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うたことば歳時記

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初午

2018-01-29 10:30:09 | 年中行事
 間もなく立春ですが、このところの厳寒で、寒さにはめっぽう強い私も震え上がっています。先週降った雪はまだ畑を覆っていて、野菜が値上がりし、キャベツ一つが300円もするので、とても買えません。それで荒川の土手の雪を掻き分けて、菜の花の葉っぱを採って来て野菜代わりに食べています。少し苦味がありますが、なかなか美味しい物です。最近は忙しくてブログを書く暇もなかったのですが、ようやく短い文を書きました。遅くなって御免なさい。

 初午は読んで字の如く、最初の午の日という意味で、旧暦2月の最初の午の日に行われた、稲荷神社の祭礼のことです。新暦ならば少し暖かさを感じられる2月末から3月中の行事なのですが、現在はまだまだ寒い新暦の2月に行われることが多いようです。今年の2月の初午の日は2月7日です。本来は旧暦2月のことですから、今年なら本当の初午は3月27日です。

「二月の初午の日」とされるにはわけがあります。それは伏見稲荷神社の祭神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利(いなり)山へ降臨したとされる日が、『稲荷社神主家大西氏系図』によれば和銅四年(711年)二月壬午の日のことで、その日が2月の初午の日に当たることから、稲荷神社の祭日となりました。

 稲荷信仰は平安時代にかけて大変盛んとなり、清少納言が初午の日に参詣したことが、『枕草子』の第162段に記されています。清少納言は初午の日に思い立って伏見稲荷に参詣したのですが、あまりの急な上り坂で喘いでいたところ、楽々と登って行く三十歳過ぎの女性に出会い、羨ましいと思ったということです。確かに清少納言でなくとも、伏見稲荷の奥社まで参詣するには相当な体力が必要です。

 江戸時代には初午の日には、「行人容易路を遮ること能ず」(『諸国図絵年中行事大成』)と記される程に混雑していました。しかし当時の人々がみな伏見まで参詣に来たこわけではありません。何しろ稲荷神社は全国各地に分社され、江戸時代には「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた程に、至るところに稲荷神社はありましたから、最も身近な神社でもありました。

 この日は、子供達が寺子屋に入門する「寺入り」の日でもありました。『東都歳時記』という書物には、「初午・・・・江府はすべて稲荷勧請の社夥しく、武家は屋敷ごとに鎮守の社あり。市中には一町に三、五社勧請せざる事なし。・・・此日小児手習読書の師匠へ入門せしむる者多し」と記されています。数え年で7~8歳が普通でしたから、満年齢なら6~7歳ですから、現代の小学校入学のようなものです。現在では小学校入学は新暦の4月ですが、3月下旬なら、春になったら読み書き算盤の初歩を学びに入門・入学する気分は、共通しているのでしょう。

 稲荷は本来は「稲成」と書くべきもので、五穀豊穣を掌る神でした。稲荷神社祭神名の「宇迦」は食物や穀物を意味する古語で、社名の「稲荷」(稲成)と共に、稲荷神社が本来は五穀豊穣を掌る神であったことを示唆しています。しかし現在は商売繁盛の神という印象が強く、各地の有名な稲荷神社では、初午には参詣者で賑わいます。行事食としては稲荷寿司が定番となっています。それは狐が稲荷神社の神のお使いということになっていて、狐は油揚げを好むという理解に拠っています。しかし稲荷寿司が登場するのは江戸時代の末期で、行事食としての歴史は古くはありません。

 そもそも稲荷神社と狐の関係は、祭神の宇迦之御魂神が穀物や食物を掌る「御饌津神(みけつのかみ)(みけつのかみ)」とも呼ばれたことに拠っています。神饌(しんせん)(神に供える食物)のことを「御饌(みけ)」と言いますから、「御饌津神」は「神饌の神」という意味になります。ところが「けつ」という音が狐の古名である「けつ」と同音であるため、「みけつのかみ」が「三狐神」と当て字で表記され、次第に狐が稲荷神の使者であるというとになってしまいました。稲荷寿司か文献上確認できるのは、天保年間の『守貞漫稿』です。初午の行事食として食べるようになったのは、もちろん明治以後のことでしょう。

年内立春

2016-02-08 10:41:02 | 年中行事
 今日は旧暦の元日です。既に立春は過ぎていますから、今年の立春は去年のこと。カレンダーを見たら12月26日でした。このように旧暦の12月に立春となることを年内立春といいます。その反対に旧暦の元日を過ぎてから立春になること、つまり立春前に旧暦元日になることを新年立春といいます。立春は太陽の高度を基準に決まることで、元日は月の満ち欠けで決まることですから、そもそも一致するはずがありません。そのずれは最大でも半月程です。これは珍しいことではなく、天保暦より古い暦では3年に1回くらいの割合で起きていました。現在使われている旧暦、つまり天保暦でも2年に1回は起きる普通の現象です。
 年内立春と言えば、誰もが『古今集』の最初の歌を思い出すことでしょう。
     ふるとしに春たちける日よめる                        在原元方
  ○年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ
「年が改まらないうちに立春になってしまいましたが、この年は去年と言うべきでしょうか、今年と言うべきでしょうか」という意味なのですが、この歌を正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』において、散々に扱き下ろしていること木はよく知られています。曰わく「実にあきれ返った無趣味の歌にこれあり候。日本人と外国人の合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にして、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候」。まあ確かに理屈っぽい歌です。しかし詠んだ本人は、おそらくユーモアとして軽い気持ちで詠んだのでしょう。そもそも古歌には「誹諧歌」といって、ギャグを意図的に詠む歌がありました。その場合は歌を文芸とは思っていませんから、それをいきり立って批判する程のものではないでしょう。

 さてそうすると、立春と旧暦元日とどちらが本当の新年と考えられていたのでしょうか。八十八夜は立春起算ですから、立春が新しい年の初めの日のようですし、年賀状には春を喜ぶという意味の賀詞が使われています。しかし一方では1月1日というように、「1」が揃わないと年が改まったような印象がありません。実際には、古には目的によって使い分け、どちらも新しい年の始まる日と理解されていたようです。日次にこだわる必要のある場合、例えば歴史書の編纂などでは、1月1日から年が替わりますが、季節感を重んじる日常の生活では立春から年が替わると理解していました。要するにあまり理屈っぽくは言わなかったのです。先程もお話ししましたが、ずれは最大でも半月ですから、余り支障はなかったのでしょう。

 これは季節の分け方にも影響していました。春は立春から立夏の前日まで、夏は立夏から立秋の前日まで、秋は立秋から立冬の前日まで、冬は立冬から節分まで、という分け方があります。このような分け方は二十四節気によるものですから、「節切り」と言います。それに対して1月から3月までを春、4月から6月までを夏、7月から9月までを秋、10月から12月までを冬とする分け方があります。もちろん旧暦ですよ。新暦の4月が夏だなんて、いくら何でも変ですよね。このような季節の分け方を「月切り」と言います。六国史などの史料には「夏四月」などという表現があるので、最初はびっくりしたものでした。この節切りと月切りの季節区分も、その目的によって使い分けられていたのです。現在では旧暦によって生活している人はまずいないでしょうから、月切りの季節はほとんど使われていません。季節感を大切にする場合、例えば俳句の季語などでは、節切りが使われています。

 とにかく今日は元日です。中国からは春節の休暇を利用して、「爆買い」の観光客が押し寄せています。

クリスマスの違和感

2015-12-16 14:16:45 | 年中行事
 クリスマスが近づいてきます。しかしキリスト教徒のはしくれである私は、次第に憂鬱になってくるのです。日本中がキリスト教国になったような馬鹿騒ぎで盛り上がり、その心に触れようとする人が極めて少ないからです。サンタクロース、ケーキ、パーティー、プレゼント、ディナー、セール、等々、クリスマスにこと寄せて、狂騒の12月後半が過ぎて行きます。それが悪いとまでは言いませんが、主(あるじ)のいないクリスマスにふと虚しさをおぼえるのです。
 また前日の24日をクリスマス・イヴと称して、クリスマス当日よりも大騒ぎをします。否、それどころか25日にはもうクリスマス関連の行事の大半は終了してしまい、残りの一週間は正月を迎える準備一色に染まってしまうのです。イエス・キリストは何所においでになるのでしょうか。
 そもそもクリスマスとは、「キリストのミサ」に由来する言葉で、「キリストにささげられたミサ」、つまりキリストの誕生を祝ってささげられた礼拝を意味しています。ですから降誕を記念する祭日ではあっても、イエスの誕生日というわけではありません。第一、新約聖書にはイエスが生まれた時季や日について、一切記されていないのです。
 12月25日にイエスの誕生を祝う祭が行われるようになったのは、確実な史料によれば、遅くとも西暦345年にローマの教会で始まったとされています。実際の降誕から約300年も後の話です。12月25日という日付については、ローマ帝国で盛行していたミトラ教の冬至祭に由来すると考えられています。ミトラ教とは、太陽神ミトラを主神とする宗教で、ヘレニズムの文化交流によってインドやペルシャからローマ帝国に伝えられ、紀元前1世紀から5世紀にかけて盛行しました。まだまだよくわからないことが多いのですが、ミトラ教には冬至の頃に太陽の復活を祝う習慣がありました。冬至は太陽が最も弱くなるように見えますが、しかしこの日を境にして太陽は生まれ変わり、再び力を回復します。ミトラ教では、12月25日に「絶対不敗の太陽の誕生日」を祝う祭が行われていたのです。
 一方、旧約聖書の最後の巻であるマラキ書4章には、メシア(ヘブライ語でキリストに相当する言葉)が「義の太陽」と記されています。キリスト教が迫害されながらも次第にローマ帝国内に浸透し、西暦313年にはコンスタンティヌス大帝によって公認されるに至ると、ミトラ教は次第に衰退して行きますが、その過程で、ミトラ教の太陽神の祭がキリストを太陽に譬えるキリスト教と習合し、12月25日がイエスの降誕を祝う祭にすり替わっていったと考えられています。キリスト教徒の側で、信仰の浸透を図るために、意図的にミトラ教の祭日を利用したという可能性もあるでしょう。しかしその習合の過程で、初期のキリスト教徒の中には、ミトラ教の狂騒的な祭と混同されるのを嫌い、敢えて12月25日の祭日を祝うことを避けようとする心ある人達もいたそうです。私などはこの考えに近いと言えるでしょう。まあ家内がケーキを食べたいと言うので、一日遅れの値下げされた売れ残りを買ってくる程度のことはしますが。
 生徒にクリスマスはいつかと尋ねると、12月24日という答えがかなりありました。イヴと混同しているのでしょう。そもそも「イブ」とはどういうことでしょうか。ユダヤ教やローマ帝国の暦を受け継いだ教会の暦では、日没から一日が始まると考えられていました。ですからクリスマスは24日の日没から25日の日没までであります。イヴとは、eveningと同義語の古語であるevenの末尾の音が消失したものですから、クリスマス・イヴを強いて訳せばクリスマスの夕べという意味になります。一般に理解されているようなクリスマスの前夜祭ではないのです。