うたことば歳時記

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『万葉集』の解読

2017-10-30 13:09:06 | 私の授業
以下のお話しは、平成29年10月、埼玉県上尾市で行った、私が主催する市民講座での講話です。

 今日は「万葉集」のお勉強ですが、ここにおいでになる程の人は、万葉集についての本を読んだことがあり、有名な歌はいくつも諳んじているでしょうから、同じような話をしてもつまらないことになるでしょう。それで今日は、今までおそらくは意識しなかったと思われる万葉集の解読という視点からお話ししてみましょう。

 ここにに持ってきたのは、江戸時代に出版された万葉集の巻一の部分です。もともとは本物の和本だったのですが、私ももう教職を退職しましたので、本物は人に譲り、これはそれをコピーして製本したものです。
皆さん、もちろん万葉集の本は、何度も読んでいることでしょう。しかし普通私たちが読むのは、漢字仮名交じりに読み下されたものです。しかしよくよく考えてみれば、編纂された当時には片仮名も平仮名もないのですから、漢字だけで表記されていました。もちろん知識としてはそれを知っていても、敢えて漢字だけの万葉集を読もうとする人は、専門の学者くらいのもので、一般には読む人は少ないことでしょう。

 しかし今日は敢えて漢字だけの万葉集を読んでみたいのです。それが読めてこそ、はじめて万葉集を読んだということになると思っています。もともと漢字は外国の文字ですよね。何しろ英語ではチャイニーズ レターズですから。独自の文字を持たなかった人たちが、外国の文字で自国の詩歌を記録し、またそれを読むということが、どれ程素晴らしい文化であるか、実感して欲しいのです。

 それではまずはお復習いとして、万葉集の要点だけをさっと確認しておきましょう。万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された現存最古の和歌集ということになるでしょう。ただし天皇の命による勅撰和歌集ではありません。最初の勅撰和歌集は古今和歌集ですね。入試問題ではよく引っかける問題で出題されます。天皇や貴族から下級官人、防人・庶民などさまざまな身分の人間が詠んだ歌が4500首以上も修められています。古今和歌集以来の勅撰和歌集には庶民の歌は収められていませんが、この万葉集には、東国の農民の歌である東歌などが収められている点で、後の和歌集とは大きく異なります。

 私はこのことは素晴らしいことだと思っています。現在、短歌を詠む人が全国にどれくらい居るかは知りませんが、毎年正月に発表される歌会始の詠進歌は、せいぜい2万数首しかありません。歌を嗜む人は特別に文学の好きな人で、誰もが当たり前のように日常的に詠んでいるわけではありません。しかし万葉の時代には、特に教養があるとも思われない普通の農民が、日常生活の中で自然に歌を詠んでいます。上手いとか下手とかいうことは問題にされずに詠んでいます。庶民にとって紙は貴重品だったはずですから、記憶に残っていた物を、お役人が書き留めて集めたものが中央に集められ、編纂されたのでしょう。私も普段から歌を詠むのですが、投稿したりすることはありません。投稿してよい歌だと評価されることを目的として歌を詠むことには、何か本来の歌の在り方とは異なる不純な動機を感じてしまうからです。上手いとか下手だとかそういう視点を抜きにして、もっと自然に生活の中で詠んだら良いのになあと、万葉集の東歌を読むたびに思ってしまいます。

 一寸脱線してしまいましたね。話をもとに戻しましょう。万葉集が成立したのは759年(天平宝字3年)以後のことで、編者は一人ではなく、最終的には大伴家持によってまとめられたと考えられています。最後の歌がその大伴家持の歌であることは、それをよく物語っていますね。

 防人の歌や東歌などの庶民の歌を初めとして、古今和歌集に見られるような技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴があります。江戸時代の国学者で万葉集の研究をライフワークとしていた賀茂真淵は、のような歌風を「ますらをぶり」と評しました。またそのようなことを明治期に短歌の革新運動を行った正岡子規は、万葉集を高く評価し、反対に古今和歌集をさんざん貶しています。

 歌の表記については、漢字の意味を活かして表意的に表したり、意味とは関係なしに表音的に表したりしていますが、これを万葉仮名と言います。古事記や日本書紀にも見られるのですが、特に万葉集に顕著に見られるので、そう呼ばれているわけです。まあとにかく漢字ばかりで書かれているわけですね。。

 漢字だけで日本語を表記することは、もともとは中国で行われました。例えば、紀元前後には北九州にnaという小国があったのですが、漢書には「奴国」と表記されています。魏志倭人伝には卑弥呼とか邪馬台国とかの表記がありますね。それにしても「奴」は賤しい男を意味していますし、「卑」や「邪」も良い意味ではありません。中国では伝統的中華思想により、自分は世界の真ん中の華で、周囲の小国を未開の野蛮国とみなし、意図して嫌悪したくなるような漢字で表記しています。どこの国にもそれなりの自国中心主義があるのでしょうが、中国の場合は一寸度が過ぎると言いましょうか、今でも一路一帯と称して、中華思想は昔から変わっていませんね。

 日本人が日本語を漢字で表記するようになったのは、5世紀以後のこととされています。我が埼玉県の稲荷山古墳で発見された金錯銘鉄剣には、辛亥年(471年)の銘と共に、雄略天皇に推定される名「獲加多支鹵(わかたける)大王」や、鉄剣の製作者「乎獲居(をわけ) 臣」に至る8代の系譜があり、それらの人名や地名、つまり日本語が漢字で刻まれています。同じ5世紀の江田船山古墳出土銀錯銘大刀にも、「獲加多支鹵(わかたける)大王」、「无利弖(むりて)」、「伊太和(いたわ)」という漢字表記があります。

 それでは漢字で和歌が表記された古い例としては、大阪の難波宮(なにわのみや)跡において発掘された652年以前の木簡があります。難波宮に都があったのはいつのことでしたっけ。そうですね。大化の改新の詔が出されてのが難波宮でしたね。それは646年のことです。その木簡には「皮留久佐乃皮斯米之刀斯)」と和歌の冒頭と思われる文字が書かれていました。これは「はるくさのはじめのとし」と読むことができそうです。漢字混じりで表記すれば「春草の初めの年」でしょうか。新年の宴会の席で詠まれた歌を書き留めたものかもしれません。とにかくこれによって、万葉仮名は7世紀頃には成立したとされているわけです。

 それでは万葉仮名には実際にはどのようなものがあるか見てみましょう。まずは1字で1音を表すものが基本です。プリントにしたものを読んでみましょう。以(い)、呂(ろ)、波(は)、安(あ)、楽(ら)、天(て)、 女(め)、毛(け)、蚊(か)を上げてみましたが、以や呂や波などは漢字の音で読ませていますね。楽や女や毛は訓で読ませています。音も訓もあることを確認しておきましょう。1字で2音を表すこともあります。信(しな)、覧(らむ)、相(さが)、蟻(あり)、巻(まく)、鴨(かも)などを上げておきましたが、これにも音と訓がありますね。1字で3音はすくないのですが、下(おろし)や炊(かしき)などの例があります。2字以上で表すこともあります。嗚呼(あ)、五十(い)がそうなのですが、げんざいでも五十嵐と書いて「いがらし」とよむことがありますね。

 万葉仮名と言うと、何か昔の国語表記と思われるかもしれませんが、漢字の音や訓を用いて、漢字だけで日本語を表記することは、無意識のうちに現代でもよく見られることなんですよ。例えばね、よく突っ張った若者が書くんですが、「夜呂死苦」なんて書いて「よろしく」なんて読ませています。もちろん書いている本人は万葉仮名なんて思わないでしょうがね。また女の子の名前にはよく見られます。ここにおいでの女性の名前は、ほとんどが○子さんで、子の字がつきますが、これは昔の貴族や皇族の姫君の名前でして、ほら、藤原良房の4人娘の名前は何でしたっけ。彰子とか威子とか習ったでしょ。もう忘れちゃいましたか。まあいいでしょう。こういう一昔前の名前は、最近では「キラキラネーム」に対して「シワシワネーム」って言うんだそうですよ。ひどい話ですねえ。最近の生徒の名前には子の字は少なくなりました。そして万葉仮名でよく見かける、衣・亜・加・久・沙・保・穂・江・枝・美・麻・真・由・菜などの字がよく使われています。もっとも最近はキラキラネームで何て読んでいいのかさっぱりわからない名前が増えて、困ることが多いんですよ。付ける親の自己満足だと思うんですけどね。私の経験では、概して変な名前付けられて悩んでいる生徒の方が多いように思います。就職の時に不利になることが多いは事実でしょうね。
 
 さてこのように漢字だけで書かれた万葉集は、詠んだ本人や書き取ったお役人は読めたでしょうが、時間が経つにつれて、次第に読めなくなってきました。平仮名や片仮名が発明され、万葉仮名が使われなくなるのですから、そうなるのも無理はありません。そこで村上天皇の天暦年間(947~57)のこと、「後撰和歌集」の撰者でもあった源順らの五人の歌人が、宮中の梨壺という所で万葉集の歌約四千首に読み仮名をふったのです。これを古点といいます。そしてこの五人を梨壷の五人と言います。

 その後鎌倉期に、仙覚という僧侶が読み仮名をふるのですが、梨壷から仙覚までの間に幾人かの歌人が、何代にもわたって読み仮名を付けるのですが、これを次点といい、約三百数十首あります。

 そして鎌倉時代の中頃、天台宗の僧仙覚は、それまで読みのよくわからなかった152首に、新たに読み仮名を付けました。これを新点と言います。そして本格的な万葉集の註釈本として『萬葉集註釈』という膨大な本を完成させました。その研究は何と現在の小川町で行われたんですよ。彼は武蔵国の有力御家人であった比企氏の出身です。二代将軍頼家の妻は比企能員の娘でしたよね。比企能員が北条氏に謀られて亡ぶのですが、鎌倉にあった能員の館跡には、妙本寺という法華宗の寺が建てられます。何年か前に一緒に歴史散歩に行ったでしょう。そこにも仙覚を記念する石碑があったのを覚えていますか。比企氏の出身と言うことで、仙覚は妙本寺の住持も務めています。彼はそれまでに断片的に伝えられていた万葉集の古写本を回収校合して定本を作り、これに読み仮名を付けました。先程皆さんにお見せした江戸時代の和本は、この仙覚が読み仮名を付けたものです。この万葉集の定本は、江戸時代の国学者である契沖・荷田春満・賀茂真淵から現代に至るまで、万葉集研究の最も基礎となるテキストとなっているのです。つまりもし仙覚の業績がなかったら、今日の私たちは、万葉集の全容を知ることはできなかったのです。もちろん断片的には伝えられたでしょうがね。万葉集という歌集は、日本民族の宝ですよ。そう思うと、仙覚の偉大さにあらためて敬服します。皆さん、仙覚が埼玉県人だということを、もっと喜んで下さいね。私も比企郡に住んでいますから、殊更身近に感じています。今、小川町役場の少し西の方になりますが、中城という城跡に、明治時代の歌人としてよく知られた佐佐木信綱によって、仙覚の顕彰碑が建てられていますから、近くに行くことがあれば寄ってみて下さいね。

 さてここで万葉集に読み仮名を付けることがどれ程困難なことであったかを物語る、面白い逸話を御紹介しましょう。お手許に配った絵を御覧下さい。これは石山寺縁起絵巻という絵巻物の一場面なのですが、教科書では中世に活躍した運送業者である馬借の絵図として、よく載せられている場面です。この絵巻物のその絵に関する本文をプリントしておきましたので、読んでみましょう。それ程難しくありませんから、いきなり原文を読みましょう。「康保のころ、広幡の御息所(みやすどころ)の申させたまひけるによりて、源順勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりけるに、訓み解かれぬ所々多くて、当寺に祈り申さむとて参りにけり。左右といふ文字の訓みをさとらずして、下向の道すがら、案じもて行くほどに、大津の浦にて物負せたる馬に行きあひたりけるが、口付の翁、左右の手にて負せたるものを押し直すとて、己がどち、までより、といふことを言ひけるに、始めてこの心をさとりはべりけるとぞ」

 まあ一応訳してみますね。康保年間の頃、村上天皇の皇女である広幡の御息所のおっしゃることがきっかけとなって、村上天皇の勅によって源順、これで「みなもとのしたごう」と読むのですが、彼が万葉集に訓点を付けるよう命じられました。さきほどお話しした梨壷のことですね。この五人衆が知恵を絞って読み仮名を付けたのですが、どうしても読み切れない所が多く、石山寺にお籠もりして、観音様にお願いをすることになったのです。その時源順は「左右」という文字をどのように読んでよいのかわからずに、都から石山寺のある大津に馬で下っていく途中も、そのことに思いを巡らしていました。そして大津の港のそばに来た時に、荷物を積んだ馬を引き連れている一行に出会います。これが先程の馬借なのですが、馬の手綱を執っている男が、両手を左右に広げて荷物を押し直し、「おい、みんな、両手でもって」と言ったのです。その瞬間、順は「左右」が「まで」と読むべきことを悟ったのでした、というわけです。この絵巻物の狙いは、観音様がいかに霊験あらたかであるかを言いたいのですが、観音様の御利益で読むことができたというのです。

 この石山寺は大津市にあって、琵琶湖から宇治川が流れ出したあたりにあって、むき出しの岩がごつごつとしているので、その名前があります。石山寺は霊験著しい観音霊場として、また都から近いこともあって、平安時代から観音信仰が盛んでした。それで観音堂に参籠することが流行し、『更級日記』の筆者である菅原孝標女・紫式部・和泉式部らも参籠したことを記しています。特に紫式部はここから琵琶湖の湖面に映る月影を見て、源氏物語の須磨の巻や明石の巻の着想を得たと伝えられています。江戸時代に北村季吟という国学者が源氏物語の注釈書を書いているのですが、それを「湖月抄」と言うのは、この故事に拠っています。

 さて源順が読めなかったという歌がどれかは書かれていないのですが、どうも次の歌らしいのです。一寸原文のまま見てみましょう。「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」これは巻12の3142番の歌です。おそらく「国遠み直(ただ)には逢はず夢(いめ)にだに我に見えこそ逢はむ日・・・・に」までは読めたのでしょう。「遠く離れて、直には会えないので、せめて夢にでもあいたい」というおよその意味もわかったことでしょう。しかし「左右」がどうしても読めなかったのです。それが「まで」であることが閃き、ようやく読み仮名をふることができたというわけです。

 この梨壷の五人によって、約4000もの歌に読み仮名がふられました。素晴らしいことですね。でも万葉集ができてから百数十年後のことですから、また古い言葉遣いがかなり残っていたのでしょう。仙覚の時代よりは読みやすかったのでしょうね。

 話は脱線しますが、この絵はなかなか面白いですよ。猫が綱につながれていますね。ここには描かれていませんが、当時は犬は放し飼いで、猫はつながれていました。ところで当時の猫や犬は何て鳴いていたんでしょう。何と犬は「べうべう」とか「びやうびやう」と鳴いていました。実際の読み方は「びょうびょう」なんですがね。猫は「ねうねう」と鳴いていました。馬には俵が二俵積まれていますが、一俵の重さはどれくらいでしょう。私は大学時代、重量挙げ部のマネージャーをしたことがあるのですが、一俵60㎏を持ち上げられませんでした。バーベルの60㎏は持ち上がっても、米俵はできませんでしたね。ただし60㎏になるのは明治以後のことで、それより以前は約50㎏でした。

 それでは私たちも漢字ばかりの万葉集を解読してみましょう。まずは易しいところから。「銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母(803)」。銀の母、金の母なんて読まないで下さいね。まずは先頭から読もうとは思わずに、確実にわかる文字から平仮名になおしてみましょう。さあ、どうですか。世や礼や留や良はそのまま草書にすれば平仮名になるのでわかるでしょ。えっ、良がわからない? 良はくずすと平仮名の「ら」になるんですよ。他にも麻や佐は人の名前によく出て来ますね。米? これはアメリカのメでしょう。米国って言うでしょ。だんだんわかってきましたね。最初の銀母はどうですか。「しろがねも」。そうです。そこまでできたらもうあとはわかりますね。「しろがねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも」。漢字交じりで書けば、「銀も金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」ですね。これは作者は誰ですか。そうですね、貧窮問答歌でもよく知られる山上憶良でした。彼は国司になる程の貴族でしたが、思いやりの深い心で、ヒューマニズム溢れる歌をたくさん詠んでいます。ついでの雑学ですが、あかがねと言ったら何のことですか。そう、銅ですね。それなら鉄は何と言いますか? 「くろがね」。いいですねえ。それならアルミニュームは? そんなもの当時はありませんよ。

 今の歌は皆さん御存知でしたから、少しわかれば見当がついてしまいましたね。それなら次は、たぶん皆さん読んだことのない歌を選びました。「麻氣波之良宝米弖豆久礼留等乃能其等已麻勢波々刀自於米加波利勢受(4342)」。さあどうですか。さっきと同じように、読めそうなところから切り崩してみましょう。どうですか。けっこう読めていますね。でも意味がわからない。平仮名や片仮名の元の字であったものは、見当がつくでしょう。波・久・礼・留・乃・於・利がそうですよ。書道をやっている人ならわかるかもねえ。「ははとじ」ができているじゃないですか。「刀自」は意味もそのまま今も使われていますね。高齢の女性に対する敬称ですね。そうすれば「波々」は「母」となるでしょう。そろそろ正解を出してみましょう。漢字仮名交じりで書きますよ。「真木柱 誉めて作れる 殿のこ(ご)と 居ませ母刀自 面変はりせす(ず)」。「真木柱」は立派な木で作られた柱ですね。立派な木で誉めつつ作った素晴らしい建物のように、お母さん、いつまでも面変わりすることなく、若々しく元気でいて下さいね、という意味です。これは防人となって筑紫に赴く前に、母との別れを惜しんでいる歌ですね。如何でしたか? 部分的にはけっこう読めたでしょう。

 それではもっと難しい歌を用意しました。「東野炎立所見而反見為者月西渡」。漢字の字数は、14字しかありません。短歌は三十一文字(みそひともじ)と言いますから、31音節あります。それを14字で表記しているのですから、一文字を数音節で読んだり、音を補いながら読むことになります。さてこの歌は教科書にも載る有名な歌ですから、歌の読み方そのものは、もう皆さん知っていますよ。「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」ですね。でもね、これが本当に正しいのか。誰もわからないんです。実はこのように訓点を付けたのは、江戸時代の国学者である賀茂真淵であって、仙覚は全く異なる訓点を付けています。仙覚の点は「あづまのの けぶりの立てるところ見て かへりみすれば月かたぶきぬ」ということになっています。全然違っていますね。いままでしげしげと漢字だけの表記をみなかったでしょうから、何の疑問もなかったでしょうが、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と大胆に読んでよいものか、大いに疑問が残るでしょう。「かたぶく」と読むとしても、「かたぶきぬ」とも「かたぶけり」とも読めます。先入観なしに素直に読めば、「月西に渡る」としか読めません。万葉集では月は舟に喩えられることがあり、月が渡ると言う理解は、十分にあり得ることです。仙覚は「あづまの」と読んでいますが、東が西と対になっているとすれば、「ひがし」(ひむかし)と読みたいですね。

 「炎」については、真淵は「かぎろひ」と読み、「かげろふ」(陽炎)と理解しているようですが、陽炎は、地面が温められて空気の密度が不均一になり、光が屈折してゆらゆらと揺れているように見える現象ですから、月がまだ西の空に残る未明に見えるはずはありません。古語辞典で「かぎろひ」を調べると、「日の出前の東の空が赤く染まっている様子、曙光のことと」と説明されています。しかしこの説明は、この歌の真淵説が知られるようになってから付けられた解釈ですから、辞書に載っているからと言って本当とは限りません。真淵説が崩壊すれば、その説明も崩れてしまうのです。しかし一般にはまさか辞書が出鱈目とは思いませんから、そのような理解がもう定着してしまっています。

 この歌が詠まれたのは現在の奈良県宇陀市あたりのため、宇陀には「かぎろいを見る会」なんて言う会が作られ、観光に一役買っています。歴史や文学にこじつけて町おこしをしようという考えなのは見え見えで、私なんかは、本当かいなと思ってしまい、「かぎろいを見る会」には何か哀れすら感じてしまいます。まあ気持ちはわからなくもないですが、疑問の残ることを自分に都合よく断定し、学問とは異なる方向に営利的に利用することについては、私は賛同できません。まあ、あくまでも私の感想ですがね。賀茂真淵説が絶対的なものではないということを確認しておきましょう。

 それなら「炎」をどのように読んだらよいのでしょう。仙覚は「煙」と理解し、真淵は「陽炎」と理解しています。そのどちらであるかを検証するには、「炎」がどのような動詞を導くか検証する必要があります。そのためには万葉集にある「陽炎」「蜻火」など「かげろひ」と読める言葉がどのような動詞を導くかを調べるのです。細かい検証はここでは省略しますが、結論から言えば「かぎろひ」が詠まれた4首は、みな「燃ゆ」を動詞として導いています。

 一方、「煙」はどのような動詞を導くでしょうか。すぐに閃くのは、舒明天皇が香具山に上って国見をした、万葉集の2番目の歌ですね。原文は「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎 為者 國原波 煙立龍」で、「大和には 群山あれどとりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原 は 煙立ち立つ」と読め、煙は「立つ」を導いています。万葉集には「けぶり」を詠む歌が4首あるのですが、動詞はみな「立つ」を導いています。

 以上の検証からも明らかなように、私はこの歌の「炎」は「煙」と理解すべきであると結論づけました。そうすると私の説は、「ひむがしの 野にけぶり立つ所見て かへり見すれば 月西に渡る」ということになってしまうのですが、「所見て」が歌としてこなれていません。取り敢えず結論を出してはみたものの、これでよいと思っているわけではありません。こんな検証をしてみたのは、私の説を主張したいからではなく、こと程左様に万葉集の訓読が難しいことだということを理解して頂きたかったからです。
 
 随分と話が難しくなりましたので、最後は気楽に万葉集解読クイズでもやってみましょう。万葉集には戯訓と称して、ギャグのような感覚で読ませる表記がたくさんあります。早速次の言葉は何と読むか考えて下さい。

 「牛鳴」はどうですか? 「もう」と読みたくなりますが、実は「む」なのです。つまり当時は牛の声を「む」と聞いていたのです。まあそう言われれば聞こえなくもないですよね。それじゃあ「喚鶏」はどうですか? ヒントは鶏をよぶ時の掛け声です。皆さんくらいの年代なら、子供の時に鶏に餌をやる時、何て言っていましたか? 「トートートトト」でしたよね。現代っ子は知らないでしょうがね。これもそれに近くて、「つつ」と読みます。「ツーツーツツ」と言ってよんでいたんでしょうね。「喚犬追馬鏡」はどうですか? これは見当も付かないでしょう。「喚犬」は「ま」、「追馬」は「そ」と呼んだので、このことばは「まそかがみ」と読み、つまり「真澄鏡」のことなのです。犬をよぶ時には「マーマー」、馬を追う時には「ソーソー」と言ったのでしょう。今でも追いやる時には「シーシー」と言うことがあるでしょう。これも何か関係あるかもしれませんね。
「幾代左右」はどうですか? これはもう読めますよね。そうです。「幾夜まで」でしたね。同じ発想で「千代二手」は「千代まで」、「すべなき諸手に」も「すべなきまでに」となるわけです。「恋ひわたり味試」の「味試」はなめて味見をすることから、「なむ」と読みます。

 「朝烏指」は一寸難しい。これは「朝日さす」と読みます。つまり「烏」を「日」と読んでいるのです。どうしてそんなことになるのかというと、古代中国には、太陽には三本脚の烏が棲んでいるという理解があり、それが日本にも早くから伝えられていたことを示しています。かなり前のことですが、大津皇子が処刑される前に詠んだ辞世の漢詩が懐風藻に載っていましたね。その一節に「金烏西舎に臨(て)らひ・・・・」というのがありました。もう忘れちゃったでしょうかね。これは夕日が傾いて家々を照らしていることを意味しているのですが、ここでも太陽が烏と表現されています。熊野神社の社紋になったり、Jリーグのシンボルにもなっていますね。

 「八十一」「十六」「二二」はどうでしょう。ヒントは九九です。81になるのは「くく」ですね。同じ発想で「十六」は「しし」、「二二」は「し」ということです。万葉の時代に九九があったなんて、面白いですね。それなら「三五月」はどうなりますか? 三五は十五ですから、「もちづき」と読みます。

 最後に「山上復有山」「青頭鶏」はどうでしょう。山の上にまた山があるというのですが、そのまま山という字の上に接するようにまた山という字を書いてみて下さい。「出」という字になるでしょう。つまり「いづ」と読んだのでしょうね。さて頭の青い鶏とは何のことでしょう。これは真鴨の雄のことです。つまりこれで「かも」と読むのです。もうそろそろ北国から渡ってきますね。光の当たり方によって緑に見えたり青く見えたりしますが、なかなかきれいなものです。今でも真鴨の雄を「青首」と言いますよ。大根にもありますがね。平安時代の和歌にも鴨の首が青いことを詠んだ歌がたくさんあり、古代の人にとっては大いに関心があったようです。

 まだまだ面白い戯訓がたくさんあるのですが、これくらいにしておきましょう。当時の人も歌を書き留めながら、面白半分に読めるものなら読んでごらんと、いろいろ考えたのでしょうね。「加母」でよいものをわざわざ「青頭鶏」と書くのには、そのような意図があったに違いありません。このような発想は、現代人にもあるんですよ。例えばクラブを「倶楽部」としたり、カタログを「型録」と表記するのは、なかなか気が利いていて面白いですね。万葉集に「恋」を「弧悲」なんて表記してある例がたくさんありますが、これもなかなか考えていますね。

 どうでしたか。このような解読という視点から万葉集を読んでみたことはなかったでしょう。解読の難しさがわかれば、平仮名や片仮名の便利さも実感できることでしょう。それにしても埼玉県人の仙覚は、素晴らしい業績を残してくれたものです。埼玉県の学校でもっと触れてもよいと思うのですが。



櫟・橡

2017-10-22 13:56:10 | うたことば歳時記
朝の散歩道に、櫟(くぬぎ)の実がたくさん落ちています。子供の頃にはよく拾ってきて、独楽(こま)を作って遊んだものです。我が家の愛犬は団栗が大好きで、櫟の実を見つけると、夢中になってかじりつき、食べてしまいます。トタン屋根に落ちる実の音は、夜にはよく聞こえるので、寝床の中でしみじみと深まる秋を実感させてくれます。

 建築用材には向かないため、同じく大木になるのに役に立たない木として、樗(楝・おうち)と共に、役に立たない人を意味したり、自分を謙遜していう「樗櫟」(ちょれき)という言葉にもなっています。確かに堅くて加工が難しそうだし、炭に加工するくらいですかね。椎茸栽培に使ってみましたが、樹皮が厚すぎて、使いにくいものでした。それでも落ち葉は堆肥にできますから、全く役に立たないとまでは言えないと思うのですが。

 高さは十数mに及び、姿も堂々としていて、雑木林の中でも一際目立つ存在です。そのためか、古くは信仰の対象になったこともあったようです。『日本書紀』の景行天皇紀十八年には、そのことを推測させる逸話が記されています。ある時筑後国の御木(みけ)というところに、長い大木が倒れていた。天皇が木の名前を問うと、一人の老人が「これは歴木(くぬぎ)で、朝夕に光が当たると、東西の山の姿を隠してしまう程の立派な木であった」と答えた。すると天皇は「この木は不思議な木である。それ故にこの国を『御木(みけ)の国』と呼べ」と命じた、というのです。なお、『筑後国風土記』逸文には、同じ話が記されているのですが、くぬぎではなく「楝」(樗・おうち)ときされています。ただし櫟のそのような理解は姿を消してしまうようです。 
 現代ではあまり用途のない「雑木」かもしれませんが、『万葉集』では橡(つるばみ)とも呼ばれ、黒色の染料として用いられていたようです。そんな歌を上げてみましょう。

①橡(つるはみ)の衣(きぬ)は人皆事無しと言ひし時より着欲(ほ)しく思ほゆ (1311)
②橡の解き洗ひ衣の怪しくもことに着欲しきこの夕かも (1314)
③紅(くれない)はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほ及(し)かめやも (4109)
 
①は、橡でめた衣は誰もが着やすいと言うのを聞いてから、着てみたいと思います、という意味です。橡で染めた布は、『養老令』では「家人橡黒衣」と規定されていて、専用の衣の色でした。また『日本書紀』持統天皇七年正月の詔には、「天下の百姓には黄色の衣、奴には皁(くろ)を服(き)しむ」と記されていますから、早くから橡染めの黒い衣は、身分の賤しいものの衣という共通理解がありました。それにもかかわらずそれをわざわざ着てみたいと言うには、何かわけがありそうです。一般には、橡染めの衣はそのような身分の低い女性の比喩と理解されますので、「事なし」という言葉は、「難しいことがない」とか「気が置けない」とか「気楽な」などのように理解できます。ですから全体としては、単に橡染めの(地味な)衣は、楽に着られるという表面的な意味だけではなく、そのような女性を妻にしたいという気持ちを表していることになるのです。

 ②はも①と同じ発想の歌です。橡染めの衣を解いて洗っていると、不思議なことに、格別にもまた着たくなる夕べであることです、という意味です。表面的な意味はすぐにわかりますね。しかし「着古して解いた衣をま着たい」ということは、一度は別れた馴染みの女性とまたよりを戻したいという意味にも理解できます。『万葉集』では、「結ぶ」とか「解く」という言葉は、しばしば男女の関係を表すものとして詠まれているからです。

③は、紅花で染めた衣は美しいけれどもすぐに色が褪せるものです。ですから橡染めの着古した衣にはとうてい及びません、という意味です。そうするとこれにも裏があって、美しく若い女性より、気心の知れた古女房の方がよい、ということになりますね。

 少々男の身勝手のような感じもしますが、千数百年前のことですから、大目に見て上げましょう。とにかく橡染めの衣を長年連れ添った妻に見立てることは、当時の共通理解であったようです。私は結婚以来40年近くなりますが、もちろん紅染めの衣の方がよいと思うことはありません。何と言っても以心伝心、気心の知れた方が良いに決まっています。

 ネットで橡染めを検索すると、黒以外の色もあるようですが、触媒をかえれば黒以外にもなりますから、橡染めといっても、現代ではもっと幅広い色になっているようです。

 清少納言は『枕草子』の中で、「恐ろしげなるもの。橡の梂(ツルバミノカサ)。焼けたる野老(トコロ)。水茨(ミズフブキ)。菱。髪多かる男の、洗ひて乾すほど。」と述べています。「焼けたるところ」は「焼けたる所」かもしれません。水茨は鬼蓮とされていますが、不勉強で詳しくは知りません。菱は忍者の使う播き菱ではなく、植物としての菱の実でしょうか。菱の実の形が、木の実としては異様なのでしょう。髪の多い男が髪を洗って干す場面のどこが恐ろしげなのか、さっぱりわかりません。櫟のかさが異様な形をしていることは納得できますね。

平安時代の歌集では、櫟を詠んだ歌は少ないのですが、団栗類の総称である「柞」(ははそ)はたくさん詠まれています。その中に櫟が含まれていることも十分考えられます。

 『扶木和歌抄』に
④たかせさす佐保の河原のくぬぎ原色付く見れば秋の来るかも
⑤春来てもは山がすそのくぬぎ原まだ冬枯れの色ぞのこれる
という歌があります。「ははそ原」という表現はしばしば見られるものであり、同じように「くぬぎ原」ともよまれますから、櫟は柞とおなじように理解されていたのでしょう。④では、櫟の葉がかすかに色付いていることに秋を感じているのですが、時期的には少し遅すぎると思いますね。秋の到来よりも、秋の深まりならよく理解できます。⑤は櫟の枯れ葉がいつまでも枝に残っていることを言うのでしょうが、ナラやコナラならかなり長い期間枝に枯れ葉が付いたまま、春を迎えることがあります。観察していると、クヌギはナラほど遅くまでは残らないのですが、葉がいつまでも残ることは、葉を守るという「葉守りの神」が宿るとして、古人の関心を集めていたわけです。

 散歩道でクヌギの実一つを見つけても、いろいろ古典文学の世界に遊ぶことができます。