うたことば歳時記

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教材としての陶磁器

2016-06-28 10:15:19 | 歴史
 日常生活にありふれた存在であるだけに、日本史の授業で陶器と磁器について触れる場面は少なくはありません。まず最初は古墳文化の須恵器があげられます。須恵器は陶器なのと質問が出そうですが、厳島の戦いで毛利元就に討たれた陶晴賢の名前でもわかるように、「須恵」とは「陶」の和訓です。万葉仮名的に表記しているのでピンときませんが、須恵器は立派に陶器というわけです。須恵器の窯があった周辺では、大量の破片が遺棄されたため、窯跡の周辺では破片を拾うことは容易です。私の家に近い鳩山町には沢山の窯跡があり、窯の手前が水田になっているような場所では、耕作の邪魔になるために、畦道に大量の須恵器片が、まるで砂利のように放置されています。盗掘するわけではありませんから、それらを拾って授業で生徒に見せる程度のことは許されるでしょう。
 
 次いで曹洞宗の宗祖道元の従者として宋に渡った加藤景正が、宋から伝えた製陶技術による瀬戸焼が上げられるでしょう。帰国の後、尾張国の瀬戸で窯を開いたとされていますが、鎌倉前期には瀬戸で釉薬を用いた陶器が開始されていたという発掘調査報告もあり、加藤景正は瀬戸焼創始者としての象徴的存在であるかもしれません。そのあたりのことは専門の学者に委せるとして、加藤景正は現在も瀬戸焼の陶祖として、瀬戸地方では畏敬されています。私は瀬戸地方の窯跡を歩いたことはありませんが、骨董市では古瀬戸の破片を時々見かけます。破片が並んでいるからには、それを欲しいという人もいるのでしょう。古瀬戸独特の朽葉色の釉薬が掛は、破片といえどもなかなか美しいものです。また鎌倉時代に常滑や猿投の窯で大量に焼かれたいわゆる「山茶碗」は、広い意味で瀬戸焼と理解してもよいと思います。これはもちろん骨董市でも買えますが、ネットオークションで簡単に入手できます。それほど高価なものではありませんから、普段は液体ではないものを容れる小鉢として趣味的に使用し、一年に一度、教材として使っていました。

 磁器はまず、鎌倉から室町期の中国からの輸入品として登場します。ところが生徒には陶器と磁器の区別が難しいようです。磁器の原料になるのは、石英や長石をなどを多量に含む石を、微細な粒子になるまで粉砕して精製された粘土です。本焼きには1300度ほどの高温を必要とし、ガラス質化するために吸水性がありません。また薄い部分では光を透すこともあり、軽く叩くと金属音がします。磁器の技術が確立したのは北宋の時代で、中国発祥の器です。ですから英和辞書でchinaを引いてみると、「磁器」と記されています。ただし固有名詞ではありませんから、頭文字は小文字です。中国の景徳鎮は、現在も磁器の生産地として知られています。中国物産展には必ず景徳鎮の磁器がありますから、裏に「景徳鎮」と記された磁器があれば、教材として一つは求めておきましょう。ついでのことですが、japanと書けば漆器を表します。

 磁器については、青・白磁と染付けの二つに分けると理解しやすいでしょう。青磁の器を日常的に使っている家庭は少ないでしょうが、染付けならどの家にもあるでしょう。もちろん現代の大量生産品でしょうから骨董的価値は皆無ですが、磁器がどのようなものであるか、また現在でも日常的に使われていることを理解させるためには、かえって家庭の食器棚から教材として持ち出すことに大いに意味があると思います。たとえ破片であっても、断面を見ることは磁器の特徴をかえってよく理解できますから、捨てずにとっておきます。

 陶器については、その素地が多孔性であるため、つまり水を吸い込むため、水を吸わないように表面に釉薬を施すのが普通です。この多孔性のために、叩いても磁器のような金属音はしません。一口に陶器といっても陶土の組成や焼成の仕方によって、焼き上がりにはかなりの差ができます。ガラスの原料でもある長石の含有量が多ければ、磁器に近い硬質の仕上がりになり、鉄分が多い陶土で酸化焼成すれば赤褐色になり、還元焼成すれば灰色になったりします。見かけや感触だけで陶器を定義するのはなかなか難しいものです。よく陶器は粘土で成形し、磁器は石を粉末に精製した粘土で成形した物という説明を見かけますが、これは正しくはありません。かなり乱暴な説明ではありますが、家庭で使う器で磁器以外のものは、まず陶器と思って間違いはないでしょう。陶器は磁器に比べて厚手であり、叩いても金属音はせず、素地は真っ白ではありません。色も手触りも、磁器と比べて素朴な暖かさがあります。そこが陶器の魅力であり、全国各地で個性豊かな陶器が生産されています。

 透明感のある青緑色の釉薬を施した青磁は、東アジアを中心として世界各地に輸出されました。独特の色は、釉薬に含まれる酸化第二鉄が、還元焼成によって酸化第一鉄になることによって発色します。日本にも日宋貿易・日明貿易によって磁器がもたらされ、日本各地の中世の遺跡から青磁片が発掘されています。特に冊封関係にあった琉球王国には大量の青磁がもたらされ、沖縄各地の城跡から夥しい青磁片が発掘されています。私は修学旅行の引率で沖縄に行った際、那覇の骨董店で、戦前の好事家が拾い集めたという青磁片を沢山買ったことがあります。また鎌倉の海岸では鎌倉期の青・白磁片を拾うことができます。ただしそれを集めている人がいて、目の利く人が一通り探してしまった後や満潮の時は、なかなか見つかりません。今までに十数回拾いに行き、手ぶらで帰ったことは一度もありませんが、2~3センチの破片が数個拾えれば満足できるという程度でした。ただしその頃の青磁の断面は灰色をしています。青磁は断面が白であると思い込んでいると、近現代の青磁片を拾ってしまうことになります。ただ捨てるのはいつでもできますから、念のため怪しい物も全て拾っ来る方がよいでしょう。鎌倉の小町通りにある骨董店の御主人は、青磁片をたくさん拾い集めているので、いつもその場で鑑定していただきました。

 染付けは、素焼きされた白磁に酸化コバルトを主成分とする呉須によって下絵を付け、その上に透明の釉薬をかけ、1300度ほどの高温で還元焼成したものです。藍色に発色するため、「青花」とも呼ばれます。呉須は元代に西アジアから顔料として中国に伝えられました。この染付けの磁器は、青色を好むイスラム文化圏でもてはやされただけでなく、後にはヨーロッパの王侯貴族たちから宝石並みの扱いを受け、羨望の的となります。

 日本の染付けは、朝鮮出兵の際に連行された朝鮮人陶工の一人である李参平に始まるとされています。彼は肥前の大名である鍋島直茂によって連れて来られ、日本名を「金ヶ江三兵衛」と称しました。1616年、彼は有田の泉山で白磁に適した良質の石を発見し、そこで日本で初めて白磁を焼いたのですが、これが有田焼の起源であり、のちに酒井田柿右衛門の色絵や伊万里焼の輸出に発展することになります。伊万里焼は、有田焼が近くの伊万里港から船積みされて運ばれたためにそう呼ばれたのですが、佐賀藩が贈答用の高級品として御用窯で焼かせた鍋島焼と共に江戸期の産業の学習の際に、必ず触れられることでしょう。

 青磁の実物を生徒の身の回りから探すことは難しいことですが、染付けならば、古い物でも何とかなりそうです。もちろん中国産の骨董品である必要はありません。日本の染付けでも、古伊万里などの骨董品は高価ですが、ひびが入っていたり疵のある物ならば一桁安く、千円単位で購入できます。明治以降の物なら百円単位で買えます。現代の物でも教材として利用価値は大きいものです。先ほどもお話ししましたが、日常生活の中に歴史の痕跡があるということに、気付かせたいからです。太陽にかざせば光が透ることや、軽く叩くと金属音がすることや、断面が白く緻密であることなどを確認させましょう。「なぁんだ、これが磁器なら、家にもたくさんあるよ」と、言わせたいのです。私は「磁器は内側が白いので、お茶の色がきれいに見え、接客用に適しているけれど、薄手のものが多く、熱いお茶を注ぐと火傷するかもしれないので、お湯の温度には気を付けなさいよ」という、「おもてなし」の気配りまで話しています。

 色絵については、少々説明が要るかもしれません。呉須で青色の絵付けをする場合は、施釉前に行うため二次焼成の必要がありません。しかし顔料によって青以外の色絵付けをする場合は、一回目の本焼き、つまり一次焼成後に絵付けを施し、800度程度で二次焼成をする。それで呉須による絵付けを「下絵付け」というのに対して、これを「上絵付け」といいます。「酒井田柿右衛門が上絵付の技法を工夫し・・・・云々」については必ず学習することでしょうから、カラフルな有田焼を一つ用意しておきましょう。現代の物でも、いわゆる「作家物」や色鍋島はとても高価で、簡単に手の出る品ではありません。しかし現代の雑器なら安価で、リサイクルショップでは特に安価で買えます。器の表面をよく観察すると、青い染付けは透明の釉薬の下に、色絵は釉薬の上になっているのがよくわかるので、是非とも「上絵付け」であることを実際に理解させたいのです。

 朝鮮出兵によって日本に連れてこられた朝鮮陶工により、西国各地で「お国焼き」と称される各種の陶磁器が焼かれるようになります。江戸期の焼き物が全て朝鮮人陶工の技術による物とは限りませんが、大きく影響されたことは確かです。有田焼(伊万里焼)を初めとして、薩摩焼・唐津焼はその代表でしょう。
 
 ずいぶん長くなってしまいました。陶磁器は身近にあると同時に、古い歴史を持っています。歴史を身近に感じさせる教材として、陶磁器はなかなか面白いものだと思っています。

教材としての陶磁器

2016-06-28 09:31:13 | 歴史
日常生活にありふれた存在であるだけに、日本史の授業で陶器と磁器について触れる場面は少なくはありません。まず最初は古墳文化の須恵器があげられます。須恵器は陶器なのと質問が出そうですが、厳島の戦いで毛利元就に討たれた陶晴賢の名前でもわかるように、「須恵」とは「陶」の和訓です。万葉仮名的に表記しているのでピンときませんが、須恵器は立派に陶器というわけです。須恵器の窯があった周辺では、大量の破片が遺棄されたため、窯跡の周辺では破片を拾うことは容易です。私の家に近い鳩山町には沢山の窯跡があり、窯の手前が水田になっているような場所では、耕作の邪魔になるために、畦道に大量の須恵器片が、まるで砂利のように放置されています。盗掘するわけではありませんから、それらを拾って授業で生徒に見せる程度のことは許されるでしょう。
 
 次いで曹洞宗の宗祖道元の従者として宋に渡った加藤景正が、宋から伝えた製陶技術による瀬戸焼が上げられるでしょう。帰国の後、尾張国の瀬戸で窯を開いたとされていますが、鎌倉前期には瀬戸で釉薬を用いた陶器が開始されていたという発掘調査報告もあり、加藤景正は瀬戸焼創始者としての象徴的存在であるかもしれません。そのあたりのことは専門の学者に委せるとして、加藤景正は現在も瀬戸焼の陶祖として、瀬戸地方では畏敬されています。私は瀬戸地方の窯跡を歩いたことはありませんが、骨董市では古瀬戸の破片を時々見かけます。破片が並んでいるからには、それを欲しいという人もいるのでしょう。古瀬戸独特の朽葉色の釉薬が掛は、破片といえどもなかなか美しいものです。また鎌倉時代に常滑や猿投の窯で大量に焼かれたいわゆる「山茶碗」は、広い意味で瀬戸焼と理解してもよいと思います。これはもちろん骨董市でも買えますが、ネットオークションで簡単に入手できます。それほど高価なものではありませんから、普段は液体ではないものを容れる小鉢として趣味的に使用し、一年に一度、教材として使っていました。

 磁器はまず、鎌倉から室町期の中国からの輸入品として登場します。ところが生徒には陶器と磁器の区別が難しいようです。磁器の原料になるのは、石英や長石をなどを多量に含む石を、微細な粒子になるまで粉砕して精製された粘土です。本焼きには1300度ほどの高温を必要とし、ガラス質化するために吸水性がありません。また薄い部分では光を透すこともあり、軽く叩くと金属音がします。磁器の技術が確立したのは北宋の時代で、中国発祥の器です。ですから英和辞書でchinaを引いてみると、「磁器」と記されています。ただし固有名詞ではありませんから、頭文字は小文字です。中国の景徳鎮は、現在も磁器の生産地として知られています。中国物産展には必ず景徳鎮の磁器がありますから、裏に「景徳鎮」と記された磁器があれば、教材として一つは求めておきましょう。ついでのことですが、japanと書けば漆器を表します。

 磁器については、青・白磁と染付けの二つに分けると理解しやすいでしょう。青磁の器を日常的に使っている家庭は少ないでしょうが、染付けならどの家にもあるでしょう。もちろん現代の大量生産品でしょうから骨董的価値は皆無ですが、磁器がどのようなものであるか、また現在でも日常的に使われていることを理解させるためには、かえって家庭の食器棚から教材として持ち出すことに大いに意味があると思います。たとえ破片であっても、断面を見ることは磁器の特徴をかえってよく理解できますから、捨てずにとっておきます。

 陶器については、その素地が多孔性であるため、つまり水を吸い込むため、水を吸わないように表面に釉薬を施すのが普通です。この多孔性のために、叩いても磁器のような金属音はしません。一口に陶器といっても陶土の組成や焼成の仕方によって、焼き上がりにはかなりの差ができます。ガラスの原料でもある長石の含有量が多ければ、磁器に近い硬質の仕上がりになり、鉄分が多い陶土で酸化焼成すれば赤褐色になり、還元焼成すれば灰色になったりします。見かけや感触だけで陶器を定義するのはなかなか難しいものです。よく陶器は粘土で成形し、磁器は石を粉末に精製した粘土で成形した物という説明を見かけますが、これは正しくはありません。かなり乱暴な説明ではありますが、家庭で使う器で磁器以外のものは、まず陶器と思って間違いはないでしょう。陶器は磁器に比べて厚手であり、叩いても金属音はせず、素地は真っ白ではありません。色も手触りも、磁器と比べて素朴な暖かさがあります。そこが陶器の魅力であり、全国各地で個性豊かな陶器が生産されています。

 透明感のある青緑色の釉薬を施した青磁は、東アジアを中心として世界各地に輸出されました。独特の色は、釉薬に含まれる酸化第二鉄が、還元焼成によって酸化第一鉄になることによって発色します。日本にも日宋貿易・日明貿易によって磁器がもたらされ、日本各地の中世の遺跡から青磁片が発掘されています。特に冊封関係にあった琉球王国には大量の青磁がもたらされ、沖縄各地の城跡から夥しい青磁片が発掘されています。私は修学旅行の引率で沖縄に行った際、那覇の骨董店で、戦前の好事家が拾い集めたという青磁片を沢山買ったことがあります。また鎌倉の海岸では鎌倉期の青・白磁片を拾うことができます。ただしそれを集めている人がいて、目の利く人が一通り探してしまった後や満潮の時は、なかなか見つかりません。今までに十数回拾いに行き、手ぶらで帰ったことは一度もありませんが、2~3センチの破片が数個拾えれば満足できるという程度でした。ただしその頃の青磁の断面は灰色をしています。青磁は断面が白であると思い込んでいると、近現代の青磁片を拾ってしまうことになります。ただ捨てるのはいつでもできますから、念のため怪しい物も全て拾っ来る方がよいでしょう。鎌倉の小町通りにある骨董店の御主人は、青磁片をたくさん拾い集めているので、いつもその場で鑑定していただきました。

 染付けは、素焼きされた白磁に酸化コバルトを主成分とする呉須によって下絵を付け、その上に透明の釉薬をかけ、1300度ほどの高温で還元焼成したものです。藍色に発色するため、「青花」とも呼ばれます。呉須は元代に西アジアから顔料として中国に伝えられました。この染付けの磁器は、青色を好むイスラム文化圏でもてはやされただけでなく、後にはヨーロッパの王侯貴族たちから宝石並みの扱いを受け、羨望の的となります。

 日本の染付けは、朝鮮出兵の際に連行された朝鮮人陶工の一人である李参平に始まるとされています。彼は肥前の大名である鍋島直茂によって連れて来られ、日本名を「金ヶ江三兵衛」と称しました。1616年、彼は有田の泉山で白磁に適した良質の石を発見し、そこで日本で初めて白磁を焼いたのですが、これが有田焼の起源であり、のちに酒井田柿右衛門の色絵や伊万里焼の輸出に発展することになります。伊万里焼は、有田焼が近くの伊万里港から船積みされて運ばれたためにそう呼ばれたのですが、佐賀藩が贈答用の高級品として御用窯で焼かせた鍋島焼と共に江戸期の産業の学習の際に、必ず触れられることでしょう。

 青磁の実物を生徒の身の回りから探すことは難しいことですが、染付けならば、古い物でも何とかなりそうです。もちろん中国産の骨董品である必要はありません。日本の染付けでも、古伊万里などの骨董品は高価ですが、ひびが入っていたり疵のある物ならば一桁安く、千円単位で購入できます。明治以降の物なら百円単位で買えます。現代の物でも教材として利用価値は大きいものです。先ほどもお話ししましたが、日常生活の中に歴史の痕跡があるということに、気付かせたいからです。太陽にかざせば光が透ることや、軽く叩くと金属音がすることや、断面が白く緻密であることなどを確認させましょう。「なぁんだ、これが磁器なら、家にもたくさんあるよ」と、言わせたいのです。私は「磁器は内側が白いので、お茶の色がきれいに見え、接客用に適しているけれど、薄手のものが多く、熱いお茶を注ぐと火傷するかもしれないので、お湯の温度には気を付けなさいよ」という、「おもてなし」の気配りまで話しています。

 色絵については、少々説明が要るかもしれません。呉須で青色の絵付けをする場合は、施釉前に行うため二次焼成の必要がありません。しかし顔料によって青以外の色絵付けをする場合は、一回目の本焼き、つまり一次焼成後に絵付けを施し、800度程度で二次焼成をする。それで呉須による絵付けを「下絵付け」というのに対して、これを「上絵付け」といいます。「酒井田柿右衛門が上絵付の技法を工夫し・・・・云々」については必ず学習することでしょうから、カラフルな有田焼を一つ用意しておきましょう。現代の物でも、いわゆる「作家物」や色鍋島はとても高価で、簡単に手の出る品ではありません。しかし現代の雑器なら安価で、リサイクルショップでは特に安価で買えます。器の表面をよく観察すると、青い染付けは透明の釉薬の下に、色絵は釉薬の上になっているのがよくわかるので、是非とも「上絵付け」であることを実際に理解させたいのです。

 朝鮮出兵によって日本に連れてこられた朝鮮陶工により、西国各地で「お国焼き」と称される各種の陶磁器が焼かれるようになります。江戸期の焼き物が全て朝鮮人陶工の技術による物とは限りませんが、大きく影響されたことは確かです。有田焼(伊万里焼)を初めとして、薩摩焼・唐津焼はその代表でしょう。
 
 ずいぶん長くなってしまいました。陶磁器は身近にあると同時に、古い歴史を持っています。歴史を身近に感じさせる教材として、陶磁器はなかなか面白いものだと思っています。

百合(深草百合)

2016-06-27 16:59:12 | うたことば歳時記
「百合」と書いて「ゆり」と読みますが、鱗片が重なって球根(球茎)を形作っていることによる呼称でしょう。キリスト教世界ではイエス・キリスト復活のシンボルとして「イースター・リリー」と呼ばれ、また聖母マリアの花(マドンナ・リリー)とも理解され、神聖な花として尊ばれています。キリスト教徒の墓石に百合の花が刻まれるのも、百合に象徴される復活にあやかりたいからにほかなりません。日本でも『古事記』『日本書紀』にも登場しています。

 『古事記』では、神武天皇が后妃として伊須気余理比売(いすけよりひめ)を選ぶ際に、姫の家の側の川岸に山百合がたくさん咲いていたので、百合の古語である「さい」によって「佐韋河」と名付けたという逸話が記されています。その背景としては、百合の花を美しい女性に見立てるという理解があったからなのでしょう。
 
『万葉集』にも11首詠まれ、古くから身近な花でしたが、『古今和歌集』以後の三代集では歌の題としては全く注目されず、院政期になると再び詠まれるようになります。
  ①道の辺の草深百合の花咲(ゑみ)に咲(ゑ)みしがからに妻と言ふべしや(万葉集 1257)
  ②夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ(万葉集 1550)
 ①は、百合の花のようにちょっと微笑んだだけで、妻であると言うべきでしょうか、という意味で、求婚を断る女性の歌ということです。②は、夏野の茂みにひっそりと咲いている姫百合のように、相手に思いを伝えられない恋は苦しいもの、という意味です。歌の内容はともかく、ここでは百合の花は草深い中にひっそりと咲く、即ち、言うに言われぬ乙女の片思いという理解に注目しましょう。「草深百合」と詠む歌は他にもあり、慣用的表現となっていたらしいのです。もちろん直接の関係は何もないのですが、『旧約聖書』の「雅歌」2章21節にも、「いばらの中に百合の花があるようだ」と記されていて、いばらの茂みの中の百合が注目されています。

 さて「ゆり」とは、上代の言葉で「後」とか「将来」ということを意味します。そこでこの同音異義を掛けた百合の歌が詠まれました。
  ③路の辺の草深百合の後(ゆり)にとふ妹が命を我知らめやも (万葉集 2467)
  ④吾妹子(わぎもこ)が家の垣内(かきつ)の小百合花後(ゆり)と言へるは不欲(いな)と言ふに似む (万葉集 1503)
③は、「後で」と言うあなたの命を私は知らない、(だから早く逢いたい)という意味。④は、後でお逢いしましょうというのは、逢いたくないと言っているのと同じ、という意味です。③も④も「百合」は同じ音の「後(ゆり)」を導く枕詞・序詞として詠まれていますが、それだけではなく恋人の印象をも兼ねていて、『万葉集』としては手の込んだ歌です。このように同音異義語を活かして詠むことは、現代短歌の歌人にはつまらぬ技巧と退けられるでしょうが、本来の和歌にはごく普通に見られることでした。
 現代人にとって百合の花は、花屋で買い求める花であり、野生の百合を見る機会は少なくなってしまいました。もし夏草の中に野生の百合を見ることがあれば、それは価値ある見物なのです。この年齢になりますと、今さら「人に知られぬ恋」でもありませんが、若い方々は、そのような思いを重ねて、しみじみと「草深百合」を御覧になってください。我が家の周辺では、大正末期に台湾から伝えられたとされる「高砂百合」(タカサゴユリ)が、数え切れないほどたくさん咲きます。種が風に飛ばされて容易に増殖するので、密集して咲いているところもあります。周囲を背丈の高い草に囲まれても咲いているので、それこそ「深草百合」だと楽しんではいるのですが、花が数日しかもたないのが欠点です。

 古来からの百合の理解を踏まえて、私も一首詠んでみました。少々おのろけの歌ですが・・・・。
  ○吾妹子(わぎもこ)に恋こそまされ夏草の草深百合の後(ゆり)もかはらず  

上方の酒(下り酒)

2016-06-26 09:51:10 | 歴史
江戸時代の諸産業の学習では、必ず酒造業に触れることでしょう。また同じく交通については、上方の酒が樽廻船によって江戸に運ばれたことも学習するでしょう。上方の酒の産地である摂津・和泉には、「摂泉十二郷」と言われる良質の酒の産地が集中していました。摂津の大坂・池田・伊丹・尼崎・西宮・灘、和泉の堺などがそれです。

 上方で良質の酒が生産されるようになったきっかけは、慶長五年(1600)、伊丹の鴻池善右衛門が清酒を効率よく大量に生産する技術を工夫したことでしょう。室町時代には、濁り酒にかわって清酒の生産が始まっていましたが、まだ白米の精白度が不十分であったので、今日の清酒にはとうてい及ばない物でした。そして伊丹の清酒は「丹醸」と称して評判となり、元文五年(1740)年には、伊丹産の「剣菱」が、将軍の御膳酒になるほどであったといいます。剣菱の商標には、現在も「丹醸」と表記されています。また伊丹の鴻池家が後の豪商鴻池に発展し、さらには後に三和銀行などを経て、三菱東京UFJ銀行に連なることにも触れておきましょう。

 江戸時代の後期になると、伊丹や池田にかわって、灘や西宮が新しい産地として注目されるようになりました。そのきっかけとなったのは、酒造りに適した「宮水」の発見でした。「宮水」とは「西宮の水」のこと。六甲山麓の井戸には、酒造りに適した水が湧き出していたのです。その水質は、酒造りに不可欠のカルシウム・カリウム・リンなどのミネラルを適度に含み、反対に有害な鉄分が少ない。また伊丹や池田より港に近いという利便性も相俟って、生産の中心になっていったのです。

 現在でも「灘五郷」にある9つの酒造会社が製造する清酒が、「灘の生一本」(なだのきいっぽん)と称して、ブランドとなっています。大関・菊正宗・剣菱・櫻正宗・沢の鶴・白鶴・白鹿・道灌・日本盛の9社で、名前を聞けば、酒の好きな人ならみなよく知っていることでしょう。そもそも「生一本」とは、単一の酒蔵で造られた純米酒という意味で、江戸時代に上方の酒が持てはやされるようになると、まがい物が現れるようになり、ブランドを維持するために、伊丹や灘の酒蔵が称したものです。まあ簡単に言えば、老舗の原産地証明といったところでしょうか。授業にはこれらの灘の生一本の酒瓶を教室に持ち込み、一通り説明をしたあと、一升瓶をラッパ飲みして見せます。一瞬教室がどっと湧きますが、もちろん中に入っているのはただの水。灘を印象付けるためのパフォーマンスです。

 その他に上方で酒造が盛んになった理由としては、六甲山麓の豊かな流水により、水車による精米が可能であったことが上げられます。品質のよい清酒を造るためには、米粒の表面近くに多く含まれる脂肪分や蛋白質を削り取り、中心部に多い澱粉質の割合を高めなければなりません。そのため、無駄とも思われる程に、米粒の表面を精白によって削り取るのです。この削り取ることを「研く」と言うのですが、 精白度が高くなればなる程にグレードが高いとされました。品質を向上させるためには、傾斜地の豊かな水流が不可欠だったのです。

 酒はもともと発酵食品ですから、時間がたてば変質しやすいものです。そこでいかに早く消費地に送り届けるかが重要な問題になります。上方の酒は、江戸時代の初め頃には、馬の背に樽を載せて江戸まで運ばれていましたが、次第に菱垣廻船によるようになりました。しかし菱垣廻船は雑多な商品を積み込むため、積み込みに時間がかかるのが欠点です。そこで享保十五年(1730)、上方の酒問屋は時間がかかる菱垣廻船問屋を脱退して、酒樽専用の樽廻船問屋を結成し、独自に酒を輸送するようになりました。大坂・江戸間に要する日数は、造船・航海技術の発達、港湾の整備によって著しく短縮され、幕末には10日程になっていたということです。また樽廻船の輸送が早かったのは、規格の統一された単一の商品であったため、酒樽の積み込み作業が合理化されたことにも因っています。コンテナを連想すれば分かり易いでしょう。

 大坂から江戸に運ばれる物資は、総じて「下り物」と称されました。皇居が京都にあるから、たとえ将軍がいても、江戸に行くことは下りであり、京都に行くことは「上洛」というわけです。必ずしも関東の物産が品質で劣るというわけではないのですが、下り物は運送費がかかる分、品質の良い物でなければ利益は上がりません。その結果、下り物は総じて品質の良い物が多くなる傾向にありました。関東にも多くの酒の生産地がありましたが、特に清酒に関しては、既に述べてきたような訳で、下り酒の品質が際立ってよかったわけです。また一端江戸に下り、再び上方に戻った酒は、運ばれているうちに杉樽の香りが酒に程よく移り、「戻り酒」と称して、さらに珍重されたということです。

 そういうわけで、下り物ではなく品質の劣ることを「下らない」と表現するようになったといわれています。今日普通に使う「下らない」という言葉には、「つまらぬ」という意味も加わって、多少ニュアンスの違いもありますが、語源を説明してやれば、意外なところに歴史が隠れていることを知って、生徒はきっと驚くことでしょう。

五位鷺

2016-06-23 11:04:49 | その他
昨夜、ゴイサギが鳴きながら夜空を飛んでいきましたので、ゴイサギについて一寸書いてみます。声の正体を知らない人にとっては不気味な声でしょうが、知っていれば夏の夜ならではの、風情のあるものです。「クワッ、クワッ」と聞こえるためか、「夜がらす」と言われることもあるように、家内はカラスが鳴いているものだと思い込んでいました。体長は60㎝くらいでしょうか。鷺の仲間の割には首が太くて短く、脚もそれ程長くはなく、くちばしも太くて長くはなく、全体としてずんぐりしています。色は頭から背中にかけての上面が青味がかった灰色で、腹の方の下面が白いので、その形も相俟ってペンギンによく似ています。実際、動物園のペンギンの池には、ペンギンの餌を横取りしようとして、よくゴイサギが紛れ込んでいます。

 よく「鳥目」といって鳥類は夜は目が効かないと言われていますが、このゴイサギは夜行性で、月も見えない星月夜の空を、何処へともなく飛んでいきます。真っ暗な中、何を求めてどこに飛んで行くのか、神秘的な気持ちになるものです。そこで一首詠みました。
 星月夜われは何処へ向かふべき見えざる鷺の声わたり行く
先の見えない人生を、私はどの方向に進んで行けば良いのか、鷺には行く手にかすかに光が見えるのでしょうか。

 この夏の時期にその鳴き声をよく聞くのですが、ちょうどホトトギスも今頃の夜に鳴いて飛んでいますので、聞き逃さないように、寝床の横の窓をなるべく開けたままにしてあります。我が家にはクーラーなどという文明の利器はないので、夏はいつも窓を開けっ放しにしてあります。話はそれますが、タヌキが餌を取り合って喧嘩する声や、フクロウの声も聞こえます。

 ゴイサギは漢字で書くと、曰くありげに「五位鷺」と表記されます。今さら私が説明するまでもないほどによく知られた逸話ですが、ひょっとすると御存知ない方もいらっしゃるかもしれませんから、その名前の由来について書いてみましょう。

『平家物語』(巻五 朝敵揃)昔は宣旨を向かって読みければ、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なり、飛ぶ鳥も従ひき。近頃のことぞかし。延喜の帝神泉苑へ行幸なつて、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鷺捕ってまゐれ」と仰せければ、いかんが捕らるべきとは思へども、綸言なれば歩み向かふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。すなはちこれを捕ってまゐらせたりければ、「汝が宣旨に従ひてまゐりたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後、鷺の中の王たるべしといふ御札を、みづから遊ばいて、頸かけてぞ放たせたまふ。まつたくこれは鷺の御料にはあらず、ただ王威の程を知ろ示さんがためなり。

 天皇が御所の南に造営された神泉苑に行幸されたとき、水際に鷺がいたので、六位の側近に捕らえるように命じられました。鷺は飛び立とうとしたのですが、天皇の御命令であるぞと言うと、畏まって捕らえられたので、天皇はお喜びになり、五位の位を授けられました。そして鷺の中の王という札を頸にかけて放したというのです。これは鷺の料簡によるのではなく、ただ王威の盛んなことを示すためでありました。

 この逸話は、昔は自然さえ王威に靡く程に勢いがあったことを物語るものとして、挿入されたものです。延喜の帝とは醍醐天皇のことで、古来、天皇親政が行われた理想的な時代と理解されてきました。たしかに政務を代行する摂政官爆破空位でしたから、形式的には天皇親政に見えますが、実際には左大臣藤原時平が右大臣菅原道真を大宰府に左遷して、実権を握っていました。それでも最後の班田が行われたり、『延喜式』の編纂が行われたり、銭貨の鋳造をするなど、律令体制債権のための最後の努力がなされた時期でもありましたから、後世にはそのように美化して伝えられたのでしょう。

 「六位」と呼ばれた側近は、おそらく「六位の蔵人」のことでしょう。普通は五位以上が昇殿を許される、所謂貴族なのですが、天皇の側近を務める六位の蔵人は、六位ではあっても特別に昇殿が許されました。ですから六位の蔵人は特例ですが、一般には六位と五位とでは、単に一ランク違うということではなく、昇殿を許されるか否かという、大変大きな差異がありました。その五位に鷺が与えられたと言うことは、特別なことだったのです。そして鷺を捕らえた六位の蔵人が五位に昇進するというおまけまで付きました。

 優雅という点では、ゴイサギは白鷺に劣るかもしれませんが、ペンギンに混じって餌を狙う姿は、人を畏れず剽軽な印象があり、なかなか愛すべき鳥だと思います。