うたことば歳時記

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御伽草子(一寸法師) 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-12-28 12:49:00 | 私の授業
御伽草子


原文
 中頃のことなるに、津の国難波(なにわ)の里に、爺(おうじ)と姥(うば)と侍(はんべ)り。姥四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉(すみよし)に参り、なき子を祈り申すに、大明神(だいみようじん)あはれと思(おぼ)し召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、爺喜び限りなし。やがて十月(とつき)と申すに、いつくしき男子(おのこ)をまうけゝ。
 さりながら、生まれおちてより後、背(せい)一寸ありぬれば、やがてその名を、一寸法師(いつすんぼうし)とぞ名づけられたり。年月を経(ふ)る程に、はや十二、三になるまで育てぬれども背(せい)も人ならず。つく〴〵と思ひけるは、たゞ者にてはあらざれ、たゞ化物(ばけもの)風情(ふぜい)にてこそ候へ。我らいかなる罪の報(むくい)にて、かやうの者をば住吉より賜りたるぞや、浅ましさよと、見る目も不憫(ふびん)なり。
 夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めを、何方(いずかた)へもやらばやと思ひける」と申せば、やがて一寸法師この由(よし)承(うけたまわ)り、親にもかやうに思はるゝも、口惜(くちおし)しき次第かな。何方(いずかた)へも行かばやと思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つ姥に請ひ給へば、取り出(い)だし給(た)びにける。すなはち麦わらにて柄鞘(つかさや)をこしらへ、都へ上(のぼ)らばやと思ひしが、自然(しぜん)舟なくてはいかゞあるべきとて、また姥に、「御器(ごき)と箸(はし)と給(た)べ」と申しうけ、名残(なごり)惜しく止むれども、立ち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乗りて、都へぞ上りける。

現代語訳
 それ程昔でもないのですが、摂津の国の難波という所に、お爺(じい)さんとお婆(ばあ)さんがいました。お婆さんは四十歳になっても子がいないことを悲しみ、住吉大社にお詣(まい)りして、子を授かるようにお祈りしました。すると住吉大明神はしみじみと思うところがあり、お婆さんが四十一歳の高齢であるのに身ごもったので、お爺さんは大層喜びました。そして「十(と)月(つき)」と申して、かわいらしい男の子をもうけたのでした。
 しかし、生まれてから後も背丈が一寸(約三㎝)なので、そのうちに一寸法師と名付けられました。そして年月が経ち、早くも十二、三歳になるまで育てたのですが、背丈は人並みになりません。それでお爺さんとお婆さんは、「これはただ者ではない、まるで化け物のようですよ。私達はどのような罪の報いで、このような子を住吉の神様から授かったのでしょう。何とも残念なことです」とつくづくと嘆くので、見ていても気の毒なことでした。
 そして老夫婦が思うことには、「あの一寸法師めを、どこかにやってしまおうかと思うのだが」と話しているのを、やがて一寸法師は知ってしまい、「親にもそのように思われているのは残念なことだ。それなら(何処(どこ)かにやられる前に)自分から何処(どこ)へなりとも行ってしまおう」と思いました。そして「刀がなくてはどうにもならない」と思って、お婆さんに針を一本くれるようお願いすると、取り出して与えてくれました。それで一寸法師は麦わらで針の刀の柄(つか)と鞘(さや)をこしらえて、都へ上ろうとしたのですが、おのずから舟がなくてはどうしたものかと思い、またお婆さんに「お椀(飯を盛る器)と箸(はし)を下さい」と言ってもらいました。(お爺さんとお婆さんはさすがに)名残惜しく引き留めたのですが、一寸法師は旅立っていきました。住吉の浜辺からお椀を舟にして乗り、都へと上って行ったのです。

解説
 御伽草子(おとぎぞうし)とは、室町時代から江戸時代初期にかけて作られた、短編物語類の総称です。総数は四百に及ぶとのことですが、類似するものの数え方にもより、確定できません。また多くの場合は作者がわかりません。主人公は貴族や武家や僧侶の他に、名もない庶民が数多く登場します。擬人化された動物や器物が主人公になるなど、子供に受け容れられやすい話もあります。
 現在、いわゆる「御伽話(おとぎばなし)」と呼ばれる子供向きの絵本がありますが、これはには明治中期に児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ)が、御伽草子や江戸時代以来の昔話を教育的に改作した、一連の『日本昔噺(むかしはなし)』によるものが多く、「御伽草子」は「御伽話」とは、話の内容が異なる場合があります。
 ここに載せた『一寸法師』は、御伽草子としては比較的新しく、室町時代の成立かどうかは確証がないそうです。それでも一般に知られている「御伽話」との相違点が面白いので、この話を選びました。
 現代ならばの四十歳~五十歳はまだまだ働き盛りですが、古来、四十歳から十年ごとに長寿の祝いをしていましたから、四十歳ならば立派に老人でした。二人はせっかく授かった一寸法師を「化物風情」と嘆き、どこかに捨ててしまおうと相談します。それを知った一寸法師は、捨てられるくらいならと、自分から家出をしてしまうのです。
 その後、都の宰相の家に仕えた一寸法師は、十三歳になる姫を妻にしようと企みます。原文には「いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ」と記されていますから、見かけによらないしたたか者なのです。そして管理を任されている米を粉にして、寝ている姫の口に付け、自分は空(から)の袋を持って泣き真似をします。そして宰相に、私の米を姫が奪ったのだと嘘をつき、宰相が怒って追い出すように仕向け、法師は姫をまんまと連れ出します。そして流れ着いた島で鬼と戦い、鬼が忘れた打ち出の小槌を振るって大きく成るのですが、御伽話のように清水寺に参詣の途中の出来事ではありません。よく似た『小男の草子』という御伽草子には、清水寺に毎日通う場面がありますから、巖谷小波が参考にしたのでしょう。その後、子宝にも恵まれ、殿上人に出世して、年老いた両親も呼んで幸せに暮らしたということは同じです。そして最終的には、住吉社の霊験譚(れいげんたん)になっています。
 このように御伽草子の一寸法師は、現代人の感覚からはかなりの「問題児」です。現代の一寸法師は、乱世をしたたかに生きる逞(たくま)しさを失い、教育的配慮から「良い子」に作り変えられてしまいました。現代の幼児に話して聞かせるには、原作のままでは具合が悪いかもしれません。しかし室町時代の庶民の願望や逞しさに触れることも、大切な歴史の学びですから、状況に応じて、使い分けるのがよいのでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『御伽草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」収録一覧

2022-12-16 15:45:58 | 私の授業
「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」収録一覧

 はじめは授業の教材の一つ地して書き始めたのですが、次第に数が増え、内容も高校生の日本史学習の域を越えるものも出てきました。「うたことば歳時記 テーマ一覧」と検索すると、収録した全てのテーマを見られるのですが、既に600を越え、見たいテーマを探し出しにくくなっています。そのため「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」に分類した題名だけを独立させてまとめてみました。「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」に続けて書物名を入力すれば見られるはずです。高校生の日本史学習のレベルを越えているものもあるので、「歴史的名著の名場面」と改名したいのですが、既に「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」の名前で始めてしまったので、改名しないことにしました。

 高校生よりは、日本史の先生の教材研究や、歴史図記の一般の方の勉強に役に立つかもしれません。お楽しみいただければ幸いです。ただ私は所詮は高校の元一教諭に過ぎない者であり、特別な研究者・学者ではありません。専門に研究している方にはご満足いただけないこともあるとは思いますが、高校の日本史の授業の教材研究レベルの内容ということで、お目こぼし下さい。これからもたまに新しいテーマをアップしていく予定ですが、なかなかはかどりません。 

奈良時代
古事記  日本書紀  続日本紀  風土記  懐風藻  万葉集  鑑真和上東征伝 

平安時代
文華秀麗集  日本霊異記  山家学生式  三教指帰  古今和歌集  竹取物語  伊勢物語  源氏物語  
栄華物語  枕草子  土佐日記  蜻蛉日記  和泉式部日記  日本往生極楽記  梁塵秘抄 今昔物語集  
堤中納言物語  更級日記
 
鎌倉時代
選択本願念仏集   歎異抄   一遍上人語録   喫茶養生記    金槐和歌集    古今著聞集 十訓抄   十六夜日記  方丈記  徒然草   平家物語    愚管抄  吾妻鏡   吾妻鏡・承久記     
       
室町時代
増鏡  太平記   梅松論  風姿花伝  菟玖波集   閑吟集   御伽草子     

桃山時代
信長公記  日本巡察記  ESOPONO FABVLAS
  
江戸時代
春鑑抄  鎖国論  広益国産考   世間胸算用  笈の小文  曾根崎心中  伊曾保物語   弁道   西洋紀聞  折たく柴の記  国意考 玉勝間 都鄙問答   夢の代  北槎聞略 慎機論  二宮翁夜  新論  誹風柳多留  浮世風呂   
東海道中膝栗毛  雨月物語  おらが春  ペルリ提督日本遠征記

明治時代
京都守護職始末  米欧回覧実記  学問のすゝめ  自助論(西国立志編)  明六雑誌   民権自由論  蹇蹇録  
富岡日記 日本その日その日 浮雲  五重塔   坊つちやん   歌よみに与ふる書  武士道  青鞜  謀叛論   後世への最大遺物  小学唱歌  最暗黒の東京  田中正造直訴状



『金槐和歌集』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-12-05 13:11:59 | 私の授業
金槐和歌集


原文
   正月一日詠める
①けさ見れば山も霞みてひさかたの天の原より春は来にけり

   道のほとりに、幼き童(わらわ)の母を尋ねていたく泣くを、   そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なむ身罷(みまか)りにし」   と答へ侍りしを聞きて詠める
②いとほしや見るに涙もとゞまらず親もなき子の母を尋ぬる

   建暦元年七月、洪水天に浸(はびこ)り、土民愁嘆(しゆうたん)せむことを   思ひて、独り本尊に向ひ奉り聊(いささ)か祈念を致して曰く
③時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

箱根の山をうち出でゝみれば、波の寄る小島あり。「供   の者、この海の名は知るや」と尋ねしかば、「伊豆の海   となむ申す」と答へ侍りしを聞きて
④箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見 ゆ

  太上天皇の御書下し預りし時の歌
⑤山は裂け海は浅(あ)せなむ世なりとも君に二心わがあらめやも

現代語訳(詞書は省略)
①今朝遙かに眺めると、山が霞んでいる。春は大空からやっ て来たのだ

②可愛そうなことだ。見ていると涙を堰(せ)くことができない。 親を失った幼児が、母を捜し求めているのは

③時によって度を過ぎては、却って民衆を嘆かせることにな ってしまう。(水神の)八大龍王よ、雨を降らせるのをお止 め下され

④箱根の山路を越えて来ると、伊豆の海の沖の小島に、波が 打ち寄せるのが見えることだ

⑤山が裂けて崩れ、海が干上がってしまう世となっても、上 皇様に二心を懐く様なことは、決してございません

解説
 『金槐和歌集(きんかいわかしゆう)』は、源実朝(1192~1219)の和歌集です。藤原定家が書写させた伝本の奥書によれば、建暦三年(1213)、実朝二二歳の時に、実朝自ら撰したとされ、六六三首が収められています。書名は一般には、「金」が「鎌倉」、「槐」が「槐門」、つまり大臣のことを表すので、「鎌倉の右大臣の家集」の意味であるとされていますが、もちろん後世の呼称です。
 「槐」は「えんじゅ」と訓み、古代中国では「大臣」の象徴とされていました。エンジュは現在でも普通に街路樹となっているマメ科の樹木で、同じ仲間のハリエンジュは「ニセアカシア」とも呼ばれ、歌謡曲や童謡では「あかしあ」と歌われています。ハリエンジュは五月上旬に芳香のある真白い藤の花の様な花を、枝一杯に咲かせます。「槐」が樹木であるとわかれば、少なくとも「金塊和歌集」とは書かないでしょう。
 鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、実朝と和歌の関わりについて、多くの記述があります。十四歳の年には、十二首の歌を詠み(元久二年四月)、いち早く披露前の『新古今和歌集』を贈られ(同年九月)、十七歳の年に『古今和歌集』を手に入れ(承元二年五月)、十八歳で藤原定家に自詠三十首を送って指導を受け(承元三年七月)、二二歳の年に定家から定家の著した歌論書らしき「和歌文書」や『万葉集』を贈られ(建暦三年八・十一月)、「御入興(ごじゆきよう)の外(ほか)、他無し」、「御賞翫の他無し。重宝、之(これ)何物に過ぐる乎(か)」と大喜びしている様子が記されています。
 当時の鎌倉には、実朝に和歌を指導できる程の歌人は居なかったでしょうから、実朝は『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』から直に学びました。一般に実朝の歌は万葉調であると評されるのですが、それは事実とは異なります。実際にはそれらの三歌集から、定家が苦言を呈する程に過剰な本歌取りをしていて、決して万葉調ばかりではありません。
 中には三歌集の歌に酷似している歌もあり、初期の習作と考えられます。いくつか御紹介しましょう。「奥山の岩根に生(お)ふる菅の根のねもころ〴〵に降れる白雪」は、『万葉集』の「高山の巌(いわお)に生ふる菅の根のねもころ〴〵に降り置く白雪」の模倣です。「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら玉藻の床に幾夜(いくよ)経ぬらむ」は、『新古今和歌集』の「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら波の枕に幾夜経ぬらむ」の第四句以外は全く同じです。またこれ程似ていなくても、特徴のある歌言葉で、本歌が直ぐに思い浮かぶ歌はいくつもあります。これをどのように評価するかは意見の分かれるところですが、都から遠く離れ、身近に指導してくれる歌人もいない境遇で、模倣してでも三歌集から独りで学び取ろうとしている過程と考えれば、やむを得なかったでしょうし、また好感を持てます。
 ここに載せたのは、いずれも実朝の歌としてはよく知られているものばかりです。①は巻頭歌で、巻頭に春霞を詠むことは、『古今和歌集』の模倣です。②は両親を失った幼子に同情する歌ですが、その優しい心は現代人の感覚と全く同じであり、これが武家の棟梁の歌であることに驚くことでしょう。③は民を苦しめる長雨の止むことを仏に祈る歌ですが、為政者の立場もさることながら、②にも共通する繊細で優しい心が滲み出ています。④には具体的な詞書があり、状況がよくわかります。大らかな万葉調の歌で、『万葉集』巻十(2185番歌)の「大坂をわが越え来れば二上に・・・・」を下敷きにしたものでしょう。「箱根山を出(いず)ると伊豆(いず)の海が見えた」というのは、ひょっとしたらギャグかもしれません。⑤は巻末歌で、後鳥羽上皇から御書を賜り、畏敬の念を詠んでいます。この歌をわざわざ巻末に置いたのには、それなりの意図があるはずで、実朝の忠誠心の顕れでしょう。しかし実朝暗殺の翌々年、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱が起きるのは、何とも皮肉と言うしかありません。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『金槐和歌集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。