うたことば歳時記

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江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』 日本史授業に役立つ小話・小技 57

2024-09-23 07:57:19 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

57、江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』
 前回に引き続き、江戸時代のベストセラー本を考えてみました。まだ前回の「江戸時代のベストセラー本(1)『庭訓往来』」ご覧になっていない方は、まずはそれをご覧下さい。すでにお話したように、統計的データがあるわけでなく、あくまでも私の印象に過ぎません。もともと信頼のできる統計があるわけではありませんから、江戸時代のベストセラー本を認定することなどできるわけがありません。

 本が極めて高価な時代ですから、古本屋で借りて読む文芸書よりも、常時身近に置かれる実用書の方が出版部数が多かったと考え、前回は初等教育書である『庭訓往来』を選びました。今回は実用書から選びました。そこで思い付いたのは、農作物栽培全集とも言うべき『農業全書』です。内容は「農事総論」(耕作・種・土・除草・肥料・水利・土・収穫など)から始まり、五穀、野菜、四木(桑・楮・漆・茶)と三草(藍・紅花・麻)などの商品作物、果樹、樹木、鶏・家鴨・鯉などの動物、薬草など、約百五十種類に及ぶ有用動植物に及び、その栽培・飼育方法について詳述しています。そういうわけですから本書の需要は大きかったのですが、全11冊ですから、農民が各戸ににそなえることはいくら何でもできなかったでしょう。しかし村役人級ならば、その立場上、無理してでも買い揃えておきたいと思ったはずです。初版は元禄十年(1697)ですが、天明・文化・文政年間に木版で再版されていることは、私の推測を補強してくれます。木版で再版されるというのは、余程数多く摺ったために、版木が摩耗したためと考えられます。また明治時代になってもなお復刻され続けていますから、実用書としての価値を維持し続けたということでもあり、思想書や文芸書が後に再版されることはわけが違います。
 原稿が完成したのが元禄八年、序文は元禄九年、出版は元禄十年で、宮崎安貞はその年の七月には七五歳で亡くなっています。内心では出版まで生きていられるかと、はらはらしながら書いたこととでしょう。一人の土着の農学者が、四十年という半生の農耕の経験をかけた、畢生の大作の重みを感じ取りたいものです。
 高校日本史の先生で、『農業全書』を知らない人は、いるはずがありません。しかし全てとまでは言いませんが、かなりの部分を読んだことのある人は、専門にしている人は別にして、全国に数える程しかいないことでしょう。現在、『農業全書』が必読の歴史的名著に数えられることはまずありません。しかし二百年間も実用書としての価値を維持し、民生に寄与したという視点からは、私は江戸時代屈指の歴史的名著として推薦します。日本史を教えている先生にお勧めします。全巻とは言いません。凡例と四木・三草の巻だけでよいですから、岩波文庫で読んでみて下さい。農民の生活に寄与したいという宮崎安貞の烈々たる心に接したならば、少なくとも江戸時代の農業についての授業が変わります。私事ですが、私は古文書解読を独学しましたが、最初のテキストとしてこの『農業全書』を用いました。それは全ての漢字に読み仮名が振られているからです。地方(じかた)文書を読むには『農業全書』のレベルではまだまだ不十分ですが、古い言い回しや変体仮名に馴れるには、とてもよいテキストですのでお勧めします。実物を入手できなくても、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。

鎌倉幕府はいつできた? 日本史授業に役立つ小話・小技40

2024-05-10 21:02:06 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

40、鎌倉幕府はいつできた?
 かつては鎌倉幕府成立の年代は1192年とされていましたが、最近は1185年であるという解説がネット上に溢れています。しかし私は賛同できません。この問題の鍵は、「幕府」とは何かということにあります。それが決まらなければ、幕府の成立時期を論ずることはできません。鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と言う時、その「幕府」は、一般には武家政権という意味に理解できます。しかし単なる武家政権ならば、安土幕府や大坂幕府があってもよさそうですのに、そうは言いません。それなら「○○幕府」と呼ばれているものに共通することは何かと言えば、首長が将軍という職に就いていたことなのです。事実、江戸幕府の成立については、征夷大将軍の任官の1603年として、教科書に記されているではありませんか。実際には1600年の関ヶ原の戦いで勝負は着いていましたから、「1600年に幕府確立」でよいと思います。
 そもそも「幕府」とは中国の言葉で、地方官が執務する天幕とか、戦場において陣幕に囲まれた最高指揮者の居所を意味していました。頼朝が将軍と呼ぶに相応しい役職に就いたのは建久元年(1190)のこと。頼朝が上洛した際、後白河法皇の強い勧めにより右近衛大将に任じられました。当時は「近衛大将」は「将軍」とも呼ばれることがありましたから、この時、頼朝の居所は「幕府」になったのです。もっともその十日後の離洛に際して辞職してしまうのですが、右近衛大将は在京していなければなりませんから、やむを得なかったのでしょう。しかし箔がついたことは大いに意味がありました。「前右近衛大将」という肩書きを頼朝が気に入ったかどうかはわかりませんが、征夷大将軍となった後も、頼朝は「右大将家」と呼ばれています。もっとも頼朝を後々「右大将」と呼んだのは、頼朝が好んで自称したのではなく、頼家をその官職によって左衛門督(さえもんのかみ)、実朝を右大臣と呼んで識別するための呼称に過ぎないと考えることもできます。
 それはともかくとして、頼朝が右近衛大将となって以後、頼朝の政庁は「幕府」と呼ばれることがありました。その例は、『吾妻鑑』の中にたくさん見ることができます。例えば、建久二年(1191)三月には、「鎌倉に大火災出で来る。若宮、幕府殆んど其の難を免る不可と云々。」などと記されているのです。この場合の幕府は、明らかに頼朝の館やその政庁を指しています。将軍様がいらっしゃるのですから、そこが幕府なのです。
 建久3年(1192年)、頼朝は九条兼実に働きかけて、後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられています。以前は頼朝が征夷大将軍に任官したいと願っていたにもかかわらず、後白河法皇が認めなかったとされていました。しかし近年確認された平安末期の藤原忠親という貴族の日記(山槐記)の抜き書き(三槐荒涼抜書要)の記述から、そうではなかったことがわかってきました。それによれば、頼朝は武家の棟梁に相応しい官職として、「大将軍」を望んだところ、かつて坂上田村麻呂に授けた征夷大将軍が縁起がよいのでよかろうと授けたということです。(建久三年七月九・十二日に記述されている)。当時の格式からすれば、征夷大将軍は田村麻呂の前例があるとはいえ、臨時の令外官でしたから、従三位以上の高位の者が任官する右近衛大将の方が格上なのですが、頼朝がなぜ征夷大将軍で満足したのかは、私には説明ができません。思うに、鎌倉に拠点を置く頼朝にしてみれば、本来は在京する右近衛大将より、地方に派遣されて裁量権の大きい征夷大将軍の方が、何かとやりやすいと考えたのかも知れません。まあそれはともかくとして、その後、征夷大将軍職は頼家・実朝に継承され、次第に武家政権の棟梁に相応しい官職となっていったのでした。
 現在では「幕府」とは、武家政権を意味するものと理解されています。それなら鎌倉武家政権が成立したのをいつのことと理解すればよいのでしょうか。幕府の初期の主要機関としては、侍所・公文所(後に政所)・問注所・守護・地頭などがありますが、侍所は1180年、公文所と問注所は1184年、守護・地頭は1185年に置かれました。そして1185年には平氏が滅亡しています。1185年説が有力なのは、この年までに鎌倉政権の主要な機関が成立していて、しかも平氏が滅亡した年であるという事によっています。
 長くなりましたので、そろそろ結論を出さないといけません。まず「幕府」を狭義に「将軍の居所」と理解するならば、頼朝が将軍や大将になっていないといけませんから、幕府が成立したのは、頼朝が右近衛大将に任官した1190年か、征夷大将軍に任官した1192年とすることができます。まあ名目上の幕府成立と理解してもよいと思います。また「幕府」を広義に武家政権と理解するならば、平家を滅ぼし、西日本はともかく、東国に守護・地頭を置くことを承認させた1185年を以て、事実上幕府が成立をしたと理解することができます。もちろん1180年でも、武家政権の理解の仕方によっては有り得ることです。実質的な幕府の成立と理解できるでしょう。要するに1192年説が誤っていたので訂正されたというのではなく、幕府というものをどのように理解するかにより、成立時期が異なってくるというわけです。
 一般には「頼朝が鎌倉に幕府を開いた」と表現されることが多いのですが、考えてみればおかしな言葉遣いと思いませんか。まるで開店準備が整ったので、ある日、新しい店舗を開店したみたいではありませんか。武家政権としての機構は次第に整ってきたのであって、初めに構想があったわけではないでしょう。以上の様なわけで、私は「幕府」の狭義と広義の意味を解説した上で、鎌倉幕府の成立年については、名目的には1190年か1192年、実質的には1185年、或いは1180・1184年であり、1192年が誤っているわけではないと指導しています。こういう話をすると、生徒は不安に思うのか、入試に出題されたらどの様に答えればよいのかと質問されます。しかし全く心配無用です。幕府成立の年を直接答えさせる問題は絶対に出題されません。なぜなら解釈により学説が分かれていることを出題すれば、必ずクレームを付けられるからです。ただし1185・1192年に何があったかは理解しておかなければなりません。
 ネット上では、以前は鎌倉幕府の成立は1192年であったが、それは誤りであり。1185年が正しいと説明されることが多いのですが、そもそもその説明自体が正しくありません。それでもその様に指導している授業者はかなりいそうです。
 なお『三槐荒涼抜書要』は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。読みやすいのでぜひ御覧下さい


三十三観音  日本史授業に役立つ小話・小技38

2024-05-01 15:25:59 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

38、三十三観音
 仏には、一般に如来と菩薩の区別があります。如来は既に悟りに至った仏のことで、過去世を掌る薬師如来、現世に実在した釈迦如来、未来世を掌る阿弥陀如来、宇宙の根本である大日如来がよく知られています。像に表される場合は、大日如来以外は装身具を着けていません。一方菩薩は、悟りには未だ到達せず修行中の身です。修行者が守り行うべき戒を「菩薩戒」というのも、これに拠っています。そして自ら修行に励むと同時に、衆生をも悟りに至らせようという願を立てているので、ある意味では如来より身近に感じられる仏です。ですから人々の救済のために自らの身をすり減らすような行いを、「菩薩行」と言います。菩薩の種類は大変多いのですが、地蔵菩薩・弥勒菩薩・勢至菩薩・観音菩薩などがよく知られています。その観音菩薩もこれまた種類が多く、聖観音・千手観音・十一面観音・馬頭観音・如意輪観音などがよく知られています。
 観音菩薩について記された『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)には、観音菩薩が娑婆の世界で救済のためにどの様に説法するのか、その方便を釈迦が説く場面があります。原文は難解なので省略しますが、そこには説法をする相手に応じて、如何なる形にも変身し、それが三十三にも及ぶことが説かれているのです。つまり観音菩薩は救済しようという対象に合わせて、どの様な形にも変化して下さるという、衆生にとって実に有り難く身近な仏なのです。また阿弥陀如来が念仏行者を往生させるために迎えに来る来迎の場面で、観音菩薩は念仏者を乗せるための蓮台を捧げ持つ姿で表されますから、ある意味では阿弥陀如来よりも最も身近な仏と感じさせる仏ということができるでしょう。そういうわけで古くから観音信仰盛んであり、「三十三」という数字が、観音信仰にはついて回ることになります。
 最もよく知られているのは三十三間堂でしょう。正式には蓮華王院本堂というのですが、通称の方が知られています。もともとは後白河上皇が平清盛に命じて長寛二年(1165)に建立させた物でしたが、建長元年(1249)に焼失してしまいました。そして文永二年(1266)に現在の本堂が再建されています。ですから授業では鎌倉時代の和様建築の例として学習します。三十三間堂という呼称は、柱間が33あることに因っていますが、それは内陣の柱間ですから、外観上は35の柱間があります。内陣には本尊の千手観音像を中心に、左右に合計千体の千手観音像が隙間もなくずらりと並んでいて、その数に圧倒されます。数が多いということは、院政期に建てられた仏教建築や仏像・仏塔に共通することで、数が多いと功徳が多いという理解があったことによると説明できます。
 その他には西国観音霊場と坂東観音霊場が共に33カ所であることが挙げられます。これは観音菩薩をまつる寺のネットワークともいうべきもので、その成立時期には諸説があります。ただ庶民の巡礼が行われるようになるのは、室町時代と見てよいと思います。江戸時代には江戸から近い秩父に34カ所の観音霊場を加えて、切りのよい百観音の霊場巡りが行われるようになったため、秩父だけは一つ多くなっています。庶民の観音霊場の巡礼については江戸時代で学習しますが、鎌倉時代の文化で三十三間堂を学習する際に、なぜ三十三なのかを説明しておけば、その後の学習にすぐつながることでしょう。
 一般的に日本の公立学校では、宗教教育を意図して避けていますが、布教のためでないならば、もっと積極的に採り入れるべきであると思います。社会では仏教に起原をもつ習慣は大変多く、その意味を知っていたので役に立ったという場面はたくさんあるからです。こういう私自身はキリスト教徒ですが、それでもお寺や神社は大好きで、前を通り過ぎる時は、敬虔な気持ちで敬礼しています。 

埼玉県の別学高校を共学化にする問題点

2024-04-18 10:09:57 | その他
 今日(令和6年4月18日)のニュースですが、埼玉県立高校の男子校と女子校を共学化すべきという勧告が去年、出されたことをめぐって、県教育委員会は17日、中高生などを対象としたアンケートをウェブ上で始めまたそうです。勧告は、県の男女共同参画苦情処理委員が、「女子であることを理由に県立の男子校に入学できないのは、女子差別撤廃条約に反する」という苦情を受けたことをきっかけに、去年8月に行われました。
この問題について、少々思うところがありますので、書いてみました。私は四十余年間、埼玉県の高校で教職に就いています。私自身は男子校の卒業です。そして何年間も女子校に勤務したことがありますし、昨年度も女子校にいました。ですから内部事情は体験的にわかっています。結論から言えば、共学化には絶対に賛成できません。共学化はかえって生徒の活動を困難にすることがわかっているからです。
 それは次の様な理由からです。高校には様々な部活動があり、授業と並んで高校生活に大きな役割を果たしています。問題が生じるのは運動部です。私のいた女子校には、バレーボール・バスケットボール・ハンドボール・硬式テニス・軟式テニス・バドミントン・剣道・チアリーディング・陸上・登山・弓道・ダンスサッカー・卓球・ラクロス・水泳など、たんさんありました。もし共学になったら、どういう問題が生じるかわかりますか。ただでさえ狭い体育館やグラウンドやコートの奪い合いが始まります。男子が入学し、野球部・サッカー部ができたら、この二つだけで運動場は占領されてしまいます。テニスコートは数面かありますが、使用できるのは半分になります。体育館でバレー・バスケ・バドミントンの3部が曜日と時間を工夫しながらやっと活動しているのに、そこに男子が割り込んできたら、もう活動できません。登山は影響ないでしょうが、他の部はこれ迄のような活動を維持できなくなります。かといって学校は市街地にありますから。第2グラウンドや体育館を増設することは不可能です。
 またもう一つ問題があります。性別による生徒数は半減します。つまり母体が半分になりますから、男女別の部活動なら部員数も減少します。また部の数が増えますから、予算の取り合いになり、予算は激減します。運動部の男女別の部が増えるので、予算については文化部の予算にも影響するのです。
 そしてもう一つの問題は顧問の負担が増えるということです。運動部の数が増えても、体育の先生の数が増えるわけではありません。すると全くの素人が顧問となることが多くなったり、一人で顧問を兼任しなければならなくなります。私などは特定のスポーツが得意で有るわけではなく、元気そうだからという理由なのでしょう。誰も顧問のなり手がいない運動部をたらい回しに担当させられました。女子バレーから始まって、自転車・男子ハンドボール・サッカー・ラグビー・柔道・女子バドミントン・女子水泳・応援団などを体験しました。文化部では文芸・歴史・華道などを体験しました。
 いかがですか。女子高校では男子がいないので、場所にも時間にも余裕があり、生徒はのびのびと活動できているのです。女子高校に入学するのを強制されるというなら問題ですが、自分の意志で選択しているのです。多様性が尊重される今日、別学という選択肢が共学と併存していてもよいではありませんか。これは決して差別ではありません。喜んで自分の意志で選択しているのです。初めから共学の学校として広い敷地と二つの体育館があるならまだしも、別学の学校をそのまま共学にするなど、物理的に不可能なのです。そもそも校舎の各階に男女別のトイレをつくる余裕はありません。
 選択的夫婦別姓についてアンケート調査をすると、もう賛成意見が優に過半数となっています。夫婦同姓を強制されることには反対なのですが、共学にすることに賛成する人は、選択的別姓に賛成している人が多いのではないでしょうか。別学は選択できます。しかし共学は強制です。ここに主張の矛盾を感じています。共学に進学したければそうすればよい。別学にしんがくしたければ、それもできる。夫婦別姓がよければ選択できる。同姓がよければ同姓にすればよい。それでよいではありませんか。別姓を主張しながら別学は男女差別であるというのは、矛盾していませんか。

祈年祭(古墳時代の農耕儀礼) 日本史授業に役立つ小話・小技 3

2023-12-16 09:35:20 | その他
     日本史授業に役立つ小話・小技 3

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。いずれ数も増えるでしょう。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまうことは何とも申し訳ありません。

3、祈年祭(古墳時代の農耕儀礼) 
 古墳時代の文化の学習では、必ず農耕儀礼について学習します。豊作を祈念する春の祭祀は、「祈年祭」と表記され、「きねんさい」と読むのですが、訓読みでは「としごいのまつり」と読みます。ただし古墳時代に「祈年祭」という呼称があったと確認できるわけではありません。奈良時代初期の養老令には「祈年祭」という表記がありますから、おそらくそれ以前の大宝令にもあったことでしょう。ですから「祈年祭」という呼称は、少なくとも7世紀には存在したのだと思います。
 ところがこの「祈年祭」という漢字表記からは、それが豊作祈願祭であることに結び付かないのです。授業では「その様に言われているのだから、その様に覚えておけ」と言わんばかりに、丸暗記させることになり、その理由まで踏み込んで指導することはまずなさそうです。私は大学時代に、保田孝三という篆刻を専門とする書家の鞄持ちのように仕えた時期があり、今でも主な漢字の篆書なら読み書きすることができます。そこで学んだことなのですが、「年」の篆書は、人が頭上に稲の穂を乗せている象形文字なのです。現在の楷書と似ても似つかないのですが、漢代の隷書になると、現代の「年」の字形に近くなります。ですから「年」の第一義は稲などの穀物のみのりのことなのです。そこから秋の稔りから次の稔りまでの期間が「ひとみのり」、つまり一年となり、yearの意味が派生することになるわけです。人名に用いられる場合は、「年」1字で「みのる」と読む場合があります。また「年災」とは凶作のことを意味するのも、みな年の第一義に拠っているわけです。因みに24時間で太陽が一回りしますから一太陽、つまり一日、30日で月の満ちかけが一巡しますから、一朔望月(月の形が同じになるのでの期間)を一月(ひとつき)と言うわけです。まずは確かな大漢和辞典で確認してみて下さい。そういうわけで、高校の授業で学習した「祈年祭」が稔りをこい願う豊作祈願祭であることを、大学時代に篆書を学習して初めて理解できました。当時は篆書の学習が祈年祭の意味の理解につながったことに感動したものです。こうやって自分で体験的に納得して覚えたことは、決して忘れないものです。
 古墳時代にはもちろん、この祈年祭に相当する豊作祈願の祭祀が行われていたでしょうが、具体的なことはほとんどわかりません。10世紀初頭に編纂された『延喜式』という律令制度を細かく定めた書物には、国家の祭祀を司る神祇官や全国の国司が祀る祈年祭の神々が、総計3132座あったことが記されていて、祈年祭が国家的な最重要の祭祀であったことがうかがわれます。古墳時代ではそこまで大掛かりではなくとも、数ある神祇の祭祀の中でも、重視されていたことは十分に推察されます。ただ平安時代初期には祭儀が形骸化し、しだいに宮中や一部の神社で行われるのみで、廃れていきました。本格的に復興されたのは明治時代になってからのことです。祈年祭はこのように国家的な祭祀でありましたが、豊作を予め祈る予祝の神事として、庶民の日常生活の中で、地方色豊かに行われていたものでしょう。「祈年祭」という呼称が使われたかどうかは、それ程重要な問題ではありません。
 国家的祭祀としての祈年祭の記録としては、『日本書紀』の天武天皇4年1月23日に、全国の諸社に幣帛を奉ったことがそれに当たると考えられています。しかし天武朝以前から、その原形となった豊作祈願の祭祀が行われていたことでしょう。1月と言ってももちろん旧暦のことですから、現在ならば2月のことです。明治6年の改暦前は旧暦の2月4日に行われるのが一般的でした。現在では2月17日に行っている神社が多いようです。
 とにかく授業で祈年祭について学習する際、みのり(年・稔)を祈る豊作祈願祭であることを説明してほしいものです。そうすれば単なる暗記の強要ではなくなることでしょう。