うたことば歳時記

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夕日

2015-08-31 09:48:15 | 唱歌
 いきなり高い音で始まり、また初めと終わりが「ぎんぎんぎらぎら」という言葉で、曲も歌詞も強烈な印象を与える童謡である。歌詞と曲の雰囲気がピタリと合った名曲であろう。

 1、ぎんぎんぎらぎら  夕日が沈む  ぎんぎんぎらぎら  日が沈む
   まっかっかっか   空の雲   みんなのお顔も  まっかっか
   ぎんぎんぎらぎら  日が沈む

 2、ぎんぎんぎらぎら  夕日が沈む  ぎんぎんぎらぎら  日が沈む
   カラスよお日を  追っかけて  真っ赤に染まって  舞って来い
   ぎんぎんぎらぎら  日が沈む

 作詞は葛原しげるで、大正10年(1921年)、児童雑誌『白鳩』に掲載され、室崎琴月が曲をつけて中央音楽学校で発表されたという。原詩は「きんきんきらきら」だったものを、小学2年生の娘に指摘されて「ぎんぎんぎらぎら」に訂正した経緯については、先行する多くの考証があり、受け売りになるのでここでは触れないでおく。その辺りの経緯については、インターネットで池田小百合氏の「なっとく童謡・唱歌」を参照されたい。
 私なりに興味を持ったことは、童謡とは離れてしまうが、烏と太陽の関係である。我が家から見て西の方角にあたる近くの里山に、烏の大群のねぐらがある。毎朝まだ薄暗いうちから何百という烏が東の方角に飛んでゆき、夕方にはその逆方向に帰ってくる。まあそのやかましいこと。烏相手に怒ってみたところでどうにもならないから、もう諦めている。
 烏は夕日に向かって飛ぶのだろうか。烏は太陽の位置と体内時計によって、帰るべき方角を本能的に理解しているのかもしれない。あるいは夕方にねぐらに帰るので、そう感じるだけなのかもしれない。そのあたりは鳥の専門家に伺いたいところである。しかしどうであれ、太陽、わけても夕日と烏の取り合わせは、世界中の神話・伝説・文芸などに登場する。
 日本の文芸で「烏と太陽」の取り合わせといえば、すぐに思い浮かぶのが『枕草子』の冒頭部である。
  「春はあけぼの・・・・・秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くと   て、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。」
ここではどこにも太陽という言葉はないが、夕暮れにねぐらに帰るというのであるから、烏と夕日はきっと重なって見えたことであろう。
 日本の神話で「烏と太陽」の取り合わせといえば、すぐに思い当たるのが、神武天皇が熊野山中で道に迷った時、大和の橿原まで案内した八咫烏のことである。神武天皇は太陽神である天照大神の直系子孫であり、それを天から遣わされた八咫烏が案内した。間接的ではあるが、烏と太陽が結び付いている。
 中国の『楚辞』(中国戦国時代の楚地方で謡われた詩を集めた詩集。前漢末期に成立。)の天問篇には、太陽の中には三本足の烏が棲むと記されている。それ以後、中国の文献や図画には烏と太陽をモチーフにしたものがたくさん現れ、「金烏」(きんう)と言えば太陽を意味するようになる。そう言えば、確か、大津皇子が処刑される前の辞世にも、夕暮れの有様を「金烏西舎に臨らい・・・・」という印象的な詩があった。
 童謡「夕日」の作詞において、太陽に烏が棲むという中国的理解が背景にあったことはないであろう。伝統的な和歌に詠まれることもなく、文人必須の教養と言える程に共有されていたとは思えない。特に思想的影響を受けなくとも、夕暮れの烏は、誰もが普通に目にする景色であったから、作詞者は見慣れた情景を素直に歌っただけであろう。しかしそれだけに、世界中に烏と太陽の結び付いた神話伝承があることが、改めて納得できるのである。

 あてもなく思いつくままに書いているうちに、童謡とは無関係の取り留めもない内容になってしまった。済みません。歌う子供にとっては、どうでもよいことばかりである。しかし「どうして烏がお日様に向かって飛んでゆくのかなあ。きっとお日様にお家があるからかもしれないね」というような語りかけがあってもよいかとは思っている。

紅葉

2015-08-26 15:32:35 | 唱歌
 春と秋とどちらが美しいかという議論は古から続けられてきた。結局は個人の好みに拠るのであるが、額田王は、もみじを手に執って見ることのできる秋がよいと歌っている。私にとっては優劣付けがたく、結論は出せそうもない。ただもみじが秋の美しさを代表するものであることには、誰も異論はないであろう。
 そのもみじの美しさを歌った唱歌「紅葉」は、明治44年の『尋常小学唱歌』第二学年用に掲載された。旧仮名遣いでは「もみぢ」とルビがふられていて、私くらいの年齢だと、無意識にも「もみぢ」と書いてしまいそうになる。ただし現在では小学4年生の教材となり、「もみじ」と平仮名になっている。「紅葉」では「こうよう」と読んでしまうからであろう。

    1、秋の夕日に照る山紅葉  濃いも薄いも数ある中に
      松をいろどる楓や蔦は  山のふもとの裾模様

    2、渓の流に散り浮く紅葉  波にゆられて離れて寄って
      赤や黄色の色様々に   水の上にも織る錦

 1番は、夕日に照らされる山の紅葉が歌われている。もみじが美しい時間帯が特にあるわけではなかろうが、夕日に映えることによって、その彩りが増幅されるのであろう。しかし「夕日に照る山紅葉」と歌われるのは、このような色彩的な感覚によるだけでなく、伝統的な四神思想にもよっている。それによれば、秋は西からやって来るとされ、秋は夕暮れと自然に結びついていた。『枕草子』も「秋は夕暮れ」といい、秋の女神の象徴である竜田山は平城京の西に位置していた。「秋」と言えば西を、「西」と言えば夕暮れを連想したのである。
 もみじと言ってもいろいろな色があり、赤ばかりとは限らない。そもそも「紅葉」も「黄葉」も、「こうよう」とも「もみじ」とも読む。もっと言えば、「もみじ」とは葉が色付くことを意味する「もみづ」の名詞形であって、本来、もみじは赤色系とは限らないのである。それでも赤色が一際鮮やかな楓や蔦は、松の緑に引き立てられて、色鮮やかに見えるのであろう。そういえば、赤と緑は色相環では正反対に位置する補色の関係にあり、互いに色を引き立て合う相乗効果がある。
 歌詞では松を彩る楓や蔦が、山の麓の裾模様であるという。「裾模様」という言葉は、若い世代にはすぐにはイメージできない言葉になってしまっている。裾模様とは、着物の裾回りにだけ模様を置いたもので、上部は無地のままであるため、引き立てられてよく目立つ。結婚式でよく見かける、既婚女性の礼装の留袖の模様と言えば、見当はつくであろう。山全体を衣に見立て、山裾の彩りをその裾模様に喩えたものである。
 2番は、渓川に散って流れる紅葉が、錦の織物に見立てて歌われている。そもそも「錦」とは、様々な色の糸を用いて織り出された絹織物の総称であるが、源平合戦の頃、将官クラスの部将が鎧の下にまとった赤地錦の直垂、官軍のシンボルとして天皇が授けた錦旗などの印象からか、赤色系の絹織物の印象が強い。
 紅葉を錦に見立てた和歌は、古来枚挙に暇がない。
   ①竜田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦なかや絶えなむ    (古今集 秋 283)
   ②流れくる紅葉葉見れば唐錦滝の糸もて織れるなりけり   (拾遺集 秋 221) 
   ③嵐吹く御室の山の紅葉葉は竜田の川の錦なりけり     (後拾遺 秋 366)
しかし錦に見立てるのは良いとしても、そのうち「錦」のイメージも湧かなくなり、いや小学生には既に無理であろうが、意味がわからないからと、教科書から消えてしまうかもしれない。現在は個性的感性が重視され、紅葉を錦に見立てる短歌を投稿しても、全く相手にされないであろう。確かにそれはそれでよい。しかし伝統的・普遍的感性などどうでもよいということではないはずである。それはそれ、これはこれで、紅葉を錦に譬える感性も、子供達に伝えて行きたいものである。


長月の有明月

2015-08-23 20:27:44 | うたことば歳時記
 原則として満月は日没頃に東から上り、日の出頃に西に沈みます。月は平均すれば日毎に約50分づつ遅れて上って来ますから、十五夜の翌日の十六夜の月は、日没後しばらくしてから上って来ることになります。毎日約50分月の出が遅れることは、覚えておくと何かと役に立つことがあります。もちろんあくまでも平均値であって、実際には50分ではありませんが・・・・。

 そして月の出が遅れた分だけ、翌日の日の出の頃には、西の空低く残っているのが見えます。夜が明けてもなお空に有る月なので「有明月」と呼ばれるわけです。その翌日は西の空のもう少し高い位置に見え、日毎に細くなってゆきます。有明月が日の出の時刻に見える位置は、西の空から天中を経て、東に移動します。そして新月の前になると、日の出の時刻には東の空の低い位置に、白々とした細い月が微かに見えます。理屈を言えば、十六夜の月から新月の前までがみな有明の月なのでしょうが、「有明月」らしいのは、月齢にして二十日過ぎの月くらいでしょうか。

 有明月は、夜を共に過ごした恋人同士が別れる、後朝(きぬぎぬ)の別れの時刻に振り仰いで見る月であるため、古来、恋の文芸にしばしば登場しましたが、中でも「長月の有明月」は月名を冠して呼ばれ、既に万葉時代から注目されていました。

『万葉集』には「有明月」を詠んだ歌が3首あります。

①白露を玉になしたる九月(ながつき)の有明の月夜見れど飽かぬかも(万葉集 2229)
②九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも(万葉集 2300)
③今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし(万葉集 2671)

 ①は、長月(九月)の有明月の美しさを、白露が玉になったようだといいます。②は、2句までが「あり」を導く序詞になっていて、九月の有明の月夜のように、いつもあなたが来てくれるならば、私は恋焦がれたりすることはないのに、という意味です。③は、今夜の有明の月夜のように、夜通し起きて待つのは、あなたの他にはいない、という意味です。

 ①は自然の描写ですが、②③では「有明の月」は明け方近くまで男を待っていたことを暗示しています。①②では「九月の有明の月」が共通しており、②③では「有明月夜ありつつも」が共通しているばかりではなく、「九月の有明月」が「あり」を導く序詞として定型化していることが伺われます。意味としては、「ありつつも」は「このままずっと」ということだそうで、「九月の有明の月がそのままずっとあり続けるように」ということでよいかと思います。
 
 なぜ「九月の有明月」が「ありつつも」、つまり「そのままずっとある」と説明されるのでしょうか。古典文学には素人同然の私の手には負えません。ただ自然現象として考察することはできそうです。「長月の有明の月」は、太陽暦の10月、たまたま閏月があって長月が1月遅れたとしても、11月のことです。この頃の月の南中高度は70度から80度もあって大変高く、有明月の南中する時刻は明け方の3時4時頃ですから、「九月の有明月」は、見上げないと見ることができない、結構存在感のある月なのです。それに対して、月齢の若い月では明け方まで残ってはいませんし、あるいは見えたとしても西の空に低くしか見えません。そんなことから、「ありつつも」「このままずっと」と形容されるのかもしれません。

 ただ有明月の風情の感じ方にも個人差があり、清少納言は『枕草子』の中で、「月は有明の、東の山ぎはに細くて出づるほど、いとあはれなり」と述べています。これは余程に月齢の進んだ月ですから、日の出とともに間もなくほとんど見えなくなってしまう儚い月です。そこがま「いとあはれ」なのでしょうが、「長月の有明月」とは印象がかなり異なっているのではないでしょうか。
 
「九月の有明の月夜ありつつも」の常套句は、そのまま王朝時代にも伝えられました。

④長月の有明の月のありつつも君し来まさばわれ恋ひめやも (拾遺和歌集 795)柿本人麻呂

 ④は②と同じで、柿本人麻呂の歌として伝えられたものです。そしてこの歌は王朝人の歌の基本的教養として共有されたらしく、『枕草子』175段には、次のように述べられています。少々長くなるので、現代語訳を載せておきましょう。

 ある所に、何とかの君とか呼ばれていた女房がいました。そこに、君達というほど身分の高い家柄ではないのですが、その頃、大変な風流者と噂され、情趣を解する心がある人が、九月頃に出て行って、有明の月が霧に包まれるとても風情がある時だったのですが、女の心に名残を残そうと思って、言葉を尽くして帰ったのですが、もう帰ってしまっただろうと、ずっと見送っている姿は、何とも言えないほどに艶っぽいものでした。帰ると見せかけて立ち戻って、立蔀の間に、陰に身を寄せて立って、どうしてもこのまま帰れないという気持ちを、今一度言って知らせようと思ったところ、女が「有明の月のありつつも」と、小さな声で口ずさんで外を覗いているその髪が、頭の動きにも軽やかについてこず、額の髪が五寸ほど垂れていて、ともし火を近くにつけたようだったのですが、月の光も髪のつややかさに誘われて輝き、驚くような気持ちがしたので、そのまま出て帰ってきたと、その人が語ってくれました。

 長いセンテンスになって何ともわかりにくくなってしまってすみません。細かいことはともかく、逢瀬の後の名残を惜しむように、女が有明月を眺めながら、「有明月のありつつも」と口ずさんだというのです。

 現代は個性的感性が重視され、常套的表現を短歌に採り入れることは敢えて避けられ傾向にあります。そんな歌を詠めば、「手垢の付いた表現」と手厳しく批判されることでしょう。まあ現代はそれでも良いでしょうが、しかし古には、誰もが知っている歌ことばを知っていることによって、情感を共有することが重んじられたのです。

 一気呵成に書いてきて、自分でも支離滅裂になってしまったと思っています。特に今回はそうおもいます。古典文学の素人であるのに、ただ古風な和歌が好きで、歌ことばの勉強をしているだけです。そして思いついたことをこうして書くことによって、自分自身のものになればと思って書いています。専門家の目から見れば不十分なことが沢山あると思いますが、素人が何を言うかと、笑い飛ばして下さい。



証城寺の狸囃子

2015-08-21 20:09:12 | 唱歌
 我が家の庭に、時々数匹の狸が来る。飼っているわけではないのであるが、生ごみを狙って来るようだ。他に悪さをするわけでなし、残飯や魚の骨などがあると、きれいに平らげてくれるので、それくらいならまあいいかと、程々に距離をおいて付き合っている。何回か目の前で見たが、なかなか可愛い顔をしている。
 さて童謡『証城寺の狸囃子』は、日本人なら誰もが知っている愉快な歌である。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平という童謡の黄金コンビであれば、名曲にならないはずがない。歌詞をよく読んでみると、何かいわれのありそうな内容である。証城寺のモデルは、千葉県木更津市にある證誠寺という寺のことで、その寺
に伝わる狸伝説を、大正10年に木更津へ講演会に訪れた際に野口雨情が聞いたようだ。そしてそれに着想して作詞し、中山晋平の曲を得て、大正13年に童謡『証城寺の狸囃子』として発表されたということである。
 その狸伝説の内容は、インターネット情報を見る限り、大筋では共通しているが、細かいことになるとまちまちである。そもそも伝説というものはそんなもので、伝言ゲームのように尾鰭がついてゆくもの。どこまでが本来のものであるかはわからない。要は、寺の境内で多くの狸が腹鼓を打ったりして歌い踊る様子を見た住職が、狸たちと一緒になって踊ったというのである。どこまでが古来の伝承なのか、検証する材料を持ち合わせていないので、細かいことはそれぞれに検索していただくことにして深入りしない。自分で確認できないことは公表したくないからである。それより私が興味をもったのは、狸の腹鼓ということがいつ頃まで遡るのかということであった。
 私は今時流行らない古風な和歌を詠む趣味がある。そんなとき参考にするのが、『夫木抄』という鎌倉時代末期に編纂された類題和歌集である。これは『万葉集』以来の17350首にも及ぶ膨大な和歌を、主題によって整理したもので、ある題で歌を詠みたいという時に、その題で検索すると、参考になる古歌を一覧できる、一種の「虎の巻」である。その中に珍しく狸の歌がある。その巻27の13046番の歌に、寂蓮法師の面白い歌がある。王朝和歌には見慣れぬ題なので、記憶に残っていたのである。
    人住まぬ鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打つなり
無住となって荒れ果てた寺に狸が住み着いて、腹鼓を打っている、というのである。(インターネットでこの歌を検索すると、一様に出典は『夫木集』となっているが、最初に誰かが間違って載せたものを、原典に当たらずに孫引きするので、みな間違うことになる。正しくは『夫木和歌抄』である。)実際にそのようなことがあるはずがないから、夜、どこからともなく聞こえてくる不思議な音を、狸の腹鼓とする理解が、鎌倉末期には共有されていたことを示していて興味深い。私の想像では、秋の夜に遠くから聞こえる物を敲くような音と言えば、砧を使う音ではないかと思っている。秋の月を見ながら、また夫を思いながら砧を打っている音が聞こえるという歌が、非常に多く伝えられているからである。もちろんそれ以上の根拠はなく、あくまでも私の想像である。まあとにかく、古寺で狸が腹鼓を打つと言う理解が、鎌倉期まで遡ることを確認しておこう。
 室町時代になる、面白いことに『腹鼓』という猿楽の演目がある。寛正4年(1464)というから応仁の乱が始まる3年前のこと、糺河原勧進猿楽で演じられたという記録が残っている。話の筋はそれを伝えた大蔵流・和泉流などの流派によって少し異なるが、粗筋は次の如くである。子を宿した雌の狸が帰ってこない雄の狸を案じていると、おそらくは雄狸を仕留めたであろう猟師と出会う。そこで雌狸は尼に変身して殺生の罪深いことを諭すと、猟師は悔い改めて弓矢を棄ててしまう。しかし猟犬が吠えて狸であることが露見し、腹鼓を打てば許してやるということになり、狸の姿に戻って腹鼓を打った、という話である。室町期に既に狸は化けるという理解があったことも面白いが、腹鼓がさらに広く共有されていたことがわかる。これが江戸時代になると、俳諧や川柳に狸の腹鼓が沢山登場し、そのような過程で、證誠寺の狸伝説が形作られていったのであろう。
 ついでのことに脱線するが、腹の膨れた狸といえば、信楽焼の狸の焼き物が有名である。これが登場するのは昭和10年であるから、狸伝説との直接の関係はなさそうである。昭和天皇が戦後各地を巡幸なさった際、信楽で日の丸の小旗を持ったこの狸の焼き物がずらりと並び、陛下を歓迎したことがある。それが余程楽しかったらしく、
    をさなきとき あつめしからに なつかしも しからきやきの たぬきをみれば
という御製を詠まれている。幼少時に狸の置物をお集めになられたというだけでも面白いが、この話が全国に伝えられ、信楽焼の狸が有名になったのであった。
 閑話休題。野口雨情の原詩は、曲を付けて発表された時の詩とかなり違っている。そこにはいろいろ経緯があったようであるが、その辺りのことについては、池田小百合氏の実に詳細な考証がある。「なっとく童謡唱歌」と検索すると見られるので、敬意を表しつつ御紹介する。



うさぎ

2015-08-20 17:01:24 | 唱歌
確かめたわけではないが、唱歌『うさぎ』は、文部省唱歌の中でも、最も歌詞が短い歌かもしれない。 明治25年(1892年)に 『小学唱歌 第二巻』に掲載されたが、作詞も作曲もわからない、いわゆる「わらべ歌」の類である。今から考えれば、お堅い文部省が唱歌としてよくぞ採り上げたものである。

  うさぎ うさぎ なに見てはねる
  十五夜お月さま 見てはねる

 自分の幼い頃を思い出すと、誰から教えられたかは思い出せないが、大人達はみな月にはうさぎがいると教えてくれていた。大人も、いつかはうそであることがわかる日が来ることはわかっていても、そのように語りかけてくれたのである。本気で信じていたかどうかは思い出せないが、実際にうさぎを飼っていたこともあり、真剣に十五夜の満月を眺めたものであった。同じような経験を、多くの日本人がしていることであろう。サンタクロースの話のように。騙されたからといって怒る人はいやしない。幼年期は、まずは豊かな感性が育てられる時期であるから、それで良いのである。
 月にうさぎがいるという理解は、かなり古い時代まで遡ることができる。私がいちいち述べるまでもなく、飛鳥時代の天寿国繡帳に刺繡で描かれていることはよく知られている。その左上の隅に満月の中のうさぎが縫い取られているが、長頸壷と桂の木も一緒に描かれている。
 天寿国繡帳とは、聖徳太子の没後、その妃の一人であった橘大郎女が、祖母にあたる推古天皇に、天寿国に往生した聖徳太子の姿を、せめて図像によって偲びたいと訴えたことにより、推古天皇が采女らに命じて作らせた刺繡の帳である。絵を描いた東漢末賢、高麗加西溢、漢奴加己利の3人の者は、その名前からして明らかに渡来系の人物である。つまり、月にうさぎがいるという理解は、古代中国伝来のものであった。
 月のうさぎについて述べた最古の文献は、中国の戦国時代後期、南方にあった楚の国の歌謡を集めた『楚辞』の「天問」篇である。「天問」は天地構造や歴史に関する疑問を列挙した内容で、その中に次のように触れられている。
  
  夜光何 死則又育    夜光何のぞ 死すれば則ち又育す
  厥利維何 而顧菟在腹   厥(そ)の利維れ何ぞ  而して顧菟(こと)腹に在り

  夜光(月)にはいったい何の徳があるのだろうか、月は欠けてもまた満ちてくる。
  何の利があって、月は腹にうさぎを住まわせているのだろうか。

早くも紀元前3世紀には、月にうさぎがいるという理解があったことになる。面白いところでは、時代は下るが、11世紀の宋代の宋代の『後山叢談』という書物には、地上の兎はすべて雌で、月の兎は逆に雄ばかりだから、地上の雌兎は月光をあびて妊娠するという俗説が収録されているそうである。本来ならば直接確認すべき所であるが、希少本のため、そう簡単には見られず、筆者は未確認である。
 視覚的資料として最古の物は、中国湖南省で発見された紀元前2世紀の馬王堆漢墓出土の帛画である。ここには烏のいる太陽と、うさぎと蟾蜍(せんじょ・ひきがえる)のいる三日月が、対になって描かれている。また唐代には月桂樹の左右にうさぎと蟾蜍を描いた月宮鏡がたくさん作られている。よくよく観察すると、うさぎは竪杵と臼で何やら搗いている。結論から言えば、うさぎは不老長寿の仙薬を作っているのであるが、天寿国繡帳の長頸壷は、臼と竪杵かもしれない。東京芸術大学の美術館にも一つ展示されているので、機会があれば是非とも見学をお勧めしたい。
 まだまだ丹念に探せば資料はあるだろうが、まずはこれくらいにして、渡来人や遣唐使などを通して、月には桂の木(月桂樹)が生えていて、うさぎとひきがえるが住んでいるという理解が伝えられていたことを確認しておこう。
 日本の文献で月のうさぎについて述べているのは、平安末期の説話集である『今昔物語集』である。ただ日本の文献とは言ったものの、和漢・インドなどの説話を集大成したものであるから、もともと日本の説話ではない。そのもとになったのは、インドの仏教説話である。子供向けの絵本ともなり、話の内容はよく知られている。
 むかしむかし、猿と狐と兔が仲良く暮らしていた。ある日3匹は行き倒れの老人に出会い、助けようとした。猿は木の実や果物を集め、狐は川から魚を獲り、老人の所へ運んできた。しかし兔は何も採ってくることができなかった。思い余った兔は、猿と狐に火を焚いてもらうと、「せめて私の肉を食べて下さい」と言い残し、火の中へ飛び込んだ。老人は実は帝釈天であった。兔の捨て身の慈悲行に感心した帝釈天は、兔を抱いて天に還り、月へ昇らせて永遠にその姿をとどめさせた。だから月には今も兔の姿が見える、という粗筋
である。
 中学生の時、私はこの話を『今昔物語集』で読んで、切なくなったことを覚えている。それまでは無邪気に月にはうさぎがいると伝えられていると思っていたが、兔の自己犠牲を思うと、たまらない気持ちになった。宗教というものに関心を持ち始めていた頃で、そこまでしないと人は救われないのだろうかと、大人びたことを考えたものである。
 その時の心の悩みは、未だに残っているのであろう。童謡『うさぎ』を口ずさむと、それがふたたび思い出されるのである。前掲の『後山叢談』の俗説ならば笑い話で済むが、近世の邦楽に多く用いられ、ミ・ファ・ラ・シ・ドの五つの音からなる「陰音階」(都節音階)の曲であることも手伝って、私は「もののあわれ」を禁じ得なくなるのである。童謡なのだから、それは考え過ぎであることはわかっている。理屈では納得している。しかし、・・・・しかしなのである。
 子供の世界では、月のうさぎは餅を搗いている。それは満月の「望月」が「餅搗き」に通ずるため、仙薬から餅に転化したためである。薬研というものが日常的に見られなくなってしまった現在、漢方薬の原材料を粉にすると言っても、大人でも若い人にはイメージすら湧かないであろう。まして子供にわかるはずがない。やはり童謡なのだから、私の考え過ぎなのであろう。