中に籠もっている虫を見かけることはあまりありません。むしろ日溜まりでは立春前からテントウムシやクビキリギスを見かけました。
 立春を過ぎて初めて鳴る雷を、「虫出しの雷」と言います。「春雷」という歌があるそうですが、私は全く知りません。春先は一年の中で特に雷が多い季節ではありません。回数から言えば8月が多いのは当然ですが、回数を折れ線グラフにすると、3月が一つのピークになっているのは確かです。それは12~2月が最も少ない時期なのですが、3月になると急に増えるからです。ですから回数だけなら5~9月の方が3月より多いのに、急に増えるために3月の雷が印象に残り、「春雷」という言葉が意味を持ってくるわけです。「虫出しの雷」という言葉は、啓蟄の頃に鳴ることによる呼称でしょう。
 啓蟄も春雷も古歌には全く登場しません。まあ少し知られているところでは、次の一首くらいでしょうか。
   ○ちはやぶるかみなりけらし土に巣に籠もる虫も今は出でよと(六帖詠草拾遺   小沢蘆庵)
啓蟄の初候は「蟄虫啓戸」で、「すごもりむし とをひらく」と読みます。けれでは啓蟄と全く同じですから、敢えて七十二候に選ぶ意味はありませんね。 

『吾妻鏡』で読む静御前

2016-02-28 19:36:06 | 歴史
 今日(平成28年2月28日)は私の主宰する生涯学習の会で、「『吾妻鏡』で読む静御前」についてお話しをしました。その一部を御紹介します。難しい漢字が多いので、わかりやすく書き直している部分もあります。論文ではないので、お許し下さい。また私の力が及ばず、読み間違っていることも多分あるでしょう。手に負えないこともありますが、その道の専門でもないので、その点もお許し下さい。あくまで静の姿に、生の史料で少しでも迫ってみるのが目的ですから。

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した幕府の日記風歴史書で、歴史史料としては比較的信用のおける文献です。静御前については『義経記』にもいろいろ物語風に書かれているのですが、史料としては信用性がありません。物語としては『義経記』は面白いのですが、静の実像に迫る材料にはできないのです。

 まずは文治元年(1185)11月6日の記事には、義経主従の渡海失敗が記されています。都落ちした義経主従が九州へ渡ろうとして大物浜(現在の尼崎)から船出するのですが、暴風雨のために難破してしまい、浜に戻されます。そしてそこまで従っていた家臣たちも散り散りになり、義経に従った家臣は弁慶を含めて3人、他に静も入れてたった4人になってしまいました。

「予州に相従ふの輩、纔(わずか)に四人、所謂伊豆右衛門尉(源有綱)、堀弥太郎(堀景光)、武蔵房弁慶并びに妾女〔字(あざな)を静〕一人也。・・・・件(くだん)の両人を尋ね進ず可きの旨、院宣於諸国へ下さると云々。」

「予州」は伊予守である源義経のことで、これから何回も出て来ますから覚えておいて下さい。「字」はあざな「件の両人」は義経と源行家(頼朝の叔父)のことで、この二人を捕らえるようにと後白河法皇が諸国に院宣を発して命令したというのです。

 そして11月17日の記事には、吉野山での義経と別れた静の証言が記されています。静は吉野山で修行の僧に捕らえられ、尋問をされました。

「静云はく。吾、是九郎大夫判官〔今伊与守〕が妾也。大物浜より予州此の山に来る。五ケ日逗留の処、 衆徒蜂起の由風聞するに依て、伊与守は山臥の姿を仮り逐電し訖(おわんぬ)。時に数多くの金銀の類を我に与へ、雑色男等を付け京へ送らんと欲す。而るに彼の男共財宝を取り、深き峯の雪中に棄て置くの間、此の如く迷ひ来ると云々。」

静が言うには、私は九郎判官(義経)の妾です。大物浜から予州(義経)はこの吉野山に来ました。五日間滞在しましたが、吉野山の僧兵たちがほうきょういんとうするとの噂を聞いたので、山伏に変装してどこかに行ってしまいました。その際に、多くの金銀類を私に与え、従者の男たちに護衛をさせて京の都に送り返そうとしたのですが、その男たちは財宝を奪い取り、山深い雪の中に私を置き去りにしたので、このように迷いつつ来たわけです、と言うのです。山伏に変装したのは、吉野山は修験道の道場でもありましたから、怪しまれずにやり過ごすことができるからでしょう。吉野山は都では雪が早く降り、また遅くまで残る雪の名所として理解されていた山です。新暦ならば12月のことでしょうから、よくもまあか弱い女性の身で、遭難しなかったものです。そしてこの別れが結果的に最後の別れとなってしまうのです。

 翌11月18日の記事では、 静の証言により、吉野山の僧たちが義経を捜索します。

「静の説に就(つ)きて、予州を搜し求めんため、吉野の大衆等又山谷を踏む。静は執行頗る憐愍せしめ、相労るの後、鎌倉へ進ず可きの由を称すと云々。」

静の説明により義経を捜索するため、吉野山の僧たちが山を歩き回りました。執行(寺で諸務を行う上位の僧)は静を気の毒に思って、十分に労った後に鎌倉に護送することになった、ということです。しかし直接鎌倉に送るのではなく、まずは京に送ることになります。

さて続きはまた数日後に書きます。静が八幡宮で舞ってから、京に帰るまで、吾妻鏡の史料を読みながら追っていくつもりです。取り敢えず今日はこの辺で御免なさい。                                  平成28年2月28日




『吾妻鏡』の現代語訳の部分は、今後は〔  〕で括って表示することにしました。

 12月15日には、北条時政の報告書が鎌倉にもたらされ、鎌倉でも少し事情がわかってきたようです。

 「北条殿が飛脚京都より参着す。・・・・次に予州が妾出来す。相尋の処、予州都を出でて西海へ赴くの暁、相伴はれ大物浜へ至る。而るに船漂倒の間、渡海を遂げず。伴類皆分散す。その夜は天王寺へ宿す。予州此より逐電す。時に約して曰はく。今一両日を当所で相待つべし。迎への者を遣はすべき也。但し約日を過れば速く行き避るべし云々。相待の処、馬を送るの間これに乗り、何所と知らずと雖も、路次を経て、三ケ日有りて吉野山へ到る。彼の山に五ケ日を逗留し、遂に別離す。その後更に行方を知らず。吾、深山の雪を凌ぎ、希有にして蔵王堂へ着くの時、執行虜り置く所也。てへれば、申す状此の如し、何様を沙汰計るべきかと云々。」

〔北條時政殿の飛脚が京都から到着しました。・・・・次に源義経の妾が来ました。尋問したところ、「義経は都を出て九州へ行こうとした朝、一緒に連れられて大物浜(現在の尼崎)へ行きました。しかし船が難破して海を渡ることはできず、従者たちは皆散り散りになってしまいました。その夜は天王寺に泊まり、義経はそこから行方をくらましました。その時に約束をしたのですが、もう二日ほどここで待っていなさい。迎えの者をよこすからと言いました。しかしながら、約束の日が過ぎたら、何処かへ行くようにとの事でした。待ってると、馬が送られて来たのでそれに乗り、何処ともわからずに、道中三日かかって吉野山に到着しました。その吉野山に五日間逗留した後、ついに別れてしまいました。その後の行方は知りません。私は深山の雪をかき分け歩き、運良く蔵王堂へたどり着いたら、執行の方が私を捕えました。」〕と言いました。「てへれば」というのは閉じ括弧と理解して下さい。北条時政は取り敢えず事情を聴取して報告し、その後の沙汰を指示してくれるように頼んできたわけです。そこで早速翌日には、静を鎌倉に連行するようにと、時政に返事が送られたというのですから、緊迫している様子が察せられます。


 そして3月1日、 静とその母が鎌倉に到着します。

「今日、予州が妾静、召に依て京都より鎌倉に参着す。北条殿送り進ぜらるる所也。母の礒禅師これを伴ふ。
 則ち主計允の沙汰となしし、安逹新三郎が宅を点じこれを招き入れると云々。」

〔静が京から鎌倉に到着しました。これは北条時政が送ってよこしたものです。母の磯禅師も一緒です。・・・・そして安達新三郎の家を選んでここに落ち着かせました〕、というわけです。



 3月6日には早速問注所で尋問が始まり、静が弁明をします。

 「静女を召し、俊兼、盛時等を以て、予州の事を尋問さる。先日、吉野山に逗留の由、これを申す。はなはだ以って信用されざれば、静申して云はく。山中に非ず、当山の僧坊也。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、その所より山臥の姿を以って大峯に入るべきの由を称し入山す。くだんの坊主の僧これを送る。我又慕ひて一鳥居辺に至るのところ、女人入峯せずの由、彼の僧相叱るの間、京の方へ赴くの時、共に在る雑色等財宝を取り、逐電の後、蔵王堂に迷ひ行くと云々。重ねて坊主僧の名を尋ねらる。忘却の由を申す。凡そ京都において申す旨と、今の口状頗る違ふに依りて、法に任せ召問ふべきの旨、仰せ出ださると云々。」

〔静を召し出して、問注所の係に義経のことについて尋問をしました。吉野山に逗留したと言うのですが、信用できません。静が答えるには、「吉野の山中ではなく、その僧坊の方です。しかし山の僧兵たちが蜂起すると聞いて、そこから(義経は)山伏の姿になり、大峰に入ると言って山に入りました。その僧侶が山に案内してくれました。私も跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったのですが、女人は大峰に入るべからずとその僧に叱られたので、やむなく都の方へ向かいました。ところが同行していた雑色の男たちが財宝を奪って逃げてしまい、蔵王堂に迷い着きました。」重ねて僧の名を尋ねたところ、それはもう忘れたと言います。およそ京都での申し立てと今の言うこととかなり違っているので、法に基づいてよく調べるように仰せられました。〕

 大峰山は標高1915mあり、今も厳しい修験道の修行が行われる聖地です。それで現在でも女人禁制となっています。この現代に何と時代遅れなとお腹立ちの女性もいるかも知れませんが、信仰の世界ですから、法律上の平等とは次元が違います。なお大峰山の南にある稲村ヶ岳は「女人大峰」と呼ばれ、ここなら女性が登ることができます。静はどこまでも一緒に行きたかったことでしょうが、行けば足手まといになることは必定。泣く泣く別れたものと推察します。                    平成28年3月1日    
 


 3月22日には、 静が再び尋問をされます。

「静女の事、子細を尋問さると雖も、予州の在所を知らざるの由、申し切りおはんぬ。当時彼の子息を懐妊する所也。産生の後、返し遣はさるべき由、沙汰有ると云々。」

〔静のことですが、詳細を尋問されても義経の居場所は知らないとはっきりと申しました。義経の子を妊娠しているので、出産後に帰すとの沙汰がありました。〕

 静は実際に義経の消息は全く知らないのですから、いくら取り調べても答えようもありません。「申し切りおはんぬ」という表現に、静の強い意志が現れているように思います。まあ知っていたとしても、意地でも答えなかったでしょうが。


 そして4月8日、静が八幡宮で舞うのクライマックスを迎えます。


「二品ならびに御台所、鶴岡宮に御参す。次を以って、静女を廻廊に召し出ださる。是、舞曲を施させしむべきに依て也。此の事、去るころ仰せらるる処、病痾の由を申し参らず。身において屑とせざる者、左右に能はずと雖も、予州の妾と為し、忽ち掲焉の砌(みぎり)に出づるの条、頗る耻辱の由、日来る内々に之を渋り申すと雖も、彼は既に天下の名仁也。適(たまたま)、参向して帰洛近きに在りてその芸を見ざるは、無念の由、御台所頻りに以って勧め申さしめ給ふの間。これを召さる。偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨、仰せらると云々。近日、只別緒の愁(うれい)有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨みて猶固辞す。然して、貴命再三に及ぶの間、憖(なまじい)に白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門尉祐経、鼓つ。是、数代勇士の家に生れ、楯戟の塵を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、自ら歌吹曲に携はるの故に、此の役に候ふか。畠山二郎重忠銅拍子を為す。」

〔頼朝様と御台所様が鶴岡八幡宮に参拝されました。そのついでに、静を廻廊に召し出しました。これは舞を舞わせるためです。このことについては、以前から命じられていたのですが、体調が悪いからと言って参りませんでした。身の置かれた立場を考えれば、あれこれと言うことはできないのですが、義経の愛人として晒し者になる場所に出ることは、とても恥ずかしいことであるとして、普段から渋っていたのですが、彼女は舞の名人としてその名は天下に聞こえています。それが偶然にも鎌倉に来て、間もなく都に帰というのに、その芸を見ないというのは、何とも残念なことです。それで御台所様がしきりに頼朝様にお勧めになられたので、これを召し出すことになりました。これはひとえに八幡大菩薩も妙技に感じて加護してくださるであろうとおっしゃいました。しかし静は近頃は悲しいことがあり、とても舞うことなどできませんと言って、その場に臨んでもなお固辞しました。しかし再三お命じになられたので、嫌々ながらも、白雪のような衣の袖を翻し、「黄竹の歌」を歌いました。工藤祐経が鼓を打ちましたが、彼は武勇の家に生まれ、戦の技を受け継いではいますが、「一臈上日の職」の経験があり、音楽にも関わっていたので、この役に就いたのでしょう。畠山重忠が銅拍子を打つ役をつとめました。〕

 頼朝のことを「二品」と表現していますが、彼は従二位の位を与えられていたため、そうよばれました。後に頼朝の死後に政子も同じく雷を与えられますので、「二位の尼」と呼ばれることになります。頼朝はあまり乗り気ではなかったようですが、妻の政子がどうしても静の舞を見たいということで、召し出したわけです。静にしてみれば、義経を捜し出して殺そうとしている者の前では踊るものかという意地があったでしょうが、神様まで持ち出されると、断り切れなかったのでしょう。静が踊った場所については、史料は「廻廊」としか語っていません。現在、鶴岡八幡宮には舞殿がありますが、もちろんそこではありません。しかし先日行ったときには、舞殿で踊ったと説明している人がいましたが、それは少し違います。「黄竹の歌」というのは調べてみるとなかなか難しい解説があったのですが、素人の私には手に負えるものではありませんでしたので、パスさせて下さい。工藤祐経は曾我兄弟の仇討ちで討ち取られた御家人で、そちらの方で名が知られています。「一臈上日の職」ということばもなかなか難しいのですが、専門家の解説を見ると、朝廷で蔵人として勤務することを意味するそうです。ようするに武人ではあるのですが、朝廷でも十分に通用する程の文人的教養があったわけです。銅拍子はいわばシンバルのようなものでしょう。

読み始めると日本的漢文とはいえ『吾妻鏡』もなかなか難しく、私如き素人には荷が重すぎると感じています。まあ大まかな流れさえつかめればという程度でお許し下さい。専門の詳しい方の御指摘は、素直に受け容れるつもりです。   3月5日


「静先ず歌を吟じ出して云はく、吉野山峯ノ白雪フミ分ケテ入リニシ人ノ跡ゾ恋ヒシキ、次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云うはく、シヅヤシヅシヅノヲダマキ繰リ返シ昔ヲ今ニナスヨシモガナ、誠に是社壇の壮観、梁の塵ほとんど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云はく。八幡宮宝前において芸を施すの時、尤も関東の万歳を祝ふべきの処、聞こし召す所を憚らず、反逆の義経を慕ひ別れの曲を歌ふは奇恠(きっかい)と云々。御台所報じ申されて云はく。君が流人として豆州に坐し給ふの比(ころ)、吾においては芳契あると雖もも、北条殿、時宜を怖れ、潜(ひそか)にこれを引籠めらる。しかるになお君に和順し、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君の所に到る。亦、石橋の戦場に出で給ふの時、独り伊豆山に残り留まり、君の存亡を知らず、日夜魂を消す。その愁(うれい)を論ずれば、今の如き静の心は予州の多年の好を忘れ恋慕はざれば、貞女の姿にあらず。外に形(あらは)るの風情に寄せ、中に動くの露胆を謝す。尤も幽玄といひつべし、抂(ま)げて賞翫し給ふべしと云々。時に御憤休むと云々。小時して御衣夘華重を簾外に押し出し、これを纒頭(てんとう)さると云々。」

〔静はまず歌を歌いました。「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」。次に別な歌を歌った後で、また歌を歌いました。「しづやしづ しづの苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」。これは真に神殿の梁の塵さえも動くかと思われる程の、壮観な見物でありました。見ていた人は皆、身分にかかわらず感動しました。ところが頼朝様がおっしゃるには、(源氏の守護神である)八幡神の御前に芸を奉納する時には関東(鎌倉幕府)の安泰を祝うべきであるのに、神も私も聞いていることを知りながら、反逆した義経を慕って、それと別れたことを歌うなど、不届きである、と。すると御台所様がたしなめておっしゃいました。あなたが流人として伊豆においでの時、あなたとの間に(結婚の)約束を交わしていましたが、父北条時政殿が平家への聞こえを心配して、こっそりと私があなたに会えないように閉じこめてしまいました。しかし私はあなたが恋しくて、真夜中の雨に濡れながら、あなたのいるところへ逃げ込んだものでした。また石橋山の戦いでも、一人で伊豆の走湯神社に残って、あなたが生死も知らずに消え入るばかりに心配したものです。その時の心配した心を思い、今の静の心を思いやるならば、義経が可愛がってくれたことを忘れて恋い慕うことがないのなら、貞女と言うことはできません。踊という外の形にこと寄せて、心の内を表したのです。これこそ幽玄な見物と言うべきでしょう。お怒りもわからなくはありませんが、まげて誉めてやって下さい、と。それで頼朝様もようやくお怒りを鎮めました。少しして卯の花襲の衣を褒美として御簾の外に押し出されました。〕

 私の力不足で訳しきれないところもあるのですが、その辺りは勘弁して下さい。静はさんざん抵抗していましたが、思うことがあったのか、開き直りであったのか、覚悟ができたのでしょう。義経を慕う歌を歌えば、頼朝の怒りに触れることは承知の上のこと。殺されることすら覚悟したはずです。天下の権力者に対して、力では対抗しようもありません。しかしどうせ殺されるならば、最後の最後に自分を愛してくれた人を慕う心を隠すことなく言い表そうと決意したのです。命を懸けた愛の宣言と言えましょう。「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」という歌は、『古今集』の327番に本歌があり、静の創作ではありません。「み吉野の 山の白雪踏み分けて 入りりにし人の訪れもせぬ」という歌なのですが、吉野山に籠もってしまった人からの便りがないという意味です。それを少々作りかえたのが静の歌です。今ならパクリと言われそうですが、当時はよく知られた歌を下敷きにして作りかえることは全く問題ではありませんでした。私はそれより静が『古今集』のこの歌を諳んじていたことの方に驚きます。さすがは天下の白拍子と言われることだけはあるものです。現代の安っぽい芸人とはわけが違います。「しづやしづしずの苧環(おだまき)」の歌についてですが、「しづ」とは「倭文」と書き、麻織物の一種です。それを織るために糸を巻いたものが苧環(おだまき)で、植物のオダマキは花の形が糸巻きに似ていることによる呼称です。「しづやしづしづのをだまき」までは「繰り返し」に懸かる序詞ですから、特別に意味があるわけではありません。繰り返すということを導き出すために、歌の調べを整えているわけですが、静が歌えば、音が自分の名前と重なりますから、自分の気持ちを込めて歌ったことでしょう。「よしもがな」は、方法があればよいのだがという意味ですが、裏にはその方法もないことだというニュアンスが隠れています。本歌は、「古の倭文(しづ)の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」という歌で、『伊勢物語』の32段にあります。昔に巻いた苧環を巻きもどすように、あなたとの仲を昔にもどす方法があればよいのだが、という意味なのですが、静は少し違う意味で歌っていますね。これも静は諳んじていたわけです。手許には何の本もなかったでしょうのに、その場に相応しい歌が、即興のように出て来るのです。
 「梁の塵も動く」とは面白い表現ですが、これは中国で美しい音楽を形容する常套句です。梁の塵も動く程に美しい曲、というわけです。「梁塵」というと、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』という歌謡集を思い出します。後白河法皇は「今様」と呼ばれた流行歌が大好きで、院御所に遊女を召し出しては、徹夜でそのような歌を歌うことがしばしばありました。そしてそのような歌の歌詞を集めた本まで編纂しているのです。法皇様がカラオケの歌詞集を編纂したようなわけで、まあ随分と砕けた御方だったようです。
 案の定、頼朝はかんかんに怒りました。源氏の守護神の前ですから、頼朝のメンツは丸潰れです。まあ怒るのも無理はありません。しかしそこに頼朝の妻政子の言葉が重みを持つことになりました。政子にしてみれば、静の舞を見たいとせがんだこともあるでしょうから、ここは何とか収めなければと思ったことでしょうし、女性として静の心にも感動したことでしょう。父時政が京都に上番している間に、罪人として預かっていた頼朝と自分の娘が特別な関係になってしまったことが平家に知れたら、どのような処罰があるかわかりません。ですから時政としては二人の仲を力尽くで裂こうとしたのももっともです。時政は政子を伊豆の山木兼隆に嫁がせようとしました。兼隆は北条氏と同じ平氏の一族で、伊豆の国府の国司代理のような役に就いていました。政子は兼隆の屋敷から雨の降る夜に逃げ出し、頼朝が蟄居していた伊豆山権現に逃げ込んでしまったというのです。まあこれが本当なら面白いのですが、実際には兼隆が伊豆に来た時期と、政子が長女大姫を出産した時期が重ならないので、政子の作り話かもしれません。石橋山の戦いは治承4年(1180年)のことで、頼朝の平氏打倒の最初の本格的な戦いでした。しかし頼朝はこの戦いで敗れて山の中をさまよい、船で安房国へ落ち延びます。この間、政子は戦に敗れた頼朝がどこにいるのか、生死さえわからずに心配していたのです。政子はそのことを言っているわけです。
 そこまで政子に言われると、頼朝も強いことは言えませんでした。もともと政子は駆け落ち同然に結婚した気の強い女性です。政子が頼家を妊娠中のこと、頼朝がこっそり愛人をかこっていることが発覚したことがあります。この時政子は家人を派遣して、その愛人のかくまわれていた家を破壊させています。それくらい強う女性でしたから、頼朝亡き後も幕府を背負うことができたのでしょうが、とにかく頼朝は政子に頭が上がらないことがあったのでしょう。渋々怒りを収めて、却って褒美の衣をとらせたのでした。卯の花襲の衣ですが、丁度卯月の季節にも合うわけです。

 そこで私も静の心を歌に詠んでみました
  ○今はとてかねて覚悟の舞姫の雪の衣に花散りかかる
  ○梁の上(へ)の塵も騒ぐかしづしづと妹背の契り忘れじの舞                      平成28年3月10日



 4月8日の社殿での舞から1カ月程後の5月14日、数人の御家人たちが静の宿に静を訪ねます。

 「左衛門尉祐経、 梶原三郎景茂、 千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々に下若等を相具し、静が旅宿に向ふ。酒を玩び宴を催す。郢曲妙を尽くし、静の母磯禅師又芸を施すと云々。景茂数盃を傾け、 聊か一醉す。此の間艶言を静に通はす。静頗に落涙して云はく。予州は鎌倉殿が御連枝。吾は彼の妾也。 御家人為る身で、争(いかで)か普通の男女と存ずるや。予州牢篭せずんば、和主(わぬし)に対面、猶有るべからざることなり。况や今の儀においてをやと云々。」

〔工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通らの御家人たちが酒を持って静の宿に行き、宴会を催しました。母の磯禅師が舞を舞いました。景茂が酔った勢いで、静に色っぽいことを言ってからかうと、静は涙を流して、「義経様は鎌倉殿の御兄弟、私はその妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事のように思われるのか。義経様が落ちぶれなければ、あなたなどにに対面する事さえできないはずなのに。ましてやそのような冷やかしなどもってのほかです。」と言いいました。

 祐経は舞の際に鼓を打つ役目をしていましたから、目の前で見ていたわけです。その他の者立ちも有力御家人であり、皆で語らって静親子を肴に酒を飲みに行ったのでしょう。年配の母も踊らされています。内心気はすすまなかったでしょうが、弱い立場を考えると、断ることもできなかったのでしょう。母子の無念が察せられます。そして一人が酔った勢いで静にセクハラ紛いの言葉を浴びせたのでしょう。静はここでも精一杯の抵抗をしています。この頃には静のお腹もかなり大きくなっていたでしょう。さすがにそのような静を再び舞わせることはなかったようです。



5月27日、 夜、頼朝の長女大姫の依頼によって、静は舞を舞いました。

「夜に入り、静女大姫君の仰せに依て、南御堂へ参り、芸を施し禄を給はる。」

むさ苦しい御家人たちの冷やかしには泣いて抵抗した静でしたが、頼朝の長女大姫の頼みには素直に応えて、舞っています。大姫は6歳の時に木曾義高(頼朝の従兄弟である木曽義仲の子)の許嫁とされました。その時、義高は11歳で、事実上の人質として鎌倉に抑留されていました。しかし頼朝と義仲が対立することによって、人質の義高が殺されてしまいます。父によって婚約者が殺されたわけですが、その時、大姫はわずかに7歳です。しかし彼女にとっては耐え難い悲しみでした。もちろん静はこの経緯を知っていたでしょう。年齢は離れていますが、愛する人を殺され、また殺されるかもしれない、そして間もなく生まれてくる子を取り上げられるかもしれない女性が互いに共有できる悲しみがありましたから、静は大姫を慰めるつもりで舞ったのでしょう。



閏7月29日、ついに静が男子を出産します。

「静男子を産生す。これ予州の息男也。件の期を待たるるに依て、今に帰洛を抑へ留めらる所也。しかるにその父関東を背き奉り、謀逆を企て逐電す。その子もし女子たらば、早く母に給はるべし。男子たるにおいては、今襁褓(きょうほ)の内にあると雖も、争(いかで)か将来を怖畏せざらんや。未熟の時に命を断つの条よろしかるべきの之由治定す。よりて今日安逹新三郎に仰せて、由比浦に棄てしむ。これより先に、新三郎御使彼の赤子を請け取らんと欲す。静敢てこれを出さず。衣に纏(まと)ひ抱き臥し、叫喚数剋に及ぶ之の、安逹頻りに譴責す。礒禅師殊に恐れ申し、赤子を押取り御使に与ふ。この事、御台所御愁歎し、之をゆるさんと申すと雖もかなわずと云々。」

〔静が男の子を生んだ。これは義経息子である。出産を待ってから京に帰すことになっていたので、今日まで留め置かれていた。その父はである義経は関東(頼朝)に背き謀叛を企て逃亡した。その子が女子ならばすみやかに母に返されるが、男子であれば今は産着の中にあっても、将来に禍根を残す恐れがあるので、赤子のうちに命を絶つように決まっていた。よって今日、安達清常に由比ヶ浜に捨てるよう命じられた。これに先立ち清常は使いとして赤子を受け取ろうとした。静はこれを出さず、赤子を衣にまとい抱き臥し、長い時間泣き叫んだが、清常は厳しく催促する。磯禅師が恐縮し、赤子を取り上げて使いに渡した。この事は、政子が頼朝に命乞いを嘆願したが叶わなかった。〕

 静が産んだ子は男の子でした。予てからの決定通り、頼朝は赤子を殺すように命じます。そういう頼朝自身も13歳の時、平治の乱で捕らえられ清盛に殺されるはずでしたが、清盛の継母にあたる池禅尼の嘆願により、命ばかりは助けられて伊豆に流されています。ですから自分が清盛のようにならないためには、生かしておくわけにはいかないと考えたのでしょう。しかしこうして頼朝は身内を次々に滅ぼし、結果として源氏の本家は断絶してしまうことになります。赤子が斬り殺されなかっただけでもよしとするしかないのでしょう。



9月16日、悲しみに暮れる静とその母が京に帰ります。

「静母子暇を給はり帰洛す。御台所并びに姫君憐愍したまふに依て、多く重宝を賜はる。」

出産後、少しは体力が回復したのでしょう。ようやく静と母は京に帰ることになりました。そして政子と大姫は静の身の上に同情して、多くの宝物を持たせてやりました。この記事を最後に、静は文献史料に姿を表すことはありませんでした。しかし伝承では、各地に静の墓と称するものが伝えられています。














雨水

2016-02-26 10:45:07 | 年中行事・節気・暦
 私のブログで「二十四節気」と題して駄文を書いていますが、読んで下った形跡がないので、内容が重複しますが、少々思うとろを書いてみます。
 雨水は二十四節気の一つで、2月19日頃から、啓蟄の前の3月5日頃までの期間です。雪から雨に変わり、雪が溶け始めるとされていますが、そのようなことは地域によって全く異なることですから、全国に当てはめること自体に無理があります。また雛祭りに備えて、雛を飾り始める時期と説明されることが多くなってきたのですが、雛人形を売る店の宣伝のようなもの。これは太陽暦の3月3日を雛祭とするからであって、桃の花の咲かない桃の節句になってしまいます。もちろん気にしなければ太陽暦の桃の節句でもよいのですが、雨水に飾るべきものなどと決めてかかるのはおかしなことと思います。少し早めに飾って楽しめるなら、いつでもよいことです。
 それより雨水の時期には、春雨の風情を味わってみませんか。「雨水」と書くのですから。これなら日本全国とまでは言えなくても、多くの地域で春雨が降ることでしょうから、雪が余り降らない地域でも、春雨なら味わえると思います。私が二十四節気を作るとしたら、「春雨降る」にしたいですね。
 雨水の期間の七十二候のうち、末候は「草木萠動(そうもく めばえ いずる)」となってします。「春雨」と「芽生え」と揃うと、古歌の世界では、「春雨は花のかそいろ」という句が連想されるのです。古語の「かそいろ」「かそいろは」は父母という意味で、春雨は父母のように春の花を育むと理解されていたのです。また「春」に掛かる「木の芽はる」という枕詞があるのですが、木の芽が春に膨らむことを「木の芽が張る春」と理解しているわけです。
 また古人は、春雨が野辺を緑に染めると理解していました。布を染めるには染汁に浸して濡らすわけですから、春雨が降って地が潤うと、次第に若草が芽生えてくることを、春雨が染めたと理解しているのです。
古人は、芽や蕾が膨らんだり芽生えが始まるこの時期に春雨が降れば、春雨が父母のような心で植物を育んだり染めているのだと理解していたのです。素晴らしいことですね。そうすれば、しっとりと音もなく優しく降る春雨を、今までとは違って感じることができると思います。現代人は自然現象を良くも悪くも自然現象としか見ていません。しかし日本人の心の中には、太陽をお日様と感じるように、自然を擬人的に理解する心をが残っているはずです。
 最後にそのような古歌を御紹介します。
   ○春雨の色は濃しとも見えなくに野辺の緑ぞ色まさりける    (寛平御時后宮歌合 春 16)
   ○四方の山に木の芽はる雨降りぬればかそいろはとや花の頼まん (千載集 春 31)

日本橋の七つ立ち

2016-02-25 08:39:48 | 歴史
 一寸した歴史寸評を書く必要があって、歌川広重の「東海道五十三次」の第一枚目である「日本橋朝之景」について調べていました。いろいろ参考書を調べていると、誤解されていることがあり、気になったのでここに書き留めておきます。
 日本橋は東海道の起点ですから、旅に出立する早朝の日本橋は、第一作目には実に相応しいと言えるでしょう。ちなみに東海道の終点は京都三条大橋です。この場面は朝焼けの方角を臨んでいますから、橋の南詰の木戸、つまり東海道側から中山道の方を向いて描かれています。絵図の手前の左右には、木戸が開かれれているのが見えます。一般の町木戸が開くのは卯の刻の明け六つでしたが、日本橋の木戸が開くのは寅の刻の七つ、おおよそ午前4時頃でした。時刻を伝えるのは時の鐘で、まず最初に注意を喚起する捨て鐘を3回鳴らし、その後で時刻の数だけ鳴らすのです。日本橋では本石(ほんごく)町三丁目(現在の日本橋本町四丁目)に鐘があり、それを合図に木戸が開かれました。
 江戸末期から明治期にかけて流行した俗謡『お江戸日本橋』の一番には、「お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ こちゃ高輪 夜明けの提灯消す こちゃえ こちゃえ」と歌われています。「初のぼり」とは、直接的には初めて京の都に行くことですが、具体的には10年近く勤めた丁稚が長期休暇を与えられて、上方の故郷に帰京することを意味しています。その丁稚たちや未明に江戸を出立する人達が、「行列そろえて」木戸の開くのを待っていたのでしょうか。木戸が開くのを今か今かと待つ人達は、たくさんいたことでしょう。日本橋には有名な越後屋呉服店など多くの大店が軒を並べていましたから、初のぼりを許された丁稚の若者もたくさんいたことでしょう。「行列そろえて」は、初のぼりをする若者たちを、先輩格の手代が途中まで引率して行く様子を表したものという解説もありました。私はそれを確認する材料を持っていないので、そこまで言ってよいかどうかはわかりません。この絵の中央に橋を渡ってくる大名行列の先頭が描かれているため、この行列が大名行列と勘違いされることもあるようです。日本橋から6㎞離れた高輪の大木戸に着く頃には夜が明けて、提灯の火を消すという意味ですから、日本橋を出立する時には、提灯が必要な程の暗さのはず。この絵に「七つ立ち」と解説されていたら、それは歌の歌詞に引きずられた勘違いなのです。七つの時刻はこの絵のように明るくはありません。この絵図はすでに明るくなって日の出の時刻である明け六つの頃の様子でしょう。ちなみに夜明け前に日本橋を出発し、十里(約40㎞)歩いて戸塚宿で一泊するのが普通でした。

おぼろ月夜(夕方の菜の花)

2016-02-24 10:34:31 | 唱歌
 菜の花が土手にたくさん咲き始めました。「朧月夜」のイメージにはまだ少々時期的に早いのですが、先取りしてあらためて味わっています。 

1、菜の花畠に入日薄れ、見わたす山の端霞ふかし。春風そよふく空を見れば、夕月かかりて、にほひ淡し。
2、里わの火影も森の色も、田中の小路をたどる人も、蛙のなくねもかねの音も、さながら霞める朧月夜。

 1914年(大正3)に『尋常小学唱歌』第六学年用に掲載されて以来、いくつか小学生には難しい言葉があるのに歌い継がれています。というより親の世代が歌っているのかもしれませんが・・・・・。菜の花畠と言っても、現在は油を採るための栽培はほとんどないのではと思うのですが。ただ観光用に栽培している所は全国にあるので、一面の菜の花を見ることは今でもできます。私の家の近くにはそのような所はないのですが、川の土手などに自然に咲いていますから、十分に満喫できます。
 1番では、夕霞のかかる景色が歌われています。目の前には一面の菜の花が咲き、夕日が次第に沈んでくる時刻、夕月が空に懸かるというのですが、この場合の月は西の空に見える三日月が絵になりますね。「返り見すれば月かたぶきぬ」ならば満月に近い月なのですが、歌詞を見る限りは作詞者は西の方角を見ていますから、三日月に近い形のはずです。「にほひ」は必ずしも香りのことではなく、色が美しく映えることを意味しています。真昼の菜の花の原色に近い真っ黄色ではなく、茜色の夕日に照らされて、穏やかな色に見えるのでしょう。
 2番は、1番より少し時間的に経過しているようです。「里わ」とは「里曲」「里廻」と表記し、「人里のあたり」という意味です。遠くに民家があり、灯りの点いているのが見えるのでしょう。田の畦道を歩いている人の姿が微かに見えるというのですから、真っ暗にはなっていないようです。鐘の音は、夕方6時の鐘の音でしょうか。まあ6時とは限定できませんが、そのくらいの時刻でしょう。「さながら」はなかなか難しい言葉です。現在では「さながら」は「まるで・・・・のようだ」という意味に使われています。しかしこれは室町時代以降のことで、それより以前は「そのまま」「そっくりそのまま」という意味でした。原詩に当てはめてみると、どちらでもよいようにも思えるのですが、大正時代の作詞ですから、「まるで」と理解すべきなのでしょうか。しかし事実として霞んでいるのですから、「まるで霞んでいるようだ」というのでは、なぜかピンと来ないのです。私自身の理解としては、「そっくりそのまま」という意味の方がよいのではと思っています。それはともかくとして、「・・・・も」を5回重ねて、リズムを作っています。そして最後に「おぼろ月夜」がそれらをすべて呑み込んでしまうのです。そくにおぼろ月夜の奥深さが、象徴的に表されているように感じています。

 昭和戦後にこの歌の作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一であることが明らかになりました。このコンビによる唱歌には、他にも『春の小川』『故郷』『春がきた』『紅葉』などの名曲があります。それはそれでよいのですが、作詞者ゆかりの長野県の野沢温泉村の風景を歌ったものだとして、すぐに観光に結び付ける施設や石碑ができているそうです。私の見落としかもしれませんが、それを断定する資料は今のところ見つかっていないと思うのですが・・・・。すぐに「こここそ発祥の地」と名乗り出て既成事実化させてしまうことは、歌の世界にはよく見られることです。「鐘の音」の寺はこの寺と伝えられていますと言うに至っては、もうあわれを催します。すそんなことはどうでもよいではありませんか。菜の花の咲いているところは全国どこにでもあるのです。
 菜の花を詠んだ歌は、私の知っている古歌には見当たりません。そもそも油を絞る原材料としては、中世までは荏胡麻が専ら用いられていました。アブラナ、菜種が油の原料になるのは江戸時代以降のことです。現在普通に見られる菜の花は西洋菜の花ですし、古代にどの程度菜の花が見られたのかはわかりません。まあとにかく、古人は菜の花に関心を示していないのです。誹諧ならば与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」がよく知られていますね。色を想像しただけで美しく、このような絵画的な誹諧は蕪村の誹諧の特徴でした。ところでこの月はどのような形をしているでしょうか。夕方に東から上って来るのは、満月に近い月しかありません。太陽が今にも沈み、正反対の東から上ってくるのですから、その月は地球を挟んで太陽と正反対の位置関係にあります。ですから満月に近い形になるわけです。これならどこかの私立中学の入試問題に出題されてもよいかもしれませんね。
 私の家の近くには荒川の河川敷があり、その季節になると一面に菜の花で埋め尽くされます。その時期に満月になる日は、多くても年に2日くらいのもの。私は蕪村の誹諧を追体験しに、その日を狙って、夕方にわざわざ菜の花と夕日と満月を見にいくことを楽しみにしています。本当に値千金の眺めです。私にはロンドン・パリに行くより価値ある時間です。そこで私なりに蕪村の誹諧を和歌に直してみました
  ○西東入りてはのぼる山の端も菜花も霞む春の夕暮れ
昼間の菜の花も美しいですが、夕方の菜の花には、また別の美しさがあります。どうぞお出かけになって下さい。
この内容の文章を、いつかどこかで書いた記憶があるのですが、もしダブっていたら御免なさい。
                                平成28年2月24日



拙文を読んで下さる方から、ご指摘を頂きました。大変参考になることですので、お断りもしなくて申し訳ありませんが、引用させていただきます。唱歌に造詣の深い方のようです。本当にありがとうございます。


『伴奏楽譜歌詞評釈』に実際につくった作歌陣の見方が書いてあります。そのまま引用しましょう。「『さながら』は『すべて』の意。即ち村の燈光も森の色も道行く人も、また蛙聲も夕鐘の響まで總て朦朧と霞んで遠退いて居るやうな朧月夜であるわいと云ふ意」。そして作歌陣は「物の色、物の影の霞めると云ふは通常の云ひ口なれども物の聲の霞みて聞ゆると云ふ歌詞の見付けどころなり」と記しています。


歌を作った人は「すべて」という意味で「さながら」を使っていたとのことですね。それなら「さながら」は室町期以前の「そっくりそのまま」という意味であるわけですから、現代の人が「まるで・・・・のようだ」という意味に理解している「さながら」ではないことになります。作詞者はなぜここだけ古語を使ったのか、大正時代でもわかる人は多くなかったのではないでしょうか。  2月25日