埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
57、江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』
前回に引き続き、江戸時代のベストセラー本を考えてみました。まだ前回の「江戸時代のベストセラー本(1)『庭訓往来』」ご覧になっていない方は、まずはそれをご覧下さい。すでにお話したように、統計的データがあるわけでなく、あくまでも私の印象に過ぎません。もともと信頼のできる統計があるわけではありませんから、江戸時代のベストセラー本を認定することなどできるわけがありません。
本が極めて高価な時代ですから、古本屋で借りて読む文芸書よりも、常時身近に置かれる実用書の方が出版部数が多かったと考え、前回は初等教育書である『庭訓往来』を選びました。今回は実用書から選びました。そこで思い付いたのは、農作物栽培全集とも言うべき『農業全書』です。内容は「農事総論」(耕作・種・土・除草・肥料・水利・土・収穫など)から始まり、五穀、野菜、四木(桑・楮・漆・茶)と三草(藍・紅花・麻)などの商品作物、果樹、樹木、鶏・家鴨・鯉などの動物、薬草など、約百五十種類に及ぶ有用動植物に及び、その栽培・飼育方法について詳述しています。そういうわけですから本書の需要は大きかったのですが、全11冊ですから、農民が各戸ににそなえることはいくら何でもできなかったでしょう。しかし村役人級ならば、その立場上、無理してでも買い揃えておきたいと思ったはずです。初版は元禄十年(1697)ですが、天明・文化・文政年間に木版で再版されていることは、私の推測を補強してくれます。木版で再版されるというのは、余程数多く摺ったために、版木が摩耗したためと考えられます。また明治時代になってもなお復刻され続けていますから、実用書としての価値を維持し続けたということでもあり、思想書や文芸書が後に再版されることはわけが違います。
原稿が完成したのが元禄八年、序文は元禄九年、出版は元禄十年で、宮崎安貞はその年の七月には七五歳で亡くなっています。内心では出版まで生きていられるかと、はらはらしながら書いたこととでしょう。一人の土着の農学者が、四十年という半生の農耕の経験をかけた、畢生の大作の重みを感じ取りたいものです。
高校日本史の先生で、『農業全書』を知らない人は、いるはずがありません。しかし全てとまでは言いませんが、かなりの部分を読んだことのある人は、専門にしている人は別にして、全国に数える程しかいないことでしょう。現在、『農業全書』が必読の歴史的名著に数えられることはまずありません。しかし二百年間も実用書としての価値を維持し、民生に寄与したという視点からは、私は江戸時代屈指の歴史的名著として推薦します。日本史を教えている先生にお勧めします。全巻とは言いません。凡例と四木・三草の巻だけでよいですから、岩波文庫で読んでみて下さい。農民の生活に寄与したいという宮崎安貞の烈々たる心に接したならば、少なくとも江戸時代の農業についての授業が変わります。私事ですが、私は古文書解読を独学しましたが、最初のテキストとしてこの『農業全書』を用いました。それは全ての漢字に読み仮名が振られているからです。地方(じかた)文書を読むには『農業全書』のレベルではまだまだ不十分ですが、古い言い回しや変体仮名に馴れるには、とてもよいテキストですのでお勧めします。実物を入手できなくても、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。
57、江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』
前回に引き続き、江戸時代のベストセラー本を考えてみました。まだ前回の「江戸時代のベストセラー本(1)『庭訓往来』」ご覧になっていない方は、まずはそれをご覧下さい。すでにお話したように、統計的データがあるわけでなく、あくまでも私の印象に過ぎません。もともと信頼のできる統計があるわけではありませんから、江戸時代のベストセラー本を認定することなどできるわけがありません。
本が極めて高価な時代ですから、古本屋で借りて読む文芸書よりも、常時身近に置かれる実用書の方が出版部数が多かったと考え、前回は初等教育書である『庭訓往来』を選びました。今回は実用書から選びました。そこで思い付いたのは、農作物栽培全集とも言うべき『農業全書』です。内容は「農事総論」(耕作・種・土・除草・肥料・水利・土・収穫など)から始まり、五穀、野菜、四木(桑・楮・漆・茶)と三草(藍・紅花・麻)などの商品作物、果樹、樹木、鶏・家鴨・鯉などの動物、薬草など、約百五十種類に及ぶ有用動植物に及び、その栽培・飼育方法について詳述しています。そういうわけですから本書の需要は大きかったのですが、全11冊ですから、農民が各戸ににそなえることはいくら何でもできなかったでしょう。しかし村役人級ならば、その立場上、無理してでも買い揃えておきたいと思ったはずです。初版は元禄十年(1697)ですが、天明・文化・文政年間に木版で再版されていることは、私の推測を補強してくれます。木版で再版されるというのは、余程数多く摺ったために、版木が摩耗したためと考えられます。また明治時代になってもなお復刻され続けていますから、実用書としての価値を維持し続けたということでもあり、思想書や文芸書が後に再版されることはわけが違います。
原稿が完成したのが元禄八年、序文は元禄九年、出版は元禄十年で、宮崎安貞はその年の七月には七五歳で亡くなっています。内心では出版まで生きていられるかと、はらはらしながら書いたこととでしょう。一人の土着の農学者が、四十年という半生の農耕の経験をかけた、畢生の大作の重みを感じ取りたいものです。
高校日本史の先生で、『農業全書』を知らない人は、いるはずがありません。しかし全てとまでは言いませんが、かなりの部分を読んだことのある人は、専門にしている人は別にして、全国に数える程しかいないことでしょう。現在、『農業全書』が必読の歴史的名著に数えられることはまずありません。しかし二百年間も実用書としての価値を維持し、民生に寄与したという視点からは、私は江戸時代屈指の歴史的名著として推薦します。日本史を教えている先生にお勧めします。全巻とは言いません。凡例と四木・三草の巻だけでよいですから、岩波文庫で読んでみて下さい。農民の生活に寄与したいという宮崎安貞の烈々たる心に接したならば、少なくとも江戸時代の農業についての授業が変わります。私事ですが、私は古文書解読を独学しましたが、最初のテキストとしてこの『農業全書』を用いました。それは全ての漢字に読み仮名が振られているからです。地方(じかた)文書を読むには『農業全書』のレベルではまだまだ不十分ですが、古い言い回しや変体仮名に馴れるには、とてもよいテキストですのでお勧めします。実物を入手できなくても、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。